お見合い結婚

 ロヴィーノ・ヴァルガスの縁談には様々な憶測が飛び交った。

「未だ学生の弟君のために御尊祖父のご意向を呑んだのだろう」
「いやいや、そんな殊勝な性質ではない。勤労を回避したいがために財産目当てで決めたのさ」
「彼には両親がいないし、御尊祖父が病気をしたらしいじゃないか。将来に不安があったんだ」
「いずれにしてもただ事じゃない。何せ相手は西国からの留学生だ」
「しかも母国では公爵家の跡取りらしいぞ。最近流行りの玉の輿というやつだな」

 皆それぞれ好き勝手に噂をしていたが、それも致し方ない。ロヴィーノは大学を卒業したばかりの今年二十二歳になる青年で、女好きだった。在学中は学校一の美女と結婚するのだと息巻いていたのに、卒業してすぐに見合いをやり、その三日後には相手方の国へと発つの言うのだから好奇の目を向けられるのも避けられまい。
 ロヴィーノは結婚の真意を誰にも話さなかった。それは徹底していて、出立する日、駅まで見送りに来た二三人の学友たちの下世話な詮索にも何も語らない。ただいつも通りの無愛想な顔でむっつりと押し黙っている。

「ロヴィーノの友達? わざわざ見送りに来てくれたんや。ありがとぉ、ロヴィーノが友達なんかおらへんって言うから心配してたんよ。でもちゃあんとこうして優しい友達がおるんやなあ」

 代わりに応対したのはロヴィーノの結婚相手であるアントーニョだ。彼はニコニコと人好きのする笑みを浮かべていた。ロヴィーノの学友たちにはロヴィーノが突如掴んだ幸福に対して羨望や嫉妬の気持ちがあったから、気さくなアントーニョの態度に少しばかり居心地の悪い思いをさせられた。

「へらへらしてんじゃねぇよ、そいつらにそんなのはいらねぇって。勝手なこと言ってんじゃねぇぞ」
「何言うてんの、俺らのお祝いをしてくれてるんやんか。ロヴィも挨拶し」
「うるせぇ」

 睨みをきかせるロヴィーノのつっけんどんな態度にも臆する様子もなく、アントーニョは飄々としていた。
 彼はロヴィーノより三歳年上の二十五歳で、留学して来ただけあって人生経験も多く積んでいる。明るく陽気な人柄のため朗らかに見えるが、それでも同じ年頃の若者に比べるとずっと落ち着いていて大人だった。
 ふん、と鼻を鳴らしていじけたロヴィーノを宥めている。あの手この手でロヴィーノの気を引こうとする姿はまるで年若い恋人の機嫌を取る優男のようだ。しかしそんなアントーニョが数年後には公爵の地位を賜り、西国の名家、カリエド家の次期当主になると言うのだか不思議なものだった。

「ああ、そろそろ時間やな。今日はほんまにありがとう。君らも、もしこっちに来ることがあったら連絡寄越してや」

 にっこりと笑うと、さっさと出発前の汽車へと乗り込む。
 後に続くロヴィーノは四年間を共に過ごした学友たちとの別れを惜しむことはしなかった。何の未練もないと言うような軽快な足取りだ。先に乗り込んだアントーニョが手を差し出してくるのを怪訝そうな顔で見ていたが、大人しく鞄を預ける。アントーニョは微妙な顔をしたが、二人分の鞄を背負って前の方の車両へと足を向けた。上等な客室でも取っているのだろう。
 二人を見送った学友たちは溜息をつく。

「ヴァルガスは子どもみたいなところがあるから、カリエド氏は苦労するぞ」

 彼らは皆一様にアントーニョのことを哀れんだ。一方で内心見下すような、あまり良くない感情が芽生えていたことも否めない。つまるところそれはやっかみであったが、彼らはロヴィーノが西国へと発って二週間もすればそれも忘れてしまった。仕事も忙しかったし、皆それぞれに近くにいる者たちとの交友のほうが深く濃いものになっていくのだ。それにロヴィーノは彼らに手紙のひとつも寄越さなかった。

 ○

 アントーニョはとても気の良い男だった。口が悪く生意気な態度しか取れないロヴィーノに文句も言わず、社交的で友人も大勢いる。決して華やかな美丈夫といった向きではなかったが、精悍な顔つきはそれなりに整っていて、大学時代にラグビーをしていたと言うだけあって鍛えられた体躯が逞しい。
 ロヴィーノは初めからこの男のことを特別気に入ったわけではなかった。むしろ自分にはない明るさや愛嬌の良さを胡散くさいとさえ思っていたのだが、そばにいても不快にはならなかったし、何より器量の悪い自分のことを憎からず思ってくれる珍しい類の人間だったので彼からの結婚の申し入れを受け入れることにしたのだった。

(男のわりには嫌じゃない)

 ロヴィーノにとってはその程度の気持ちだった。
 そんな風だったから、彼の国へと向かう道すがら汽車の中であれやこれやと話しかけられるのを少し煩わしく感じていた。アントーニョはとにかくよく喋る。その内容は取り留めのないものばかりで特に相づちも必要なさそうだったが、ロヴィーノは人の話を聞き流すことができない性格だったので、じっと辛抱強くその話を聞いた。

