SSS

電話のはなし

2021.06.05

 温めたフライパンにオリーブオイルとみじん切りしたにんにくを放り込めば、たちまちあたりには香ばしい匂いが広がった。ジュウジュウと音を立てるフライパンを返し、頃合いを見てホールトマトとオリーブオイルを足す。それを木べらでかき混ぜながら、そばに置いてあった携帯電話を手に取った。ムニムニと片手で操作してSNSを眺めていると、昨夜スペインがフランスやプロイセンと飲んでいる最中に撮った写真を上げていた。テーブルに広がる空き瓶の惨状を見るに今ごろ二日酔いでのたうち回っているかもしれない。
 ぐつぐつと煮立ってきたフライパンは一度火を弱める。キッチン台にもたれかかりアドレス帳を呼び出した。時刻は十一時半、さすがにそろそろ遅い朝食を摂っている頃だろうか。躊躇いは一瞬で考えるよりも先に通話ボタンを押していた。端末を耳に押し付ければ、しばし無音の後、呼び出し音が聞こえてくる。
 初めて電話をかけたのは十九世紀だったか、いや既に二十世紀になっていたかもしれない。あれから百年以上の月日が過ぎたが、相手に繋がるまでのこの時間にはいつまで経っても慣れなかった。五回、六回と単調な機械音を聞いているとジリジリと焦ってくる。七回目。そう言えば心理学的に何回目の呼び出し音で取るのが良いなんて言っていた時期もあったな。その頃はまだスペインと微妙な関係でロマーノも彼に恋をしているかもしれないと自覚したばかりだったから、毎回のようにスペインが電話を取る回数を数えて、自分は意識していると思われたくないから適当なタイミングで取るようにしていて、でも彼がそんなことを気にしているわけもないとわかっていたから絶対にバレないようにしようと必死でポーカーフェイスを取り繕っていた。今でも呼び出し音を数えるのは、その癖が抜けていないからだ。八回、九回。……次で諦めよう。
 プツリ。通話を切って端末をジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。トマトソースは良い具合に煮詰まっている。火を切ってフライパンをコンロから下ろした。
 初めてスペインに電話した時は交換手に番号を伝えるのが上手くいかなくて随分焦ったものだ。おかげで料理を焦がしてしまったが、それはスペインには言っていない。別に隠したいわけではなく、今ほど電話が気軽なものではなかったというだけのこと。あの時は料理を焦がしたことより話したいことがいっぱいあったし、次に会った時にはそんな些細なことすっかり忘れて、そのままだ。そもそもあの頃は昨夜スペインがフランスの失恋記念に三人で飲み明かしたことを翌日に知るなんてことはなかったし、それで二日酔いで苦しんでいるだろうからからかうつもりで電話をかけることなど思いつきもしなかった。
 何かと現代にはついていけないことが多いが、悪いことばかりでもない。便利になった恩恵は受けている。
 湯を沸かした鍋にパスタを入れてキッチンタイマーに手を伸ばす。そのタイミングでポケットの携帯電話が震えだした。何の前触れもなく電話をかけてくるのは弟かスペインぐらいだ。ロマーノの可愛くて生意気な弟はドイツと日本にいるから時差を考えると今頃美味い夕食にありついているだろう。
 ———まあ、馬鹿弟じゃないな。
 パスタをかき混ぜながら後ろのポケットに手を伸ばした。液晶画面に想像していたとおりの名前が表示されているのを見てロマーノは笑った。

サンタクロース

2020.12.25

「あ、ロマ……起きてもうた、やんな? あー……わはは、えーと、そう、せやねん。実は親分サンタさんの手伝いをしとってな? ロマのプレゼント担当やねん。ずっとサンタさんの正体突き止める! って張り切っとったのに今まで黙っとってごめんなあ。でもこれでわかったと思うけどサンタさんは家に不法侵入しとったわけとちゃうねんで。やって親分が自分から手伝いを買って出とったからな! せやから警察に突き出すのはやめたってな。ごめんついでに白状するとやっぱ家が貧乏な時はあんまプレゼントにお金かけられへんくてな。忙しくて用意できへんかったこともあるし、イマイチなプレゼントもあったと思うわ。でもロマーノはお金より手を抜いた時のほうがケチつけとったよな。いつもよう見抜くなあって感心しとったんやで。ほんでな、今年のプレゼントもあんまお金かけられへんくて……戦争で親分また貧乏になってもうたから、こんなものしかないんやけど、その代わり数だけはたくさん持ってきてん! じゃーん! 見てや、この袋! 全部ロマへのプレゼントやで! 時間だけはあったから毎日コツコツ用意しとってん。お菓子に絵本に、ほんで手袋。オーストリアは寒いからな。トマトのぼんぼりもつけてもろてんで!」

