香水の話

 未だ発育途上にあるロマーノは頬に少年の面影を残している。それを両の手のひらでやわらかく包まれて、上から瞳を覗き込むように首を傾けて視線を合わせられると一瞬息が詰まりそうになった。この距離で見つめ合うのは久しぶりだった。
 いつも快活なスペインの瞳が真っすぐにロマーノを捉えている。その眼差しは熱に浮かされたように潤んで見えたが、ただそれはロマーノ自身の眼がそうであったのかもしれない。瞳に互いの姿を映し、どちらがどちらのものかわからないほどの至近距離だ。声を発すれば吐息が前髪にかかるほどの距離。
「ロマーノ……お前がオーストリアのとこに行っている間、ずっと考えててん。俺もうロマのこと、手放したくない」
「スペイン」
「ずっとそばにいてほしい。愛しているねん」
 まるで今それを告げなければ駄目になるとでも言うような切実さで訴えてくるから、ロマーノは思わずぎゅうっと唇を引き結んだ。そうしなければ切なさが胸の奥の塊を動かし、口から熱い吐息となって漏れてしまいそうだったのだ。その感情の名は知っていた。ずっと誰にも知られまいとしてきたものだった。そばにいるだけで胸の鼓動が逸るだとか、名前を呼ばれ気にかけられると嬉しくなるだとか、そういった類の情動を自然と伴うような想いである。それをロマーノ自身が何度も繰り返し否定して、青い花を握り潰すかのように決して報いることのないようにと押し殺してきたのだ。
 それなのに、スペインは何のてらいも駆け引きもなく、ただただ真っすぐに向けてくる。まるでそれしか知らないような愚直さには、胸を掻きむしりたくなる衝動に駆られた。
「……お前だけがさみしいとか思うなよ」
 ロマーノはともすれば震えそうになるのを気丈にも堪えて、じっとスペインを見つめ返した。
 見つめる、だなんて生やさしいものではなかったかもしれない。眉間には力がこもり、眉がキリキリとつり上がっているのを感じる。ほとんど下から睨み上げるような眼差しだっただろう。
 スペインはそんなロマーノから一瞬も目を逸らすことはなかった。怯えることも、怒ることもない。
「ロマーノもさみしいって思っててくれたん?」
「そりゃ、俺だって、お前のこと……」
 言いかけて、言葉を一度呑み込んだ。勢いのままに口を開けば言うつもりのないことまでぶつけて、責めるような真似をしそうだったからだ。深呼吸をして、ゆっくりとまばたきをひとつ。少し落ち着いたのか、脈がやたら早くなっていることに気づいた。
 重々しくため息を吐き出しながら普段は言わないような自身の気持ちを口にする。
「……俺だって好きでオーストリアの家に行ったわけじゃねぇし、ずっとお前とここで暮らしたかった」
「ロマーノ」
 後から思い返せば恥ずかしいようなことを言ってしまっている気がする。でも今を逃せば伝えられない気がして、必死で言葉を紡いだ。
「だから……ぁ、ああ……、あぃ……、し、」
 それなのに肝心なところで逃げてしまうのも、ロマーノの悪癖だった。それで素直に言えるなら何の苦労もしない。
「うぅ、だから、その……す、好きだよ、ちくしょー!」
 自分でもないなと思うような告白劇に、ふはっと場違いな笑みが溢れる。その吐息を聞いた途端、ロマーノの顔は瞬間的に茹だった。きっと真っ赤になっているだろう。勝手に震える肩がわなわなとわなないたが、スペインはニコニコと微笑んでいて、子どもを見守るような眼差しで目を細めた。
 この時、ロマーノは馬鹿にされたと思っていたが、スペインはロマーノのそういうところを好きになったのだと改めて実感して、その微笑ましさに笑みを漏らしたのだった。その、ロマーノの痛々しいほどに真っすぐで、どこまでも不器用なあり方がスペインの心をどうしようもなく掴んで離さないのだと言うことをロマーノは知らない。だから全身で力いっぱい怒って笑って、一心にスペインへと立ち向かってくるのだ。
「くそっ何だよ、ニヤニヤ笑いやがって!」
「やってぇ。それってつまり両想いってことやろ? 嬉しいやんか」
「浮かれてんなよ、ヴァッファンクーロ!」
「もー口悪いんやから」
 よほど怒鳴りつけてやろうかと思ったが、ひとしきり悪態をついてもスペインの緩んだ頬は戻らない。むしろ全身を使って必死で怒りを表現するロマーノが可愛くて仕方がないと言うように、眩しそうに目を細めるので、毒気が抜かれてしまった。
