日常の隙間を埋める

 スペインのリビングでソファにふたり並んで腰掛けて、下らないテレビ番組を眺めていた。時間は深夜に差し掛かっていた。こんな時間にやっているバラエティ番組なんて何の役にも立たないような下らないものばかりだから、今流れているものもそういった低俗なものだった。例えば、録音済みの客席の笑い声が囃し立てる中、うだつの上がらないコメディアンが体を張って何のためにもならないようなことに挑戦するしょうもない番組。内容なんて明日には忘れているだろうし、忘れたところで何の支障もない。エンタメなんてそんなもんだ。
 それでもチャンネルを変える気にならなかったのは、隣に座るスペインの陽気な合いの手が、俺にとって多少愉快だったからなのかもしれない。

「ああ、あのへっぴり腰じゃあ全然あかんなあ。これは絶対外すで。こんなボールはゴールに入りません。ほらロマ、見てや見て」
「うるせぇ見てるって」
「ほら外した! 言うた通りやろ! あかんなあ、俺やったらもっと上手くやるのに」
「言ってろよ」

 日が暮れる前から飲み続けていたから、お互い結構な量のアルコールを摂取している。スペインもだいぶ酔っているのだろうか。さっきから上機嫌でケラケラと笑い声を上げているし、少しばかり酒くさい気がする。

「こんな下手くそじゃ女の子にもモテへんでー芸人やのにどこで芸を磨く気なんやろ」
「それこそコメディアンなんだからサッカーとは別のテクでモテてなんぼだろ」
「何言うてんの。サッカーとナンパは同じやで。ボールの扱いが下手くそな奴に女の子が微笑んでくれると思うなや」
「…………どんな理屈だよ……」

 その理論で言えば、俺のナンパの成功率はもっと高くてしかるべきだ。なぜなら俺のシュート成功率は0%ではないのだから。

「そう言や新しいコーナーがおもろかってん。すっごいアホみたいなやつやねんけど、この後やるかな」
「こういう番組でアホじゃないやつなんてあるのかよ。ましてやお前んちのテレビだってのに」
「手ひどい言われようやなあ。親分ちにも高尚なバラエティぐらいありますー」
「へぇ、そりゃあ大層なこった。それは何に役立つんだよ。女の子の口説き方か? 会議に二時間遅刻しても怒られない方法?」
「いやいや、そんなんちゃうよ、ちゃんとしてるで。とびっきり眠くってつまらんやつやもん」
「へぇ、そりゃあ大層なこった。スペイン人ってのは金持ちだな。そんなもん、イタリアなら視聴率が取れなくてすぐに打ち切りだ」
「いやあ親分も金はないんやけど、視聴率なんてなくても打ち切られることはないねん」
「はあ?」
「何せ政見放送やから」
「なるほど、そいつはさぞかしひどいコメディーだ」

 笑えない冗談だった。肩を竦めるついでに態勢を変えてスペインから距離を取る。座り直してソファの上でもぞもぞと尻を動かすと、クッションが沈んだせいかスペインの身体が少し傾いた。その拍子に肘がふれる。やけに熱い気がして、そうっと息を吐き出した。
 奴の左腕が俺の首の後ろあたりの背もたれへと回されていて、さっきからうなじが気になってしょうがない。チリチリと何かが燻っているみたいだった。しかも、ちょっと身じろいだだけでお互いの肘がぶつかりそうなほど距離が近いのが、何だか妙に落ち着かなくてそわそわしている。

 一体、何を考えているんだ、俺は。相手はあのスペインだぞ。
 何ちょっとドキドキしているんだ。

 もしかすると俺は相当酔っているのかもしれない。ああ、スペインのことを笑っていられないな。だって普段なら、何でこんなに近いんだよ、気持ち悪いんだから離れろよ、と罵りのひとつぐらいくれていただろうに、ずっと文句も言わずにこの態勢に甘んじているんだから。