「スペイン……。どうやってここに来たんだよ……オーストリアに見つかったらどうするつもりだ」
 シーツをぎゅっと握りしめ、外の見張りやオーストリアたちに気づかれないようにと潜めた声が低く掠れる。彼のもとを離れてから一段と声変わりが進んでだいぶ大人のものになっていた。けれどスペインはそんな変化にも嬉しそうに笑って「声、どんどん低くなってくるな」と言うものだからロマーノの顔はますます強張ってしまう。
「茶化すなよ」
「ん、心配してくれてありがとうなあ。でも見つかった時のことは考えてへんかったから、どうするもこうするもなるようにしかならんな」
「お前……! 一回それでめちゃくちゃ怒られたんだろ! 何でこんな無茶したんだよっ」
「やって今日はクリスマスやから」
 だから何が何でもロマーノのもとへ来なければいけなかったのだとスペインは言う。
「俺がロマのプレゼント担当やもん。せやのに何もせぇへんかったら、今年はロマーノんとこにサンタさん来ぉへんやろ? そんなんはあかんから、せやから来た」
 スペインの背後にある窓から月明かりが差し込み彼の輪郭をやわらかく照らす。事もなげに言うがスペインのコートはツギハギだらけで、裾をどこかに引っかけた跡があった。肩は濡れている。夜露か、もしかすると道中雪に降られたのかもしれない。薄暗い室内ではわかりづらかったが、心なしか顔色も悪く見える。
 体を起こして手を伸ばした。
「馬鹿やろうめ」
 プレゼント袋を担いでいるほうとは反対の手を取る。ひんやりとした手は冷たすぎておよそ体温を感じられない。それを両手で包んで引き寄せれば、たたらを踏んだスペインが前かがみになる。近づいた瞳と視線を合わせてたっぷり瞬き三回分、呼吸を合わせてみても彼の気持ちを真に理解できる日は来ない。彼がロマーノの想いをわかることがないのと同じ、ふたりがそれぞれの存在である以上は抗えない真理だ。
「ロマ……?」
「……俺、とっくにサンタの正体のこと知ってたんだぞ」
 目を見開く男の首の後ろへ腕を回してしがみつく。そのまま冷たい唇にふれるだけのキスをすればいつもうるさいスペインもさすがに黙った。
「毎年クリスマスの朝だけはお前のほうが早起きしてて、まるで自分がプレゼントもらったみたいにソワソワしてやがるからすぐわかっちまった」
「……そ、うやったんか」
 だからその実プレゼントにかかっているお金や手間のことなど気づいていなかった。ただロマーノの反応に一喜一憂するスペインがおかしくて、優越感をくすぐってきて、それから少しばかり照れくさかっただけ。毎年毎年それを何より楽しみにしていたのだ。
「だからたぶんお前の言う通り、俺のサンタ担当はスペインに違いねぇんだろうな」
 ロマーノの喜ぶ顔を期待して待っているスペインが何よりも———。
 けれどまさか本人にそれを言うわけにはいかないので、「今年のプレゼントもっとよく見せろよ」と催促する。スペインは一瞬ぽかんとした顔を見せたが、すぐに破顔してプレゼント袋を開いて見せた。
「¡Feliz Navidad!」

片想い二重奏

2019.05.01

「もーロマーノ飲み過ぎやで。俺には飲んだらあかんって固いこと言うてたのにぐでぐでやんか!」
「うるっへぇスペインのこのやろうめちくしょう! あー頭いってぇ……くそっもうらめだ…………オイっ! 今夜はのむぞー!」
「もう十分飲んだやろ! あかんで……あかんって、それはワインや! そんな一気飲みするもんちゃうって……あーもー! 水にしとき!」
 失恋したと言うロマーノに付き合わされて既に五時間。ほとんど食事も摂らずにワインばかりを口にしていた彼はすっかり出来上がっていた。反してアルコールは乾杯でしか口につけていないスペインは素面だ。彼は一ヶ月ほど前、酩酊して路上で寝ているところをロマーノに見つかって以来、『ほどほどの飲酒』を厳命されている。
 その節は失態をやらかしたという自覚があるし、実のところ今までにも何百何千回と繰り返してきた過ちだ。周囲からも再三注意されている酒癖の悪さは自覚がある。だらこそ『ほどほどの飲酒』という基本方針に異論はないが、だからと言って好きな子の恋の話を素面で聞いてやることに賛成をした覚えはない。それをするにはアルコールの勢いが必要だった。正気で延々聞かされるロマーノの良い人の話にはもううんざりだ。
 そりゃあロマーノからしてみればスペインなんか眼中にないのだろう。何せ小さい子どもの頃から面倒を見てきた親分だ。保護者のような存在である。間違っても恋愛感情を向ける対象ではないし、ましてや下心を向けられているなど思いもよらないに違いない。
 だが、それは彼の話であってスペインは違う。ロマーノにどんなにあり得なくて万に一つも思い寄らないようなものだとしても、現実にスペインは彼のことが好きだった。

