コインランドリー

 アントーニョに対する第一印象は最悪だった。初対面だというのに肩に肘を乗せてくる馴れ馴れしさも、明け透けなデリカシーのなさもロヴィーノにはただ不愉快なものであったし、出会ったタイミングも相まって悪い印象しか残っていない。
 その日は木曜日で雨が降っていた。昼間は晴れて冬の終わりを感じさせる穏やかな陽射しがあったと言うのに、ロヴィーノが通勤の電車に乗ったそのたった十分ほどの間に雲行きは怪しくなって、駅に着いた時には既にぽつりぽつりと大粒の雨が降り始めていた。あっという間に激しさを増した春先の雨は冷たく夜の街を濡らして、傘を持っていなかったロヴィーノは慌てて駆け出した。
 アパートはレンガ造りの二階建てで住宅街の真ん中にある。廊下を挟んで部屋が二部屋ずつ並んでいて、築年数はけっこう経っているが内装だけ変えたらしく壁紙はシンプルなクリーム色で真新しい。階段を駆け上がりながらトレンチコートのポケットに手を突っ込んで、何も付いていない鍵を取り出した。最近までは寄り添うようにもう一つ、同じような鍵がついていたのに、その寂しさが未だに手に馴染んでいない。けれ、ど感傷に浸っている暇もない。
 乱暴に扉を開いて踏み込んだワンルームの自宅は、今朝家を出た時のそのままの姿でロヴィーノを出迎えた。わざわざ早起きして片付けた洗濯物たちが、窓の向こうでずぶ濡れになっている。

「さいあくだ」

 はあ、と息を吐き出して壁に寄りかかった。膝から力が抜けてずるずるとしゃがみ込む。立てた膝に肘を付いて背を丸めた。
何だってこうも世の中上手くいかないのだろうか。仕事では些細なミスが大事になって残業続き、久しぶりに会った恋人からは別れを切り出され、挙句にこの雨だ。

(俺がやると、いつもそうだ)

 それでも生活は続いていて、生きていれば腹は空くし服を着れば洗わなければならない。今出している分を何とかしなければ、明日は着て行くものがもう何もない。それだけ溜め込んでいたから今日だって早起きしたわけで、それがこの雨で全部だめになってしまった。
 頭を抱えて、こうなった原因を責める。残業さえしていなければ雨には間に合ったのに、と、脳内の皮肉屋で意地悪な上司に恨み言を言うが、お前のミスのせいだろうとすげなく返された。妙にリアルなシミュレーションだ。そのミスはと言えば取引先の指示のせいだが、この社会においては問題に気付かず実行したロヴィーノのせい、ということになる。
 今日、洗濯などしなければ良かった。先週の休みの間に片付けておけばーーだが、先週末は彼女にフられて世界が終わっても良いぐらい泣いて過ごしたので、それは土台無理な話だ。
 暫く項垂れていたが、いつまでもそうしているわけにもいかないから、重い体を引きずってベランダに出た。近所のコインランドリーならまだ開いているだろう。
 日々を暮らしていく毎に心が磨り減っていくようだった。

 歩いて五分、近所にあるコインランドリーには誰もいなかった。ロヴィーノのようにせっかく片付けた洗濯物をだめにした間抜けはそういないらしい。いつも使っている一番奥の角にある機械に衣服を放り込んで、長椅子に腰掛けた。ドラム式の乾燥機が重そうに、ゴウンと音を立てて洗濯物を回し始める。
 彼女に別れを告げられたのは先週だったから、もう一週間になる。付き合いは順調だと思っていたからロヴィーノにとっては、それはまるで晴天の霹靂だった。向こうは、そんなこともなかったようだが。

(気付かなかったな)

 外国へ行って勉強をするのだと言っていた。そんな夢があることすら、ロヴィーノは知らなかった。
 暫くそうやってぼうっとしていると、仕事の終わった乾燥機が機械音を立てて終了を告げた。口うるさい上司のようにピーピーとロヴィーノを急かすので、のろのろと屈み込んだ。視線を下げると床は埃っぽい。このコインランドリーは床も天井も古びていて、お世辞にも綺麗とは言い難かった。揃えられている洗濯機も乾燥機も年代物で、色がくすんで、ちょっとしたアンティークのようにすら見える。

