だって君が好きだから!

 アントーニョ・ヘルナンデス・カリエドは、とある分野では名の知れた研究者で、若くしてこの大学の助教授になった。焦げ茶の癖っ毛はいつもボサボサであまり手入れはされておらず、くっきりと刻まれてとれない目の下の隈とヨレヨレのスーツの上から羽織った白衣がトレードマークの男だ。しかし、人当たりの良い性格のためか教授の人望は厚く、学生たちからも絶大な人気を誇っている。
 彼が院生時代に発表した論文が海外で注目を集め、一般受けのしないこの学科が色めき立ったのはもう四年も前になる。その頃のロヴィーノはまだ高校生で、工学部の中の将来性があって入りやすそうな学科を探しオープンキャンパスにせっせと足を運んでいた時期だった。
 そんなロヴィーノが、家族や友人から何をするところかを聞かれては面倒な説明をするはめになる、この先端バイオ学科という馴染みのない学科を選んだのはアントーニョに出会ってしまったからだ。
 忘れもしない高校二年の夏休み、大学のオープンキャンパス。説明会会場のイベントホールがどこにあるかを聞いた相手がアントーニョだった。自分もこれから向かうところだから一緒に行こうと言われた時は、親切な相手で助かったと感謝もしたのだが、五分も共にいれば声をかけたことすら後悔した。何せ移動中のアントーニョはロヴィーノが理解できなくても、呆気に取られていてもお構いなしで自身の研究内容を勝手に喋り、「面白そうやろ?! 君もぜひうちへおいで! 俺が面倒見たるよー」と笑っていたのだ。変なやつに捕まった。それが第一印象だった。
 しかし、説明会が始まるとその変なやつが舞台の壇上に立っていた。学生代表として前に立っているのは皆、各学科から選ばれた優秀な学生だろう。大学生らしい私服姿でマイクを持って話す姿は高校生から見ると大人っぽく見え、その中で明らかに身なりに気を遣っていない研究室から抜け出したそのままの白衣姿のアントーニョは浮いていた。
 浮いていたのは見た目だけではない。他の学生は、それぞれの学科の特色や学校生活について高校生向けに話しているのに、彼はロヴィーノに話したのと同じような専門用語だらけの、高校生には全く理解のできない論文を披露してくれた。会場にいる大多数の人間が興味なさそうにしているのに、そんな空気などどこ吹く風で、本人だけは非常に楽しそうに、研究が面白くてしょうがないのだと言うように喋っていて、そのマシンガントークは教授が「カリエド、その話は来週のゼミでお前の気の済むまで聞いてやるからもう黙ってくれ!」と音を上げるまで止まらなかった。時間にしてたっぷり十分。高校の授業より苦痛で退屈な時間だった。
 大学入学後も「あの説明会」でたいていの学生に通じるほど有名な話になったが、それでどうして入学を決めたのかと言われれば、勢いに呑まれたというのが正しい。ロヴィーノの同級生にはそんな人間が何人かいて、あれだけ楽しそうに話すぐらいだからと興味が湧いてしまったのだ。
 良くも悪くも影響力のある台風のようなアントーニョは研究にしか興味がない。朝一で研究室へと訪れれば寝ぼけ眼で「もう来たん? 早いなあ」と言いながら手洗い場で顔と、ついでに頭を洗う。気の利く事務所の女性にもらったらしいタオルを頭に巻き付けて、ポットの湯を沸かし買い溜めだか学生の買い置きだかのカップラーメンを漁りながら「何の用なーん? 授業の質問? テストのこと教えてほしいんやったら今日の実験手伝ってなー」と聞いてくる。この適度な緩さと研究にだけ全力投球なところが、男ばかりの理系学科では人気が出るのだろう。

 その助教授の授業が学会で休講になったために夕方には帰宅したロヴィーノは、久しぶりに一緒に暮らすフェリシアーノとキッチンに立って夕食を作った。今日の夕食はショートパスタのサラダと鮭のムニエル。どちらも兄弟の舌に合って美味い。
 一つ下の弟のフェリシアーノは同じ大学の経済学部に通っていて、最近はドイツ人と日本人の留学生と仲良くなったらしく、休日には三人で遊ぶのだと出かけては存分に大学生を謳歌している。もう二回生も終わりになるのに欠席した授業のノートを見せてもらえるような相手もいないロヴィーノとは大違いだ。

「なあ、カリエド先生ってどう思う?」

 世間話を装って、何でもないかのように尋ねた。
 フェリシアーノは味見と称してショートパスタを頬張りかけ、ぴたりとその手を止めた。ロヴィーノの意図が図りきれなかったのか小首を傾げる。

「カリエド先生? 良い先生だよねー兄ちゃんも憧れの人でしょ?」
「う、ん……憧れっつうか」
「来年からゼミだって喜んでたじゃん」
「いや、まあ、そうなんだけど。そういうのじゃなくて。ちょっとこう、近いっつーか」
「ヴェ、あー確かにハグとか頭撫でるとか、スキンシップは激しいよね」

 俺でもびっくりしちゃった、と続けてにこっと笑う。

「子どもが好きなのかなあ。ちょっと大学生にすることじゃないもんね」
「そうだな」

 問題は子どもにするとかしないとか、そんな可愛らしい次元じゃないことだ。彼のすることは少しばかりスキンシップの域を超えている。

「なんつーかこう、手付きがやらしいっつうか」

 目を丸くしたフェリシアーノがロヴィーノを見返した。意味がよくわからないと言わんばかりの表情だ。

「手付き?」
「いや、その……カリエド先生が」
「なにって?」
「……セクハラっぽくねぇか?」

 さっきまでフェリシアーノがずっと喋っていて賑やかだったキッチンに一瞬、沈黙が訪れてロヴィーノはひどく居たたまれない気持ちになった。確かに男が男にセクハラと言うのも変な話だが、これが可愛い女の子だったらちょっとした問題になっているかもしれない程度には、彼はいつも際どいふれ方をしてくる。

「またまたー! 兄ちゃんってば面白いなあ」

 しかし、そう言うロヴィーノに対して、フェリシアーノは、あはは、と笑い飛ばした。

「カリエド先生に限って絶対ないよー! あの先生、研究のこと以外に興味がないんだって噂なんだから」

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