落日

 古い肖像画を農作業で硬くなった指で示し、これは椿があるから冬(ロマーノが初めてうちへきたときのやつ)、こちらは火祭りだから夏(ロマーノが出てった後に描かせたん)、と目を細めながら順に説明していたスペインが、うっひょおお! やっぱロマーノかわええ楽園やんなあ! とかなんとか言ってゴロゴロ転がり出した。床、なのに。かわいそうな奴だと一瞥したが、そんな俺の目なんか気にも留めずに、元親分は何が楽しいのかにこにこと笑っている。今更なのかもしれない。こいつの少しおかしな反応にも多少は慣れてきた。
 問題は、その思い出の中に俺もいたはずなのに、曖昧な記憶しかないことだ。俺は絵画に描かれた季節すら知らないらしい。そんなこともあったか、と首を傾げて並べられた絵を見る。
 写真とは違い、どうとでも表現できるそれは、たぶんスペインの趣味なのだろう、やたら耽美に描かれている。黒く束になった濃い睫毛が、ばさばさと音を立てて上下するまさにその瞬間、といった表情を捉えた絵は全て俺の姿なのだと言う。やけに陰影のある石膏みたいな肌の表現がスペイン的ではある。変態かよ、ちくしょう。

「ロマーノおらんようになって寂しいから、めっちゃ綺麗に描いてもろたんに、この絵、あんま好きやないんよ」
「俺のせいか」
「ちゃうよー!でもこんなに綺麗でも、本物にはかなわんってことやね」

 そう言ったスペインの顔は笑顔でも悲観している風でもなかった。ただ無感動に呟いただけ。
 太陽みたいなこいつは、春先を嫌っていた。無理もない。俺があいつの庇護を手放すことを決めた日だ。
 当時、スペインは激しく怒っていた。俺だって、こいつのことが怖いと思っていた。気まずくて会わないまま、それなりの時間が過ぎてしまった。時の流れが、あの激しい感情すらも昇華してしまう。いつから二人きりで、こんなに平然と語れるようになったのだろう。
 独立した時のことがただの思い出話になっていく。あんなに反対していたスペインですら認めてくれるようになった。振り返れば記憶が薄くなっていく。

 少し、昔話をしよう。

 その話は俺には何も知らされずに進められていた。当時、弟がどのような動きをしていたかも知らなければ、それに対抗して動いていたスペインの策にも気付いていなかった。
 今になって振り返ったスペインが言うには、

「フランスのこともあるし、めっちゃ大変やったのに、いきなりイタちゃんが後ろに立っとってなあ。剣を突きつけててん」

 とのことだったが、俺は事の顛末を数十年と知らなかったので、実際のところがどうだったかなんてわからない。つまり、自分の独立ですら全部蚊帳の外だったんだ。
 まるで他人事のようだけれど一つ言い訳をするなら、少し大人になりかけた頃——堂々とスカートを履けなくなったぐらいだ——、俺は政治とか争いとかからは隔絶された、穏やかな田園都市で過ごしていたのだ。
 その町で俺が関わった人々は、みな政治のことや外国のことに不自然なほど興味がなく、誰が統治しようと税金の負担がどう変わろうと世間話にすら上らない、そういうところだった。
 田舎に住んでのんびりできたら楽園やんなあ、は俺と出会った頃からのスペインの口癖であったし、首都から離れたその町に家を買ったのだと嬉々として告げたスペインに、当時は何の疑問も沸かなかった。

「今日からロマーノはここで暮らすんやで」
「お前は?」
「俺ももちろん一緒やで。仕事ない時はこっちおるよ」
「……そんなの、ほとんどないんじゃねぇのか?」

 ちょっとバカンスに海にでも行こう、ぐらいの軽いノリで連れてこられたその町は、自然が多くて、ただそれしかない。あいつの家にいた子分達とやらもほとんど独立してしまったというのに、二人で暮らすには広すぎる屋敷と広大な畑が用意されていた。二週間ほど滞在する、と言うのなら楽しい休暇を過ごせそうだが、到底、政を執り行えそうにはない田舎町である。

