本当は背中で泣きたいのに

 今朝はスペインからのメールで目が覚めた。珍しいこともあるもんだ。放っておいたら何時まででも寝ているようなあいつが俺より早くに起きることなんて滅多にないから朝寝坊でもしたのかと慌てたが、重いまぶたを無理やりこじ開けて時計を見ればまだまだ早朝、普段のスペインならば絶対に起きていないような時間だった。カーテン越しに室内へと差し込む柔らかな陽の光は時間帯を差し引いても日ごとに弱くなっていて夏が遠ざかっていくのを感じる。
 これからまた朝が辛くなるなあと思いながらからだを起こし、サイドテーブルを探って携帯を手にする。室内の薄暗さに慣れたまぶたに電子の光が突き刺さって目を細めた。

そっちいく あえますか

 まぶしいぐらいに煌々と光る画面に、ひどく素っ気ない文章が映し出される。顔文字も記号も句読点も、クエスチョンマークすらない。
 いかにも会話をそのまま文章に起こしたようなうるさいメールを送ってきそうだから普段のスペインとはあまり結びつかないが、意外にあいつが寄越してくるメールは静かだ。必要最低限の内容しかない。ちなみに手紙も、でもそれはたぶん文字を書くのが面倒なんだろう。
 他人行儀な素っ気ない一文。まだ単語だけでないだけマシなほう。他の誰かになら誤解されたっておかしくない……と思っているが、俺は他の誰かでもスペインでもないから実際そのへんどうなのかは知らない。もしかしたら俺以外にはちゃんとしたメールなのかもしれないし、意外にみんな気にしていないのかもしれない。俺だって別に素っ気なさを気にしているわけじゃないし。
 ただ一つ。俺の不満は、スペインのメールは確かにうるさくはないが省きすぎだと言うことだ。

「会えるかって……いつの話だよ」

 寝起き独特のカラカラとした乾いた声が漏れた。考えるよりも先に飛び出たひとり言は低く掠れて喉に貼り付いているようだった。
 その声が存外、大きな声だったせいか、隣でごそごそしていたからか。一緒に寝ていた弟が薄目を開けてどうしたのかと聞いてきた。

「あ、悪い……起こしたか」
「ううん……今なんじ?」
「六時」
「んんー……」

 はっきりしない言葉がボソボソと聞こえてくる。あまりにその声が不明瞭で眉を寄せた。
「あ? なんだって?」
「……スペイン兄ちゃんから?」

 俺の手元を指さす。こんな朝早くに携帯を握りしめているんだ、何かあったと思われてもおかしくない。

「ああ、メール。大したことじゃない」
「……でかけるの?」
「いや、今日は一日家にいる」

 ふうん。曖昧な相づちが返ってくる。俺だって無理やり起こされたところで頭が働かないんだ。
 しばらくの間、そうやってぼんやりと微睡んでいたら、手の中の携帯がまた鳴った。

仕事でイタリアいきます あえますか

 先ほどとほとんど変わらない文章だが、とりあえずイタリアで会いたいと言うことだけは伝わってきた。俺が知りたかったのはイタリアにどうして来るんだとかそっちがどっちだとか、そう言うことではなかったんだけど。
 スペインのメールにはまず主語がない。次に肝心なことすら抜けている。会えないかって誘うのは良いけれど、それがいつを指しているのかがわかりやしない。おかげでそれを問うメールを返すことになるのだが、何回もチマチマと文章を打たなきゃいけなくなるのが面倒だ。スペインにとっても一度で伝わらないのは鬱陶しいはずなのに、もう何年もあいつの主語抜けメールは治っていない。

「……またスペイン兄ちゃん?」
「ああ、あいつのメールわかりにくいんだよ。肝心なとこが抜けてるからいちいち聞き返さなきゃいけねぇんだ」

 しかもこんな早朝から。送るなとは言わないけど、せめて一発でわかるようにしろっての。はあっとため息を吐きつつ返事を打つ。それはいつなんだって、俺もスペインに負けず劣らず短い文章だ。送信ボタンを押すと電波を探してアンテナがチカチカと点滅を始めた。