「なあなあロヴィーノはオリーブ好き? 俺の国でもトマト栽培は盛んやけど、オリーブもよう育ててんねん。特に俺の領地はすごいでー一面オリーブ畑が広がってて水平線まで続いているようやわ。ロヴィーノにも早よ見せないなあ。あ、せや、ロヴィーノって料理できる? 家には使用人がおるから家事はせんでええけど、フェリちゃんがロヴィが料理上手やって言うてたやん。俺もロヴィーノの手料理食ってみたいわ」
「……気が向いたらな」
「ほんま?! 嬉しいわあ、何作ってくれるんやろ。そう言えば俺なあ、下宿先の近くの食堂で食ったパスタが好きやねん。トマトのっけたオリーブオイルの、ピリッとしたやつ。あれって作れるもん?」
「アーリオ・オーリオか? 作れるけど……」
「ほんまに?! あれ食いたいなあ。国でも材料は揃うで。食べ物は結構似てるし、ロヴィーノも気に入ってくれると思うわ。やっぱ食の好みって大事やんな。昔からよう言うやろ。胃を掴めって、俺ロヴィーノの胃を掴めるように頑張って働いて美味しいもんぎょうさん食わせたるな」

 アントーニョの話は最後まで聞いても何が言いたいのかさっぱりわからないことも多々あった。だから何だよ、と辛く当たることもあったが、アントーニョはヘラヘラとしていて特に堪えていない。ロヴィーノが出会ってからアントーニョはずっとそんな調子だった。一体何が楽しいのか常に顔がにやけている。

 西国までは汽車で丸二日かかる。ロヴィーノたちが国を出て三日目の午後に目的へとたどり着いた。終着駅は出発した駅と比べると幾分か規模が小さくて人の賑わいもまばらだ。しかし駅舎のつくりは荘厳なものだった。どことなく東方の影響を受けた建築はあまり目にする機会のないもので、物珍しさにあたりをキョロキョロと見回した。ロヴィーノの国にはない文化だ。この時、ロヴィーノは初めて自分が異国へとやって来たのだと実感した。
 そわそわと落ち着きのないロヴィーノに何を思ったのか、アントーニョは少し恥ずかしそうにしていた。

「このへんはロヴィーノの住んでいたところよりも田舎やねん」

 聞かせる気があるのかないのか、小さな声でぼやいている。
 それについては対して関心もなかったので、ふうん、と聞き流した。別に田舎だろうと都会だろうと、ロヴィーノは劇場に通うだとか買い物を楽しむだとかの都市的な趣味を持っていなかったため、さほど気にしていない。

「美味いもんが食えてベッラがいればどこでも楽園だろ」

 アントーニョは何ともいえないような情けない顔を見せた。
 駅にはアントーニョの家から迎えが来ていた。彼の家はこの街から馬車で三時間ほど南に下ったところにあるらしく、立派な馬車まで用意されている。次期当主と結婚したロヴィーノに少しでも快適に過ごしてもらおうとの配慮だろう。ロヴィーノが座らされた椅子はふかふかとやわらかく、大きな車輪はちょっとやそっとの衝撃などものともしない。道路の舗装が間に合っていないため道中は砂利道だったが、話していても舌を噛むなんてことにはならなかった。
 馬車の中でもアントーニョはよく喋った。内容は相変わらず何にもならないようなことだ。ロヴィーノがそれに辟易とし始めた頃、ようやく目的地へと到着した。

「ここが俺ん家やで。荷物は後で取りに来るから置いといて」

 着いたのはこのあたりでも一等立派な屋敷だった。それなりに覚悟をして家を出たつもりだったが、さすがに圧倒される。間違いなく領主の屋敷といった風情で、ロヴィーノの実家など比べものにならない。
 アントーニョが先に馬車を降りた。扉を開けて、すっと手を差し出される。しかしロヴィーノにはその意味がわからなかった。後から考えればロヴィーノが降りる手伝いをしてくれるつもりだったのだろうが、あいにくロヴィーノは馬車を降りるのにエスコートなど必要ない。なので当たり前のように自分で降り立った。もちろんアントーニョの手は取らない。

「…………」

 アントーニョはしばらく所在なさげに手をさまよわせていたが、忙しなくジャケットの裾を直すと指先をズボンに擦り付けていた。

「? どうかしたのか?」
「ん、いや、別に」

 挙動不審なアントーニョにまたも首を傾げるが、さあ家の中へ、と屋敷へ促されて、すぐにロヴィーノの頭の中は使用人への挨拶のことでいっぱいになった。

 かくしてアントーニョと共に西国で暮らし始めたロヴィーノだったが、彼の国はロヴィーノの想像を遥かに上回るほどの田舎だった。

「……どこもかしこも畑畑畑、想像以上に畑しかねぇじゃねーか、ちくしょー」

 歩いても歩いても、ひたすらに牧歌的な田園風景ばかりが延々と続いていて、さすがのロヴィーノも暇を持て余した。

「ごめんなあ、あれがオリーブ畑やで」

 慰めてくれるアントーニョには悪いが、今はオリーブの実もオリーブオイルも見たくない。これが一日や二日であれば、延々と畑が広がる風景は圧巻なのだが、いかんせんロヴィーノはここでずっと暮らすのだ。
 それに何より。