 どんなに腹が立つことがあっても、スペインがあまりにも幸せそうに笑っているのを見ると、ロマーノはいつまでも怒っていられなくなる。彼の幸福な笑顔にはロマーノの悪態を減退させる力があるのだろう。いつもそれでうやむやになっている気がするが、どうしてか、不思議とそれが居心地良かった。
「〜〜〜、くそっ」
「なあ、ロマロマ! ずぅっと一緒にいような!」
「……ふんっ、仕方ねーな。付き合ってやるよ」
「ありがとう、嬉しいわー」
「おう、そうだ、もっとありがたく思え」
「ふふふ、相変わらず態度だけはでかいんやから」
 こうしてスペインとロマーノは恋人同士になったのだった。それはロマーノが条約でオーストリア領になり、それをスペインが力と政治で以って取り返した年のことだった。
 
 
 
 さて、恋人になったからと言って、すぐに関係が変わるわけではない。ロマーノは何百年と国をやっているとは言え見た目は十代半ばの少年の姿をしていたし、その見た目に引きずられるように精神も未成熟であった。
(……ちゅーか、ちょっと幼い、ような)
 そんなスペインの懸念を裏付けるように、裸のロマーノがシーツの中に潜り込んでくる。
「おい、スペイン! もっとそっちに詰めろ! 俺が入れねぇだろ」
 これが恋人からの色っぽいお誘いということであれば大歓迎なのだが、ロマーノからは色気のいの字もないし、艶めいた様子のかけらも見当たらなかった。
「あー……ロマ、今日も一緒に寝るん?」
「……何だよ、俺が一緒じゃ嫌なのかよ?」
「いやっ、全然! 全くそういうわけちゃうけど! ただロマーノのベッドも新調したし、もう少し使ったってもええんちゃうかなって」
「シエスタはあっちでしているぞ?」
「そうなんやあ」
 せっかく想いを伝え合って晴れて両思いになったと言うのに、ロマーノはあまり変わらないように見えた。相も変わらずスペインの目の前で無防備に振る舞うし、寝る時は裸のポリシーを変えるつもりもないらしい。それなのに甘えてくるところだけは付き合いだす前よりもステップアップしているので、裸に下着だけの格好でご丁寧に枕を抱えて寝室へと乗り込んでくるロマーノ相手に頭を抱えることが増えた。
 スペインとしては、親分として彼の信頼を裏切りたくはないが、恋人としては全く男として意識されていないような態度が面白くない、という複雑な感情のせめぎ合いがある。かと言って、それとなく警戒心を持つように勧めても、
「? スペインとしか一緒に寝ようと思わねぇし別に良いじゃねぇか。何が危険なんだ?」
 と、珍しく全く邪気のない表情で首を傾げられるので、それ以上は何も言えなくなるのだ。
 ベッドの中で密着し、抱き合って眠る。ロマーノがまだほんの小さな子どもだった頃はそうやって一緒に寝ていたこともあるが、成長とともにだろうか、いつしかそういったこともなくなっていった。風呂も別、寝室も別、やがて食事すらほとんど一緒に摂ることもできなくなって、スペインは戦争に負けた。そうなって初めて気づいたのだ。ロマーノがいかに自分の中で大切な存在であったかと言うことに。
 らしくもない感傷に浸りながら、少年らしさの残る未熟な体を抱きしめる。その拍子にスペインの鼻先を甘い匂いが掠めた。
「ん?」
 すんすんと首筋に高い鼻梁を押し付けて匂いを嗅ぐ。するとやはり甘い匂いはロマーノから漂うことに気づいた。
「ロマーノ、なんか……めっちゃええ匂いする」
 なぜだろう。レモンのようなベルガモットのような柑橘系の爽やかな香りの中にほのかな花の匂いが交じる。昼間に何かしていたのだろうか。
「何の匂いやろ」
「風呂にはちゃんと入ったぞ」
「じゃあ石鹸の匂い?」
 スペインが使っているものとは違うように感じられた。クリアではあるが清涼感と言うよりも、甘さが際立つような気がする。しかし嫌な匂いかと問われれば全くそんなことはなく、むしろとても良い匂いのような―――。
「スペインも」
 ロマーノの肩口に縋り付くように顔を埋めて匂いを堪能していると、髪を引かれた。顔を上げる。少し頬を赤らめたロマーノがふいっと視線を逸すので、素っ頓狂な声が口をついて出た。
