AM10:00,Sunday

 窓に打ち付ける雨の音で目が覚めた。視線を動かす。ベッドだ。肩にふれているのはスペインの左腕で、腰に巻き付いているのは右腕。スペインの鼻がロマーノの頭頂部にぴったりとひっつけられていて、その穏やかな寝息に合わせて髪が揺れる。はたから見ていると寝苦しそうに思えるが、彼は何かに顔を埋めて眠る癖がある。さみしがりなのだろう。どこもかしこもをロマーノの体にふれさせておかないと気がすまないとでも言うかのように、いつも抱きついてきて離れない。下半身だって左腿は両膝に挟まれ、膝から下も絡まっていて。おかげで今何時かと時計を探そうにも身じろぎひとつで起こしてしまいそうだ。室内は暗いが、スペインの寝室は昼間でもシエスタができるよう分厚い遮光カーテンが引かれているのでアテにならない。ただ意識がはっきりしているから夜中ではないのだろう。そもそもロマーノがこの家に着いたのがほとんど深夜と呼んで差し支えのない時間だった。
 週末。不意にしばらく会っていなかったことに気づけば急に会いたくなって、居ても立ってもいられなかった。しばらく仕事を休む、と突然宣言したロマーノに、上司も弟も驚かなかった。そろそろだろうなあと思っていたんだ、などと生意気な口を利くのに辟易として上唇と下唇をきつくつまんでやったが、休暇を取り消すことはせずすぐに飛行機の手配をした。それを弟たちからどう思われるかすらどうでも良かった。ここのところのロマーノはらしくもなく、よく働いていたのだ。だからこれは正当な権利、有給休暇というやつだ。
 夏はどうしても観光客向けの仕事やフェスタの準備で慌ただしいのに、今年はバカンスのしわ寄せを前倒しで詰めようなどという殊勝な(そしてラテラーノらしからぬ)部下たちの采配で書類は山積み、そこに付け加えて世界会議だサミットだと、まるで空気を読まない予定を入れられて目が回る忙しさだった。そういった捌ききれない仕事をどうやって片付けるのかと言えば、結局のところ削れるものをギリギリまで切り詰めるしかない。つまり寝ない、休まない、遊ばない。普段ならば絶対にしないしできないようなスケジュールをこなしていたのは、少しおかしくなっていたせいかもしれない。スペインの声すら聞けていないことにも気づかないほどに。尋常ではない毎日だった。
 そっちに行く、と連絡したのは空港に着いてから。搭乗時間が迫っていたので返事も見ずに携帯の電源を落とした。断られるなんてハナから思っていない。傍若無人に振る舞っても許されると知っている甘え。疲れきっていて寝不足の思考回路は、そんな自分を客観的に見つめる余裕もなかった。その足で飛行機に乗り込んで、ナイトフライトの景色を楽しむ余裕もなく寝て過ごした。スペインに着いてからは電車を乗り継いだが、最終バスが出た後だったのでタクシーを使った。彼の家は郊外にあって、迎えに来てもらわなければ案外面倒なところにある。
 玄関の前に立つ頃には、そんな思いをしてまで来たのだから何が何でも絶対にセックスしてやる、と固く決意していた。今日は絶対ヤる、たとえスペインが仕事で疲れていたとしても知ったものか、と。そう勝手に決め込んで家の中に足を踏み入れたのだけれど。

「ちょ、ま……待ってって! ロマ、ん……あかんって!」
 玄関先で出迎えたスペインの首に腕を回して引き寄せてキスをした。いきなり舌を差し入れて口内を荒らすような口づけを求めたのに、ただの挨拶では済まされないと察したスペインに引き剥がされた。ちろり、と舐めることもできなかった。
「ぁにすんだよ……」
「いやっ、やって! 積極的なんは嬉しいけど、ほんまちょっと待ってや。今日何も用意してないし……」
「別にいらねぇ。そんなの良いから」
「良くないやろ」
「俺が良いって言ったら良いんだよ。その気がねーんなら勝手にヤるから」
 それで乗せられるなら良いと思っていたし、動かないなら宣言通り全部こちらでするつもりもあった。
 だいたいスペインだって強引に迫ってくることもある。そんな気もないのに乗せられて、うっかり情熱的にな一夜を過ごしたりするのに、それがロマーノから仕掛けた時は断れると思っているなんてずるい。ずるすぎる。自分ばっかり好き勝手して、いっつもお前の都合ばっかかよ、と疲れた脳内が妙なテンションで不満を溢れさせた。
「なあ……良いだろ?」