「ベッラがいねぇ……」
「ははは、若い子らはみんな街に出て行ってしまうねん。このへん何もないから」
「……別に、何もなくはないけど」

 これがこのあたりの産業だ。それを否定するつもりはない。しかしアントーニョは眉を下げて苦笑するばかりだった。
 アントーニョはよく街へと連れて行ってくれた。どこかでロヴィーノを退屈させていることに負い目があったのかもしれない。しかしこれがまたロヴィーノをうんざりとさせた。

「兄ちゃん兄ちゃん! ちょっと寄ってかへん? ええ本手に入ったんやで!」
「いや、これから劇場に行くとこやから、また今度で」
「何や意外に軟派な趣味やなあ。たまには本読んで教養をつけなあかんで!」

 西国人は過ぎるほどの大声で捲し立ててくる。客引きでさえロヴィーノには口の挟む隙もないほどの剣幕で、アントーニョに応対してもらわねば会話も儘ならない。

「ははは、教養なあ。あ、ロヴィこっち」
「んあ?」

 突然アントーニョに手を引かれて間の抜けた声が出る。されるがままに身を任せていると背後から怒鳴り声が聞こえてきた。

「また喧嘩や!」

 その声を皮切りに周辺にいた者たちが群がりだした。その人波に逆らうようにアントーニョはロヴィーノを店の軒先へと引っ張って行く。騒ぎに巻き込まれないようにするためだ。

「何や何や! どうしたん?」
「大通りで何かあったらしいで。恋愛沙汰らしいわ」
「へぇ女の取り合いでもしたんか」
「逆やって噂やで。女が二人に男がひとりやって」
「羨ましい話やなあ、お前ちょっと見て来いや」

 しかもこれが珍しい話ではない。どうもこの国の者は気性が荒いのか、往来でも平気で喧嘩を始めるのだ。それもしょっちゅうで、ロヴィーノは内心、彼らのことを教養がないと軽蔑していた。街に出かける度に何らかの騒ぎが起こり、野次馬ができて怒声が飛び交うのだ。すっかり気が滅入ってしまう。

「ロヴィーノ、もうちょいこっちへ」

 それに引き換え、自分の伴侶であるアントーニョの穏やかな人柄は何と好ましいものだろう。喧嘩の野次馬もしないし、淡々とロヴィーノを安全なところへと導いてくれる。

「大丈夫?」
「お、おう……ちょっとびっくりしただけだ、ちくしょーめ」
「……今日ぐらいゆっくりしたかったんやけど、いつもごめんな」
「テメーが謝ることじゃねぇだろ」

 アントーニョは少なくともロヴィーノの前では怒鳴ったり声を荒げたりするようなことが、ただの一度もなかった。大通りで恋人を取り合って喧嘩するような連中とは全く違うのだ。

「でも困った。このままじゃ開演時間に間に合わへんわ」
「今日は縁がなかったんだろ」

 今日の演目は元々ロヴィーノの国で評判になっていたらしく、興味はあったがこうなっては埒が明かない。騒ぎが収まるまでは下手に動かないほうが良いだろう。むしろ演劇よりも帰りを心配したほうが良いかもしれない。夕食に間に合うだろうか。

「うーん、でも評判の演目で、どうしてもロヴィーノに見せたかってん」

 いつもロヴィーノの言うことにはすぐに折れてくれるのに、アントーニョがそうやって食い下がるのは珍しいことだった。それだけロヴィーノを気遣ってくれているのだろうか。だとすれば申し訳ない気もして、ロヴィーノはわざとそっけなく返す。

「別に劇なんていつでも見れるだろ」

 しかしそれがいけなかったようだった。

「せやけど……ううん、ごめん、ちょっとここで待っててくれへん?」
「は? ってお前、どこ行くつもり……」
「先行って様子見てくる! もしかしたら警察呼ばなあかんかもしれへんから、ロヴィーノはそこを離れんとって!」

 そう言うと野次馬のほうへと駆けだした。何言ってんだ危ないぞ、と声をかけても彼は片手を上げるだけで振り返ってもくれない。
 アントーニョはいつも身綺麗にしていて、さっぱりとした白いシャツにグレーのスラックス、ジャケットを颯爽と着こなしている。常々、悪くないと思っていた広い背中が、あっという間に群衆の中へと埋もれて行くのを見送って、はあっと溜息をついた。もうアントーニョの後を追いかけるのは難しいだろう。この人混みだから一度はぐれれば、再び落ち合うのは難しいかもしれない。仕方なしに店の壁に背中をつけて、その場に留まることにした。
 ロヴィーノが彼に言われた通りしばらくそこで待っていると、不意に野次馬の中から、警察や、という声が上がった。何やつまらん、という不満も聞こえたが、ロヴィーノはホッとした。喧嘩や騒ぎが苦手なわけではないが、この人の群れをやり過ごすのはあまりにも疲弊する。ようやく収束の兆しが見えたことに対する安堵だった。
 それからさらに十分ほどするとアントーニョが戻ってきた。