「へ?」
 そんな可愛らしい反応はめったに見れるものではない。自然と色めき立つスペインにロマーノが褥に似合いの甘ったるい声で紡ぐ。
「スペインもうまそうだぞ、このやろー」

 ……。

「え、美味そう?」
「パエリアの匂いがする……」
 ぐううう
 ロマーノの腹の虫が静かな寝室に鳴り響く。
 恋人とベッドで抱き合い、眠ろうとしているまさにその時に何と無邪気なのだろう。思わずスペインは自身の寝間着の袖に鼻を近づけ匂いを嗅いだ。
「風呂にはちゃんと入ったで!」
 確かに今日はパエリアを作ったが、だからと言って匂いが染み付いているわけではないはずだ。人から指摘されたこともない。たぶん、大丈夫なはず。
「腹が減ってきたぞ、ちくしょー……」
「ええ、いや、それはあかん! こんな時間から食ったら夜中に腹痛くなるで。ああ、もう寝よ寝よ!」
「うぅ……スペイン、このやろーめ。美味そうな匂いをさせやがって」
「あいだっ! ちょ、ロマ……かじらんとって!!」
 甘噛みのように歯を立てられて焦る。色っぽい雰囲気が全く皆無のベッドの上でそれはあまり好ましいことではない。
 渋々口を離したロマーノは、それでもなおブツブツと文句を言っていた。その恨み言にはさすがのスペインも途方に暮れるしかなかった。

 数日後、スペインはフランスに相談することにした。内容はロマーノに意識されるにはどうすれば良いのか、というものだ。もちろんスペインにもプライドと警戒心があるので、この食えない悪友にあまり踏み込んだことを話したくはないのだが、残念ながらスペインの今の交友関係では、恋愛相談ができる相手は限られていて、さらにとてもとても不本意なことに、この悪友の隣人はそういった手練手管に長けていた。つまり相談するには打ってつけの相手なのだ。
 確かに、どんな状況でも無邪気なままでいられるロマーノの態度は微笑ましい。とても可愛らしいと思うのだが、その一方でせっかく関係性が変わったのだからもっと違う反応がほしいと思うのもまた事実だった。変に怯えられてびくびくされても困るが、あんまりにも信頼を寄せられて絶対安全な守護者だと思われてもまた困る。そもそもスペインはそんな立場に甘んじるつもりがないからロマーノに愛を告げたのであって、今の押しも引きもできない状況には些か参っていた。
 恋とは人を欲張りにするものなのかもしれない。
 ロマーノを取り戻した時は確かにそばにいてくれるだけで良い、もう一度この子を抱きしめられるならそれ以上の幸せはないと思っていたのに、今はどうだろう。もっと甘い関係になりたい、ロマーノの甘い匂いが心地良い、もっとそばで互いのことを感じていたいとそればかり考えてしまう。
 つまり、スペインはロマーノに恋をしていた。だから、もっとロマーノに意識してほしい、そうスペインが願うのも仕方のないことなのだ。
「ロマーノにもっと意識してほしい? ……十分、意識しまくっていると思うけど?」
 しかしそれはフランスにしてみればあまりに今さらすぎる相談だった。何せ超がつくほどの鈍感で人の感情を察する努力すらしないスペインが気づいていないだけで、ロマーノは思春期真っただ中さながらの不器用さと純粋さでスペインに全意識を集中させていると言っても過言ではない。お前はロマーノの何を見てんの? それがフランスの見解だった。
「してへんよー! 一緒に寝てても隣でいびきかいてグースカ朝まで熟睡できるほど信頼されているのって、いや、嬉しいけど……でもそれって男としてどうなん?!」
「あーそれはまあ……」
「一応これでも恋人やのに」
「スペインに色気がないんじゃない? あと雰囲気って結構大事だよ。いつものノリで可愛い可愛い言っているようじゃあ、向こうも今まで通りの反応しか返さないって」
 恋人になったからと言ってそれはふたりの関係性に名前がひとつ増えただけのことだ。大事なのはそれをどう形作っていくかなのである。恋人になったからと言って即甘いふたりになれると思っていたら大間違い。
「そういう雰囲気つくろうとしてるんやけど、全然気づいてくれへんねん。俺にはどうやってそういう雰囲気になればええんか、もうわからへん……」
「なるほどなあ」