「そりゃあ、兄ちゃんに何回もメール送りたいんだもん」

 枕に肘を突いて横向きに寝そべったヴェネチアーノがこちらを見ながらうっすら微笑んだ。何か含みのあるその笑顔にムッとして目を眇めた。

「なんでだよ」
「好きだからでしょ」
「いや、あいつが俺のこと好きなのは知ってっけど」

 ヒューと乾いた声が上がる。だって仕方がない。俺とスペインは付き合っているんだから、奴がどれだけ俺のことが好きだとか愛しちゃってるだとかは散々聞かされてきた。逆に言えば俺も、そうなんだけど。

「もっと実りのある内容とか盛り上がる話なら良いけど、毎回似たような会話だぞ。何回も送んの面倒じゃねぇか」

 スペインから送られてきた端的なメールに、俺がそれはいつの話だ、どこで、何のためにと質問攻めにするだけ。互いに用件が伝われば途切れるし何の発展性もない。

「えー、じゃあ兄ちゃんたちの実りある内容ってなんなのさ」
「う……いや、今まで特にそんな話はなかったからわかんねぇけど、何かいろいろあんだろ」

 まあ、しかし。かと言って、あいつの場合は言葉を増やせばちゃんと伝えられると言うわけでもない。お前のメールわかりにくいって言ったら、どうでも良い挨拶から始まり朝起きてからメールを送る瞬間までを事細かに書いてきそうだ。そうして肝心なことが抜ける、わりと鮮明な想像に考えただけでうんざりした。

「はあ……そんなんだから何でも良いからメール返してほしいんだろうね、何の発展性がなくたって」

 俺の言葉を引き合いに出して嫌みったらしく強調してくる。俺は何も変なことを言ったつもりはないのに、ヴェネチアーノはげっそりしたような面持ちでわざとらしいため息を吐き出した。呆れたいのはこっちのほうなのに、なぜだかジトっと目を細められて「ちゃんとコミュニケーションとってるのか心配だよぉ」だなんて、アホみたいな言い方をする。

「こないだなんて深夜に送ってくるなって言ったんでしょう?」
「なんでそんなこと知ってんだよ」
「そりゃあ、あんだけスペイン兄ちゃんが大騒ぎしてたらね。「ロマーノがシンデレラみたいに十二時以降は連絡してくんなって言うねん、どこの乙女やねん」って嘆いてたよ」

 微妙に似てるのか似てないのか判断し辛い物まねが入る。しかし、セリフはスペインが言いそうな言葉そのものだ。俺のいない世界会議でこの世の終わりかのような大げささでさめざめ愚痴っているスペインの姿が容易に想像できる。

「だってあいつが夜中にメール送ってくる時って支離滅裂で意味わかんねぇんだよ」

 あんなもんはメール爆弾みたいなもんだ。こっちはもう寝ようとしてんのに、さみしいだの一人にしないでだの。しかもそれを言われて俺はどうすれば良いんだ。

「お酒が入ってるんじゃない?」
「酔っぱらいだろうが寝ぼけてだろうが、どっちでも良いけどそんな状態で送ってくんなっての」
「ははは……この件に関しては俺はスペイン兄ちゃんの味方だなあ」

 肩を竦めて、やれやれ困った兄だ、みたいに呆れられたので、困った兄弟はお前のほうだろ、と目を細めた。弟のくせに生意気だ。舌打ちを打つ。
 携帯電話をいったん置いてベッドから立ち上がった。ヴェネチアーノの視線から逃れるように、ぐっと伸びをしながら今日の予定を考える。
 仕事をすれば良いんだけど、到底そんな気にはなれない。かと言って街へ出かけるような気分でもなかった。俺にある選択肢は二つだ。家の裏の畑でも見に行くか、それともやめておくか。そんなことで悩みながら床に足を踏み出した。その途端。
 着信を告げる電子音が短く鳴る。

「あ、またスペイン兄ちゃんだよ」

 言われなくたってわかっていますとも。
 無造作に置いた携帯の画面を見ればスペインの文字。返事の早さにちょっと驚きながら着信したばかりのメールを開くと、これまた素っ気ない文章で、今日、とだけ書いてあった。
 今日って、何が。
 一瞬思って、今日会えないかと言っていることにようやく気がついた。

