こいのうた

 親しい人だけを自宅に集めたホームパーティーで、ロマーノに歌をねだった。親交の深い人間の集まりと言えど滅多に歌を披露してくれないので、ロマーノは最初は嫌がっていたが、周囲を煽って巻き込み囃し立てれば、さすがに逃げ切れないと判断したのか観念してくれて、なにがいいんだ?と聞いてきた。
 彼の歌が好きだった。弟のようには歌えないぞというロマーノに、なんでもいいのだと告げれば、良くねえだろと言うけれど、イタリアのことは関係ないんだ。ただロマーノの歌を聞かせて欲しいだけなんだから。
 出席者はそれぞれ歌を披露している。オーストリアの趣味に合わせて用意した楽器と音楽のためのホールで、めいめい好きなものを好き勝手にやってるのだ、上手い下手を競う場でもない。それに彼は自分が気にしているよりずっと上手に歌う。だからなんでもいい、ロマの好きな歌、と言えば、後悔すんなよとにやり。不敵な笑顔を浮かべてピアニストに何事かを告げた。
 後悔なんかするわけないのに。次の歌い手は俺の自慢の子分だと周囲の人間に言って回ったせいか、にわかに集中し始める観衆。視線を集めるだけの容姿と華がある。
 一音もらって、あーと音を調整した後、酒飲んだから声出ねえと文句を言った。持て余し気味の広いホールの中央で、シャンゼリアの明かりを受けきらきらと湿った琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを見る。

「たまにはええやん」

 彼が自分の目の前で歌うことが久しぶりで、嬉しくて抑えきれないまま笑った。早く早くと促せば、じとっと睨まれたけれど、きっと本気ではないから照れていてるだけだろう。何年経っても子どもみたいな言動が抜けない可愛い子だ。頬が緩むのに任せて笑いの形でグラスに口をつける。発砲したワインが喉を通った。グラスから覗き込むように視線だけロマーノへと向ければ更に睨んできたが、彼の罵倒が飛び出す前にピアノがカウントを始めた。
 ピアノとロマーノが歌い始めたのは同時だった。ああ、数年前に流行ったポップスだ。自分としてはクラシックより馴染みがあったが、ロマーノは賛美歌やオペラのほうが得意だと言っていたから、意外だった。
 低音から高音へ移動し、不安定な音程でふらふらとさ迷って、はっきりしない音のまま一度間奏へ入るその歌は出だしから難しい。繊細に変化していく、そうだ、女性ヴォーカルの歌だった。けれど難無く歌って室内に響かせた声は少し不安定で、たぶんわざとそう歌ったんだろう。頼りなく揺れていくのが無垢できれいだった。
 たったそれだけで、パーティー会場の注目の的になる。あの子、綺麗。誰?上手。当たり前だ、ロマーノなんだから。

 こいのうただった。
 恋人のいる人に想いを寄せて、確か自分の恋が叶わない苦しさを滲ませながら、相手の幸せを祈るような、そんな歌だった。

この恋は叶うこともないし、伝わることもない。きっと終わることもないから、せめて、あなたを想うだけで光になればいいのに

 どきりとした。先ほど口をつけたサングリアが心臓に到達したような、陶酔と冷たさが血流に乗って押し出されていく。体中に巡ってあっという間に、指先も爪先も脳も襲われる。
 ロマーノに愛されていることは知っていた。自意識過剰でも何でもないその真実を、知っていて、関係の居心地のよさに甘えたのも事実だ。最初は応えられないから当惑した。どう接すればいいんだろう、と。何がきっかけで気づいたかも忘れてしまうほど、ずっと昔のことだ。