「今日って結構飲んだよな」
「んー? そうやなあ、でもロマーノ、顔色もそんな変わってへんし、まだまだいけそうやで」

 目の前のローテーブルに並べられたタパスと酒瓶を眺めながら零したひとり言が拾われた。スペインが手元のグラスに酒を注ぐと、ふわりと蒸留酒の匂いが漂う。
 確かに、まだ視野は狭くなっていないし頭の中もはっきりしている。こんなに意識が鮮明なのに思ってもいないようなことをしでかすほど酔っているなんてことはないだろう。

「それとももう眠い?」
「いや、それは……」
「ほなもう少し付き合ってやあ」

 不意にテレビがCMに変わって場が沈黙した。今さら気をつかうような間柄でもないスペインとは何を話しても楽だったし、常に話題は尽きなかったが、こうやって会話が途切れることぐらいはたまにある。それでも幸い、沈黙を気まずく感じることはない。グラスに口づけて唇を湿らせた。

「いやあ、でもほんま……今日はほんまに楽しいから時間を忘れてまうな」

 スペインが、はあ、と深い息を吐き出しながら感慨深げにぼやく。あいつの手の中にあるグラスにはまんまるい氷が浮かんでいて、カロンと涼やかな音を立てた。
 こいつがそうやって含みのあるため息を吐くのは、たいてい何も考えていない時の癖みたいなもんだ。何も考えていないから話題も思いつかないけれど、何となく間が持たなくて取り敢えず深呼吸を繰り返す。変わってねぇなあ。

「何だよ、ヘラヘラヘラヘラ笑いやがって」
「幸せを噛み締めてるんやん!」
「だらしねぇ顔しているぞ」
「やってなあ引き締めようにも、ついニヤけてしまうんよ。まさかロマとこうして呑める日がくるなんてなあ」

 そう漏らしたスペインは、いつもくりくりとよく動く快活な瞳を柔らかく細めて、口元に近づけたグラスの縁を見つめている。そうしていると、普段のガキっぽい言動とは違って大人びて見えた。

「そんな年寄りみたいなこと言ってっと、あっという間に老けるぞ」
「簡単には老けへん! 親分はいつまでもピチピチやで!」
「それにお前と呑むのも初めてじゃねぇだろ」
「俺ん家で飲むのは初めてやんか。ロマってばつれへんから。誘ってもなかなか家来てくれへんしぃ」
「そうだっけ? しょっちゅう会ってたし、メシもたかってた気がするけどな」
「飲む時は会議のついでに外でやったし、家に来るんは昼間ばっかやったやん。それとも何やのーロマは付き合ってもない男の家になんか泊まられへんなんて、女の子みたいなこと言う気?」
「そんなんじゃねぇよ」

 だから気色悪い言い方をするんじゃねぇぞ。

「どっちにしろ男の家に泊まったってしょうがねぇだろ」
「女の家に泊まったこともないくせに」

 肩を竦めて返された言葉が妙に刺さって、スペインとは逆側に体を倒しソファに沈み込んだ。両手で顔を覆って唸っていると、慌てたスペインがグラスを避ける。

「わわわ、ロマーノ元気出してやあ! ほら、元気の出るおまじないしたるで、ふそそそー」
「……ちぎぎ、うるせぇ、ちくしょう……お前も俺のこと馬鹿にしていやがるんだ」
「まさかほんまに泊まったことないなんて思わんかったんや」
「ヴァッファンクーロ!!」

 こいつもしかしてわざとなんじゃないかと疑いたくもなるが、不思議なもんでスペインのこれは天然だ。鈍感なスペインは人の傷口に塩を塗り込むなんて婉曲なことじゃあ満足しないだろうし、意外とそういうところははっきりしている。好き嫌いが明確な性質なんだ。
 まあ時々わからないふりをしていることはあるけど。