「いやいや……」

 いくらなんでも急すぎる。ばっかじゃねぇの。今日って、今日かよ。

「なんて?」
「今日こっち来るんだと」
「え、そうなの? 何も聞いてないけど」
「急に仕事が入ったんじゃねぇの」
「ああ、それで。会いたいって?」

 ああ、携帯のほうに気を取られていたから声色が冷たくなる。どうでも良いみたいな響きになった相づちを弟が見咎めるように顔を顰めるので、取り繕うようにそうみたいだって続けた。

「じゃあ、出かけるんだね」
「あー……うーん」
「今日は家にいるつもりだったんでしょう? それとも用事?」

 せっつかれるように矢継ぎ早に質問を繰り出されて俺は困ってしまった。
 これは俺が怠惰過ぎるのかも知れないが、今日は家で過ごすって決めている日に出かけることほど億劫なことはない。仕事ですらたいていのことなら何だかんだと理由をつけて行かないようにしている。している、と言うか、どうしてもそんな気になれない自分の気持ちに忠実に行動した結果、何もしないことになる。
 まあ、つまり俺が言いたいのは。
 よっぽどのことがなければ休みの日は動きたくない。ベッラからのお誘いならばいざ知らず、いや、それさえ気乗りのしない日に決まらない格好で会いたくないと思っちまう。

「まさか会わないつもりなの?!」

 ありえない、と目を大きく見開いて、普段ののんびりした言動からは想像もできない俊敏さで起き上がった。俺が頷けばメールの向こうにいるスペインよりもおそろし剣幕で、なんでどうしてと迫ってきそうな勢いだ。

「いや、そうじゃねぇけど」

 そう、そうじゃない気分だから困っている。
 現在進行系で俺の気持ちはスペインへと搔っ攫われていて、面倒だとか服用意してねぇとか、そういう行かない理由を探している俺を、理性なんだか本能なんだか、とにかくもう一人の俺が説得し始めちゃっているわけだ。車で移動すれば服なんか気にしなくたって良いし、飯とか作ってもらったら楽じゃねぇか。あいつがいるからって俺が構うことはほとんどない。何が面倒なんだ、ってな。
 だって最近は互いに忙しくてなかなか会えていなかった。ここで意地を張って会わないのは少しばかり惜しい気がする。朝に着たメールに対して今日いけると返すのは何だかシャクだが、スペインに会った時の自分とそうでない自分を想像すると、いつもの脊髄反射で出てくる憎まれ口も、携帯に打ち込まれることはなかった。

「だよねぇ、恋人からのデートのお誘い、みすみす断るわけないよね!」
「別にそういうんじゃねぇけど……」

 身内からの茶々に気恥ずかしくなって語尾が小さくなっていく。今、抱いているこの感情がとても女々しいもののような気がして、明け透けにさらけ出すようなものじゃない。そんな気になってくる。しかし、だからと言って意地を張るのかと言えば……それはできなかった。
 元々は会えないはずだった。しかし、チャンスがあったのにみすみす逃した会えなかった一日と、全くそんなそぶりすらなく会わない一日では話が違う。メールさえなければほとんどスペインのことも思い出さずに畑の世話をして終われた一日が、とてつもなく長く空虚なものになってしまうのだ。
 ここで断ればきっと後悔するだろう。美味しいランチも楽しいテレビも一人で過ごす夜も、全てスペインといたならどうだったかって思いを馳せてしまう。

「ヴェー、照れなくて良いのに」
「照れてねぇ」
「ふふ、良かった。兄ちゃんたち、ちゃんと恋しているんだねぇ」

 ニコニコと笑うヴェネチアーノのほうをまっすぐ見れなくて、携帯電話へと視線を落とす。
 後悔するとわかっていて突っぱねるほど俺も馬鹿じゃない。けれど素直に返事をするのはどうにも悔しくて、チェッ、と、誰が聞いているわけでもない自らの胸の内に対して舌打ちを打った。
 少しばかりの照れも混じって、自分でもないなってぐらいのぶっきらぼうさで、どこで待ち合わんだってメールを送れば、それを上回る素っ気なさで、ローマ・テルミニ駅、と端的な返事が返ってくる。

