好きってだけじゃだめらしい

 四月、まだ高校生の面影残る初々しい新入生たちが、新しい生活への不安と期待を抱いて通学路を行き交うのを見かけるようになった。地方都市の街外れにあるキャンパスは緩い坂道の途中にあって、だらだらと続くその坂には入学当初、ずいぶんと苦労をさせられたものだ。学舎の裏手には雑木林が広がっていて、廊下に入り込んだ伸びた木々の先に若葉が芽吹き春を感じさせた。長い春休みが終わってロヴィーノは三回生になった。
 オリエンテーションが終わって帰ろうとしたロヴィーノを学科主任の教授が呼び止めた。アントーニョが呼んでいる、緊張事態らしい、と告げられた時には放り出して逃げてしまいたかったが、ここで現実から目を背けても状況は良くならない。往々にしてゼミの担当教諭から緊急で呼び出されるなんてものは、学生にしてみればろくな理由でないことがほとんどだ。単位が足りない、授業態度に問題がある、課題の成績が振るわない……最後は決まって、これでは卒業させられないと続く。心当たりがあるわけではないが、自覚していないところで失敗を犯しているのかもしれない。これは放置して良い問題ではないと恐る恐る彼の研究室を訪れた。
 一体、何を言われるのか表情を強張らせるロヴィーノを、アントーニョは満面の笑顔で出迎えた。ニコニコと上機嫌なその表情に、それまで感じていた不安とは違う種類の悪い予感が過る。そうしてロヴィーノが身構えるより前に無神経な大声で

「ロヴィーノ、よう来たなあ! これ、履修届。ここに名前書いてー今日中に出してな!」

 そう言ってずいっと紙を一枚差し出した。
 思わず受け取った履修届はすでに記入済みで、言葉の通り後は名前を書くだけのようだ。ロヴィーノもこれと同じものを持っている。先ほどのオリエンテーションで教授から配布されたもので、そちらはまだ白紙だ。

「……そんだけか?」
「これがないと単位出ぇへんのやし大事なことやで」
「教授が緊急事態だっつってたぞ」
「やっぱあのセンセは偉大やなあ。あんなに俺が来いって言っても来んかったロヴィーノが一発で来たもん」

 戸惑うロヴィーノに対してアントーニョは妙に自信に満ちていて、これをおかしいと思うほうがおかしいのかとロヴィーノを不安にさせた。腑に落ちないものを感じながら履修の内容に目を通す。何か特別な事情でもあるのだろうか。

「だいたい履修届は月末〆切だし、お前が書くもんじゃ……って、選択が必修の内容と被ってんじゃねぇか」

 今期の選択科目がことごとく必修と同じ内容のものだ。別のことを勉強するのが面倒な生徒は楽をするために重複して選択するとは聞いたが、普通は専門科よりも内容が薄まるのであえてそれを選ぶ生徒はいない。それを指摘するとアントーニョは口を尖らせて、せやねん、と言った。

「けどしょうがないやんな。俺の授業同じやつしかないねんもん」
「何もしょうがなくねぇよ。これは他学科のためのコマだろ……」
「ロヴィが取っちゃだめって決まりはないで」

 いや、確かにそうだけどそうじゃなくて。しかし、ロヴィーノの不満はアントーニョには全く届かず、今期はいっぱい一緒にいれるなあと声を弾ませた。

「いや、だから……俺の履修はお前の顔見るためにあるんじゃねぇぞ」
「知ってる知ってる、何言ってんの。俺がロヴィーノの顔見たいんやん」
「全然わかってねぇじゃねぇか!」