「あ、ほらロマ、始まったで。さっき言うてたやつ」

 顔を上げる気にはなれなくてむすっと口を噤んでいたら、無理やり体を抱き起こされた。そのついでに肩に腕を回されて、ぐいっと密着される。

「笑ったら元気出るやろ! な?」
「……ああ、とびっきり下らない新コーナー?」
「そう、そんでとびっきりおもろいやつ」

 乗り気はしないが、体を起こされた以上、起き上がるしかないし顔はテレビのほうを向いている。こうなったらもうヤケだ。涙目でまだ半分ほど残っているグラスの中身を一気に飲みほした。すかさずスペインがおかわりを注いでくる。それにもまた口をつけた。

「これな、この女優さんに迫られてもキスせずに我慢するっていう企画やねん」

 簡単に聞かされたコーナー趣旨はスペインが騒ぐほど面白いとは思えなくて、思わず眉をひそめた。そんな俺の反応に気づいているだろうに、スペインが肩に回した腕に力を入れてゆらゆらと体を揺さぶってくる。ただでさえ、さっきの急な動きでアルコールが回り始めているのにやめろ。悪い酔いするだろ。
 仕方がないから、渋々口を開く。

「ふうん、それキスしたらどうなるんだ?」
「どうもならへんよ」
「じゃあ我慢できたら何かもらえるのか?」
「何も。罰ゲームもご褒美もないねん」
「……それ何が面白いんだよ」

 相変わらずネジの緩んだようなことを言う奴だ。こいつの言う通りなら、番組を作っている側もゆるゆるだけどな。それとも国全体がそうだから、スペインはいつもこんな感じなんだろうか。

「そもそも時間制限もないしな。リミットがないねん。キスするまで終わらへん」
「はあ」
「まあ見ていたらわかるって」

 そう言われて見せられたものは、とんだ茶番だった。何が茶番ってスペインの説明通りの内容なのである。そうしてこの世界において何の価値もないような、どうしようもない馬鹿馬鹿しさ。
 最初のうちに繰り広げられていた「ねえキスして♡」「だあめ♡」「なぁんで♡」のやり取りには薄ら寒い思いで頬を引きつらせることしかできなかったが、脈絡なく男女の愛憎劇……という名のコントが始まった頃にはうっかり引き込まれ、腹を抱えて笑ってしまった。スペインに至っては背中を丸めて酸素を求めている。まだ発作が収まっていないらしく、肘がぷるぷると震えていてソファが小刻みに揺れる。

「はあ、はあ……あかん! 窒息してまうー」
「……ちくしょう、なんて番組だ!」
「せやから言うたやん。ちゃんとおもろかったやろ?」
「くそっ! 悔しいけど、確かにお前の上司の演説ぐらい笑えたな」
「ロマ、目尻に涙浮かんでいるで」

 ニヤニヤしながら俺のもちもちほっぺを突いてくる指を振り払い、腕を組んで鼻を鳴らす。実際テレビは面白かったが、こいつの思い通りになるのは癪だ。

「俺もこういうのやってみたいなあ」

 チラチラとこっちを見てくるスペインに残念な気持ちが込み上げてくる。こいつは仕事で女の子といちゃいちゃできるとでも思っているのかもしれないが(例えその姿を笑い者にされるのだとしても、スペインはそういうことを気にしないからな)、これは仕事だ。俺だって羨ましいと思うが、どうせそんな美味い話はないんだ。どんなに台本通りにいちゃいちゃしていたってカメラが止まった瞬間、女の子から冷たくあしらわれるとか。

「お前なあ、そんなの面白くもなんともねぇぞ。ましてや素人なんだし」
「わからへんで。何やったら今から芸人に転職しよかなあ」
「スペインこのやろーがコメディアンになんかなったって観客に気をつかわせるだけだぞ」
「なんでやの。親分、けっこう上手くやれると思うんよなあ」
「あのなあ、あれはテレビ向けに考えて演出されてんだぞ。お前みたいに空気の読めねぇ奴にできるわけないだろ」