「ロヴィ! ああ、良かった、ちゃんとここにおってくれたんやね」

 彼は息を切らしていて、ロヴィーノが店の軒先でじっとしているのを見て相好を崩した。額に汗を滲ませながらにこりと笑いかけてくるアントーニョの姿を見てロヴィーノは何だか誇らしいような気持ちになった。彼が野次馬のように喧嘩が仲裁されるのを、つまらない、と思うような男ではなくて良かったと思ったのだ。

「警察呼んできたからそのうち落ち着くと思うで」
「今からじゃ開演に間に合うかはわかんねぇよ」
「せやなあ……休日に出かけるのはやっぱり危険やな……」
「ま、そんな気を落とすなって。そのうち落ち着くだろ。それまでそこのカフェでコーヒーでも飲んで待ってようぜ」

 アントーニョの話は面白くないが、この男と街を歩くのは悪くない。見たくれもまあまあだし、一緒にいて恥ずかしいと思うこともなかった。だから店に入ろうと誘ったのだ。アントーニョはその誘いに目を丸くしてみせたが、すぐに嬉しそうに笑った。

「ええなあ、俺、コーヒーにはうるさいで」
「ああ、そう言えばこっちのミルクと砂糖に対するこだわりはすげぇな。細かすぎて区別つかねぇ」
「それぞれ飲むのにええタイミングがあるねん。今の時間やったらミルクたっぷりの甘めのやつがオススメやで」
「お前が注文しろよ」
「任せてや」

 歯を見せて笑うアントーニョの屈託のなさにロヴィーノは目を細めた。
 それがロヴィーノがアントーニョと結婚して二週間ほど経った日のことだった。

 結婚してすぐの頃、アントーニョは家にいることが多かった。どうも彼はできる限りロヴィーノとの時間を持ちたいようで、いつでもどこでも引っついてきた。ロヴィーノはそんなアントーニョのことをはじめのうちは気恥ずかしく思い、あまりそばに寄るな、と邪険に扱っていたのだが、慣れてくると大きな犬がじゃれてきているように思えてきて、一緒に暮らすようになって一ヶ月もすれば何とも感じなくなった。

「ちぎゃー! 今、へ、へんなとこにキスしただろっ」
「変なところって……唇にしただけやん」
「俺の了承もなく勝手に奪ってんじゃねぇ!」
「何でやの、結婚したんやからキスぐらい普通やろ?」

 スキンシップも多かった。挨拶ですらハグにキスにと積極的で、何もなくても手を繋いだり、パーソナルスペースをものともせずに距離を詰めてくる。

「ロヴィーノはちょっと手を繋いだりハグしたりしただけで騒ぐんやから……純情さんやなあ」
「それはテメーが人前でいきなりやるからだろっ」
「じゃあ人前じゃなかったらええの?」
「……ま、まあ二人きりの時だったら、別に……結婚してるんだし」
「今は二人きりやから抱きしめてもええやんな?」
「ち、ちぎぎ……勝手にしやがれ」

 慣れないとやっていられない。
 そのうちロヴィーノはカウチの上で後ろから抱きしめられながら手紙を書くほどになっていた。腹に回された右腕や背中に覆い被さってくる大きな体が暑苦しいような気もするが、思いきり凭れかかってもびくともしないので座り心地は悪くない。時々、斜め後ろから首筋や耳の下あたりに吸い付かれるのがくすぐったいだけで、ロヴィーノ専用のカウチだと思うことにする。

「手紙?」
「ん、弟からだ」
「フェリちゃんかあ、やっぱお兄ちゃんがいなくなってさみしいんかな」

 言いながらぎゅうっと抱きしめてくる手に力がこめられたので苦笑した。だからと言って里帰りしておいでと言う気はないらしい。
 フェリシアーノはさみしいとは言っていなかった。ただ兄が自分のために縁談を受け入れ結婚したのだと思い込んでいるようで、ただひとり、知人もいない西国へと発ったロヴィーノのことをとにかく気にかけていた。
 フェリシアーノの手紙はこんな風だった。

『俺は兄ちゃんの心を疑ってしまいます。あの日、爺ちゃんが知り合いの孫と会ってみないかと勧めてきた、あの運命の夜のことです。兄ちゃんはもしかして俺の手紙を見たのではないでしょうか。俺のルートヴィッヒへの想いを綴った、出す宛もない手紙を。それを見たから全然そんな気がなさそうだったのに、突然アントーニョ兄ちゃんと見合いすると言い出してそのまま結婚を決めたんじゃないかと気になってしょうがないです。もしそうだとしたら、俺は申し訳なくて兄ちゃんに顔向けできませんーーー……』

 ロヴィーノはその手紙を読む度に何とも言い難い感情が込み上げてきて、申し訳ないと言い募る愚かなフェリシアーノがかわいそうで愛おしくなった。

「何笑ってんの? そんな楽しいことが書かれてた?」
「なあ結婚してから何ヶ月経った?」
「三ヶ月やで。ロヴィーノと出会ったのは未だ冬の匂いが残る三月のはじめやったから」