 端から見ている分には、今まで自分の鈍感で散々ロマーノを振り回してきたのだからちょっとぐらい振り回されてみなよ、と思わなくもないのだが、いかんせんロマーノにも鈍感なところはある。彼らはお互い相手は鈍感で察しが悪いと思っているのだ。
(まあスペインにとっても初めての恋人、だろうしなあ)
 それも今まで異常に可愛がってきた大事な南イタリアとの大恋愛である。ただでさえ可愛がり期で四六時中そばにいるのに、今まで通りの緩い家族のような関係ばかりを続けさせるのも些か酷な気がした。
「ロマーノも案外ウブだからな。お前も苦労するね」
「せやねん……そういうところが可愛いんやけどな? 未だにベッドに潜り込んでくるし、ロマ裸やし」
「裸で潜り込んでくるの!?」
「そう、しかもめっちゃええ匂いする」
「ええ……それで何もしてないとか、スペイン、お前……前々から不感症なんじゃないかと思っていたけど、たたないほうだったのか」
「めちゃくちゃ元気や! 勝手に人のモンを役立たず扱いせんとって!!」
「うーん、事の真偽は確かめられないからお兄さんからは何も言えないけどぉ」
「真や真!! 元気すぎて困っているぐらいや!」
「そうそう、それで? その暴れん坊皇帝はナニしているって?」
 わざと下品な笑みを唇に刷いて問えば、じっとりとした視線を向けられた。それこそ彼の恋人であればこわがったのかもしれないが、戦場で剣を交わしたこともある相手のそんな表情ぐらいで、今さらフランスが怯むはずもない。何てことのないかのように飄々と受け流すと、はあっとため息をつかれた。
「俺の皇帝はフランスと違ってお行儀がええから何もせえへんよ。それにちょっとええ感じの雰囲気になっても、ロマーノの腹の虫が鳴りだしてそれどころじゃなかったし」
「ぷっ、くく……っ。ロマーノらしい」
「あいつ、それですっかりパエリアの口になっとったから、夜中に鍋振らされたわ」
「腰は振れないのにね」
 またじろりと睨まれた。スペインだって決して真面目というわけではないし、冗談にだって乗っかってくるのだが、趣味の悪い軽口は好みでないようだ。
「まっ、良いじゃん。そういうウブな恋人を徐々に自分色に染めていくって言うのもまた醍醐味なんじゃない? 好きな子相手だったら面倒なことなんかひとつもないでしょ」
「自分色に染める?」
「そうそう、つまりね。お前の匂いを嗅いだらソウイウことをするって覚えてもらえば、嫌でも意識せざるを得ないでしょ?」
 芝居がかった仕草で肩をすくめウィンクする。
「それに恋人といる時ぐらい香水つけたら? 色っぽいことしたいならそれなりに努力しないと」

 ○

 フランスは軽薄な言動が多くふざけているように見えるが、性質の悪い男ではない。例えば意味もなくスペインを不幸にして悦に浸るだとか、紆余曲折を経て結ばれた恋人同士にちょっかいをかけて引っ掻き回すような真似はしない。
 だから彼の助言はそう的外れではないのだろう。先日の『深夜にロマーノがパエリアを食べたいと駄々こねて大変だった事件』もスペインの匂いが原因だった(未だにスペインの匂いのどこにパエリアの要素があったのかが謎であるが)。スペインにとってはどんな状況であってもロマーノの匂いにはドキドキと胸が高鳴るし、容易くそういった気分になる。それと同じようなことがロマーノにも起きてくれるなら大歓迎だ。
 何より、恋人を自分色に染める、という言葉に惹かれないものがないわけではなかった。どことなくスペインの心を揺さぶるような魅惑的なキーワードが含まれている気がする。
 畑仕事に戦闘、大航海と泥くさい仕事の多いスペインは今まで積極的に香水を着けたことがなかったが、決して意図して遠ざけていたわけでもなかった。これを機会に身だしなみに気を遣っても良いかもしれない。
 そうと決まれば早速オーダーするしかない。スペインは自身の持つ様々な人脈を使って腕の良い調香師を探し出した。
「スペイン、こないだ言うとった調香師から連絡きたで。香水が完成したから送るって」
「ほんま?! 思ったより早かったなあ!」
「ちょうど材料が揃ってたらしいわ」
「うちの上司サマサマや! ほんまおおきに!」