「……それだけかよ」

 こちらの葛藤なんて知らないんだろう。俺の返事に被せてくるようなスピードで返ってくる文面にため息が出た。
 何だかなあ。そう思ったのも束の間。ほんの少しの間、返事をしなかっただけで、催促するかのように終わったら連絡すると畳み掛けてくる。

「うっせーわかってるっての」

 もうスペインのメールからもヴェネチアーノからも逃げたくなって寝室のドアのほうへと歩く。扉を閉める直前に「今日の夜のことは気にしないでね」と言葉が追いかけてくる。あれはドイツのところに転がり込む気だ。その事実もシャクだったが、あえてわざわざ怒ることでもない。聞こえなかったふりをして廊下へと出た。
 顔に上った熱を冷ますよう廊下を早足で歩いていると、また携帯がピロピロと鳴りだす。何をそんなに焦っているんだか、どうやらスペインを黙らせるには返事を返すしかないようだ。
 手元の画面に視線を落として、瞬間、息が止まるかと思った。

はやくあいたい

 焦って打ったのか単語の区切りもない一塊の文字列に、一瞬、なんて書いているのかわからなかった。わかった時は胸が詰まった。
 俺の葛藤に気づいていないのは実際そうなんだろうけれど、スペインも余裕がないんだ。
 それに気づいたら急に単語だけのメールが全部、愛おしくなってしまうから不思議だ。上手く文字を打てないことにイライラしながら、あーもう! と大騒ぎで携帯電話と向き合うスペインを想像し苦笑が溢れた。それでも電話をかけてこないのは、上司が目の前にいるか移動中ってとこだろう。
 そこまで急だったのなら、無理なんてしなくて良いのに。俺に用事があって会えなかったらどうするつもりだ。それに他の日に示し合わせて休みを取ることもできる。
 けれど、もしかしたら。
 スペインもローマで仕事、と聞いた時にチラリとでも思ったのだろうか。俺のことを思い出して、そうしたら無性に会いたくなって止まらなくなって、それまで会わずにいた時間のほうがよほど長いのに、どうしてそれまで平気だったのかもわからないほどどうしようもなく堪らなくなって。一度、期待すれば我慢した分だけ溢れ出てくる感情が自分の中で抑えきれない。そんな気持ちになったのだろうか。
 だからと言って、こんな早朝にメールしてくるほどかと思えば、そのせっかちさもスペインらしい気がしてくる。自然、頬が緩んだ。
 心配しなくたっていつでも会える。けれど、今日でなければならない理由があった。

「ばーか」

 慣れた悪態は甘ったるく響く。弟がそばにいなくて良かった。こんな顔見られたら何て言われるかわかったもんじゃない。きっとだらしなく緩んでいるんだ。ついでに頬から首から、からだ中が発熱しているように熱かった。
 文面にはそんな気持ちをおくびも出さずに、わかったとだけ返してメールを終わらせる。冷たいって? だってそれ以上、何て言えるんだ。
 駅で待ち合わせと言うからにはスペインまで連れて行く気だ。きっと夜まで仕事してそのまま飛行機に乗るのだろう。イタリアに泊まって行けば良いのに、ふと不思議に思ったが、そういう気分なんだろうなと深くは考えなかった。どうせ週末だし、そう思って文句は言わないでやった。
 
 
 
 とは言え、俺は基本的に怠けたい。動きたくない。早朝に起きたとは言え、仕事で来ているからにはスペインは夜まで動けないだろうとタカを括っていた。まだまだ時間はあると日中をダラダラ過ごしていたら、そんなこちらの予想を大きく裏切って昼過ぎには連絡が着た。