 スペインが右足を引く。下がった分だけ前につんのめった。スペインの体に寄りかかったまま唇を突き出すと、背後で扉が閉まる音がした。ガチャリ、鍵が落ちる音がする。挑発的に見えるようにすっと目を細めてやれば、目の前にある男らしい喉仏が上下に動いた。
「……はあ、もう。自分ばっか欲しがっているって思っているやろ」
 頭がぼうっとしていて言われたことの意味がわからず首を傾げた。そんなロマーノの反応に苦笑しながらも、スペインは腰を支えるように腕を回す。視線は絡み合ったまま、顔と顔が引き寄せられる。そのまま、ちゅ、と軽く音を立てて吸い付かれると、とろける心地に包まれてうっとりと彼のシャツを掴む。久しぶりだ。気持ち良い、気持ち良い。もっとほしくて、唇のやわらかさや自分とは違う体温をもっと感じていたくて、啄むようにじゃれついた。ちゅ、ちゅ、とわざとらしく音を立てながら唇を擦れ合わせ、表面の少し湿った感触に酔った。吸い付いては離れ、またすぐに引き合って、それを繰り返すうちにロマーノの肩に置かれていた手のひらが首の後へ移動していく。もう片方の手は背中のあたりをさまよい、夏物の薄手のシャツをごそごそと弄っている。忙しない手の動き、布地が擦れる音、甘ったるい鼻にかかった吐息、密着した時にだけ香る香水、スペインの体温。最後にこれを味わったのはもう三ヶ月も前だ。それを認識したらもう駄目だった。じりじりと背筋を這いずり回る焦燥に駆られ、衝動のままに唇を突き出す。踵が浮いた。腰を引き寄せられてたたらを踏む。と、次の瞬間には煽られはじめた熱ごと攫うように口が覆われて、は、と興奮で口を開いてしまう。すぐに差し入れられた舌が忙しなく動き回って口内を荒らしていく。いきなり舌と舌を絡ませて直接的な刺激を求めるのは彼らしくないやり方だ。体がずり下がっていく。
 いつもキスに前のめりなのはロマーノのほうだった。スペインは(内心がどうあれ、あくまで表向きは)それを悠々と受け止めて、互いの温度が揃うまでゆっくり焚き付けようとする。毎回焦れったくなるぐらい丁寧に、ひとつずつ手順を踏んでいく。それが今日ばかりは余裕がなくて、ロマーノを置いてけぼりにするような慌ただしさで体の中心に灯った未だささやかな熱を唆そうとする。
「……ん、ふ」
「は、ぁ……っふ、ン」
 だんだんと呼吸が苦しくなってくる。胸に手をついて突っ張ろうとするが、仰け反った分だけ覆い被さられてどんどん態勢が不安定になった。密着している胸や腰にも熱がこもって、それを意識すればするだけ興奮が募る。
 あっという間に息切れさせられたロマーノは肩を震わせた。その頃にはスペインの手はロマーノの首の後と腰にしっかりと添えられていて、逃すまいと力がこめられている。それほどまでに求められている、あのスペインが、そう思えば心臓が痛いぐらいに高鳴ったが、不安定な態勢で舌を絡め、唾液を流し込まれ続けては息苦しくて到底立っていられない。へなへなと力尽きるようにしゃがみ込んだ。それでもなおスペインは身を乗り出してロマーノの唇を求めたので、顔を背けて拒絶を表す。つい、ぎゅっと目を瞑ってしまったのは咄嗟のことで無意識の反応だったが、スペインがぴくりと動きを止めた。
「っは……ロマーノ」
 熱に浮かされて獰猛な眼差しを向けていたスペインが逡巡を見せ、何かを振り払うように頭を振った。次の瞬間には表情を変え、へたり込むロマーノを引き上げた。そのまま頬をすり合わせ、ち、ち、とリップ音を立てる。挨拶のキスだ。先ほどまでの濃厚さとは打って変わった空気がくすぐったくて思わず身を捩った。
「まずはおかえり、ロマーノ」ぎゅうっと抱きしめる腕は穏やかで、ロマーノの肩口に顎を当てている。「腹減ったやろ? 汗もかいてるし、空調で体が冷えている。まずはシャワー浴びて、ほんでメシにしよ」
 いつもの快活な声とは全然違う低くて囁くような声音に甘やかされる。耳元に吸い付く唇は優しくて、子どもの時に与えられたキスと似ていた。
「……ん、でも……」
「俺はここにおるし逃げへんで」
 それに、と続ける。
「こんなクマ作って、ほっぺもガサガサで、いかにも無理して来ましたって顔しているロマーノをまずは休ませたりたいんよ」
「あんなキスしたのに?」
「そこが俺の我慢弱いとこやなあ」
 あはは、と笑う声は空回り。一瞬妙な空気になるがそんなことを気にも止めないスペインは鷹揚に微笑んだ。