「まあ、城でしかできんことがある時はあっちに帰るけど……、ロマももう大人やし一人でも平気やろ」
「おう、当たり前だ。むしろいないほうがせいせいするぜ」

 当たり前だがスペインは毎日忙しくて、滅多にその町には姿を見せることがなかった。一年の殆どを首都に構えた別邸で過ごし(別邸っていうか、そっちが本宅じゃねえの)、王宮に上がって内部の権力闘争を横目に戦争したり外交したりするような、それまでと変わらないような日々を送っていた。その頃には俺も一人で家事やトマトの世話ができるようになっていたので、あいつがいなくても特別困ることはなかった。
 スペインに会えるのは、あいつが気まぐれのように休暇を取って街へやって来るごく短い間だけだった。たいていは夏だ。それこそバカンスのように、ただ一緒に農作業をしたり、湖や山へ行って遊んだりして、仕事と言えばせいぜい手紙のやりとりをするぐらい。

「いい子にしとった?」
「当たり前だろ」
「ちょっと、大きなったんちゃう?」

 たまに会えば、いつもそんな話になった。その度に返すチビの頃からお決まりの台詞も、いよいよ現実的なものになる程度には、俺の背は伸びていた。

「その内お前を追い抜かしてやるぜ」

 以前なら手放しで喜んでくれた言葉にも、目を細めて曖昧な視線を投げかけてくる。奴の内心なんて俺には想像もできなかった。きっとこれからも理解する日は永遠にこないのだろう。あの頃のあいつがどんな想いで俺の成長を見つめていたかなんて。
 スペインは一緒にいる間は以前とさほど変わりなく振る舞っていたが、再び首都へと戻るべく出立する日の朝はいつだって恐いぐらいに真剣な顔で、町で大人しくしていろだとか、知らない人には関わるなだとかを、しつこく言い聞かせていった。
 そんなに心配なら一緒にいろよ、なんて、素直な言葉は終ぞ告げられなかった。

 何十年と他の国に会ってないことに気づいた時には全てが手遅れだった。

 その時には平和な町に兵士が駐在するようになっていて、スペインはいつも恐い顔をしていた。
 あいつは殆ど無理矢理みたいに新しい約束を言いつけていく。

「町から出たあかんで」
「手紙なんかいらんやろ? 俺以外に書く必要あるか?」
「夜は外歩くなや」
「家の中の人としか、話したらあかん」

 俺の自由は全くと言っていいほどなくなっていった。この町で与えられていた仕事は全部取り上げられ、トマト畑の世話すらできなくなって、一日中を家で過ごすようになった頃には、スペインから送られてくる手紙がいよいよ悲壮なものになっていった。

 これはおかしいと、異常だと悟ったのは幽閉されてから。

 監視のように使用人でもない軍人ばかりが増えて、俺は自室から動けなくなった。自室と言ってもスペインと一緒に暮らしていた頃に与えられていたようなものではなく、ベッドと書棚と僅かな服のみしかない簡素な部屋だ。書棚にはスペインが選んだ本だけが並んでいる。服もスペインが買い与えたものだ。俺の趣味には合わなかったが、誰に見せるものでもなかったから文句を言うのはやめておいた。言ったところで、どうしようもなかったのもある。
 怠け者の俺は何もしなくていい状態をさほど苦には思わなかったが、毎日やることもないのはさすがに退屈で仕方なかった。だって、ベッドで寝ることぐらいしかできないんだ。本があったところで、その品揃えはさほど代わり映えしない。いつも同じような題名が並んでいて、同じようなことを言っている。いくら何でも飽きてくる。
 たまにやって来るスペインを迎える時ですら、俺が部屋から一歩も出ることはなかった。ベッドで寝そべって、スペインが部屋まで来るのを待っている。宗主国を出迎えもしない俺を、咎める者はもちろん誰もいない。この家の規律を作っているスペインがそうさせているのだから、何らおかしなことではないのだろう。
 あいつは、いつも、情勢が危ういから俺を守るためにと必要なのだと言っていた。そのわりに日に当たらず白くなった俺の、家事も農作業もしないせいで痩せた腕を見る度に、あからさまに安堵した表情を浮かべ笑う。力が入らなくなってきた脚に頬ずりをして、うっとりと微笑む姿に尋常ではない何かを感じていたが、指摘することは憚られた。
 もうその頃には何が起きているかはわからなくても、俺が力をつけないために閉じ込められているのだと言うことには気付いていたから。