 相手は助教授。だが、今となってはそんな遠慮はなくなっていて、家族と話す時よりも言葉づかいは悪くなっているのだが、アントーニョはまるで堪えてないらしくどれだけ罵倒してもロヴィーノかわええとしか返ってこない。相変わらずの通じなさに、はあ、と大きなため息を吐いた。それにも、ニコニコと笑ってロヴィーノの吐いた息がどうのと気持ちの悪いことを言っているので眉を顰める。
 休みに入る前、威勢良くタンカを切ったのにアントーニョは終始こんな状態で全くロヴィーノの話を聞いていない。いつも一方的に研究のことかロヴィーノをどれぐらい好きなのかという話を好きなだけしている。改めて考えればアントーニョに言われたのが生まれて初めて他人からの告白だったのだけれど、これがちっとも嬉しくないので逆に感心してしまった。顔を合わせる度に毎度毎度飽きもせず行われるそれらが、もはや告白ではなくパフォーマンスのように感じる。ロヴィーノ可愛い、ロヴィーノが好きすぎて堪らん、ロヴィーノ大好き。全く響いてこないけれど。

「ああ、はいはい。お前は俺のことが好きでお前にとっての俺は天使ちゃんで俺がいればご飯が三杯食えるんだな」

 普段は顔をしかめて、そういうのがどれだけ迷惑かを罵詈雑言でもって伝えているのだが、どうせ伝わらない。いちいち否定して切り捨てるのも馬鹿馬鹿しかったので適当に相づちを打った。今はそんなことよりこの履修届を何とかしなければならない。
 ところが、それを斜め上に解釈するのがアントーニョのすごいところだ。そういう前向きな発想力がないと研究者になれないのかなと思わせるぐらい。

「ロヴィーノ、わかってくれたん……?」

 感極まった声に顔を上げると、パアッと明るい表情になったアントーニョが両手を胸の前で組んでキラキラと目をかがやかせている。何を考えているのかわかりやすいぐらい、言葉にしなくても感情が表に出るのは彼の良いところだろう。事件は未然に防がれるべきだ。

「……いや、わからねぇ。うざい」
「えー、なんでそんなん言うんよー」
「言ってもわかんねぇからだろ」

 そう、先ほど教授を使って嘘の呼び出しをしたように。何を言ったところで結局、目の前のこの男は自分の好きなようにするのだ。ここ一年ぐらいで知ったアントーニョの性格に半ば諦めのようなものを感じながらも、それに振り回されるのはまっぴらごめんだと履修表を突っぱねた。

「いやいや、俺じゃなくて事務局に提出してや」
「しねぇ。俺が自分で書く」
「なんで? せっかく俺が書いたったのに」
「余計なお世話だ」
「先生の言うことは聞いとくもんやで」
「都合の良い時だけ先生ヅラしてんじゃねぇよ」

 ロヴィーノが女学生なら大問題に発展しているところだ。最近の大学はセクハラ問題に厳しい。事務局にも専門の相談窓口があるのだが……、いまだに世間の認知がされていないのかそれが性差なのか。ロヴィーノが行ったところで笑われるだけでまともに取り合ってもらえない。だから、こうして自分で自分の身を守るしかないのだ。

「えーやって実際、先生やし……って、もう三時やん! この後、会議があるんやった」

 しまった、とアントーニョが時計を見やって声を上げた。突っ返そうとした履修届をロヴィーノの胸元に押し付けて、わたわたと脱ぎ捨てていたジャケットを着直し白衣を羽織る。ペラペラの薄いそれは見るからに貧相でいらないのではないかと思うのだが、他の講師や助教も着ているので若い者は着用しなければならない決まりでもあるのだろうか。つらつらとそんなことを考えながら無理やり渡された履修届をアントーニョの机の上に返そうとした。

「あーあかん! それ提出してや」
「やだ、誰が言うこと聞くか」
「それやないと受理せんといてって事務局に言うで」
「はあ?」

 まるで子どもっぽいんだか権力振りかざしているんだかわからないようなことを言うアントーニョに、ロヴィーノは思わず素っ頓狂な声を上げた。

「そうやそうしよ! 俺って頭ええなあ。しかも期限までに提出できんかったら俺に泣きつくしかないしめっちゃええやん」

 提出期日を過ぎても受理されなかったら担当教諭にどうにかしてもらうしかなくなる。結局そうなってはアントーニョが決めた単位を取らされるということで、ロヴィーノに選択肢はないのと同じだ。しかも、アントーニョに助けを求めるなんて何をされるかわかったものじゃない。

