カメリアが咲く庭の

 ロマーノは今朝方、ローマの自宅から陸路を使ってフランスを経由しぐるりと回ってマドリードまでやって来た。駅のある市街地からは少し離れた郊外の、緩やかな丘の近くにスペインの屋敷はある。ずいぶんと古い建物ではあるが、雑木林を抜けた裏の畑を含めればそれなりの敷地だ。スペインはずっとそこで一人で暮らしている。
 突然の訪問をスペインは喜んだ。あれやこれやと飲み物はいらないか、小腹は空かないか、羽織ものをハンガーに掛けておけと世話を焼くので煩わしいぐらいに。彼がそこまでするのはロマーノがたまにしか訪れないからだ。あるいは手のかかる子どもだったロマーノを世話していた頃からの癖なのだろう。
 今晩は泊まって行けるのかと期待に満ちた目で問われれば無下にもできずに、そうするつもりだと答えた。会いたくて来たのだからすぐさま帰る必要もない。
 嬉しいと感情を最大限に表現し、ぎゅうぎゅうとロマーノを抱きしめて喜んだスペインだったが、しかし、これからオランダと話があったのだったと思い出したように言って肩を落とした。ちらり、と視線を投げられて、だったら待ってると答えるしかない。ここまで来てトンボ帰りはロマーノだって勘弁したいところだ。
 スペインはロマーノを寝室へと通して勝手に出かけたり帰ったりしないでくれと言い含めると、「ロマーノは読書が好きやんな」とサイドテーブルに置いてあった本を渡して隣の客室へと行ってしまった。ひとり寝室に取り残されたロマーノは、自分が読書好きだなんて初めて知ったと呆れる。スペインの中にいるロマーノはいつまで経っても子どもであるから、きっと目の届かないところまで行って帰って来れなくなることを心配されているのだろう。自然とため息が漏れた。
 スペインの寝室にある庭に面したこの窓の傍がロマーノの特等席だった。子どもの時分にはスペインの帰りを待つためにその窓枠の縁に腰かけて一日中を過ごしたし、大人になって彼の手元を離れてからも時折訪れては椅子を持ち出してそこから庭を眺めるようになった。最近はそれを知ってかソファが置かれるようになったので、ロマーノは堂々とそこを陣取って寝転がる。
パラパラと本のページを捲ると中はスペインの歴史が綴られていた。彼が読ませる本と言えばスペインに関するもの(それもやけに美化されている)ばかりだ。
 独立してからの数十年、未だスペインとの距離を測りかねていて適切な関係を見つけられていない。互いに自立した大人の男同士なのだから、今の関係では少し近過ぎるのではないかと感じるが、そのくせ離れて暮らしていると会いたくなって、結局、会いに来ては変わらない保護者と子どもの距離を確認している。
 それは、スペインの言うような「独立してからも元親分を慕う可愛い子分」の範疇なのだろうか。ロマーノは考える。
 弟がドイツを家に連れてきたから、夕飯をたかりに、くたばってんじゃないかと思って。そんな苦しい理由がなければ会いにも来れないのに、ほとんどこじつけでしかない言い訳に対して互いに何も言わない。言わないから違和感は消えないで二人の間に横たわりじっとロマーノを睨み付けている。
 一体、どこまでなら許されるのだろう。どこまでなら正しい親分と子分の関係なのだろうか。
 それは例えば、コーヒーカップを渡された時の指先の動揺に現れる。手がふれないよう意識して、けれど不自然にならないようにと慎重になった結果、震える手先が誤って受け取るカップの中身を零してしまう緊張感。「何やってんねん、大丈夫か?」などと保護者の笑顔で繕うスペインも、いくら鈍感と言ったって気付いてないわけがなかった。
 あるいは着替えの際に視線を視線が気になって大っぴらに服を脱げない瞬間。今日は泊まって行くと言葉にした時の一瞬の沈黙。街中で人にぶつかりかけて肩を抱き寄せられる気まずさ。
 もう親でも子でもないのに騙し騙し続けている。親子ごっこの、延長で。
 寝室の隣には身内やよく知る客を通す応接間があって、今はそこでオランダとスペインが睨み合っている。壁越しに「これ以上はまけられんね」「そこをなんとかもう一声!」という会話が聞こえてくるが、どうも先ほどから一歩も進んでいないようだ。あいつらも相変わらず、変わってないよな。
 呆れて手元の本から顔を上げ外の景色を眺めれば、華やかな花をつけたペラルゴニウムが視界に入った。初夏の光あふれる庭は萌黄色で輝いている。ああ、そういえば。今年のカメリアは咲いたのだろうか。

 前にこの家に来た時はまだスペインがまだ寝ていたので、今日と同じで、約束をしていたわけでもなければ用事もなかったロマーノは、やはり本を読んで待っていた。まだ初春の朝に窓の傍は肌寒かったが、ページを捲る音と能天気なスペインの寝息だけが聞こえる部屋で、一時間ぐらいそうしていただろうか。
 そろそろ腹が減ったな、朝飯どうするかと考え始めた時だった。スペインの穏やかだった寝息が切羽詰まったものに変わりうなされ始めた。起こしたほうがいいのだろうかと悩んで、けれどベッドには近付けない。幼い頃はお構いなしに腹の上へ飛び乗って、文字通り叩き起こしていたのに、今となっては何と難しいことだろうか。
 正しい距離を測り損なって、届かなかったり近すぎてぶつかったり、そして今にも溢れそうになっている不適切な感情。ロマーノ自身がコーヒーカップのようだ。
 うわ言を繰り返し苦しそうにしているスペインに、どうしようか戸惑っていると、スペインが何か潰れるだのなんだのと叫んで飛び起きた。短い悲鳴が喉の奥で鳴り青褪めた顔色をしている。ただごとではない気配に不安になっていると、現実と夢の狭間みたいにぼんやりとしたようすで、驚いて黙るロマーノへと視線をやった。起き抜けの潤んだ瞳がロマーノの瞳を通り越して何かを見ている。
 ロマーノが何もなかったかのように繕って「よっ起きたか、飯」とだけ言えば、はっとしたように意思を取り戻して「お前はそのまんまがちょうどええんなあ……」と笑われる。あからさまにがっかりしたような安心したような表情を浮かべる。
 あの時何にうなされていたのだろう。悪夢のような楽園だったとか言ってたけど、それはどういう意味なの。どうせろくなことじゃないから聞きたくないのに、彼のことなら何でも気になる悪い癖が好奇心を育てる。今度、酒が入った時にでも聞いてみようか。