「退屈やったやろ?」
「別に……、掃除しなくていいのはいい。シエスタし放題だし」
「はは、ロマーノらしい」

 ベッドに押し倒されて、体のあちこちを探るように撫でられる。ひと通り確認しながら、細いなあとか筋肉つけなあかんでとか、無茶苦茶なことを言ってのける。それに顔を顰めて返事をしないでいたら、恍惚とした表情を浮かべながらスペインが言った。

「ちゃんと大人しくしとったんやね」

 昏い瞳、感情の読めない態度。ただ、俺を束縛できているかを確認するためだけに顔を見せるスペイン。

「なあ、お前……おかしいんじゃないのか?」
「なにが?なにがおかしいん?」
「だって、こんな」

 眉を顰めて、けれど言葉は最後まで紡ぐことはなかった。スペインが俺の唇に指を当て、無言の笑顔で黙るように圧力をかけたからだ。
 昔は明るくて太陽みたいな奴だったのに、まるで支配者の傲慢さで俺を縛りつけている。目の前のこの男もまたスペインなのだ。
 脳天気に見えていたスペインは実に巧妙に、そうしてごく自然に、俺が知恵を持たぬよう独立を望まぬよう、のどかな田舎町に閉じ込め時を止めた。あいつのやり方は正解だったのだろう。実際に俺は何も知らず、ただ平穏を享受していたのだから。十年とその状態が続けば、もう諦めもつき始めていた。俺はこのまま外へは出れないのかも知れない。けれど、それも仕方のないことだ。
 俺は覚悟をしていた。どこにも行けないと言う覚悟だ。

 ヴェネチアーノが家にやって来たのは、そんな身動きが全くとれず途方に暮れていた頃だった。

「兄ちゃん…兄ちゃんいる?」

 窓枠の下から声をかけられて、読み飽きた本から顔を上げる。何せ新しく発行された本も手に入らないので古典を読むぐらいしかすることがない。俺の居室は二階の一番奥の廊下にあって、部屋を出るための扉は厳重に警戒されている。室内には一つだけ窓があったが、顔も出せないよう開けられる角度は制限されているため、風を取り入れるための僅かな隙間から無理やり下を覗き込んだ。

「ヴェネチアーノ」

 窓の下には弟の姿があった。見覚えのある中年の兵士に付き添われて、物々しい雰囲気だ。

「兄ちゃん、マドリードにいてるって聞いたけど」
「引っ越した時に手紙は出したぞ」
「届いてないよ」

 普段はのんびりとしている弟が声を極限まで潜めて、早口で捲くし立てる。確かに俺が出した手紙は、こちらへと越してきた頃に出したもので、もう何十年も前の話だ。

「……そうか、随分前から計画されていたってことか」

 何もかも、少なくともここへ来た時には既に閉じ込めるつもりだったのか、と察してため息を吐き出した。

「俺、何回も兄ちゃんに会わせてって言ってるけど、全然聞いてもらえないの。……スペイン兄ちゃんだけじゃない。神聖ローマと、ううん、オーストリアさんとフランス兄ちゃんも反対してる」
「何かあったのか」

 自然、眉間に皺が寄る。あのオーストリアとフランスが同じ意見を取るなんてことはあまり考えられないが、俺がこうしてスペインに閉じ込められているのだ。何か「イタリア」に対する思惑があるのだろう。
 俺はずっと大人しくしていた。ここへ来る前もだ。内側で小競り合いがあったとは言え、あいつらにとやかく言われるような事は何もなかった。考えられるのは、つまり目の前にいる弟しかいない。
 久しぶりに会ったヴェネチアーノは、記憶より随分と大人びたと思う。背も伸びたし、何より女物のエプロンドレスを着せられていた頃より、ずっと肩幅が広くなって男らしくなった。声も青年期に差し掛かった不安定さはあるものの、確実に低くなっていて、もう女の格好をしたって悪い冗談にしかならないだろう。そんなことを今更知るほど、長いこと会っていなかった。