 三ヶ月か。口の中で呟いて、その間ずっと罪の意識に苛まれていた弟のことを想った。
 馬鹿だなあ、そんなわけないだろう。すぐにでもそう言ってやりたいのにロヴィーノは上手く言葉にできそうにない。今までにもどうして見合いをするのかと聞かれたことはあったが、いつも答えをはぐらかしていた。そのせいでフェリシアーノは不安がっているのだろう。
 しかしペンを持っても白い便箋を前にしても良い言葉が思い浮かばなくて途方に暮れる。困るぐらいに劇的な話がなかったからだ。
 弟への返事を書こうとしてうんうんと唸るロヴィーノをアントーニョは大人しく待っていた。いつもそうだ。ロヴィーノが手紙を書き終えるまではいつものお喋りを封印して、何が楽しいのかロヴィーノの横顔をまじまじと眺めていることが常だった。

「……なあ、おい。お前、見合いの時のこと覚えているか?」

 ふと気になって訊ねてみた。しばらくは声がかからないと思っていたアントーニョは嬉しそうにしながら、甘ったるい声で聞き返してくる。

「なあに?」
「だから見合いの時のこと。俺あんまよく覚えてねぇんだよなあ」
「そうなんや」

 ロヴィーノの言葉はひとり言のようなものだったが、アントーニョは妙にかしこまって頷いていた。
 学友たちの間で噂になっていた通り見合いの話が出たのは、祖父が病気で床に臥せてすぐのことだった。ロヴィーノは大学を卒業したばかりで、これからどうしようかと思っていたのだが、祖父は気が弱っていたらしい。大きな病ではなかったのに、しきりにロヴィーノに縁談を勧めてきた。
 とにかく会ってみないかという言葉に納得したわけではないのだが、普段ならば絶対に嫌だと断るところを受け入れたのはタイミングもあったのだろう。別に良いぞ、と頷いていた。
 それから先は早かった。あれよあれよという間に段取りを整えられ、気がついたらアントーニョと顔合わせしていた。

「まだ全然結婚する気なんてなかったから、気がついたら話が纏まっててびっくりしたけど」

 と、そこまで話をして我に返る。結婚を申し込んでくれた相手に、そんな気はなかったが何となく流れに任せてここまで来たのだと言うのは、いくら何でも失礼すぎるだろう。さすがに申し訳なく思って、あ、いや……何と言うか、と言葉を濁すと、アントーニョは目をキラキラと輝かせていた。

「えーと、何で嬉しそうなんだ?」
「やってロヴィーノはそんな気なかったのに俺と結婚したんやろ? それって運命なんちゃう?!」

 何と前向きな男だろうか。思いがけない返答に思わず目を眇めてしまう。そんなロヴィーノの内心を知らずか、アントーニョはなおも興奮気味に見合いの時のことを語ってくれる。

「俺はロヴィーノのことをひと目見た瞬間から絶対結婚したいって思ったんやで。ほんま、なんてきれいな子なんやろうって……都会には美人が多いとは聞いていたけども、正直、大学生活を通してもロヴィーノみたいなきれいな子には会うたことないわ。あん時のロヴィーノ、チャコールグレーの三つ揃えのスーツ着ていたやろ? よう似合ってたで。まるで流行りの舞台に出てくる王子様みたいやった」

 すらすらと言葉が流れ出てくるアントーニョは、まるで立て板に水のよう。何度も繰り返し見たせいで自然と覚えた一場面を語ってみせるみたいに淀みがなかった。

「……つまりテメーは俺の顔が好きなのか?」

 そう呆れながら訊ねれば、そうかもなあ、と返ってくる。

「顔が好みの相手と結婚したら夫婦円満でいられるねんて。うちの親父がそうやってん。どんなに腹立つことがあっても、理不尽なこと言われても、その顔見たら許せてまうねんて。俺、それわかる気がするわ」

 大真面目にそんなことを言うものだから、ロヴィーノは照れれば良いのか可愛げがなくて悪かったなと卑屈になれば良いのかわからなくなった。ただアントーニョはなかなか大物だと思った。何せたったそれだけでロヴィーノの口の悪さも態度の横柄さも許せてしまうのだ。並大抵のことではない。
 アントーニョは見合いの時に限らず、汽車の中での出来事も事細かに覚えていた。その記憶力の良さには驚かされることばかりで、しかも意外なことのように感じられた。彼は鷹揚な性格だし、細かなことには頓着しない。それゆえにロヴィーノとのやり取りも些かデリカシーに欠ける部分もあるので、過去のことをいちいち記憶していて話して聞かせてくれるとは思いがけなかったのだ。
 ロヴィーノはそんなアントーニョのちぐはぐさを面白がった。

「なあ、俺が初めて使用人たちの前で挨拶した時のこと覚えているか? あの時、俺何て言ったっけ?」

 わざとそうやって訊ねることもあった。アントーニョは必ずロヴィーノが覚えていること以上に鮮明に教えてくれる。

「ロヴィーノ、緊張してガチガチになっとったんか、おかしなこと言うとったで。『アントーニョと結婚したロヴィーノ・ヴァルガスです。今日からお世話になりますだ、このやろー!』って叫んだかと思ったら突然頭を抱えて『違う! 今のはなしだ、なし!』って、顔真っ赤にして慌てるもんやから可愛かったわ。みんなすぐにロヴィーノのこと好きになったんやで」

