ベル

 人生はギャンブルみたいなもので、何をやっても上手くいく日と全くダメな時がある。それがどういうタイミングで訪れるのかは長く生きたロマーノにもわからないが、自分ではどうしようもないところで世界は回っていて、昔の人はそれを星の巡りだと言った。木星の影響を受けて運気が下がるとか、土星に入ったから良いとか、そういうあれだ。そうして、そのいかがわしさは現代になってもさほど変わっていなくて、昨日まではダメだったものが今日には良くなっているかもしれないし、一日の終わりに目の醒めるようなベッラから告白されて大逆転、なんてことだってあり得る。とにかく今日がどちらに転ぶかは眠りに就くその瞬間までわからないのだ。

 しかし、今日はツイていない日だった。

 せっかく早く起きて干した洗濯物は昼過ぎに襲ってきた通り雨がダメにした。ランチは注文を忘れられて待ちぼうけ、上司には虫の居所が悪かったのか理不尽なことで怒られるし、猫にまでバカにされる始末。ふと気が付けば返事を考えるのがおっくうで携帯電話のメールは一週間、見ていない。
 どれも、普段ならばもっと上手くやれたし、そういうこともあると流せるような些細なことなのに、今日のロマーノにそんな余裕はなかった。

 朝から耳鳴りが酷くて気分が沈んでいたせいかもしれない。
 まるで頭がい骨に響かせるようにキーンと高い音が鳴り続けていて、何だか目まいがする。それは耳を塞いでも止まなくて、かと言って我慢できないほどでもないから性質が悪い。じわじわとロマーノを追い詰める不協和音は、無視はできない強さでぼんやりと苛み続けている。

 ただでさえやる気のない仕事がこんな状態で集中できるはずもなく、口うるさい上司の怒鳴り声が三度、部屋に響いたのを機に仕事場を飛び出した。それはもう、ほとんど発作のようなものだった。考えるよりも先に逃げるように駆け出す。ロマーノを呼び止める声も振り切って走って走って走り続けた。これで、明日もまた仕事に出かけるのが憂うつになるのだろう。遠くで、兄ちゃん、と言う声が聞こえた気がした。

 街へと出るともう誰も追いかけては来なかった。代わりに携帯電話が鳴ったが、ディスプレイすら見ずに無視をする。これが自分ではなく別の誰かならば、きっと何が何でも捕まえようとしたのだろう。けれど、ロマーノは虚しいほどに自由だった。
 しかし、逃げたところで行き場もない。まさかこのまま家に帰るわけにもいかないから、自宅に続く道の途中にあるオープンテラスのカフェへと入った。その頃には街も夕陽に染まっていて、夜の気配が近付いていた。
 こんな時間の大通りに面したカフェにいる客なんて、楽しそうなカップルや観光客ばかりだ。聞くつもりがなくても嫌でも耳に入ってくるはしゃいだ声。賑やかな喧騒に取り残された自分だけが、孤独で惨めなもののように思えてくる。ああ、そうだ。ここにいるのは朝から災難続きの、ダメなほうのロマーノなんだと。余計に悲観的になって喉の奥がツンと痛くなった。それに共鳴するように耳もとで鳴り続ける音が大きくなる。高いとも低いとも言えない、不愉快な音。

 たった一日、耳鳴りが止まない。それだけで、もうロマーノは自分の身体がダメになってしまったんじゃないかと途方に暮れた。国であるから普通の人間よりは丈夫だが、悠久のような時間を重ねる間に身体が耐えきれなくなったと言われても何ら不思議はない。もちろん、ロマーノよりもずっと長生きな国はあるが、それでも自分が同じように過ごせるとは限らないのだ。

 むくむくと不安が首をもたげてくると止まらなくなって、脈が時折、跳ねた。

 もしも、このまま身体に不具合があって、ゆっくりと活動を止めてしまったならどうしよう。それはまるでSF映画に出てくる時代遅れのロボットのように、忘れ去られた文明のように、穏やかに呼吸すらしなくなるのだ。腕も足も石のように重く冷たく、動かすことすらできなくなる。やけにリアルな想像に関節と言う関節がギシギシと軋んだ。
 それは一種の逃避でもあったが、それに思考を取られている間は幾らか気が紛れる。
 例えばロマーノが動かなくなったなら、きっとスペインは泣いてくれるだろう。彼は感情表現の大げさなところがあるから、周囲の国たちが宥めるのに苦労するかもしれない。案外、フランスあたりは律儀に墓参りに来てくれそうだなと思った。それも忘れた頃にひょっこりと。ドイツとプロイセンは、ロマーノにとってはシャクだけどそれでもきっと哀しんでくれるのだろう。それこそ、彼らは毎年墓までやって来そうだ。オーストリアは迷子になるから連れて来ないほうが良いかもしれない。ベルギーやオランダも哀しんでくれそうだが、スペインのようには取り乱したりしないだろう。
 その他の国が自分に対してどう言う反応をするのか想像もつかない。それでも皆、それなりに哀しんではくれるのだろうけれど。
 そんな詮ないことを考えながら人通りの少なくなった大通りを見つめていたら、迷惑そうな顔をした店員に肩を叩かれた。もうそんな時間だったかと時計を見やれば、なるほど、閉店時間はとっくに過ぎていた。一体、何時間ここにいたのだろう。慌てて無愛想な彼女にチップを多めに渡して店を退散する。
 ひと気の引いた夜の市街地を歩くと、先ほどまでの妄想は霧散して消えてしまった。駅の階段まで来たが、結局、電車に乗る気にはなれなかった。駅を通り過ぎて地下鉄三駅分を歩いて帰る。自転車なんて乗って来ていないから、黙々と歩き続けた。
 足を動かしていると今度は蓋をして考えないようにしていた、今日の出来事が思い浮かんでは消えていく。
 もう自分はダメだってそんなことばかり考えて、誰に言うでもない言い訳ばかりが浮かんでくる。俺のせいじゃない、けれどこの居た堪れなさからは逃げられない。