「詳しくは話せない。今も見つかったら危ないし、すぐに帰らなきゃいけないんだ」

 そうしてヴェネチアーノが何かを投げた。へたれなあいつにしては奇跡的に、僅かな窓の隙間から部屋へ入ってくる。ふかふかの絨毯に音もなく落ちて転がっていった。

「お、おい」
「それ読んで。お願い、兄ちゃん。世界は変わっているの」

 数十年ぶりの邂逅だというのに、全くそれに浸る暇すらなく言いたいことだけ言うヴェネチアーノ。隣に付き添っていた男が外を見回し、ヴェネチアーノの肩を支えて何やら耳打ちしている。目をこらして見れば、やはりスペインのお気に入りの部下だった。十年ほど前から午後のシエスタを担当している見張りで、この十年の間ずっと忠実に任務をこなしていた。
 弟はそれに頷いて神妙な顔をした。

「もう行かなきゃ」

 ばいばい、愛している、とだけ残し早足で去っていく。それを呼び止めることもできなくて、言いたい事はあったのに、裏庭の林へと向かう二人をただ見送った。
 いつまでも窓に張り付いているわけには行かない。この屋敷には監視役がたくさんいる。怪しまれない内に床へと視線を移せば、先ほど投げ込まれたものが手紙を括りつけた木片だと気付いた。事態は呑み込めなかったが、近年の異常な状態から、大っぴらにしてはいけないということだけはわかり、夜まで待ってベッドの中で開いた。
 木片には二枚の便箋が括り付けられていた。一枚目の便箋には、現在の世界情勢と俺たちの置かれている状況が淡々と書き連ねられている。

 革命がおこった国のこと、北イタリアが統一した、自由主義の運動が盛んで(自由主義、も知らない)、教会の不正——文面も字体も子どものものとは明らかに違い、公務をこなしている者の真剣さが現れていた。山奥に暮らす世捨て人のような状態の俺だ。内容はどれもにわかには信じがたい。

(嘘、だ)

 どれもこれも、信じられないような、まるで夢物語のように突飛なことばかりだった。
 王が倒され新しい思想が生まれ、国民が国会を開いて政治する。俺が知らない間に、世界のパワーバランスは取って代わっていた。
 急激過ぎる、だが時代は加速度的に変化を進めている。ヴェネチアーノは頼りない、でも嘘はつかない。
 期待が募った。弟が独立した。それがどれ程、甘美で恐ろしいことか。

(俺たちも?)

 俺たちも一つになるのだろうか。きっと国としては、そのほうがいい。けれど、そうすれば俺たちは、いいや俺は一体どうなるのだろうか。
 イタリアという国は弟になるのだと思う。自分は、消えてしまうのだろうか。
 そんな不安も過ったが、スペインに囲われ閉じ込められている状態を、果たして生きていると言えるのかは、怪しかった。

(消えていなくたって、死んでいる)

 二枚目には、ヴェネチアーノとスペインと、俺の事が書いてあった。言葉に悩んで、何度も書き直したような、それでいて纏まりきらない、割り切れない感情が溢れてくる。いかにイタリアが会う事を許されていないかを切々と語り、手紙をたくさん書いたこと、その全てが恐らくスペインに握りつぶされているだろうという弟の考え(まあ、当たっているけど)、俺の状況を幽閉と呼ぶこと。そして……、義勇軍だけで南下する計画。
 協力の要請が書き連ねられている。統一しようと、明確な意志をもった誘い。最後は唯一の家族への愛の言葉で締められていた。一気に流し込んだ情報が処理しきれない。俺はベッドの中で丸くなり、ただ呆然となった。声を失くして、遠く高い窓から見える月を映す。でもこの手で何を成せるかと言えば、何もなくて、ただ自分の肩を抱いた。
 スペインとは何ヶ月も会っていない。