 確かその時は恋人がいて、だからか、ロマーノは何も言わなかった。本当は断ってしまいたかった。そうして、それでも家族として好きだと告げて今まで通りに過ごしたいと思っていたから、何も言われないというのは困った。一時気まずくはなっても、今までやってきた時間のほうが長いのだから、元の関係に戻れるはずなのに。告白もされていないのに振るなんてことはできないわけで、案外そういう彼の手法だったのかもしれない。プライドの高い彼が、俺なんかに振られるなんて有り得ないのだ。
 ロマーノの恋の相手は誰から見ても一目瞭然で、フランスが、もったいないねぇお兄さんにしておけばね、と半ば本気で呟いたこともある。それは俺への非難が半分混じっていたから、例えば応える気がないなら本人が諦められるように誘導しろよとか、そういうの。
 結局、何もしないでずるずる想われ続けてきたのは、俺が気まずくなりたくなかっただけのただの身勝手だ。

けれど、あなたには愛する人がいて、彼女ばかりを見つめているから、きっと私の小さな光には気づきもしない

 俺が恋人と別れても、その後に何度も別の恋をしていても、数十年と経っても、ロマーノは何も言わないし何もしてこなかった。そのくせ、相変わらず心変わりの気配もなくて、ロマーノが誰かと付き合ったり遊んだりしていればまだわかるが、彼は気まぐれにナンパや食事に行ったりはしていても、女性とどうこうなることがなかった。
 実際、俺の知らないところではどうかわからないけれど、けれど彼の愛は俺にだけ。確証がなくても断言できる。それをプロイセンが、なんで言い切れるんだよ、なんで自分に言い聞かせてんだよ、と意味もなく突っかかってきたことがあったっけ。

 ふっとロマーノがもてるのだと気付いてしまえば、奇妙な罪悪感も沸いてくる。あれは、ベルギーに言われたのだ。ロマーノはほんまええ男になったのに恋人おらんってもったいないやんなあ、と。
 ロマーノが優しい仕草でベルギーに、ベイビーピンクのデイジーを中央に飾った花束を渡した時だった。自分のせいで、女性が好きなロマーノに恋人がいない。女性には優しくて、素敵に笑いかけるらしい。そしてあの見た目だから、確かに彼はいい男になった。
 何も知らない無邪気なベルギーの何気ない一言が突き刺さるように辛くて、その日の晩に彼に気づいていることを匂わせるようなことを繰り返し言った。

 何も言わずに自分の中だけに留めておく片想いってようわからん、いろんな人と付き合ったらええやんロマはもてるよ。とか、いろいろ。

 そんな俺にちゃんと気づいているのかいないのか、ロマーノは曖昧にごまかすばかりだった。

ああ、この恋がただの愛になって。その愛で私は善き人になれる

 刺繍糸を張り詰めたような、緊張感でもってこの歌で唯一、わかりやすい音階を上っていく節を、しっかり歌った後、ピアノは佳境に入る。短く盛り上がった後、また最初のサビパートへ戻る。まるで誰かに言い聞かせるみたいに、でも優しくロマーノは歌う。最初の頼りなさと相まって、そうだ本当に天使だったのかもしれない。だから、こんなしょうもない俺を変わらず愛してくれるのだろう。

あなたが生きている限り、幸せが永遠と続くよう、そのそばに例え私がいてもいなくても。

 手が震えた。ピアノは静かに終わっていって、客は盛り上がった。ブラボー、ブラボーロマーノ!最高だったよ!
もみくちゃになりながら、賞賛の嵐。いかにロマーノの歌が良かったか、その声の美しさ。興奮気味の会場で、テンションの乗った客たちは最後にお決まりの行進曲をリクエストする。それを全員で合唱して解散するのがこのパーティーのいつもの流れだ。
 普段はそういう時に真ん中にはいないロマーノも、歌い終わってすぐの高揚した気持ちを引きずっているのか、珍しく上機嫌で肩なんか組んだりして歌っていた。その姿に、彼が遠くへいってしまうような、焦りみたいな寂しさみたいな感情に襲われる。身内だけのパーティーで、参加者も全員よく知った者同士だというのに、今日は感傷的だ。どうかしている。子どもが自立していくような、そういう感じ。