おわった

 一言しかないが破壊力のある文字だ。何せこっちは飯もまだ食ってないってのに、優雅な昼下がりは一転、てんやわんやの大騒ぎ。言っても、一泊するだけだし最低限の必要なものを用意して家を出るだけだけど。
 大慌てで家を飛び出して車を飛ばし駅に着いたらわりとすぐに誰かから名前を呼ばれた。最初の違和感はもうこの時から始まっていた。
 顔を上げたら、俺が相手のことをスペインと認識できたかどうかってぐらいの唐突さで、いきなり唇を押し付けられた。それも挨拶なんて生易しいもんじゃない。妙にねっとり貪られて、ただただ目を見開き呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 あまりの突飛さにキスをされていることすら認識できず、たっぷりまばたき三回分ぐらいはそうしていたのだけれど、俺の抵抗がないのを良いことに、いきなり舌を差し込まれ思わず噛み付きそうになった。実際、ガチっと奥歯が鳴ったのだけれど、まあ顔面血まみれの悲劇を逃れたので俺が歯を食い縛る前に顔を引いたんだろう。俺の奇跡的な判断で命拾いしたんだ、スペインには感謝されても良いぐらい。

「な……ッ! 急になんだよ、カッツぉ!!」

 ガバっと顔を上げて掴み掛かる頃には、すぐにそっぽを向いた目の前の男が誰なのかもわかっていた。
 どうせいつもの悪ふざけだと思って掴みかかった。しかし、顎を上げて顔を背けているスペインの表情こそは見えなかったが、その横顔からあまり良い顔をしていないことだけは窺えた。まずあれって思ったのはその時。妙な引っかかりは何だろうと頑にこっちを見ようとしない元親分様の真正面へと回ろうとすれば、更に首を捻って俺の視線から逃れようとする。

「おい、なんだよ!」

 俺がどんなに声を張り上げても何も言おうとしない。
 追いかけっこのようなそれをムキになって繰り返していると、すぐに息が上がった。スペインは首を捻るだけだけど、俺は周りをぐるぐる回っているので疲れるんだ。これじゃあラチが明かない。何か別の手だてを考えようと足を止めた。
 はあっと息を吐き出し、ふと、スペインの肩越しにこちらを見ているご婦人と目が合った。よくよく周りを見渡せば、いきなり熱烈なキスをかまし怒鳴り声を上げて追いかけっこを始めた俺たちは、人ごみの中でもけっこうな注目を集めていたらしい。何人かからの好奇の視線を集めていることに気がついた俺の表情筋が引きつった。引きつりながらもバッチリ目を合わせたまま逸らせない初老のご婦人へヒラヒラと手を翻したけれど、戸惑ったような顔で曖昧な笑みを浮かべられれば、余計に気まずくなって居心地が悪い。
 こうなったらもう怒ったら良いのか照れたほうが良いのかもよくわからなくて、勝手に下がってしまう口の端を歪んだままにしてていたら、今度は腕を掴まれた。

「なんだよ、てめぇのせいで注目集めちまったんだから、な……って、うわ! なにすんだ、おい!」

 二の腕にきつく食い込む指先に痛いと眉を顰めるが、強引に俺の手を引いたスペインはその力を緩めることなく早足で歩き出した。
 何か一言ぐらいあっても良いんじゃないか、さっきのあれは何なんだ、と言うか今日久しぶりなんだぞ。
 言いたいことは山ほどあったけど、黙々と俺の半歩先を歩くスペインが何を考えているのかもわからなくて、だんだんと俺の言葉も少なくなっていく。
 俺の体が成長し大人になってからはそんな極端に歩幅が違うなんてことはないはずなのに、それでも時々つんのめりそうになるぐらいの早さでズカズカとスペインは歩く。普段はトロいぐらいのくせに何なんだ。
 周りから見たらさぞかしおかしな光景に映っただろう。けっこうガタイの良い男が、これまた男の手を引いて無言で、どこか険悪な雰囲気すら漂わせて空港の中を歩いて行く。
 俺はと言えばついて行くので精一杯で必死になって歩いていた。もうわけがわからなくて混乱しっぱなしだったけれど、気がつけば搭乗手続きが終わって(スペインがやった、いつの間に取ってたんだかチケットも全部用意されてて俺だけを置き去りに勝手に話は進んでた)俺はスペイン行きの飛行機に乗っていた。