 その日、ベッドの中で夢を見た。ふわふわと取り留めなく思い出が溢れ出てくる。

 それはスペインの誕生日の前夜だった。あいつの誕生日はいつも寒い季節で、雪が降ることも多かった。翌日は式典があるからと引き離されて寝たのだが、寒ぃんだよちくしょうが、と悪態をついて深夜の冷えた廊下を歩き、こっそりベッドに潜りこんだ。朝になって窓の外が一面真っ白になっていて、ついでにスペインも真っ白な顔で、いつの間にか潜り込んでいる俺に対して、こんな寒いのに夜中出歩くんじゃないと叱った。ああ、そうだ。なんでそんなに怒るんだと泣いて、せっかく一番に祝いの言葉をかけるつもりだったのにとぐずったんだった。それをスペインが黙って聞いていて、そうして、柔らかく抱きしめてくれた。怒って悪かったと、嬉しいと言って、結局あいつの誕生日に二人して泣いたんだっけ。

 トルコとの防衛戦で傷ついたあいつを屋敷で待つのが辛かった。親分やから全然辛くないんやで、ロマーノが笑ってくれてたらそれでええねん、と途切れ途切れの息の間に零していく。そうやって下手くそな笑顔で俺の頭を撫でるあいつの傍にいることが辛かった。辛くて辛くて辛くて、なのに、そうだ、俺を守ろうなんて酔狂な奴が他にいないことも十分承知だったから、だから辛かったんだ。だって俺ですら俺自身を守れないんだ。熱い涙が頬を流れることを初めて知った。

 スペインは、大体いつも朗らかに笑っていて、辛いことがあっても燦々と明るいから、俺は本当に太陽だと思ってた。きっと、そのせいだろう。あいつは、やたら雨を嫌っていた。
 ああ、こんな雨の日はいやーなことばっか思い出すん、あいつの、神に背いた野蛮な子のせいで、ろまーの、ろま、どこや、俺のそばにおれ、あーあ頭痛いわあ。
 そう言って怠惰に一日過ごしていることもあった。俺を無理矢理引き寄せて抱き込み、酒を呷るあいつが、少し苦手だった。

 夏を愛していた。実りの季節、豊穣の色をしたみどりの瞳が一番透明に輝く。
 ほら、ロマーノ見てみぃ、大きなトマトができたんやで!これ、美味いわあ、やっぱロマーノは天才やんなあ。これ使て、パスタにしたらきっと美味いやろうなあ、と、そして笑う。きらきらと。

 全部、確かに俺の記憶だった。俺の中にあるスペインのことばかりだ。

 朝目が覚めても、スペインがいた。

「おはよう、ロマーノ」

 いつのまにこちらへやって来たのだろうか。心にやましいことがあるせいで、緊張してしまう。けれど、そんな俺の態度を少し傷ついた表情で見ていたスペインが、焦燥と疲労の色が濃い顔つきで、乞うみたいに頭を撫でた。
 いつも通りを装って、よう、とだけ挨拶すれば、少しばかり穏やかになった仕草で額にキスを送られる。久しぶりに抱き込まれて、力任せにぎゅうぎゅうと締め付けられた。

「泣いてたん?」

 目を細めて、全身で愛しいと伝えながら頬に触れるその手が、好きだった。その温もりだけがいつでも真実だ。不器用で何もできず、ただ愛想のない生意気なガキだった頃から与えられる唯一のてのひら。敵から守り、世間から守り、今もこうして俺自身の力すらを奪って守っている。それが間違っているか正しいかなんて、こいつにとっては関係なかった。俺が望んでも望まなくても、きっとこの先もどんな犠牲を払ったって、俺のことを守り続けるのだろう。