 ああ、そうだ。そうだとも。恋をしている。あんなに可愛がってきた子相手に本気で恋愛感情を抱いている。そもそもロマーノにお前の親分だと言っていたのはスペインだ。そのくせ恋をしているなんてどうかしていることぐらいわかっている。疚しい、慕ってくれている子に何て酷い裏切りなのだろう。そうだろうとも、恋をしたスペインが全て悪い。
 だがちょっと待ってほしい。スペインは今までロマーノに感情を押し付けたことなどなかった。彼はこの感情に絶対気づきもしていない。徹底して隠し、彼との関係に支障をきたすことのないよう振る舞ってきた。であれば、だ。内心の自由は許されるのではないだろうか。
 確かにスペインはロマーノに恋をしている。何でもないような顔でベタベタ触れる一方で内心は自分でもどうかと思うほど舞い上がり、心臓はドキドキと脈を早めて高揚している。だけどそれだけである。それ以上は何もない。
 恋心を自覚してからは恋愛感情に限らず、ほんの些細な日常的なものであってもロマーノにスペインの希望を押し付けないよう気を払ってきた。それは功を奏してロマーノに良いものとして伝わっている。と、スペインは思っている。だからこそこうやって失恋の話を何時間もするほど心許され、目の前でぐでぐでに酔っ払ってみせるのだろうし。

「そういやあ、おまえ、スペイン……フェイスブックやっているか?」
 ロマーノがいきなり切り出してきた。
「あー……登録はしてあるで。イギリスがアメリカのために登録しろってうるさかったからなあ」
「何だその状況?」
 スペインにもよくわかっていないので説明を求められても困るが、とにかくイギリスがアメリカのために各SNSへ登録するように迫ってきたのだ。フランス、プロイセンもさせられていたが、フランスは見栄えの良い写真のアップ、プロイセンはよくわからないネタを文章で発信することにハマっている。
「ほとんど触ってへんけど……」
 まるでウォータースライダーかのような勢いで流れ込んでくる情報量についていけず、登録したきり放置している。どうせそのうち別のものに移り変わっていくのだ。
「らったら、恋人候補のことしらねーんだろ」
「恋人候補ぉ?」
 それがSNSとどう繋がるのかと首を傾げた。
「だぁら出会い機能があるんだよ。それで、恋人候補ってボタンがあって・・・」
 ロマーノの話はつまりこう言うことだ。
 気になる相手をリストに登録しておくと相手からもリストに登録されている場合、両者に通知される機能で、片思いの場合は絶対に知られることがないのだと言う。また第三者に公開もされず、ひみつのまま『両想いの時だけ』マッチングされる。そういう機能だ。
「はあ……何か、ハイテクやなあ」
 便利なような、回りくどいような。スペインからすればやたらまどろっこしい印象だった。まあでも告白すれば玉砕する可能性はあるが、これならば至って穏便に両想いかどうかを調べられる。誰も傷つくことなく気まずくもならないあたり現代的なのかもしれない。
「……ロマーノはそれ使っているん?」
 失恋したばかりと言うからには、今そのリストにはロマーノの想い人が登録されているのだろうか。……別に期待などは端からしていないし、誰が相手でも口出しする気はない。そもそも知ったところで嫌な気持ちになるだけだ。それでも気にはなる。一体どんな相手なのだろう……。

「ひとりだけ入れてるやつがいる」

 それは少し意外な返事だった。
「そいつだけ。ずっと、ほかにはだれも入れてない……」
「そうなんや」
「ん……そう、でも俺のかたおもいだから」
 だから失恋ばかりしているとロマーノがさみしげに呟いた。