 調子のええやつ、と呆れたように返されるが今なら何を言われても鼻歌交じりに聞き流せそうだ。基本的にスペインはロマーノ以外の言葉は鼻歌交じりで聞き流せるのだが、今日は特にそういう気分だった。
 さて、調香師から送られてきた香水の瓶には手紙が添えられていた。内容は今回作った香水がどういった香りで構成されていて、それにはどんな意味があるのかという説明が主だったが、初心者のスペインにもわかりやすいよう着け方も書かれていた。着けすぎは嫌味ったらしくなるから、あくまでさり気なく、少量を振りかけるのが良いだろうとのことだった。せっかく作ったのにスペイン自身ではほとんどわからないような香りに物足りなさを感じつつも、初めての香水という気恥ずかしさもあったので説明通りにしてみた。
「……何か今日、匂いがいつもと違うぞ」
 匂いに鼻が慣れたこともあり、スペインは意識していても気づかないようなものだったが、ロマーノはすぐにスペインの香りの違いに気づいたらしい。出会い頭に眉をひそめられた。
「あ、わかる? 香水着けてるねん」
「はあ? 今までそんなもん着けてなかったじゃねぇか」
「新しく作ってん!」
「ふうん……」
「なあなあ、どう? 何か思わん?」
「べつに」
 ところがスペインの期待に反してロマーノの反応はそっけなく、つれないものだった。面白くなさそうに口を尖らせて何を聞いてもつっけんどんな返ししか寄越さない。始めは機嫌が悪いだけかと思っていたが、何日経ってもスペインの香水の匂いを嗅ぐ度に眉をひそめるので、もしかすると新しく作った香水が彼のお気に召さなかったのかもしれない、と思った。
「ロマ、もしかしてこの香水の匂い嫌い?」
 せっかくロマーノのために作ったのに彼が嫌がるのならば意味がない。そう思って問いかけるが、ロマーノはふいっと顔を背けるだけで返事すらしてくれなくなった。
「うーん、結構評判ええねんけどなあ。似合っているとか、ええ匂いやでとか。街でも褒められたんやで?」
「……」
 しかしその言葉は逆効果だった。ロマーノはますます頑なになって、意地でも良いとも悪いとも口にはしなかった。やがてスペインはロマーノの感想を求めることを諦めた。
 スペインは気づいていないが、ロマーノは香水の匂い自体が嫌だったわけではない。むしろ周りの評判通りスペインに似合っていると思った。それでも良い顔をしなかったのは、急に香水を着けただしたスペインのことが面白くなかったからだ。
 ロマーノも年頃だったから自分の体臭も気になるし香水にも興味はあった。すれ違う女性たちに汗くさいなどとは思われたくないし、どうせならすれ違いざまの一瞬であっても良い印象を残したいと思っている。なのに、それをスペインも気にしていると思うと、どうにも良い気がしないのだ。胸の奥からムカムカとしたものが込み上げてきて、嫌な気持ちになる。
 そもそもスペインは最近までそういったことに一切興味がなかったはずだ。街中でロマーノから見れば素敵で魅力的な女性たちがどんなに熱い視線を送っていても、ロマーノと話すことに夢中で気づいてすらいないような態度が平常運転。余裕があればおしゃれも楽しんでいるようだが、ここ最近は身だしなみも最低限のものしか気を配っていないようだった。
 それなのに、だ。それなのに一体なぜ急に香水をつけようと思ったのか。その理由を考え出すと鬱屈とした感情で胸がふさがって、気が晴れそうになかった。
「フン! お前なんか所詮パエリアの匂いがお似合いなんだ、ちくしょーめ!」
 可愛げがないどころか、スペインの自尊心や身だしなみを気にする心配りまで否定するような悪態をついてしまう始末。もちろんそんなロマーノの態度にスペインは困ったように眉を下げて、ひどいわー、と肩を落としていた。その落ち込みようはロマーノの罪悪感を刺激するには十分なものだった。
 ところが、それでめげないところがスペインのスペインらしいところである。彼は一度や二度、ロマーノから悪態をつかれたぐらいで自分のやろうと思ったことをやめるような男ではなかった。
「……お前、また香水つけてんのか?」
「せやでーまだまだ一瓶残ってるもん。使いきらなもったいないやろ」
「…………」
「ロマは嫌みたいやけど、まあちょっとの間やし。我慢したってな」