 聞いた内容は失敗だった。黒歴史だ。しかもあの時、いきなりの大失態をかました微笑ましく思われていたなんて、どうりでやたら優しくされたわけか。
 しかしそんなことも事細かに覚えているアントーニョには悪い気はしない。彼がいかに自分との時間を大事にしてくれているのかを実感できた。

 やがて春が過ぎ、打ち解けてきたアントーニョと人生のバカンスのようなひと夏を過ごし、さらに季節が変わった。秋の訪れだ。
 収穫期は忙しい。それを待ち構えていたように、アントーニョはカリエド家の次期当主として仕事を始めた。
 ロヴィーノもいつまでも新婚気分で結婚生活に浸っているわけにはいかない。アントーニョが仕事をしている間、公爵の伴侶としての教育が施されることになった。マナーや外国語、社交界での立ち振舞い方に行儀……それもロヴィーノにはうんざりするようなものばかりであった。ようやく西国での暮らしに慣れかけていた頃だったのに、再び鬱々とした毎日へと早変わりだ。

「……もう一般教養なんて見たくねぇ。そんなもんなくたって良いだろ……」

 ここでは大学で学んだことはあまり役に立たなかった。家庭教師は厳しいし、ロヴィーノには貴族たちが言うところの教養なんてものはない。それが余計に自分を惨めな気持ちにさせて気が滅入った。
 勉強でくたくたになってリビングでだらけていると、仕事から帰ってきたアントーニョが楽しそうにしているのも気に入らなかった。

「ロヴィーノ、ただいま」
「ん、おかえり……」
「なあなあ、聞いてや。今日は領地を見て回ったんやけど、今年は豊作やで。みんな孫に仕送りできるって喜んどったわ。せやから俺も頑張って街道までの道を舗装しようと思うねん。公共事業やで」

 ロヴィーノは毎日やりたくもない勉強に励み、厳しい家庭教師の指導の下、口うるさく叱られているというのに、アントーニョときたら仕事が充実しているようで日々やりがいを口にしてくる。何と憎らしいことか。

「人が堅苦しい本の中身を詰め込まれている間、お前は随分楽しそうだよな……」

 だからロヴィーノは毎日、嫌みを言った。アントーニョは困ったような顔をすることが多かったが、不満そうでもあった。

「何でやねん、ちょっとぐらい褒めてくれてもええやんか」

 直接的に言い返してくることもある。それにはカッとなって、思わず怒鳴りつけてしまった。

「うるせぇ、俺だって褒められてぇよ! 毎日毎日こんな生活もううんざりだ!」
「ああ、ご、ごめんな。ロヴィーノがそんなに大変やとは思ってなかった。家庭教師減らしてもらう?」
「お前が頼んで減るもんじゃねぇだろ! これが俺のお勤めだっつって、むしろ増やされるだろうが!」
「う、せやった……せやけど、そんな急いで詰め込まんでもええんやで」
「急いで詰め込んでも間に合わないぐらい俺の中が空っぽなんだよ、くそっどうせ俺なんて無教養の庶民だよっ!」
「そんなことないって、ロヴィーノ自分を卑下せんとって」

 しかしその数秒後には感情的になってしまった自分を情けなく思い、さめざめと涙する。

「ろ、ロヴィ? どうしたん? 何か悲しいことあった?」
「……ちくしょー、何だよ。お前もちょっとは怒れよ」
「せやけど……」
「ほんとは俺のことなんか面倒くさいし、早く仕事に行きたいって思ってんだろ」
「そんなわけないやん。ロヴィーノと一緒にいたくて、今日も早く切り上げてきたんやで」

 アントーニョは怒ったり泣いたりと忙しいロヴィーノにおろおろとうろたえるばかりだった。その態度がまた気に食わなくて怒りが込み上げてくるのだが、その怒りが理不尽なものだと自覚もしている。
 もはやロヴィーノには自分がどうして怒っていて泣いているのかわからなかった。ただアントーニョはそんなロヴィーノにも根気良く付き合ってくれて、ずっとそばにいてくれる。それにも苛立つものの、それが彼の気遣いだ。だからロヴィーノも彼に、どっか行けとは言わなかった。
 しばらく泣きじゃくって声を上げていると当たり前だが疲れてくる。このままいつでも眠りに就けそうだ。

「……ロヴィ?」

 そのタイミングを見計らったようにアントーニョが肩を抱き寄せてくるが、抵抗をする気も起きなかった。

「……な、ちょ……んぅ」

 突然唇を奪うようにキスをされた。上から押し付けてくるような口づけは、受け入れる側が不利だ。体格差もあるし、暴れたって敵いっこない。こちらは動くのも面倒だと言うのに。
 もっともらしい理由をつけて受け入れていたが、アントーニョはロヴィーノが嫌がればあっさり離してくれただろう。だからロヴィーノのそれは全て言いわけでしかなかった。流されるがままに受け入れるのが楽だったのだ。
 舌が差し入れられて、あっさりと唇を開かされる。その間に服の中へと侵入してきた手のひらが脇腹や胸のあたりをまさぐっていくので、くすぐったさに身を捩った。くぐもった声を上げながら逃げを打つロヴィーノの体を押さえつけるようにアントーニョが覆い被さってくる。圧倒的な力で抑え込まれるのが心地良く感じるのはロヴィーノの心が弱っているからかもしれない。
 アントーニョの指先はかさついていて、昼間散々外を歩き回っていたのだと知れた。