 それが今から二時間前のことだ。
 ロマーノは客室のベッドに寝かしつけている。酷く酔っているせいか感情の波が激しくて、眠る直前までわんわんと声を上げながら泣いていた。絡み酒からの泣き上戸はスペインの立場では一番堪えるものだ。
(でも……そうか、ロマーノがなあ…………)
 彼はどんな気持ちで好きな人をSNSの恋人候補リストに登録したのだろう。もしかして、と期待したのか。それとも片想いとわかっていて健気な気持ちがあったのか。いじらしく、自分だけが知っている機能。
 それに興味を持ったのは、スペインも少し疲れていたからなのかもしれない。
 散々、ロマーノの話を聞かされて打ちのめされて、形のない恋心を何か見えるようにしておきたかったのかもしれない。
 それは彼への気持ちは内心の自由だと主張していたスペインの信条からかけ離れたものだ。だいたいウェブサービスなんて誰かが運営しているものだ。そこにロマーノが好きだと登録するなんてどうかしている。形に残してしまったら、それはもう非難されるべきものになるだろう。
 そうとわかっていて、けれど理性は何の役にも立たなかった。
(今夜だけ。一回ロマーノを登録して……朝には解除するから)
 この袋小路のような夜にほんの少しの救いを求めてしまった。登録した後の静寂を目の当たりにすればちゃんと正気に戻れる。ほら見たことか。期待などかけらもないのだと自分を打ちのめすことができればそれで良かったのだ。

ピロン

 だから深夜にあれこれ検索してようやく『恋人候補リスト』への登録を終えた瞬間、自分の端末とテーブルに置きっぱなしのロマーノの携帯電話から同時に通知音が鳴っても、スペインには何が起きたか理解できず、ほとんど寝ないまま夜を明かして二日酔いに苦しむロマーノを直視できないことになるのだった。

うっかり永久就職する話

2019.01.18

 ロヴィーノ・ヴァルガス、大学3回生。多くの学生たちがそうであるように就職活動真っただ中だ。
 どこでも聞くようなありふれた話。名前だけは有名なマンモス大学の経済学部に進学し、学生の浅はかな考えで就職に有利と噂のあるゼミを取った。同じ研究室に通う同級生には高い志を持つ学生もいたが、残念ながらロヴィーノにやりたいことがあるわけではない。
 学生時代に打ち込んだもの、特になし。インターンもボランティア活動もしていない。したい理由がなかったからだ。
 もちろん優秀な学生でもない。ただ最低限の単位を取れるだけの課題をこなし、流されるままに3回生になったから就職活動をはじめた。それだけ。
 そんな具合だったから、さすがにここにきて少し行き詰まっていた。

「あー働きたくねぇ……。つうか就活したくねぇな」

 それが最近のロヴィーノの口癖だ。ベッドでごろりと寝返りを打って、スマホの画面に視線を落とす。先日参加した説明会のフォローアップメールが届いていたが、さっぱり頭に入ってこない。
 合同説明会に自己分析、OB・OG訪問、エントリーシートを量産して書類選考……多忙な日々の中でありもしない志望動機を捻り出すことに疲れ、愚痴をこぼすことが増えた。

「ロヴィ、ここんとこそればっかやな」

 この部屋の主のアントーニョがパソコンから顔を上げて苦笑した。そこに非難がましい色が含まれているように感じられて、むすっと唇を尖らせる。

「しょうがねぇだろ、就活しかしてねぇんだから。それ以外の話題なんてねぇよ」
「うんうん、でも気分転換も大事やで! せやから、な? 次のオフは俺とデートせぇへん?」

 ヘラッと笑いながらテーマパークのチケットを見せられて、思わず目を細めた。男同士なのにデートなんて何言ってんだ、と突っ込む気も失せる。
 今日は平日だがアントーニョは自宅で仕事をしている。仕事だと言っているわりに、突然ふらりとやって来たロヴィーノを家に上げて喋りながらパソコンを見ているのだからのん気なものだ。
 再びスマホに視線を移し、何となく画面をスクロールする。

「はあ……良いよなあ、お前は。気楽でさ」

 10歳も年上の男を捕まえて言うようなことでもないが、余裕のなさも手伝って思わず口にしてしまう。
 隣の家に住むアントーニョは、昔からデートに行こうだのロヴィーノ愛しているだのとふざけたことばかり言ってくる。常時ヘラヘラしているような男なのでロヴィーノもまともに取り合っていないが、これでも学生の時に友人たち3人と起業した会社をそこそこの規模にまで成長させた経営者だ。この自由な勤務態度も、だからこそ許されているのである。