「せやから風呂入ってメシ食って、その後一緒のベッドに入ったら手ぇ出してまうかも」
「気が長ぇな」
「せやろ。三ヶ月も待てしてたんやからご褒美ちょうだい」
「ん……俺も」
 いつもなら噛み付くところでそうはせずに、むしろ素直な言葉を返したあたり、やっぱりロマーノは疲れ切っていたのだと思う。
「俺も今日は絶対ヤるつもりで来たんだ。抱いてくれなきゃ困る」
「ふはっ、あーあかん。おかしくなってまいそう」
 でも今はとりあえず風呂入っておいで。そう促されてシャワーを浴びたらスペインの言う通り、自覚していた以上に体が冷えていたのか温かな湯が心地よくて、それまで張り詰めていたものがほどけて緩むのがわかった。それで急にホッとして、ちょっとだけ泣いたことはスペインには言っていない。きっと言うこともないだろう。
 シャワーから出たらちょうど出来上がったばかりだと言うトマトのスープとパスタを振る舞われた。あまりにタイミングが良かったので、今になって思えばロマーノの連絡を受けて用意してくれていたのだろう。湯気の立ち上る食卓を見て初めて腹がぐうっと鳴るという経験もした。記憶にある限り初めてのことだった。
「俺、すげー腹が減ってるかも……」
「えっ?! 気づいてへんかったん?」
「飛行機の中で寝てたから……」
「あかん、異常事態や! ほらたくさん食べや。最近忙しそうやったけど、ちゃんと食ってたん?」
 そう言えばちゃんとした食事が久しぶりだったことに思い至り、また少し泣きそうになった。
 スペインはロマーノの愚痴とも自慢ともつかない、三ヶ月間の頑張った話を穏やかに聞いてくれた。ロマーノは褒めてほしかったのだけれど、スペインはあまり多くを言葉にしなかった。ただ一言、「よう頑張ったなあ」と言ってくれた。その瞳が誇らしげで少しさみしそうだったから、たぶんそれが全てだ。ロマーノもそれについては深く聞かなかった。
 食事の片付けも全部スペインに任せて、先にベッドに入っておくように言われて。彼の寝室は前回来た時とは違う金木犀の香りがした。洗剤かルームフレグランスを変えたのだろう。まさか誰かを連れ込んだなどと疑うまい。こんなに付き合わせて、あの愛おしさを詰め込んだ眼差しを見ておいて、ここに至って信じられないなんて口が裂けても言えない。
 携帯電話を切ったままだったことを思い出して電源を入れる。メッセージが三件きていた。一件目はスペイン、内容は了解と簡素なものでどうせロマーノが見ていないと思ったのだろう、余計な言葉は一切なかった。二件目は弟で、一週間休暇にしておくからゆっくりしておいで、と珍しく殊勝な言葉が書いてある。三件目は上司で、今回はよく頑張ったと労う言葉とともに来年からはもう少しスケジュールを考慮するとあった。何か思うところがあったのかもしれない。返事をする気力がなかったので明日に回してベッドに潜り込んだ。
 スペインのベッドは当たり前のようにスペインの匂いがする。香水ではない。彼自身の体臭だ。その匂いを嗅ぐのはベッドの中で、特にいやらしいことをしている時だと決まっているので反射的に体に熱が灯った。先ほど玄関先で交わしたキスを思い出して、カァっと顔が熱くなる。スペインはまだシャワーを浴びている。最近は自慰すらもご無沙汰だったから、溜まっている体は素直な反応を示している。一度中途半端に煽られたのも良くなかったし、疲れているせいもあるのだろう。妙に神経が高ぶっていた。うずうずと腰のあたりが重くなり、ぞわりと背筋を悪寒と紙一重の痺れが舐めていく。これにスペインがふれたら、もうどうしようもなく興奮して、気持ち良くって最高におかしくなれるのだ。シーツを掴む手に力がこもる。想像だけで息が上がった。
 あんまり興奮して、じくじくと血の気が多くなっている下半身が痛いぐらいだったので、いっそのこと先に抜いてしまおうかとも考えたが、せっかく久しぶりなのだからスペインに突かれながら達したらいつもよりさらに気持ち良くなれるんじゃないかと享楽的なことを考えて右手を押し止める。ここまできてひとりでするなんてもったいない。セックスはスペインとしたほうが幸せだし愉しめるのだ。だからそわそわしながらずっと待っていた。実際のところカラスの行水と呼ぶにふさわしいスペインのシャワーの時間なんてものの十分もかからないのだけれど、ロマーノには何時間にも感じられた。静かな寝室が重苦しい。