 それにうち今あんま余裕ないから、せっかく作ったのに無駄遣いしたってなるとなあ。そうぼやかれればロマーノはそれ以上、異を唱えるわけにはいかない。それにスペインにはあんなことを言ったが、この香水は彼によく似合っているのだ。オレンジやレモン、ライムといった柑橘系の爽やかで甘酸っぱい匂いが伸びやかに広がり、朗らかで明るいスペインの笑顔を彷彿とさせるような香り。不意に中庭に咲く花のような優しい匂いがするのは、ジェラニウムやローズといった香りが調合されているのだろうか。決して人を威圧し警戒させるようなものではない。もっと好ましくて、ずっと匂いを嗅いでいたら落ち着いてしまうようなものである。
「べ、別に……我慢するってほど嫌なわけじゃねぇよ」
「ほんま? ロマ、この匂い嫌ちゃう?」
「……悪くはねぇぞ」
「そか、それなら良かったわ!」
 それならばどうして悪く言ったのかと問い詰めることもしない。朗らかに笑うスペインには、確かにこの香りが合っている。
 町の人々が褒めたと言うのも納得できる。ロマーノは香水を着けだした経緯に引っかかっていて素直に良いとは言えなかったが、香水自体は決して悪いものではなかった。
 結局、スペインはその後も香水を使い続けた。はじめは嫉妬心から些細な反発を見せていたロマーノにとっても、その香水がスペインに馴染み当たり前のものになるまで、そう時間はかからなかった。長くとも三ヶ月もなかっただろう。スペインが毎日香水を着けているために、彼の匂いをそれだと認識するようになっていった。
 そうして、スペインが香水をつけるようになってから暫く経った、ある夜のこと。ついにふたりの関係性に変化が起きた。
 引き金を弾いたのはスペインだった。
「ロマーノ、先にシャワー浴びておいで」
「あー……これが読み終わったら」
「それとも俺と一緒に入る?」
「……なっ?! 入んねぇよ! 何でスペインやろーと一緒に風呂に入らなきゃなんねぇんだ!!」
「ははは、やってロマーノがなかなか入らへんから、そのほうが時間の節約になるかなって思って」
 ケロッと言われて毒気を抜かれてしまう。しかし相変わらずの子ども扱いには呆れた。ロマーノはもう子どもではない。この姿で一緒にシャワーを浴びるだなんて、ただごとではないのにスペインはわかっているのだろうか。
「もちろんわかっている決まっているやんか」
「へ?」
 心の声に返事があった。どういうことだと気の抜けた声を漏らせば、口に出てたで、と笑われる。それが恥ずかしくて顔が熱くなった。
 顔どころか目の奥も熱い。熱いせいで涙が瞳に膜を張ろうとする。
「せやけど俺らも恋人になってから結構時間が経っているし、そろそろ風呂ぐらい一緒に入ることがあっても、全然おかしくないと思うんやけど」
「ちぎっ」
 それとも、ともったいぶった言い方で言葉を繋いだ。
「後からのほうがええ?」
「あ、後って、何の」
「ソウイウことした後ってこと。ずっと一緒に寝ているんやから……俺たち何があってもおかしないやんな」
 スペインがロマーノを窺うように覗き込んでくる。それに思わずたじろいで、踵を後ろ向きに引いた。
「……ロマ、何のことかわかっている?」
「ば、馬鹿にすんな! ……わかっているに、決まってんだろ」
「そか」
 ロマーノが後ろに退がった分だけスペインが踏み込んできた。さり気なく腰に手を回されて飛び上がりそうになる。
「そうか、わかるんか」
「おう、わかるんだぞ」
「……せやったら、その、あー……今日はソウイウことしたいです」
 ドキドキする。心臓の音がスペインに伝わってしまうんじゃないかと心配になるほど鼓動が高鳴ってどうしようもなかった。スペインも珍しく落ち着かない様子で顔を赤くしていた。よくよく見れば、ロマーノにふれる手が強張っていて緊張しているのがわかる。
「手、離せよ」
「えっ!」
「……風呂! 入ってくるから手ぇ離せ!」
「あ、え、はい」
 パッとロマーノから手を離し、降参するようなポーズで両手の手のひらを顔の横でこちらに見せてくる。それを見て、よし、と頷くと駆け込むように風呂場へと向かう。あまり長居をすれば、恥ずかしさで言わなくても良いようなことを口にしてしまいそうだ。
「お前は先にベッドにいてろよ!」