 歌は何度かアンコールを繰り返し、10時を回った頃に熱狂冷めやらぬ状態で、それぞれの家へ帰る。暑い真夏の夜。ホールから客たちを送り出す中、ロマーノはいつも最後まで見送る側にいてくれる。昔は大勢いた使用人も今では週末に来てくれるハウスキーパーだけなので(しかもどちらかと言うと雇用対策の意味合いが強い)、こうしてパーティーを開くのはいいが片付けは骨が折れる。
 一人では大仕事すぎるので、誰もいなくなった後に手伝いを頼んだら、ロマーノは快く頷いてくれた。こういうとき、大人になったんやなって思う。

 ロマーノが、皿は全部洗い終わったぞ、と言ってキッチンから出てきた。黒のエプロンを外しながらテキパキと動いてくれる姿は、幼い頃の不器用だった記憶を朧げにした。

「ありがとう。部屋も全部片付いたし、助かったわあ」

 お礼にワインでもいかが、と誘えば、まだ飲むのかよと言いつつ付き合ってくれることを知っている。泊まっていくよな、と問えば、ああ、とだけ返る気安い付き合い。
 ここ数年は、気の強いロマーノが自分に夢中なんだって思ったら、優越感を感じてしまう。相変わらず彼の気持ちはわからないけれど、関係は何も変わらないなら、何の不都合もないし。このままの状態が続くならそれが良かった。小さいときから一等可愛がっていたので、元より恋愛はなくとも彼は好きだ。
 何より、神様に愛されているロマーノの特別に慣れるのは、少しくすぐったい、妙な嬉しさを感じる。

「これフランスの?」

 そう、今年はええのができたんやって。お礼にトマトをあげるつもりだ。

「なあ、ロマーノ。さっきの歌な、なんであれを選んだん?」

 賛美歌でもなく、クラシックでもなく、オペラでもなく。珍しかったから、単純に気になって聞いた。もしかするとずっと曖昧にしてきた自分への当てつけなのかもしれない、と気になっている。そう考えること事態、後ろめたい気持ちがあるということで、俺は彼を利用しているのだろうか。彼が俺に恋している限り、彼は俺の傍から離れない。色んな国や人間や、存在が俺から離れていってしまったけれど、こうやってパーティーの後の寂しさを感じないほど、ロマーノは傍にいてくれる。

「下手だったか?」
「上手かったよ、なんや親分、切なくなってしもたー」

 あんまりロマーノの想いが切なくて、いじらしくて。
 その愛を受けているのは自分なのに、どうにか救ってやりたいようなそんな気持ち。自分が一番矛盾しているとも言える。気持ちに応えてやれないのに、どうにかしてあげたいだなんて、また誰かに聞かれたら怒られそうだ。ロマーノはいつだって俺を好きにさせてくれるから、つい甘えてしまう。酔いの回った頭のまま肩にもたれかかった。膝枕してほしーなーと思ったが、グラスを持った手をひざの上で組んでいたから伏せられない。残念だ。
 覗き込んだ瞳がまた湿り気を帯びていて、サイドランプの照明をきらきらと反射させた。酒を飲むときは暗いほうが好きなので、橙色の間接照明に切り替える。そのせいか、やけに陰影の濃いロマーノの顔立ちが妙にセクシーに見えて、唇に誘惑されてしまう。今日のことを取り留めもなく紡ぐその整った唇のかたち。

(きれいやなー……)

 真剣な顔でつまみを選んでいるせいで、伏せた睫毛が肉の落ちた頬に陰を落とす。通った鼻筋を辿って……、そうしてその唇に口をくっつけてしまった。ほんの短い時間だったが、俺としては挨拶の範囲内なんやけど、ロマーノはあまり男同士の接触を好まないから嫌がるかなーって考えた。ああ、でも俺の事が好きなんだっけ。やっぱり膝枕してもらいたいな。