「ロマ……まだ起きてる?」
「おきている」
 ようやく寝室に入ってきたスペインがベッドへと歩み寄る。期待して見上げれば、風呂上がりだからなのか上気した頬が薄っすらと色づいていた。
「んー……ほんま久しぶりやな」
 ごそごそと上掛けをめくってロマーノの隣に体を滑り込ませる。すぐに抱きしめられて心臓が高鳴った。性急だ。スペインもしたがっている。
「ロマが忙しそうやったから連絡せずに我慢しとったけど、」
 この間、もっと仕事したいって言うてたし。その声に責める色はなかったが、少しばかり不満は漏れている。
「悪かったな」
「んーん、ええねん。その分いっぱい甘やかしてくれたら、それで」
「甘やかしてんのはお前だろ」
「親分のコレ、ロマーノのあったかくてやわらかいところでいっぱい可愛がってくれるんやろ?」
「んふ、なんだそれ。親父くせー」
「それが好きなくせに」
 シーツに包まって、囁き合う声は甘ったるい。何だか居心地が悪いような、もっとそうしていたいような、どうして良いかわからない据わりの悪さを感じる。でもそれは決して不快ではない。素直ではない性格が、ここでも顔を出して素直に甘い空気に身を委ねられないだけなのだ。
 寝返りを打ってスペインの顔を見つめる。彼は食卓で見せたものとは全然違う、茶目っ気のある悪戯な眼差しをロマーノに向けていた。ロマーノを抱きたくて仕方がない時の目だ。どくりと血が巡る。視界が霞む。頭の中がぼうっと茹だる。
「ん……スペイン、はやく……」
 目をつむってキスを待つ。心得た彼が手のひらでロマーノの耳を包み込み、情熱的なキスを仕掛けてきてーーー。

 そこでロマーノの意識は落ちた。

 いわゆる寝落ちだ。まさかこんなに綺麗に、すこんと落ちるとは。信じられない。あの状況で寝るなんて。
 眠っていたロマーノは裸だったがこれはいつも通りのことで、スペインはきちんと寝間着を着ている。つまり昨夜は何もなかったということだ。あんなに自分から煽っておいて。絶対ヤると意気込んでいたのに。あまりのことに頭を抱える。
「…………」
 さすがにスペインも怒るだろうか。せめて寝起きに一発とか、そういうサービスをしたほうが良いのだろうか。ロマーノだって男だから、起き抜けに咥えられたりすると興奮するだろうとか、そういうことはわかる。きっとスペインも喜んでくれるはずだ。たぶん……わかんねぇけど。怒られはしないだろう。それに昨夜できなかった分、今日こそ取り返したいし。そんなことを考えるが、ロマーノにはそれを行動に移せないのっぴきならない事情もあった。
「なあ、スペイン……」
 こそこそと呼びかけるとちょうど眠りが浅くなっていたのか思いがけず反応があった。
「んー……ろま? おはよ……しごとはもうええんか」
「うん、昨日で切り上げて一週間休みもらった」
「ふーん……」
 まだ起きる気は全然なさそうだ。むにゃむにゃと舌足らずな言葉をどれだけ覚えているか。もしかしたら彼はまだ夢の中にいて、現実ではないところでロマーノと会話をしているのかもしれない。
「そしたらドライブ、いこ。ちょっと遠出してー……ひさしぶりに、デートやで」
「ああ、それも良いな」
「ええとこ見つけてん。……まだ今やったらそんなさむくないし」
 そこで言葉が途切れる。しばらく待ってみても続きは返ってこない。また眠ってしまったのだろう。
 だいたいの場合、ロマーノのほうがスペインよりも早起きだ。スペインが宵っ張りというのもあるが、あまり寝坊というものをしたことがない。それは別にロマーノのほうが寝起きが良いというわけではなくて、単純に腹が空くからである。早く朝食を食べたい。その一心で朝起きる。そもそも子どもの頃からずっと疑問に思っていたのだ。どうしてスペインは朝食の時間が過ぎても平気で眠り続けていられるのだろう、と。何せ彼は会議の時間に起き出してくるぐらいの寝坊助だ。いつもロマーノが起こしてやらなければ朝食も作ってくれない。
 でも、だが、しかし。今日に限っては朝食のために起こすのも気が引ける。そもそも昨夜スペインは何時に寝たのだろう。ロマーノが遅くに来たから就寝時間がずれ込んだ可能性だってあるわけで。
「……あ、だめだ。この腹の減り……もう九時過ぎてんな」