「悲しいことあった?」
「……ねぇよ」

 ちょっと、悪夢を見ただけだ。
 そう告げれば、そか、と頷いて、でも泣いてるよ、と抱きしめられる。お前が何時もいないからだ、と答えれば、これからはもっと傍におる、と、優しく頭を撫でてくる大きな手。大きかった手だ。今では俺と同じぐらいの、大人のてのひら。
 何も哀しいことなどなかった。
 忍び寄る落日の影に、冷えていく夜に、目眩がするほどの幸せな日々が帰らないことを漸く認めた。それだけのことだ。その日々を懐かしむ感傷が、悪夢のように暗闇から俺に手を伸ばす。弟、という家族を連れて。

 太陽は去った。夜はやってくる。その当たり前のことを、目を瞑らなければやり過ごせないほど、胸を大きな影が支配した。スペインの手が離れていく。

 その後もスペインが傍にいることはなかった。それをいいことに、俺は何も告げずに書き置きすら残さず家を出た。
 あのシエスタの時の見張りに頼んで弟に手紙を渡してもらい、俺を連れ出すように頼んだのだ。暫くして迎えに来た弟に連れられ、委ねるようについていった俺は海路でイタリアへと向かい、シチリアを通ってミラノへ辿り着いた。逃げて逃げて、逃げながら、それでも統一したことを弟も国民も喜んでいた。
 なぜか俺たちはどちらも消えずに残った。どちらもイタリアになったのだ。
 スペインは俺がいなくなったことにすぐに気が付いたらしく、何度も抗議が入った。弟を通じて告げられる言葉は、恐らく幾分か柔らかくして伝えられたのだろうが、それでも彼の激昂がわかってしまって会うことが怖かった。
 公式の場を避けて顔を合わせることもないよう、ひたすらのらりくらりとかわしていたが、さすがにそうもいかなくなって、会談しなければならなくなった時、数ヶ月ぶりに会ったあいつは烈火の如く許さないと叫んでいた(俺は許さない、絶対許さん、何時家を出てええって言うた?早く帰って来ぃや、じゃないとどうするかわからへん)。
 しかし、あいつの国の連中もけっこう切羽詰ってたおかげか、対外的にはわりとあっさりイタリアは認められた。たぶん、向こうもいろいろあったのだろう。
 もう、あいつ個人の意志で俺を支配することなんて決められなくなっていた。
 当時の激情に触れた彼の態度は恐ろしかったが、独立によるゴタゴタがスペインと会う気まずさを忘れさせるほどの忙しさを連れて来て、あっという間に数十年が過ぎた。

 そうして、今また、幼い頃を過ごした古い家に来ている。それだけの、記憶が思い出になってしまう時間を平気で過ごせてしまうことが、時々寂しい。

「俺、ロマーノにはさよならって言わんとこって思ってたん」

 その声音に、昔の、あの時、怒鳴っていたスペインの声を見つけてしまってひやりとする。国同士では正式に段階を踏んだとは言え、ごく個人的な話はつけず一方的に別れ、その後会わずに済んだのは幸いだったけれど、有耶無耶にしただけだ。
未だ二人の間では何の話もしていない。

「…悪かったな」

 この期に及んで当てつけか、と気まずさから睨み上げれば、ちゃうちゃうと笑って返される。真意がわからず、つい観察してしまったらしい。あんまり見詰めんといてと言われて我に返った。

「……その、」
「なんかな」

 沈黙に音を上げて口を開いたが、被せるようにスペインが笑う。困ったような、自分の感情を持て余した時の表情だ。俺が珍しく素直なことを言った時、奴の仲の良い友人たちに正論でもって言い聞かされた時、大体こんな顔で静かになる。

「なんか、一人置いてかれたからって、ロマーノが戻ってこんくなるわけとちゃうし」

 ただ、太陽が沈んだだけやったから。
 そう言って、古い絵に視線を落とす。俺もつられてじっと見詰めた。
 スペインが俺を無理やりに連れ戻さなかったのは、ただ余裕がないからだと思っていた。それこそ、あいつはその気になればオーストリアから俺を奪い返した時のように、力づくでもどうにかする男なのだ。

「ロマーノが変わったわけじゃない。俺が、変わってしまったみたいや」

 独立後に描かせたと言う絵の、斜陽の影が迫る頬を指で辿る。全ては昔のことだった。

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