 不意に携帯電話の着信音が鳴った。放置し続けているメールのことを考えたら更に気が滅入る。返事が遅くなればなるほど、次に返す時に気まずくなるのに、それでも今は返せそうにない。こめかみがドクドクと脈打つが、頭の中は妙に冷えていた。
 しかし、見なかったことにしようとしているのに携帯電話は鳴り続けた。初期設定から変えていないチャイムのような音はよく響く。それが、鳴り止まない耳鳴りに重なってロマーノを追い立てた。

 痛いいたい痛いイタイ。

 一日中を苛む痛みに思考が散漫になる。ああ、うっとうしい。これは一体いつまで続くんだ。
 鳴り続ける携帯電話は一回、途切れても間を空けずにすぐに鳴り始めた。しつこくロマーノの耳鳴りの上から鼓膜に刻み付けるように何度も何度もベルは鳴る。

「……」

 ポケットから乱暴に携帯電話を取り上げる。大きな画面に映し出された緑のボタンを強く押した。ザザッと一瞬、ノイズが混じってすぐにクリアになった。

「あ、ロマーノ?! もう何回かけても全然、繋がらんからどうしたんかと思ったやん。俺のことケータイ不携帯なんて言われへんで」

 その日のロマーノには似つかわしくない明るい声が耳もとから流れてくる。高くも低くもない、いつもの声。

「なあなあ、今日何してたん? 俺のこと、ちょっとは思い出した瞬間あったか? なあんてな! ロマーノのことやから可愛え女の子にでも声かけてたんやろ。俺はずっとお前のこと考えとったのに!」

 ロマーノの返事も聞かずにペラペラと話し出す。次から次へと生まれてくる言葉は電話越しだからか、やけに穏やかに聞こえた。

「てかなあ、そんなことより聞いてくれへん? 今日、溜めとった洗濯もん片付けて車洗ったんやけど、通り雨きて全部パァやで。親分、めっちゃ災難やわ」

 うるさいと思った。そんなことで電話してくるんじゃないと、そう怒鳴り付けたつもりいだった。言葉は声にならないで、夜の街へと溶けていく。

「しかも昼、フランスんとこで仕事やってんけど入った店で俺のだけ注文忘れられるし、それで昼からの会議に遅刻してめっちゃ怒られるし、ほんまやってられへんわあ。ロマーノの声聞いて癒してもらお思ったのに何回かけても全然出ぇへんし!」

 好きなことを話して勝手に怒っているスペインは、今日のロマーノがどんな気持ちで一日を過ごしたかなんて知らないだろう。今日がどれだけツイていかなかったのか、そんなことも。
 それぐらい何なんだって頭の中では饒舌に、反論する。ロマーノだって早起きして干した洗濯物がダメになったし、ランチは食べ損なったし、上司には怒られるし猫にまでバカにされたのだ。しかも一日中、耳鳴りがしてイライラしている。
 何より、そう何より。先週、弟とケンカをした。お互い引っ込みがつかなくなって、酷いことも散々言い合った。今日だって仕事中、そばにいたのに顔も見なかった。だから、上司はロマーノにだけ怒った。いつまでもそんな子どもみたいなことしてないで仲直りしなさいと。何で俺が、なんて反論すればするほど怒られた。

 でも本当は、なぜ自分がそう言われているのか、理由だってわかっている。誰も彼も、理不尽にロマーノにあたっているわけではない。ただ上手く伝えられなかっただけだ。

「やっと家帰って来たからさっきからずっとかけてたんやけど……気付かんかった?」

 そんなわけはなかった。スペインから電話がきていることには気付いていたが、ずっと無視をしていた。弟とのけんかのことを聞きつけて、スペインにまで怒られるんじゃないかと疑ったからだ。スペインからわざわざ連絡がくるということは、きっとそういうことだと思ったから。だから無視をし続けた。
 そうしたら今朝起きた時に耳鳴りが始まった。

「……ロマーノにめっちゃ会いたいわ。明日、休まれへん? うち来てや……お前がええんやったら、俺がイタリアに行ってもええけど」

 首を横に振る。電話でそれじゃ伝わらないのに、必死になって何度も頭を振った。

「どっち? 行ってええの? 来てくれんの?」
「……」
「答えてくれんかったら勝手に行くで」
「……おれがいく」
「そか」

 そうか、とスペインは何度も頷く。ロマーノはそれきり言葉を発さなかったが、まるで何でもお見通しと言わんばかりにわかったかのような声で、ロマーノもえらかったんやなあと苦く笑った。

 うるさい、お前なんか、何も知らないじゃねぇか。

 強がりは言葉にならなくてロマーノの周りには静寂が流れる。ただ、電話の向こうでスペインが何度も何度もロマーノの名前を呼んだ。
 自宅の前を通り過ぎて近所の公園まで遠回りをする。何も話さないくせに電話はいつまでも切れなかった。

 明日、ロマーノはスペインの家まで行く。上司にも弟にも何も言わずに出て行くし、しかも夜まで帰らない。
 スペインは荷物も持たず身ひとつでやって来たロマーノに何も聞かないだろう。ただ笑って、どうでも良い話をするのだ。
 そして明日に限っては、仕事を無断欠勤するロマーノを叱る人はいない。皆わかっているのだ。だから腹立たしくて、悔しい。
 とにかく今は、その身勝手な優しさがただひたすら腹立たしかった。

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