 飛行機の中でも俺の手はずっとスペインに繋がれていた。手のひらにじんわり汗が滲んで気持ち悪い。そもそも、スペインとの付き合いは長すぎて今さら手を繋ぐというのは何と言うか気恥ずかしいし照れてしまう。それはこいつだって同じのはずなのに、今日だけは身じろぎして離そうとしても、逆に強く握り込まれてしまう。何なんだってって顔を見たけど、怒っても笑ってもいない真顔でそれがどういう感情から突き動かされているかはわからなかった。

「……なんか喋れって」

 いつもうるさくて面倒なぐらいのスペインが、こうも言葉数少ないことなんて本当に珍しい。ほとんど最低限の会話しかなく、それすらも俺の問いかけに首を振って答えるだけだ。

「……」
「口でも聞けなくなったのか」

 もしかして今朝のメールも大したことあったのか。本当はものすごく重大なからだの不調を抱えていて、それで俺を呼びつけたのかと顔を顰めたら、むすっとした表情のまま、しゃべれる、とだけ返された。
 いや、それ喋れても喋らないなら意味ねぇじゃんか。けれど、スペインはそれにはもう答えなかった。
 キャビンアテンダントが持ってくる飲み物にも手をつけないで、ひたすら黙り込んでいる。常にないその態度にどうすれば良いのかもわからなくて俺も俯いた。
 喋らない代わりにキスはやたらと多かった。俺の呼びかけにはほとんど口づけで返される。頬に額に髪の毛に。手持ち無沙汰になって手遊びをしていたら、手のひらを取られて指先にも唇が落ちてきた。
 ふっと近づいてくる吐息の温度。耳にかかる俺よりも少しだけ高い熱、その生ぬるい人間の温かさに意味もなく安心する。本当なら何すんだって怒鳴りつけてやりたいのに、一言も拒絶は出てこなかった。それどころか大人しくされるがままで座席に身を預けて妙にリラックスしてしまう。それがまた気に食わない。
 だけど、静かに口づけて離れていく時の伏し目がちなスペインのその顔が、嫌いじゃなかった。機内の照明に照らされたみどりの目に、まぶたの影が落ちて大人びて見える。ただでさえうるさいのに、その言葉よりも更におしゃべりな瞳が黙ってしまうと、まるでおかしな気持ちになった。それは、セックスの最中に必ず感じるものと同じだ。
 気恥ずかしくって目を合わせられないのに、視線を逸らしてしまうのはもったいない。
 他の乗客もいる機内だ。何をされているわけでもない。ただ隙を見て俺のからだのそこかしこに唇がふれていくだけ。吸い付くわけでもなければ官能的な意味合いなんて全くないような、ただのスキンシップと変わらないキス、それだけが、やたら恥ずかしくて堪らない気持ちにさせていく。
 そろり、手のひらを握りしめたままの指先がなぞる。くすぐったさに身を捩るが、つつ、とやけにゆっくり動かされて力が抜けていく。
 多くを語らない瞳がなおさらに熱を煽る。ただ一点、俺のことしか見てないような若葉色の瞳が、射抜くような強さで俺を縫い止めた。
 冷静になればきっと恥ずかしくて悶えるだろうこともポロポロと思いついた。詩人にでもなったみたいだ。
 正直、久しぶりに会ったのもあって浮かされていた。白昼堂々、俺の頭を塗り潰していく感情は、健全な青空には不適切な気もしたが、その後ろ暗さもきいたんだろう。スペインが俺にキスするのも、まあ飛行機の中ならちょっとぐらいってちょっと寛大になる。仕事で嫌なことがあったのかもしれないし、思いつきの一人遊びみたいなものかもしれない。時間帯のせいか機内にあまり人がいなかったのも良かったんだろう。
 ちょっと気が済むまで好きにさせてやろう。そう思って肩の力を抜いたら、今度は鼻の頭にキスされた。