「なあなあ、こないだ会わんかった?」

 唐突に話しかけられて顔を上げた。見上げた先には壁紙の剥がれかかった天井を背にした男が立っていて、急に視線を上げたせいで世界がくらりと揺らぐ。
 男の癖っ毛はあちこちに跳ねていて、どうもきちんとセットされている様子はない。陽に焼けた肌、深い彫りの奥で輝くみどりの瞳、眉尻まで直線を描く濃いめの眉に広がった鼻と分厚い唇。顔を少し傾け笑顔を浮かべていると人懐こさすら感じられた。

「男にナンパされる趣味はねぇぞ」

 そのまま無視してしまおうかとも思ったが、しゃがみ込んでいるロヴィーノを見下ろすように立ちはだかっているので、辛辣に言って返した。男に見下ろされるのは好きじゃない。同時に身を起こして立ち上がった。それでも男のほうがロヴィーノより少し背が高いようで、視線が少し上のほうにあった。それも気に入らなくて舌打ちをする。しかし、そんなロヴィーノの様子など気にしていないのか「あーやっぱりそうやー!」と何が楽しいのやら満面の笑みを浮かべた。

「こないだもここ来とったやろ? 俺の前にこの乾燥機使っとった」

 仕事が終わってからこのコインランドリーにやって来ると客はほとんどおらず、ロヴィーノはいつも一番奥の角に置いてある乾燥機を使う。この辺りには他に選択肢がないので、雨が降ればこのコインランドリーに来ることになるから、以前にもここにいたかと問われればそうだろう。だが、だからと言ってそれがどうしたと言うのだ。話が見えずに怪訝な表情をするロヴィーノに、男は勝手に話を続けた。

「俺もいつもこれ使っとるんやけど、最近仕事のせいで遅なるようになって、ほしたら君が使ってたやんかあ。まあちょうど終わるとこっぽかったからちょっと待っててんけど、ほら、いつもとちゃうとこやと嫌やし。ほんで乾燥機の中に洗濯物入れようと思ったら」

 言いながらガサガサとビニール袋の音を立てる。忙しない男だ。

「これ忘れてったから、ちゃんと渡さなと思って」

 差し出された袋はコンビニなどでもらうような半透明のビニール袋だ。眉を顰めたロヴィーノに「怪しいもんとちゃうよ」と受け取るように促す。なぜかロヴィーノの肩に肘をかけ体重をかけてくる。
ロヴィーノが受け取るまで引かない気だと悟って渋々、それを手にした。戸惑いがちに袋と男の顔を交互に見やるが、役目を果たしたと言わんばかりにニコニコと笑っていて何も言わない。

「……なんで、これ」

 袋の中身は下着だった。女性物の。

「やから忘れもんやって! 彼女さんのやろ? あかんでーこんな誰が来るかわからんとこで大事な彼女のパンツなんか忘れてったら」

 邪気のない笑顔は清々しいまでに晴れやかだった。しかし、それで「おーありがとう、探してたんだ」などと言えるわけもなく、かと言って何と反応を返せば良いのかもわからないで、眉を寄せた難しい顔で俯いた。手元のビニール袋がくたりと重力に従うのが、言いようもなく情けない。
 ロヴィーノのその反応が思っていたものと違っていたのか、それで漸く喋り通しだった男も黙った。あれ、といった戸惑いの気配を滲ませロヴィーノの顔を覗き込もうと腰を折り曲げる。

「なんか嫌やった? なんやろ、心配せんでも俺以外パンツ見た奴おらへんし……あ!」

 ハッとした、と言うように声を上げて恐る恐る窺うようにロヴィーノを見やる。

「大丈夫やで! 彼女さんのパンツで変なことしてへんから! ちゃんとここで見つけたまんま、ずっと袋に入れて持ち歩いてたし!」

 そう言えばすぐに出てきたなと気付く。

「ずっと?」
「言うてもここ三日ぐらいやけど」

 ロヴィーノの、今となっては元恋人の下着をビニール袋に入れて、いつ会うとも知れないのに当てもなく持ち歩いていた男が今目の前にいる。

「それも俺が洗濯したやつを持って帰る用の袋やし」

 まだ話をしている途中だったが知ったことではない。取り出しかけていた洗濯物を急いで纏めて荷物を引っ掴み、最後まで言葉を聞かずに走り出した。

「あ、ちょっ! まって……」
 引き留めるようなことを言っていた気がするが、重いガラス扉を引いて店内から抜け出せば、もう何も聞こえてはこなかった。

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