「気楽ちゃうよー俺も悩みとかいっぱいあるで! 経営者は孤独やからなあ」
「髭とじゃがいも兄がいんだろが」
「そりゃああいつらは頼りになるけど、それでもやっぱ相談できへんこともあるよ」

 実際、ロヴィーノだってアントーニョが気楽に会社をやっているわけではないことは知っている。
 信じていた部下が会社の金を使い込み逃亡、多額の負債を抱えて倒産直前まで追い込まれていたこともあった。取引先は蜘蛛の子を散らすようになくなり、評判はガタ落ち。その時期のアントーニョはまさに貧乏のどん底で、150円で一週間過ごすために特売品のスパゲッティを買ってきてソースもかけずに食べるような生活をしていた。そのあまりの貧乏ぶりはさすがのロヴィーノでも同情して、家にあったふりかけを差し出すほどの哀れさだった。アントーニョもそれに対して、意外にのりたまがいける! と喜ぶようなポジティブな男でもあるのだが。
 経営が軌道に乗るまでは寝る間も惜しんで誰よりも働いていた。当時高校生だったロヴィーノは弱音をこぼすアントーニョのことを情けない甲斐性なしだと言っていたが、同じことができるかと問われればまずできないと答えるだろう。そんな辛い思いをしてまで成し遂げたいこともない。

(この年になると、特に……)

 経済学部という学部のせいか同級生でも起業を志している者はいる。しかし学生のうちから会社を興した生徒はロヴィーノの学年からは出なさそうだ。現実を知れば知るほど、それがどれだけ難しいことかもわかってくる。失敗を恐れていてはできないこととはいえ、ロヴィーノにはやろうとすら思えない。

「……なあ、なんで起業だったんだ?」

 ふと気になって聞いてみた。別に彼の意見が就職活動の参考になるとは思ってはいない。純粋な興味だった。

「んー? なんでかって……儲かりそうやと思ったからやで!」

 しかし意外な返答に頬が引きつる。そこまで明け透けに言われるとかえっていやらしさも感じないが、しかしそれでもあまりに利己的過ぎはしないだろうか。社会のために、という奉仕精神だけで企業経営を始めたわけではないのもわかるが、想像以上にあれすぎた。

「フランシスがそういうの詳しくてな、ギルが法学で俺が経営学やったから起業でけるんちゃうん! って思って。あの頃はプチバブルで学生起業が流行っとったんよ」

 そんなノリで志望動機を書いても、とても先の選考には進めなさそうだ。

「そ、そうか……」
「せやでーなんや、ロヴィーノも経営に興味あるん?」
「いや、ねぇよ」
「そんな即答せんでも。まあ向いてなさそうやけど」
「言われなくても知ってら」

 ついにスマホを放り投げて、明るい液晶を見ていたせいで乾いた目を閉じた。腕をまぶたに当てて部屋の明かりを遮れば途端に訪れる眠気。使わない頭を酷使し過ぎて最近はずっと眠い。
 ぼんやりとまどろみながら、ほとんど無意識で言葉を紡ぐ。

「あーマジで就職活動やめたい」
「さっきも言ってたやん」
「んー……」
「ロヴィーノ? 寝るんやったら家に戻りや」
「ん……良いじゃねぇか。アントーニョの家にいるって出て来たんだから、心配ねぇよ」
「家族の心配じゃなくて……俺の部屋で寝るのはあかんって前から言ってるやろ」

 アントーニョの少し低めの声が心地良い。普段のふざけたものとは違い声量が落とされた話し方は年相応に聞こえた。穏やかで落ち着いている。何だかんだと言っても、やっぱり年上なんだな。
 いつもそうだったら良いのに。そのほうがかっこ良く見えるぜ。そんなことを口にしたかしていないかもわからないで、つらつらと取り留めなく考える。

「ほら、ロヴィーノ……頼むから。エントリーシート、書かなあかんのやろ」
「もう書きたくない」
「書きたくなくてもええから、お願いやから帰ってや」

 スケジュールを頭に浮かべると、それだけで嫌気が差した。今週だけであと何枚、と考えれば憂鬱にもなる。このまま何もかも投げ出したい。

「はー……もうおまえのとこに、就職させろよ……。てめーの世話係でも雑用でも、何でもするぜ?」

 本気混じりの軽口を叩く。彼を困らせる気はなかった。

「……それ、ほんまにええの?」
「おー……」
「ロヴィ、途中で嫌やって言わへん?」
「言わねぇよ」

 ああ、でも。眠いのもあって、ずっと抱えていた不安を素直に吐露する。

「……っつっても、できることねぇかもだけど」

 自分が仕事ができるとは思えない。残念ながら要領は悪いほうだ。働きだしたら失望されることのほうが多い気がする。
 そう言えば元気付けているつもりか、アントーニョが気にせんでええ、と力強く言いきった。

