近所の犬の話

 およそ十年ぶりぐらいになるだろうか。久しぶりに訪れたパリの街は、相変わらず華やかできらびやかだった。弟と上司の二人がかりで泣きつかれ、聞かなければ外出させないと言わんばかりの剣幕で頼み込まれなければ、あと十年は来ることはなかっただろう。何もパリが悪いわけではない。ロマーノに、ここへ来る用がないだけである。
 街の中心地から十分ほど歩いたところに、この国は住んでいる。気まぐれな男であるから、必ずしもそこにいるとは限らなかったが、弟か上司が事前に連絡をしていたのだろう。ベルを鳴らすとすぐに出てきた。

「アロー、待ってたよ」
「……」
「ちょうどコーヒー淹れてたんだ。上がっていきな」

 頼まれた書類を渡して返事を持って帰ることがロマーノに託された仕事だ。それだけならば玄関先で済むことだったが、この男がそれを許すはずもない。マナーもあるが、単純に客人をもてなすことが好きなのだ。
 チラリと視線をやった室内からは菓子が焼ける良い匂いがする。わざわざロマーノが訪れるのに合わせて作ったのだろうか。

「仕方ねぇな」

 建前だけ舌打ちを打って渋々、といった体を取ると、フランスは頬を緩ませて笑った。
 リビングに通されソファに座っていると、程なくしてフランスがコーヒーとマドレーヌを持って来た。幼い頃、ロマーノが好んで食べていた焼き菓子だ。しっとりとしたスポンジ生地にレモンの爽やかな香りが引き立つ。

「ごめんねー、郵送するわけにはいかない内容でさ」
「らしいな」
「すぐ確認して返事を書くから」

 それを食べて待ってて、と目を細める。ロマーノだってその仕事に関わっている国であるから、書類の内容が何かをよく知っている。どういった経緯で今どんな話になっていて、この書類にどういう意味があるのかを説明された上で仕事を頼まれているのだ。しかし、フランスは至ってさり気ない仕草で、ロマーノの視線を遮るように封筒を立てて隠れて読もうとするので、呆れてため息が漏れた。
 過保護な親馬鹿と付き合っているせいか、フランスの中にいるロマーノも未だ子どもの頃のままなのだろう。けれど、ロマーノは本当の子どもではなかったから、いちいち目くじらを立てて怒るようなことはせず、ソファに深く沈み込んでコーヒーカップに口をつけた。
 静かな室内に紙を捲る音だけが響く。テーブルマナーだけはオーストリアに躾けられたこともあって、何気ないティータイムですらロマーノが何らかの音を立てることはない。静かに上げ下ろしをするコーヒーカップの中身が半分ほど減った時だった。

「近所に犬がいるんだけどね」

 唐突にフランスが切り出した。

「ああ?」
「会わなかった? 黒っぽい大きな犬」
「……見なかったぞ」
「そか。今朝うちにいたんだけどなあ」

 でも鉢合わせなくて良かったね、と続けてチラリとロマーノのほうへ視線を上げる。訝しげに眉をひそめて、犬は怖くないのだと虚勢を張れば面白いジョークが通じたと言わんばかりの笑顔を見せた。

「そいつ普段は温厚で良い奴なんだけど、飼い主にちょっとでもさわったるとすごく凶暴になるの」
「はあ?」
「手を出したと思うんだろうね。この間なんて肩についてた葉っぱ取ってあげただけで、お兄さんのジャケットとジーパンに穴空けられて大変だったんだから」
「……」
「だからお前と会わなくて良かったなって」
「飼い主に手を出さなければ平気なんだろ?」
「うん、まあ。どうなんだろうね」
「……犬の躾なら芋やろうに相談しろよ」

 再び書類へと視線を落とす。伏せられたまぶたを金色のまつ毛が縁取っている。

「プロイセンに聞いたんだけど、あいつにもどうしようもないみたい。指食い千切られそうになってた」

 想像するだけで手先がじくじくと痛みだした気がする。そう言えば、最近、弟からプロイセンが腕に大層な包帯を巻いていたと聞いたことを思い出した。このご時世、そんな大けがをすることなんて滅多にないから心配だと言っていた。その時はドジ踏んで転んだだけだろうと思っていたが、フランスの言う犬の仕業だとすれば恐ろしいなと思って背筋を震わせる。

「飼い主は何しているんだ」
「気付いてないんだよ。自分の犬が凶暴だってことに」
「……」
「あいつは飼い主には絶対手を出さない。何されても従順に大人しい犬をやっているよ」

 眉間に皺を寄せて怪訝な表情をするが、ロマーノのその顔を見ている者は誰もいない。フランスは書類の文字を目で追いながら器用に会話を続けた。

「ちょっとじゃれてるだけだと思っているんだ。俺やプロイセンとは仲が良いんだろう、よく懐いているなってな。この間なんか自分にはそんなことをしないって羨ましがられたんだぜ」
「馬鹿な飼い主だな」
「うーん、そうとも言い切れないけどね。自分の前で大人しくて温厚な優しい犬がさ、よそでは手も付けられない荒くれだなんて想像もできないんじゃないか」
「そいつは犬のくせに猫かぶってるのか」
「ははは、変な奴だろ」

 けれど、今朝家にいたと言うことは遊びに来ることもあるのかと思い至って、犬とフランスの奇妙な関係に首を傾げた。飼い主が絡まないところならば普通の犬なのだろうか。飼い主を騙すほどの温厚さが本当ならば、普段は本当に良い奴なのかもしれない。

「番犬には良いかもな」

 冗談のつもりで言った。こんな都市部の一般住宅(その飼い主が何者かは知らないが、フランスの家が普通の住宅街にあるので勝手にそう判断した。だが、おそらくその推測は当たっていて飼い主は一般人のはずだ)で、番犬が必要なことなんてそうそうあるはずもない。けれど、フランスは笑わなかった。

「そう、そうだな。あいつはきっと、そのつもりなのさ」
「……」
「何百年も前から、きっとこの先、何百年経っても。俺やプロイセンや、世界中の何もかもから守りたいのさ」
「犬の話だろ?」
「犬の話さ」

 フランスの指先が自分の目の前にあったコーヒーカップにかかる。何かを言いたげな顔でじっとこちらを見つめてきたが、結局、言葉にはならずコーヒを飲み込んでしまった。

「こうも平和なのは良くないな。犬のアイデンティティってやつがなくなっちまう」
「そこまで平和でもねぇだろ」
「飼い主が脅威に晒されていないとね。近所に住んでいるだけで、しょっちゅう噛み付かれているんじゃあ俺も割に合わない」

 核心にふれられない会話に、ついにロマーノはつまらなそうな顔を隠しもせず、イライラとテーブルを叩いた。しかし、フランスのアメジストの瞳が真実を語ることはなかった。

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