「…っにすんだ」
「ロマがしてほしそうやったから」

 へらっと笑えば、眇めた目で睨みつけられた。けれど、それ以上何か言うわけでもなく、怒って帰ってしまうこともなかった。やっぱりロマーノは優しい。

「まあいい」
「えへへーもっとくっつきたいー、膝枕したって」

 可愛げを出して言ってみると、それもロマーノは許してくれる。仕方ねーなと言って手をどけて、男同士気持ちわりーだろ、とか言うけど、でも俺はそんなん気にしないし。
 ふわふわと快楽を漂ってるみたいだ。俺が愛すべき存在に何もかも許されていて、これでいいんじゃないのか。あの頃のように、傍にいるために多大な犠牲を払う必要もない。電話して会いたいと言えば家にやって来てくれて、甘えて擦り寄れば何でも聞いてくれる。忙しい時は、連絡忘れるけど。それでもロマーノは何も言わない。

「さっきの歌な。また今度歌って」
「気に入ったのか?」

 髪を撫でられて目を細めた。明るすぎない室内の照明では、ロマーノは一際優しい表情に見える。もしくは、本当にいつもより穏やかな顔をしているのかもしれない。そういう顔だと、ほんまに天使様みたいやんなあ。イタちゃんも可愛いけど、くっきりした造形の均整の取れた顔立ちをしている彼は幼い頃から美しい。慣れているはずなのに、未だにふとした拍子にはっとするほど綺麗に育ったと思う。柔らかなさらさらの髪はチョコラーテを溶かした色をしていて、萌黄の瞳がいつもきらきらと控えめに瞬く。長い睫毛が頬に影を落として揺らめくと、時々触れたいという誘惑にかられるのだ。

「うん、きれい」
「だろ、自信があるんだ。あれだけは」

 珍しく機嫌が良く彼がそう言うので、ちょっと意味は違ったのだけどまあいいか、と、そうなんやーって相槌を打つ。ワインの赤が微妙に顔へ映ってどきりとする。真夏の夜の蒸し暑い風がワインを一層香りたてた。先ほどの切ない恋の歌を思い出せば、同じ声で潜めて呟かれる一つ一つに、心臓がどきりどきりと音を立てる気がした。

「なんで?」

 それは俺のため?自意識過剰な期待が頭をもたげる。
 そういう好きを寄せてくれる相手はいなかったし、自分もそんな恋はしたことがなかった。だから、それがどういうものかは知らない。劇とか小説とか映画みたいに、そういう恋を彼はしているのだろうか。自分に?それはとても光栄なことだ。

「ちょうど流行った時にバーで知り合った子がよく歌ってたんだ。なんか健気でさ」

 だから、意外な返答に驚いた。

「俺にしとけって言ったんだけど…、一緒だからだめなんだってふられちまって」

 だから、思い出の曲。と続けた。珍しく穏やかに笑う。そこには恋の焦燥も失恋の痛みもなくて、ただ淡々と全部を諦めて受け入れた、優しいまなざしがあった。恋ではなかった。たぶん、きっと彼のそれは、もう恋ではなかった。そうして初めて気づく。全てを受け入れられて、なお貪欲に欲している俺の、この感情を何と呼ぶのか。俺だけじゃない。彼は一度、誰かと恋を始めるつもりだった。いや一度かどうかはわからない。

(プロイセンの言うたとおり)

 確証なんてないなら、それは事実じゃないかもしれないということだ。それを受け入れる覚悟を持っていなかった。

「なん、それ」
「まあそういうこともあった、って話だ」

 胸がずきずきとする。幼い頃から怒ったり泣いたりと急がしい彼が、静かに笑っている。それは、自分が憧れた南イタリアの姿。陽気で穏やかな気候と、風光明媚な風景、肥沃な大地に、神様のような寛容な優しさ。こうして想いを知っていて応えないくせに甘えてくる、どうしようもない俺を許し続ける。切なくていじらしいこいのうたと、ロマーノの恋が終わる音を聞いた。

(なんなん、それ。俺は、どうしたらいいん?)

 ざわつく胸に、きっとはつこいのような予感を感じている。今更気づいたのだ。
 自分はずっとロマーノに焦がれていくのだろう。彼が今まで与えた恋心のぶんだけ、その始まりの気配を静かに聞いていた。

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