「ゆっくり覚えてくれたらええよ。そんな難しいことちゃうし」
「おう、……努力するわ」
「俺もちゃんと教えたるし、最初は失敗したってええし。せやから」

 ああ、本当にこんな緩いノリで内定が出れば良いのに。いつになく真剣にこんな茶番に付き合ってくれるアントーニョに、はは、と笑いが込み上げてくる。しかしさすがに経営者をやっているだけあって言葉には力があるな、と他人ごとのように思った。本当にロヴィーノでも何とかなりそうな気にさせてくれる。
 けれどいつまでも現実逃避を続けたって何の解決にもならないのはわかっていた。冗談だよ、と打ち消すつもりで上半身を起こした。
 しかしその前にアントーニョが動く。

「ロヴィーノが来てくれるんやったら大歓迎やわ! むっちゃ嬉しい! 絶対大事にするな!」

 両手を握りしめられて口をぽかんと開く。

「…………は?」

 感動に打ち震えているアントーニョはロヴィーノの戸惑いにも気付かずはしゃぐ。

「俺のとこに永久就職してくれるんやろ? 大丈夫、お前を養うだけの稼ぎはあるで! せやから家事だけしっかり覚えてな。いやーまさかロヴィーノが俺の気持ちに応えてくれる日がくるなんて夢みたいやなぁ……ああ想い続けとったら叶うもんやね。フランシス達の言うとおり、やっぱ俺が好きってわかってて家まで遊びに来るの望みがあったからなん?」

 おまえの愛しているって、そういう意味だったのか。そんなこと今はじめて知ったのに、家に遊びに来ることを深く考えていたわけもない。

「こんなに好きって言っても全然取り合ってくれへんかったから俺はてっきり脈がないもんやとばかり思っとたんやで。ああ、でも今はそんなんどうでもええわ。嬉しい……俺がロヴィーノ好きになったんが会社立て直してた頃やから5年、いやもう6年か? 長かったなぁ……ちょっと泣けてきた」

 見ればアントーニョが顔を真っ赤にして目を潤ませている。ぐしゃぐしゃにしわを寄せて涙ぐむ姿は、仕事でどんな辛いことがあっても一度もロヴィーノには見せなかった表情だ。その全身で嬉しい幸せだと喜ぶ姿に、いやそれは誤解だ、とは言い出しにくくなってしまった。
 アントーニョが笑う。ロヴィーノは顔を青ざめさせることしかできなかった。

「結婚式は盛大にしよな! ああもう、誰呼ぶか悩んでまうわぁ!」

 その後のアントーニョの行動は早かった。ロヴィーノがどう本当のことを切り出そうと悩んでいる暇なんてなかった。翌日には近所中にロヴィーノと婚約したことが知られ渡っていたのだ。顔しか知らない人にまで祝福されて、あっけに取られた。
 フランシスから電話がかかってきた時に、ようやく事態の重さを察した。うかうかしていると逃げられなくなると背筋が凍ったが既に時は遅い。

『婚約おめでとう! ついにアントーニョの愛を受け入れたんだねぇ、みんな祝福しているよ』
「は、はあ? みんなって誰だよっ」
『あいつが知っているやつ全員じゃねぇか? 一斉送信で婚約したってメールがきたぜ』

 ロヴィーノの家族は、突然の婚約について驚くことも反対することもなかった。むしろアントーニョとは既に付き合っているものだと思っていたらしく、おめでとう、とだけ言われて呆然とする。
 仮に元々付き合っていたとしても自然に受け入れ過ぎではないか、と思わなくもない。それをロヴィーノが突っ込めば、フェリシアーノからは

「これを逃したら兄ちゃんが気を許せて、さらに兄ちゃんを貰ってくれる人なんてなかなか現れないよ!」

 と熱弁されてしまった。悲しいことに返す言葉がなかった。
 外堀を固められて逃げ場を失ったロヴィーノの背中を押したのは、意外にも大学のゼミの教授だった。若く見える東洋人のその男は、うっかり男と婚約してしまったロヴィーノに、呆れるほどあっさりこう言った。

