青年は彼の箱庭で踊り続ける

 スペインから告白をされたのはずいぶん前のことだ。もう何年経ったのかもよく覚えていない。よく晴れた春先のある日、いつになく真剣な声で誘い出されて会いに行ったら、笑い飛ばせないぐらい真面目な顔で声で、恋人になってくれと言われた。強い眼差しがロマーノを捉え、今にも食らおうとしているかのようにギラギラとかがやいているのがこわかった。
 そもそも、スペインはロマーノの前でそんなそぶりを見せたことがなかった。今までに恋人がいたのか、どういう人がタイプなのか、そんなことすら知らない。一度も恋愛に関わる話をしたことがないように思う。
 だからこそ、スペインに好きと言われた時、真っ先に思ったのは「こいつも普通の男なんだ」ということだった。当たり前に恋をしたり気持ちがあふれたりする、そういう男なんだということに、その時はじめて気がついた。
 普段よりも饒舌にロマーノへの愛を語るスペインの言葉が上滑りして耳に入ってこない。それほど動揺していた。

「……えーと、何か言ってや」

 困ったように笑われてハッとした。けれど、スペインの目は強いままでいつもの表情とは全然違うものだった。
 ただただ驚き、何と答えて良いのかもわからず困惑しているロマーノに、スペインは脈がないと察したようだった。真面目な顔をくしゃっと歪め、見ているほうが苦しくなるような笑顔をつくった。

「はは、こんなん言われても困るやんな。お前にとって俺は親分なんやし、女の子が好きやもんな……ごめんなあ、でももうあかんなって思ってん。ロマーノ、俺しか見えてへんし、何でも信じるし。もう、そういう目で見られるのきつい」

 彼がその時、どういう意図を持ってそう言ったのかは未だにロマーノにはわからない。そういう目、がどういったものを指しているかも自覚していないし、どう辛かったのかは一生理解することはないのだろう。ただ、いつもの調子を作ろうとして低く掠れる声から、彼が耐えてきたものの重さをうかがい知ることはできた。

「スペイン……その、」
「距離を置こう」

 力なく笑う姿にわけもなく焦る。頭の中は混乱しきっていて、わけがわからない状態なのに、あまりの展開についていけなかった。ただ、心臓が嫌な感じできしみ、こめかみが鋭く痛んだ。

「言ってしまった以上、もう元には戻られへんやろうけど、俺もなるべく忘れるように努力するわ。勝手でごめんな……せやから、しばらくは」
「な、なんでだよ! そんなことする必要なんてないだろ」
「そんなことって……」
「俺は気にしないし、今まで通りで良いじゃねぇか。これまでそれでやってこれたのに」

 とにかく引き止めなければと思って言い募れば、スペインの顔からみるみる表情が失われていった。人が絶望に染まる時、きっとこういう顔をするのだろう。ロマーノもつられて言葉を失った。
 なんで、どうして。大海に放り出された迷子のように、何度も繰り返す。こういう右も左もわからなくなって、誰かに助けを求める時、ロマーノが頼れる誰かはスペインしかいないのに。
 しばらくはそうして二人、向かい合って立ち尽くしていたが、不意にスペインが「残酷なことを言いよるなあ……」とつぶやいた。それはもしかすると、本当にロマーノには聞かせるつもりのなかったひとり言だったのかもしれない。

「俺がムリやわ」
「ムリって……なんで」
「ロマーノとは近すぎるから、ずっとそばにおったらいつまで経っても踏ん切りつかへんやん」

 感情を抑えた平坦な声はやけにゆったりと響いていて、スペインが何かに耐えているのだと知れた。苦く笑みを作ろうとして失敗したスペインの顔は、口端を無理やり歪めただけで瞳はうつろなものになっていて、その顔は張り付けた仮面のようなある種のおそろしさを覚えた。それに恐怖し喉の奥で悲鳴を漏らせば、さらに痛々しい表情になって、「ほら、もう取り繕うのもできへんで」と唸る。
 信じられなかった。一体、いつから? ロマーノが見てきたスペインの内、どこからが目の前のスペインで、どこまでが絶対的な親分だったのだろう。
 だって、彼はロマーノにとってずっと『大人』だったのだ。父のようで年の離れた兄のような存在で、悪いことをすれば叱られるし、良いことをすれば褒めてくれる、良き道をずっと示し続けてくる導き手だ。
 例えば、どれだけ絶望して眠りについた夜も次の日には必ず大地を照らす太陽のように、あるいは北の空から決して動かぬ星のように。それは揺るぎないものとしてロマーノに寄り添うものだと、ずっと信じていた。そうだと思っていたからこそ、イタリア・ロマーノを名乗り、堂々と独立した国をやれているのだから。
 スペインの手もとを離れて暮らすようになってからも、弟とは何度も衝突をしている。原因はたいていいつもスペインのことで、ヴェネチアーノいわくは