 ぐるぐると腹が鳴っている。時計を見なくてもわかる、正確な腹時計が告げる時刻はロマーノ的には随分遅い時間になっていた。これを見ないふりでおとなしく抱き枕に徹してやりたい気持ちもある。めちゃくちゃある。残念ながら体が追いついてこない。
「…………」
 とは言え、さすがにいつもの傍若無人な態度で、朝メシ、とは言えないので。そうっとスペインの腕から抜け出してキッチンへと向かった。

 
「……めっちゃいい匂いがする」
 起き抜けのまだぼんやりとした声。やはり彼もまた朝の空腹には逆らえないようだ。なぜそれで自力で起きてこれないのかは不思議だったが、昨夜のロマーノのように空腹であることに気づいていないのかもしれないなと思い直す。
「おう、お前が作っていたチュロスあっためただけだけどな」
「ロマーノが用意してくれたん?」
 コーヒーマシンのスイッチを淹れながら振り返ると、ほへーと気の抜けた声を上げながら食卓につく姿が目に入った。会話が途切れる。何だか気まずい。とは言え謝るのも何だか違うし、そもそも何に対して申し訳なく思えば良いのやら。そんな事を考えつつ湯せんで温めたチョコレートをチュロスにかけるようと鍋を傾けると、
「昨日寝落ちしたこと気にしてるん?」
「ぶはっ!」
 いきなりストレートを振り下ろされて吹き出してしまった。
「あちっ! やべ!」
「ロマ、大丈夫?!」
「大丈夫、じゃねぇよ!」
 朝っぱらからぎゃーぎゃーと騒ぎながら、間一髪やけどは免れた。急いで鍋をふきんの上に置いて被害がないことを確認する。危なかった。スペインの会話は脈絡もなく地雷が仕掛けられている。油断大敵なのだ。
「おまえ、なあ……」
 はああと深くため息をついて頭を抱える。何が悪かったのかわかってもいないスペインがおっとりと首を傾げるので、恨みがましく睨みつけた。
「普通そういうこと言うか?」
「寝落ちのこと? いや! でも! 俺全然気にしてへんで!」
「……本当かよ」
「いや、ちょっとまあ……キスしている最中に反応なくなったんはショックやったけど」
「ショック受けてんじゃねぇか」
「でもまあロマーノめちゃくちゃ眠そうやったから、最後までは無理かもとは元々思っとったし」
 うん、と自分に言い聞かせるように頷く姿にまた落ち着かなくなる。このスペインの空気の読めなさにやきもきさせられたり困らされたりしてばかりなのだけれど、昨夜のように助けられる部分もあるので怒るに怒れない。結局ぐるぐるとそんなことを考えているうちに毒気を抜かれて、まあ良いかという気になるので、そういう戦略なんじゃないかとすら思う。
「……悪かったな」
「いや! えーと、うん、だから気にしてへんで!」
「お前が気にしてなくても俺が気にするんだよ」
「そうなん?」
「そうなの」
 ベッドインして、さあいざその時となって寝落ち、というのは男としても不名誉なことだ。情けないしカッコもつかないだろう。それにスペインがああやってロマーノを求めてくれたのは嬉しかった。それをフイにしてしまったことを残念にも思っているのだ。
 だから。
「でもそれやったら今日その分取り返したらええやん! な!」
「めちゃくちゃがっついてくるな」
「うえっそれとももうそんな気なくなった……?」
 ちょっと慌てたようなスペインが、さすがにこれ以上は我慢できないと言っているようだったので。たまにはロマーノも甘ったるくなってみる。
「うん、そうだな。朝メシ食ったらベッドに戻ろうぜ」
 ふっと笑うとあっけに取られたようにぽかんとするスペイン。それにやっぱりくすぐったくなって、何だかおかしな気持ちだった。
 本当に不思議だ。昨日まではあんなに必死でボロボロになりながら働いていたのに、今日はもうすっかり穏やかで優しい気持ちになっている。
「そんで今日めいっぱいだらだらして、明日はドライブに行こう。お前どっか連れてってくれるんだろ?」
 そう告げると目を見開いたスペインがはにかんでみせる。その甘い姿に、ああ、彼と一緒にいれて良かったと心から思うのだ。今日はスペインの話を聞こう。この三ヶ月で彼にあったこと、見たこと聞いたこと。ロマーノには残念ながら仕事の話しかないから昨夜話したことが全てだが、スペインにはきっといろいろあるのだろう。
 こんな休日の朝も良いなあと腑抜けた心地で思った。

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