「付き合ってみれば良いじゃないですか。それでわかるものもあるかもしれませんよ」
「ねぇよ! それでやっぱりダメだったらどうすんだよっ」
「どうって……破棄すれば良いんですよ」
「そんな、かんたんに」
「愛し合う恋人同士だって、いざ結婚を目の前に破談するなんて普通にあり得る話です」
「……そ、そうかもだけど」
「それに想いを寄せられていること自体、嫌というわけでもなさそうですし」
「…………」
「一回付き合ってみて、それから考えてみてはどうですか?」

 黒い穏やかな瞳に見つめられ、はあっとため息をつく。どうせやりたいことがあったわけでもない。就職活動をしながらアントーニョと付き合うことはできるのだ。
 アントーニョと恋人になる時に決めた約束は二つだ。ロヴィーノの気持ちがはっきりするまで先には進まないこと、絶対に二人の未来を不幸なものにしないこと。そのためには結婚は少し先延ばしになるのだが、アントーニョは朗らかに、しかし力強く誓った。

「当たり前やん! 絶対に幸せにするで!」

 そうして彼が有言実行、本当にロヴィーノを幸せにするようなありふれた話が続くのだ。

バルにて

2018.09.08

 スペインに指定されたバルからは音楽が溢れていた。扉を開いた途端に流れ込んできたのはマイ・フェイバリット・シングス、スタンダードナンバーだ。耳に馴染みのある旋律だしノリも良いから店内は大いに盛り上がっていて、客も半分ほどはワイングラス片手に立ち上がり手拍子を鳴らしながら揺れている。その中心にいるのがスペイン。キャッチーなメロディーラインを舐めるように弾いている。楽器はヴァイオリンだ。ギターじゃないのかと思ったが、それを言えば「弦をはじく楽器はだいたい同じやろ」と大雑把な答えを返される気もして口を紡いだ。どのみちあの男は暫くステージから降りて来ない。客が許さないはずだ。
 店内にステージはあったが楽器はアンプに繋いでおらず、編成も曲によって入れ替わり立ち替わり弾ける人間が出てくるといった具合だったので、即興で始まった予定にないライブなのだろう。音楽関係者のグループがいると見た。それも店主と仲が良く、こんな状況になってもむしろ大歓迎の腕前だ。実際、スペイン以外の面子は誰も彼も様になっている。サックス、トランペット、ベースにパーカッション。楽器は持ち込みだろうから、どこかでライブがあった帰りの打ち上げ会場かもしれない。
 そもそもスペインがヴァイオリンを覚えたのはフランスがモダン・ジャズにのめり込んでいた時だからわりと最近である。スペインにとっての腐れ縁の隣人は、やれビ・バップだモード・ジャズだとやたら難解で独創的、その代わりに自由な音楽をこよなく愛していて、自分でもバンドを組んでセッションをしたくなったらしい。そこで白羽の矢が立ったのがオーストリアからコントラバスとチェンバロ、クラシックギターをやらされていたスペインで、ヴァイオリンとピアノ、ドラムを習得させられていた。即興で流れと空気を読める頭の回転の速さやオーストリア仕込みの確かな音楽的素養、アドリブ好きな性格も合っていたのだと思う。三十年ぐらい前まで素人の気まぐれバンドながら、そこそこの頻度で活動していた。ちなみにフランスのジャズ・セッションにはプロイセンも巻き込まれていたが、彼こそ独創的でロマーノにはついぞ理解できなかった。叫んで唸るようなトランペットに低音を効かせすぎたトロンボーンが十八番。あの男がラッパを持ったら耳をふさげ、が教訓だ。
 閑話休題、そんなことを考えている間にも曲は二転三転と転がり続け、もはやサウンド・オブ・ミュージックの面影など残っていない。それがジャズとは言え結構長い時間弾いているし、一体どうやって収拾をつけるつもりだろうと見守っていたら、ヴァイオリンのソロになったところで転調し、気がつけばモーニンの旋律に変わっていた。特徴的な出だしをしつこいぐらいに繰り返すので、壊れたレコードのようだ。それに乗ったのがベース、次いでサックス、パーカッション、最後にトランペット。それぞれがスペインがはじくヴァイオリンの旋律に続いてアドリブで続ける。少しテンポが軽すぎるのだろうか。それともしつこく同じフレーズを聞かされすぎたせいか、原曲の渋さは微塵もなくてどこか滑稽な響きがある。それが店内の客の笑いを誘い、楽しませていた。狙ってやっているのなら大したものだ。
 いつまでも立っているわけにはいかないので席を探す。が、立ち上がる者、踊る者、テーブルに突っ伏している者で店内はしっちゃかめっちゃかだ。どこが空いているのかもわからない。仕方がないので近くにあった椅子を引き寄せる。誰のものかは知らないが、この状況ではどのみち名乗りあげる者もいないだろう。
 腰を落ち着けたちょうどそのタイミングで、スペインの合図を受けたベースとパーカッションが五拍子を打ち始める。管楽器がフェードアウトする。リズム隊だけで聞かせる軽妙なリズム。テイク・ファイブだ。ヴァイオリンが弦を構える。しかし響く旋律は想像していたものとは違っていた。何だろうと首を傾げていると曲が盛り上がってくる。ラテンの曲のようだがタイトルを知らない。それにしてもリズムが違うだろうによくやるものだ。国内では有名なナンバーなのか、店内はますます盛り上がっていた。スペインが弦を振って手拍子を煽る。さらに客が立ち上がる。勢いのままにヴァイオリンは好き勝手をして、お次はダンシング・クイーン。最近映画でも見たのだろう。さすがにテンポは落ち着いてきて、ゆったりとしたものに変わっていく。それにつられて煽られた人々が近くにいる者同士で手を取り合った。胸を寄せ合って揺れる。邪魔になるからとテーブルは端に追いやられ、急にムーディーになった店内でひとり取り残されたロマーノは、男女で踊る人々をぼんやりと眺めていた。
 何だかなあと思わなくもない。が、この場は演奏している彼らのものだ。どうアレンジしようが自由である。客も喜んでいるからそれで良いのだろう。しかしどうにも持て余すので、とりあえず手近にあったワイングラスを呷る。誰のものかなど知ったものか。ついでにカヴァを注文する。店員も演奏を聞いていたいのか、おざなりにグラスに注いで寄越してきた。何だかなあ。
 旋律はしばらく迷走を続けた後、やがてニューヨークに迷い込んだ。スティングか。異国、哀愁、男のものかなしさ。そう言えば、どことなくスペインに通じるものがあるのかもしれない。こんなしっちゃかめっちゃかでデタラメな演奏をしているこの男もフラメンコを弾かせればこれがなかなか良いのだ。普段どこに隠しているのやら、大人びた色気まで出してくる。今夜はちょっとすごいかもしれない。
 と、少しは期待をしたのだが。まさかスペインが素直に演奏するはずもなく、やっぱり曲は破綻した。