「そんな横暴なこと通るのかよ」
「それはほら俺ってば事務局の人にシンライされてるしー」
「……さいてー」

 今さら何を言ったってこの男が堪えるわけがないのだが、それでも言わずにはいられなかった。悔しい紛れに睨みつけると、顔を赤くして、あんま見つめんといて恥ずかしい、などと言い出す始末。思わず顔を背けた。
 はあ、と腹の底から息を吐き出して履修届にもう一度視線を移した。アントーニョの選択科目以外は大体問題はない。一般教養は去年必要な単位を修得しているし、ロヴィーノが書いても大体似たような内容にはなるだろう。

「……わかった、だったらこれで良い」
「え、ほんま?! もっと圧力かけなあかんかと思った」

 これがワガママだという自覚があるのかどうなのか。しかし、あったところで引いてくれないのだから意味はない。

「……まあ良い。ただし、条件がある」
「えー……条件? 俺そういうの好きちゃうわあ」
「他に取りたい授業があるからそれを足す」

 途端に不機嫌になってつまらなそうな顔になった。

「まだ文系就職諦めてへんの? ロヴィーノには向いてへんって言ってるやん」
「うっせー、俺は言われた通りゼミも入ったし選択も取るんだぞ」

 文句あるのかと睨み付けたら不満そうな声を上げる。それでもしつこく睨み続けていたら時間がないのもあってか、渋々といった体で、しゃあないなあ、と言った。いかにも不本意だと言わんばかりのその顔に、どうして自分の履修についてわざわざアントーニョに許可を取らなければならないのかとイライラしたが、ここでその正論を説いたところで勝てないのはわかっているので少しは譲歩させただけでも良しとしよう。

「いざとなったらどうとでもできるしなー」

 という不穏なひとり言も聞こえなかったことにする。
 喉元まで上がってきた罵倒の言葉はぐっと堪えた。アントーニョと言い合うと、明らかにおかしなことを言っているのは向こうなのになぜだか負けてしまうのだ。口げんかが弱いと思ったことはない。どちらかと言えば、兄弟の兄らしく弟には理不尽な言いがかりを通してきたほう。アントーニョのへ理屈がロヴィーノの常識の範疇を超えているのだろう。

 荷物を纏めて研究室を出るとアントーニョは教授のところに行かないといけないから、と言って慌ただしく駆け出した。もっと余裕をもって行動すれば良いのに。遅刻するーと言いながら走り去る後ろ姿を見送って、ロヴィーノは事務局へと足を向ける。
 どうして目を付けられたのかはロヴィーノにもわからない。アントーニョは自分がどんな風にロヴィーノのことを好きかは話しても、どこが好きか、どうしてなのかは言ってくれないからだ(ああでも、泣き虫なところとか他に友達がいないところが良いとか何だとか言っていたな)。聞いたら聞いたで面倒なことになるのがわかっていたので、ロヴィーノが積極的にそんな話題を出すこともない。

(俺が好き、って言うか、ちょうど良いところに俺がいた、って感じなんだろうな)

 アントーニョは助教授、研究の成果も出ていて生徒からも人気があり教授からは信頼されている。一方のロヴィーノは三回生にもなって未だに授業のノートを見せてもらうような友人すらいない平凡な学生だ。アントーニョにされたことを誰かに訴え出たところで、誰も信じてくれないし笑い飛ばされて終わり。都合が良いのかもしれない。
 カリエド助教授と言えば、口を開けば研究研究、相手がその内容に関心がなくてもお構いなしのマシンガントークが得意技。最近ではお見合い相手を引かせて破談になっただの、実験に夢中になりすぎてスポンサー企業のお偉いさんとのアポイントメントをすっぽかしただの、普通ならあり得ないような、しかし妙に信憑性のある噂がはびこっている。恋人は顕微鏡、人間に興味がないのに妙に愛嬌があって憎めない。そんなアントーニョはロヴィーノのことが好き。

「……でも、そんなの知りたくなかったぞちくしょー」

 高校生の時、説明会で見たアントーニョの、自分の好きなことに全力で情熱を注ぐその姿に憧れていた。自分もそういう風になりたいと、少しは思ったのに。今では彼が口を開く度にがっかりすることばかりだ。

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