 部屋を出る間際、ふと思い立って振り向きざまに命じる。必死で視線に力をこめて睨めつけると、一瞬虚を突かれたような顔を見せたスペインがみるみる間に表情を崩し、片手で額を覆いながら
「……ん、わかったわ」
 と頷いた。

 シャワーを浴びた後、ともすれば自室へと引き返しそうになる臆病な心を叱咤しながらどうにか寝室へと足を向けた。シャワーを浴びる間も水の一滴一滴が皮膚を刺してくるかのように感じるほど神経が研ぎ澄まされていた。
 これからスペインとそういうことをする。それを意識しただけでこんなにも鋭敏になっている。実際にスペインの手でふれられたら、一体どうなってしまうのだろう。そんな不安も確かにあった。しかしそれで怖気づくほどロマーノの愛は浅くはなかった。
(俺だってあいつとそういうこと、したい、し)
 それもただの好奇心ではない。もしそんな理由でスペインにふれたいと思っているのであれば、とうに一線を越えていた。今までそれがなくたってふたりは恋人同士で、セックスがなくたってそばにいるだけで幸せを感じていた。
 互いの服を脱がせ合い、キスをして、その素肌にふれて抱き合って。愛する人とするその行為はきっととても幸せなものなのだろう。
「……スペイン」
 そっと寝室の扉を開く。呼びかけた男はベッドに腰かけた態勢で本を読んでいた。
「どうしたん。いつもやったら力いっぱい開けるのに、今日は静かやな」
「うるせ」
「廊下寒いやろ? 中入っておいで」
 目を細めて手招きする。優しげな言い方や仕草はともすれば子どもを相手にするような甘やかさがあるのに、熱のこもった視線だとか低く掠れる声だとかがどうにも艶めいていて、不自然に浮いていた。
 寝室の明かりは橙色に落とされていた。それが余計にスペインのみどり色の瞳をとろりとした黄金色に見せるのでロマーノの思考も浮かされる。ふらふらと扉の内側に足を踏み入れ、―――後ろ手に閉めた。こっち、手招きされるままにベッドへと近寄る。あと一歩半のところで腕を伸ばしたスペインに抱き寄せられる。
「んっ」
 そのままスペインが後ろに体を倒すので、つられて前のめりに倒れ込んだ。スペインの体の上に乗り上げベッドに肘を突くと、片手を取られて指を絡められる。そうしてシーツの上を滑らせるかのように上に引っ張られてベッドへと上げられた。
「ロマ……」
 耳に吹き込まれる声がいつもと違って色づいている。その事実にロマーノの胸の鼓動は一層高鳴った。互いの体温が高まっていくのがわかる。これ以上ないほどに緊張している。
 ふとスペインから香る匂いがいつもと違うことに気がついた。
「お前……香水変えたのか?」
「変えてへんよ?」
「え、でも……こんな匂いじゃなかったぞ」
 確かに爽やかさや甘さはあるものの、それはロマーノにも馴染みのある柑橘類や花の匂いとは違うもののように思えた。相変わらずスペインの大らかさを表すような温かみがあるが、どこか男性的な匂いが強くなっている。すぐ近くで嗅いでいると、なぜだか落ち着かなくなるような匂いだ。
「ああ、香水ってな混ぜてる香料によって持続する時間がちゃうねん。せやから時間が経つと匂いが変わるんよ」
 もぞりと身じろぐロマーノにスペインは事もなげに言った。
「そう、なのか?」
「うん。そういうもんやねん」
 しかし匂いを変えたわけでもないのに、こんなに印象が変わるものなのかと驚いた。彼の言う通りならば昼間にもこの香りがどこかに潜んでいたはずなのだ。いくら思い返してもちっとも心当たりがない。
「ええ匂いやろ……?」
 目を白黒させているロマーノにスペインが問いかける。その声が一段低く感じられて、耳から全身に広がる甘い毒のように染み込んだ。背筋がぞくぞくと震えて切なさにスペインへと縋り付いた。スペインの瞳もどこか熱に浮かされたように潤んでいて、これからの行為への期待を膨らませた。
 小刻みに震えながら微かに頷くとスペインがうっそりと微笑んだ。もはや冷静な思考などできる余裕はなかったが、それはおそらくスペインもそうなのだろう。ふたりはそのまま熱く絡み合い、もつれて、溶けるように夜へと沈んでいったのだった。

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