「だああ、やめだやめだ! テメーのイングリッシュマンは陽気すぎる!」

 ついに耐えきれなくて立ち上がった。客をかき分け店の中央、楽器を持つ者たちが立つステージへと歩み寄る。突然のダメ出しにもスペインは嬉しそうな顔をしている。ハメられている気がしなくもない。

「そりゃあ俺はスペインやからなあ。スパニッシュマン・イン・ニューヨーク?」
「お前のは軽すぎんだよ」
「ほなロマーノも楽器持つしかないなあ」

 そらきた。

「俺がどっか飛ぶのが気に入らんのやったら、ちゃんと隣で見張っとかんと」
「……俺が来たのいつ気づいたんだよ」
「いつやったかなあ」

 店内は突然の乱入者に興味津々といった具合で、数名の野次馬が何だ何だと群がってくる。楽隊はどれを使うのかとカウンターに並べた楽器を見せてくるが、あいにくスペインとは違い器用な性質ではない。何かひとつを必死でやって、どうにか形になるかどうかといったところだ。
 ロマーノはタンバリンを取った。それを見ていた客は興ざめといった風で野次を飛ばしてきたが、パーカッションをやっていた男が楽しそうに手をたたく。

「マイクはどこだ」
「歌ってくれるん?」
「ちょっとだけな」
「せやったらタブーでもやろかなあ」

 それ、日本じゃなきゃ通じねぇよ。いつだったか極東で見たテレビ番組のコントを思い出してため息をつく。結局、大真面目に歌わされて、そのおかしさを知るのはロマーノとスペインだけになるのだろう。案外、この男はそういった秘密を好むのだ。

「……ダンシング・クイーンの時も思ったけど、お前、案外いやらしい」
「そんなん今さらやろ」

 ヴァイオリンをギターに持ち替えながら、ふんす、と鼻を鳴らす。本当に何を考えているんだか。

「男はみんなスケベやで。ほらほらマイク持ってきてもらったから持って、タンバリン構えて」

 ばちん、とウィンクをされて肩を竦めた。今夜はちょっとすごいかもしれない。

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