 スペインに着いても周りの目も気にせずあちこち口付けられて、それはさすがにちょっと困った。
 しかも、飛行機にいた時よりも大胆になっている。情熱の国ではそんなこと誰もきにしないって? さすがにちゅっちゅっと纏わり付かれて歩くのは注目を集めるっての。これが男女なら、まあそんなおかしなことでもないのかもしれないけれど。あと、空港は観光客も多いから、そういうのに慣れていない者には指をさされて驚かれた。
 本当なら殴って蹴って何すんだって怒鳴りつけるところなんだけど、睨んでも怒ってもキスを増やされるだけで全然効果がないので搭乗口を出たあたりで何かを言うのは諦めた。反論されないのに一人で怒鳴ってるのってすげー恥ずかしいし。
 これはもうさっさとスペインの家に行ってしまうに限る。今度は俺がスペインの手を引いて早足で空港を出る。出口ですぐにタクシーを捕まえた。その頃にはスペインは俺の背中からのしかかって肩に腕を回し背後から抱きつく態勢になっていて、キスだけではなくうなじのあたりをスンスン匂いを嗅がれたり、髪を恋人同士がするみたいに撫でられたり……、首筋を舐められたりしていたんだけど、運転手には悪いが、まあ公衆の面前でされるよりはましだろう。嫌だったら早く目的地まで送り届けてくれ。
 家の前に着いてスペインの財布から金を払っている間もスペインは俺から離れなかった。男に抱き締められているとか、恋人からのハグとか、そういう感覚はその頃にはもうなくなっていて大きな犬にのしかかられているか、せいぜい息子が母親に甘えているみたいだなんて思うようになっていた。
 釣りはいらないってちょっと多めにチップを渡したら(人の金だし)、運転手は何とも形容し難い微妙な表情で車を走らせて行った。帰ったら同僚に何て言われるんだろうな。
 遠い目でその車体を見送っていたら、スペインが俺の腕さえ閉じ込めるように肩の上からきつく抱きしめてくる。圧迫するかのようなその腕に呼吸も辛くなったが、無理やり引きずるように歩きだして何とか玄関へと侵入する。ようやく他人の目が気にならないところまで来た。よくやった、俺!
 はあっとため息を吐くとスペインの腕が僅かに強ばる。俺はもう、今日一日の違和感に気づいていた。

「何かあったのかよ」

 けれど、スペインが何かあったと言うことは決してない。俺が聞けば聞くほど駄々をこねる子どものように意固地になって、むすっとした顔でぎゅうぎゅう抱きついてくるのだ。
 スペインが他でどうしているのかは知らない。もしかしたら、俺以外にはペラペラ、嫌なことがあったと悩みがあるのだと言って、酒でも飲みながら愚痴っているのかもしれない。
 けれど、とりあえず俺には。こういうわかりにくい甘え方しかできないのだ。わかりにくくて、どうしたかと聞いても絶対に答えなくて、言葉が溢れそうになるから不自然なほど静かになって。
 確かに俺も上手くはないから人のことは言えないんだけど、まだあからさまに下手な分、マシなんじゃないかって思ってしまう。こんな、わかりにくくて、弱っていることすら悟らせずに甘えてくる面倒さはないはずだ。

「おまえってほんと、甘え方へたくそ」

 俺にだけは言われたくないと言う抗議なのか、回されていた腕の力が強くなる。けれど、だって、そうじゃないか。
 今日一日の行動を見返してみれば、そこかしこにサインはあった。それをスペインは気づいてほしかったのかどうなのか。

「……別に意地張らなくたって、お前はお前だろ」

 それで何が変わるわけでもない。無理せずもっと甘えてこいよって言ったつもりだけれど、果たして伝わっているんだろうか。
 これで見逃していたらこいつはどうするつもりだったんだろう。俺がメールに気がつかなかったら? 今日は会えないって返したら? けれど、そうなっても何だかんだで、俺はこいつに会ってスペインまで連れてこられて、こうやって、抱き締められていたんだろうなあ。
 そのわかりにくい甘え方をしてくる時の弱った、はどれぐらいなのかって気になっただけど、そんなことは俺たちにはどうでも良いことだったので、俺はようやく身を捩って彼の頬にキスをしたのだった。

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