 一度、現実に返ると集中できなくなって、取り留めもない思考が浮かんでは消える。逸らそうとする意識は何度でも同じ一文に立ち戻って、いたたまれなさに本を閉じた。そのまま、ずるずると椅子に深く沈み込み大きく息を吐き出すと、分厚い本が胸元にのしかかる。閉じた瞼が乾いた瞳に沁みて痛い。そのままでいれば、瞼の裏に光が躍り始めた。これは一体何なのだろうか。前にスペインに聞いたら、ガラスの剥がれるようすだと返ってきたっけ。

(ほらな。俺はもう子どもじゃないのに、いつまでもごまかすような言い方をするんだ)

 ロマーノのほとんどがスペインでできている。着るものも食べるものも、住む場所も。ずっと身に余る祖父の遺産とそれを欲した大人たちに翻弄され続けたロマーノは、与えられた分、奪われるのだと思っていたから、与えられることに感謝などしたことがない。それでも、スペインはいつだってロマーノに与えるばかりだった。言葉を教え文字を習わせ、部屋を用意して食事と衣服を用意し、働くことを覚えさせて、危ないことをすれば叱り、上手くできたことがあれば褒めて、愛情を。きっと、もてるだけの愛情を全部ロマーノに注いでいた。

「新大陸の利益のほとんどを注ぎ込んでしまった」

 胃が冷えて皮膚のすぐ下がざわざわと騒ぐ。たった一文に動揺して、一方でああそうなんだろうな、と思う。薄々気付いていて、それでいてずっと考えないようにしてきた。フランスからもトルコからも守ろうとして、ボロボロになって帰ってくることが増え、オランダとやり合ってる時ですらロマーノの衣食住だけは確保していた。腐敗していく政治にも上流階級の贅沢にも見向きもしないで、自分ばかりツギハギだらけの服を着て。誰もが欲しがる香辛料や金や宝石で使って、一体、何を手に入れたのろう。
 沈み込んでいた意識が現実に戻ってくると、スペインとオランダの堂々巡りの会話が耳に入った。今日はオランダから買いたいものがあるらしい。オランダがスペインから巻き上げてるように見えて、スペインも「まだまだまけられるやろー?」とギリギリまで引かないので、この二人の商談はとにかく長い。
 ロマーノはソファから立ち上がって客間へと顔を出した。それを合図に少し休憩を取ろうと、オランダとスペインは互いに睨み合いながら距離をとった。

「おい、昔俺と暮らしてた時のことだけどよ」
「え?」

「オランダちょっとは折れろや」などとブツブツ悪態をついていたスペインに話しかける。

 俺と暮らしてた時俺にばっかり金使ってたって本当か?

 しかし、その言葉が最後まで紡がれるまえに、スペインはその手の内にある本を認めて焦り出した。「その本なんでロマーノが持ってるん? 探しとったんよー」と慌てるスペインに、オランダが呆れたように「お前が渡しとったんやろ」と返す。自分が渡したくせに内容を把握していなかったらしい。

「ああ、そうやったか……。あん時は宵越しのなんちゃらは持たん主義でなー」

 ははは、恥ずかしいわーと冷や汗流しながら茶化すようなセリフ。もうロマーノには返す言葉もなくて黙り込むしかないのだが、

「まあ人生貯金は大事やな!」

 と言って顔色を伺ってくるので、何とか笑顔を作るしかない。乾いた空気が流れているのに、ごまかせたつもりなのだろうか。スペインはお茶を淹れると言ってキッチンへと立った。もう引き攣った表情筋のせいで目の前が見えない。見えているけれど認識しようとしていないだけかもしれないが。

「あいつは昔からああいうにっぶいやつやしの」
「知ってら」

 肝心な時に茶化してごまかして、ロマーノが真面目な話をしようとしたところで聞こうともしない。幼い頃から変わらず、一番大事なことはスペインの手のひらで覆われていて見ることができない。

「あいつが俺を異常に可愛がっているんだっけ」

 シニカルに笑うとオランダが眉間に皺を寄せた。ロマーノのことを甘やかし続けてさえいれば、スペインはいつでもロマーノに必要とされる優しい親分でいられる。家族に憧れているスペインの親子ごっこはどこまでも続いている。独立もして大人の姿になって、もう一緒に歩いていても親子や歳の離れた兄弟とは言われなくなった今でもまだ、彼の庇護は健在だ。

「俺がへたれなのも、知ってる」

 それが悔しくて苛立たしくて、本当は叫んで喚いて薄氷を踏むようなこの関係を壊してしまいたい。けれど、完全に自立してしまうことが恐ろしくて居心地の良いスペインの腕の中から未だ抜け出せてはいない。ロマーノの自嘲めいたひとり言にオランダが相槌を打つことはなかった。

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