「ん、は……ぁ」
「……ロヴィーノ、俺と結婚してくれてありがと」
「あ、あ……アントーニョ」
「……まったくもう、こんな時ばっか名前呼ぶんやから」

 アントーニョはいやらしくロヴィーノの体を撫で回すけれど、それ以上のことはしてこなかった。そのうち疲れたロヴィーノが、そのまま眠ってしまうこともあったほどだ。それでも翌朝にはきちんと自分のベッドに寝かされている。しかも夜着をきちんと着させられ、上掛けもかけてくれて。

 不思議とロヴィーノがどんなに暴れまわっても、次の日には二人はすっかり元通りになっていた。

「ロヴィーノ、おはよ。目ぇ腫れんで良かったわ。顔洗っておいで」

 朝になって顔を合わせたアントーニョのカラッとした笑顔を見ると、もう少しだけなら頑張れるような気になるから不思議だ。昨夜はもう何もかもおしまいだと自暴自棄になっていたのに、ちゃんと前を向いて歩いて行く気になれる。
 こんなにもアントーニョは優しくてロヴィーノの気持ちを落ち着かせてくれる。だからロヴィーノもアントーニョのことを二度と怒鳴ってはいけない、そう自分に言い聞かせた。
 しかし現実はそんな簡単なものではなく、なかなか思い通りにはいかなかった。結局、子どものように声を上げて泣きじゃくることも度々あった。その度にアントーニョはあやしてくれるけれど、ロヴィーノには彼以外に頼れる友人がいない。
 あんなに気にかけてくれたフェリシアーノは、ロヴィーノが家庭教師の厳しさを嘆き泣きついても一切慰めてくれなかった。

「……ヴァッファンクーロ! 薄情なやつめ……」

 それとこれとは別、兄ちゃんは甘やかされ過ぎだと思う。それが弟の言い分だ。

「ロヴィーノ、どうしたん? 何か嫌なことでもあった?」

 受け取った手紙に目を通して、ひとりポコポコと起こるロヴィーノにアントーニョがすっ飛んでくる。ここ最近のロヴィーノの情緒不安定ぷりに、彼はすっかり過保護になってしまった。

「馬鹿弟の手紙だっ」
「ああ、なんや。急に怒鳴りだすから何事かと思ったわ」
「あいつ薄情すぎる!」
「まあまあ、それで家庭教師にはいじめられてへん?」
「……今日も物差しで叩かれたぞ」
「何やって?! 痕になったらどうするんや」

 もちろん痕に残らないための物差しなのだが、彼らには関係のないことだ。

「ほんまローデリヒは厳しすぎるな。今度俺からも言っとくわ」
「アントーニョ……」
「よしよし、ロヴィは今日何もせんでえよ。お風呂も俺が入れたるな」

 ロヴィーノにとって彼と結婚したせいでこんな目に遭っているのだが、しかし家庭教師に泣かされた後、これでもかというぐらいデロデロに甘やかしてくれるのはアントーニョだけだ。その砂糖菓子のような優しさに溶かされて、多少理性が薄くなっていたのだろう。
 ロヴィーノは何て良い男と結婚したのだろうと本気で思った。

 ○

 ロヴィーノが西国に来てから一年が経った。その頃になればようやくロヴィーノも貴族の振る舞いとやらが身について、人前に出られるようになっていた。口だけはどうしても改善されなかったので、アントーニョ以外の者とは会話禁止ではあるが、それが端から見ると慎ましく見えるらしく概ね好評だった。
 アントーニョも仕事をほとんど覚えていた。あと一二年もしたら公爵位を譲られるのだろうともっぱらの噂だ。

「爵位をもらったら正式に領主になるし、ロヴィーノとの結婚式はその時一緒にやろか」
「は、今さら式を挙げるのか?」
「そりゃもちろん。今まではロヴィーノが学校出てすぐやったし、俺も見習いみたいなもんやったから保留にしとっただけやで」

 ロヴィーノはもうすっかりアントーニョの夫のつもりだったから、今さら式を挙げるなんて奇妙な感じだった。

「まあ儀式やしそんな気負わんでもええやん。そんなことよりハネムーンはどこ行こか。最近はバカンスついでに海に行ったりするらしいで」

 アントーニョは飄々としている。この男、結婚がどういうものなのか実は未だにわかっていないんじゃないか。

「せやけどけじめも大事やで。俺らって見合い結婚やったから、その、恋愛結婚とは順序もちゃうし」

 もごもごと言いにくそうにしているアントーニョに首をかしげるが、彼の頬がわずかに染まっているのを見て何を言おうとしているのかに思い至った。

「……ん、まあ、そうだな」
「せやから、まあその、式を挙げたら寝室も一緒にしようかなって思うんやけど」
「ああ、そうだな、そうしよう」
「でもそうしたら、今までもたまにロヴィーノ、俺のベッドで寝ていることあるけど、意味も違ってくるし……」

 ロヴィーノたちは間違いなく結婚していてパートナーではあったが、まだ夜を共にしたことがなかった。新婚の頃にそういった事実があれば違ったのだろうが、惰性で切り出せないまま今日まできてしまったのだ。