「何かあった時にスペイン兄ちゃんの意見を聞きすぎてて、兄ちゃんの考えなんかちっともないじゃんか!」

 と、それが気に入らないのだと何度も怒られた。
 けれど、ロマーノにはどれがスペインの影響で、どれが本来自分が持っていたものだったかもわからない。いろんな絵の具を混ぜ合わせ混沌とした、その淀みこそがロマーノとも言えた。むしろ、この世の何ものにもスペインとロマーノを切り分けることなんてできやしないだろう。育ての親のスペイン本人にすら、だ。それほどまでに、ロマーノの中でスペインの存在は大きなものだ。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、いろいろな感情が渦巻いていた。ロマーノ自身ですらスペインをどうしたいのかなんてわからない。突然、明日からイタリアをやめろと言われたぐらいの衝撃だった。同時に混乱しきった思考は支離滅裂な感情を引っ張り出しては、しっちゃかめっちゃかになっている。

 そんなこと言ったって踏ん切りついたらどうなるんだ、俺はどうなっちまうんだ、これまで通りでいられないのか、いやだいやだ、捨てないで、裏切りやがった、いやだ、たすけて、くるしい、いやだ いやだ……!

 ぐるぐると回る言葉と掴みどころのない感情に呑まれて、一瞬、視界が真っ白になる。その衝動を人は激情と呼んだが、ロマーノは知らないことだった。
 ただ大海にボートだけで放り出されたかのような、あるいは星のひかりもない夜道を歩いているかのような、そういう類いのひどく頼りない思いに足下が竦んだ。目の前が平衡感覚を失ってぐるぐると回っている。だって、ロマーノの世界は崩壊しかかっているのだ。振り落とされないように必死だった。
 それでも、目の前には白い糸が一本だけ垂らされている。それは本当に人ひとり分を助けられるほどのものなのだろうか。後ろには誰もいない。いないのだと思っていた。この地獄にはロマーノただ一人だけなのだと、そう思っていた。
 早く何か答えなければと気ばかりが急いて言葉を探す。呆れられてしまわないよう、捨てられないよう。掴まなければ縋らなければ。このままでは、太陽のない世界に取り残されてしまう。無邪気な子どもは必死だった。その分、どこまでも残酷で痛々しい。
 そうして、感情の許容量を超えたロマーノは突如、わっと泣きじゃくった。ずっと黙りこくっていたかと思えば今度は子どもに返ったかのように声を上げて泣き喚き、しゃくり上げだす。今度はスペインが驚く側だ。

「なんでだ! スペインの裏切り者! 許さない、やだ、離れるな、ここにいろ! 許さない!」

 たどたどしい言葉でスペインを責め立て、それでもそばにいろと訴える。それはもはや子どもの癇癪でしかない。いいや、ロマーノが本当に子どもだった頃ですら、ここまではしなかった。周囲をはばからず喚き散らし暴れる姿は、もっとやわらかくこわれそうな何かだった。
 その時、自分が何と言ったかをロマーノは覚えていない。とにかく衝動のままに言葉をぶつけ続けたが、泣けば泣くほど、言葉を紡げば紡ぐほど意識が白く塗り潰されていって、ほとんど正気の状態ではなかったからだ。けれど、相当ひどいことを言ったのだろうとは思っている。気がつけば、一度もロマーノの前で涙を見せたことのないスペインが静かに泣いていたからだ。

「ごめん、ごめんな……ごめん、ロマーノ」

 そう言って手を強く握りしめてくれた。それでようやく嵐は収まった。
 スペインは何度も、ごめんと繰り返した。それが何を意味するものかはわからなかったが、泣きすぎて重い頭を無理やりに起こしてスペインに抱きついた。もう離れるなと念を押せば、薄暗い瞳をしたスペインが、そうやな、とだけ言った。
 告白をしてきた相手に何という仕打ちだろう。けれど、スペインはそれを承諾した。だから、告白されてからも二人はそれまで通りの親分と子分だ。
 スペインは二人きりになると、相変わらず仮面の表情をしている。目だけうつろで、変化することのない顔だ。それが少しばかりこわかったが、時おりロマーノからキスをすると昔のスペインの顔に戻るので、どうしても嫌なときは唇を重ねていた。そういう時、スペインの手はロマーノの肩を抱こうとして宙を泳ぐ。けれど、決してふれてはこないのだ。それがおそらく、最後の砦だった。
 ロマーノがスペインを責め立てながら泣き喚いたあの時から、ずっと二人は迷子だ。二人でいる限りスペインは満たされないし、そうと知ってそばにいるしかないロマーノは罪悪感に苛まれ続けるしかない。しかし、スペインだけが知っている。スペインのせいで動じ、苦しみ、追い詰められたロマーノがあの日、泣きじゃくりながら「助けろ、スペイン」と叫んだことを。
 彼はずっとこの箱庭にいる。そうして、間違いなくスペインのものだった。

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