 正直、この時の俺たちはだいぶぶっ飛んでいた。頭の中が真っ白になるほど笑ったのもあるし、その前に頭をシェイクされたのも悪かった。

「んーロマーノ顔真っ赤やで」
「お前も目ん玉真っ赤になってっぞ」
「ロマかて目ぇうるうるしている」
「うるっせぇ、気色悪ぃ言い方すんじゃねぇよ」

 不思議と、こういう時はあまり自覚ができない。急に世界がぐるりと回ったような錯覚に陥ったが、自分の視界がどうなっているかなんて気にも留めなかった。視野が保てているのか狭くなっているか、それにちゃんと物の輪郭が鮮明なのかさえ。

「あ、とと……」

 グラスを取ろうとする手が空振って、コツンと指の背をぶつけてしまう。ゆらゆらと揺れる酒の水面が溢れないよう、慌ててテーブルを押さえた。危なっかしい俺の手つきを見ていられなかったのか、スペインがグラスを取り上げた。

「うーん危なっかしいなあ、大丈夫なん?」
「へーきだぞ、このやろーめ」

 だからそれを寄越せと手を伸ばす。身を乗り出そうとして、もう一度ぐわんと世界が回った。衝撃に耐えきれずに仰け反ったら、勢い良くソファに背中をもたれかかってしまった。クッションとは違う硬さのものに肩を支えられるが、それが何なのかがわからない。
 ぐらぐらと揺れるままに頭を揺らしていたら、すぐそばにスペインの顔があって驚いた。

「んんー? 何だろ、スペインこのやろーの顔しか見えねぇぞ」

 特に考えることもなく頬にふれているものに頬を押し付けながら思ったままのことを口にしたら、スペインの眉が跳ねた。ついでに世界がまた揺れたが、器用に片眉だけ持ち上げられたその表情がひょうきんそうで、何だかおかしくなってくる。

「ああ、そうだよなあ。お前の場合トークさえなかったら案外いけるよなあ。見た目は良いセンいっているってか、まあ喋ると残念だけどよ」
「……ロマーノ、それ意味わかって言っているん?」
「んー?」

 意味って何だろう。喋らないで表情やリアクションだけで芸をしたほうが笑いを取れるんじゃないかって話だ。……ああ、国がコメディアンになることを勧めてはいけなかったか。でも自分が言いだしたことだろうが。

「お前がやりたいんだろ? だったら俺が止めることじゃねぇぞ」
「それって俺の好きにしてええってこと?」
「そりゃそうだろ。だいたいお前、自分の好きにしなかったことあるのかよ」

 肩にふれていたスペインの体が一瞬強張る。ああ、そうか。スペインの肩にもたれかかっていたんだな。だからこんなに近いのか。スペインが飲んでいた酒の匂いがきつくて、その匂いにもまた酔いそうだった。
 スペインの指が俺の頬を撫でていく。そのままするりと耳の下までなぞっていって、耳たぶをいじりだす。こんな時でも耳の先は冷たいのか、スペインの指先が熱いぐらいだった。やっぱりこいつも相当酔っているんだろう。珍しく真剣な顔をしている。
 不明瞭な思考、ほとんどスペインしか見えないぐらい狭まった視界、熱くてどうにかなりそうな体。アルコールが心臓をドキドキと囃し立てている。
 頭の少し上のほうから、ごくり、と何かを飲み込む音がした。

「うん、せやね。やったら俺の好きにさしてな」

 ほとんど吐息でしかない囁きは音にはならなかったが、言っている言葉の意味は理解できた。スペインの手が俺の肩を押したせいで、ソファに押し倒される。覆い被さってきたスペインの顔は翳っているが、どうしようもなく熱っぽくて余裕がなさそうだ。
 俺は回らない頭でそれを聞きながら、こいつコメディアンになるだけで何をこんな深刻そうな雰囲気漂わせているんだ、などとぼんやり考えていた。
 
 
 
 なので翌朝スペインのベッドで目が覚めた時、お互い全裸でその後の記憶がないことに頭を抱えるはめになるのだけれど。それが俺たちの下らなくもしょうもない、特に何の約にも立たないような馴れ初め話だ。

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