「つまり、今後は勝手に潜り込んできたら頂いてしまうかも……」
「ぷはっ」

 神妙な顔で言うアントーニョがおかしくて思わず吹き出した。

「もーなんで笑うん?」
「だって、お前……ははは、言い方だろ」
「俺は真面目に言うてんのに……」

 ぶつぶつと文句を言うアントーニョにロヴィーノは目尻に涙を浮かべて笑った。アントーニョの優しいところが好きなのだが、時々優しすぎて笑ってしまう。たぶん気恥ずかしいのだろう。

「わかった、じゃあ今度からは覚悟してベッドに潜り込むよ」

 だからそう言っておいた。アントーニョは顔を真っ赤にしたり目を丸くしたりと忙しかったが、力なく、頼んだで、と頷いただけだった。

 そんなある日、祖父から手紙が届いた。フェリシアーノがルートヴィッヒと結婚するという内容だ。挙式はまだだが祖父の家にほど近い街に新居を用意していて、今もその家で仲睦まじく過ごしているのだと言う。ロヴィーノはルートヴィッヒのことを好ましく思っていなかったが、文面から祖父が喜んでいることが伝わってきたので相好を崩した。それは悪いことではなかった。アントーニョにもすぐに報告した。彼は義理の弟の幸せを素直に喜んでくれた。

「そう言えばお前、俺と見合いした時のことを覚えているか?」

 ふと思い出して聞いてみた。一緒に暮らし始めた頃はよく訊ねたものだが、いつしか日々の忙しさにかまけてそんな話もしなくなっていた。最近は今目の前にあることに必死で、今日あったことばかり話している。それはそれで楽しいし良いのだけれど、ロヴィーノはアントーニョがロヴィーノに関することをよくよく覚えているところが好きなのだ。

「そりゃあもちろん。よう覚えとるよ。ロヴィーノは舞台役者も真っ青のパリッとしたチャコールグレーの三つ揃えを着てきて、王子様みたいにキラキラしとってん。爺さんに連れられてやって来たロヴィーノがあんまり綺麗やったから、俺は一目でお前のことを好きになったんよ」

 何度も何度も聞いた愛の囁きを飽きもせずに語るアントーニョの分厚い唇は少しかさついている。今日も道路の舗装工事や堤防の補強のために、あちこちを視察していたらしいから乾燥しているのだ。仕事熱心なアントーニョは住民の声をよく聞き、公共事業に力を入れていた。それに伴う苦労はわからないが、暮らしが良くなるのは結構なことだ。
 そんなアントーニョの顔をじっと見つめながら静かに彼の言葉に耳を傾ける。それがあまりにまじまじと熱心なものだったせいか、アントーニョが少しそわそわと落ち着きなくなってきた。良いから続けろと目配せすれば、彼は少し浮ついた様子で頬を上気させる。まるで少年のような反応だった。

「あの日の食事会はロヴィーノのとこの料理やったで。前菜はルッコラのサラダで、オニオンスープとフォッカッチャ、鰯のパスタはめっちゃ美味かったなあ」
「お前ほんとよくそんなに覚えているよな」
「そりゃあ、まあ……」

 言葉を濁すアントーニョに先をねだる。なあ、なんで? そう聞けば彼は苦笑したように眉を下げると、視線にだけ媚を乗せてロヴィーノのことを見つめ返してきた。彼のそばまで寄っていって、その背中に腕を回す。アントーニョはロヴィーノを抱き返してくれた。

「どうやったらお前みたいに記憶力が良くなるんだ?」

 ごく至近距離で囁やけばアントーニョの喉が鳴る。それが合図だった。

「そらお前、一目惚れやったもん。お前のことは全部脳に焼き付けておこうと思って必死やったんよ」

 そのせいで汽車の中では上の空になってつまらない話ばかりしてしまった、と続けるアントーニョに吹き出しそうになったので、ロヴィーノはそうっと彼の唇へと自分のそれを重ね合わせてやった。舌を差し入れながら、そう言えば自分から仕掛けたのは初めてだったと気づく。
 唇を離すと、間近で見たアントーニョが泣きそうな顔をした。感極まっているのだろう。ロヴィーノだって胸が苦しくて仕方なかった。不思議な感覚だ。彼からのプロポーズを受けた時には何とも思わなかったのに、今はこうして見つめ合っているだけで世界が薔薇色に変わっていくようだった。
 何があったわけでもない。フェリシアーノは今もロヴィーノが見合いを受けた理由を誤解していたが、そうではないと納得させられるような劇的なこともなかった。ただ一緒にいても良いかと思って結婚して、与えられる優しさに自然と思いやりを返したいと思っただけ。それだけの日々を積み重ねていったら彼のことが愛しくて堪らなくなった。

「なあ、アントーニョ。今日はお前のベッドで寝たい」

 囁く声にアントーニョの体がびくりと強張る。しかしすぐにロヴィーノの体を抱きしめてきて、頬を擦り合わされた。

「絶対に優しくする」
「それだけは信用できるな。お前はいつも俺に優しかったから」

 そうしてふたりはようやく、ベッドの中でも夫婦になったのだった。

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