SSS

バルにて

2018.09.08

 スペインに指定されたバルからは音楽が溢れていた。扉を開いた途端に流れ込んできたのはマイ・フェイバリット・シングス、スタンダードナンバーだ。耳に馴染みのある旋律だしノリも良いから店内は大いに盛り上がっていて、客も半分ほどはワイングラス片手に立ち上がり手拍子を鳴らしながら揺れている。その中心にいるのがスペイン。キャッチーなメロディーラインを舐めるように弾いている。楽器はヴァイオリンだ。ギターじゃないのかと思ったが、それを言えば「弦をはじく楽器はだいたい同じやろ」と大雑把な答えを返される気もして口を紡いだ。どのみちあの男は暫くステージから降りて来ない。客が許さないはずだ。
 店内にステージはあったが楽器はアンプに繋いでおらず、編成も曲によって入れ替わり立ち替わり弾ける人間が出てくるといった具合だったので、即興で始まった予定にないライブなのだろう。音楽関係者のグループがいると見た。それも店主と仲が良く、こんな状況になってもむしろ大歓迎の腕前だ。実際、スペイン以外の面子は誰も彼も様になっている。サックス、トランペット、ベースにパーカッション。楽器は持ち込みだろうから、どこかでライブがあった帰りの打ち上げ会場かもしれない。
 そもそもスペインがヴァイオリンを覚えたのはフランスがモダン・ジャズにのめり込んでいた時だからわりと最近である。スペインにとっての腐れ縁の隣人は、やれビ・バップだモード・ジャズだとやたら難解で独創的、その代わりに自由な音楽をこよなく愛していて、自分でもバンドを組んでセッションをしたくなったらしい。そこで白羽の矢が立ったのがオーストリアからコントラバスとチェンバロ、クラシックギターをやらされていたスペインで、ヴァイオリンとピアノ、ドラムを習得させられていた。即興で流れと空気を読める頭の回転の速さやオーストリア仕込みの確かな音楽的素養、アドリブ好きな性格も合っていたのだと思う。三十年ぐらい前まで素人の気まぐれバンドながら、そこそこの頻度で活動していた。ちなみにフランスのジャズ・セッションにはプロイセンも巻き込まれていたが、彼こそ独創的でロマーノにはついぞ理解できなかった。叫んで唸るようなトランペットに低音を効かせすぎたトロンボーンが十八番。あの男がラッパを持ったら耳をふさげ、が教訓だ。
 閑話休題、そんなことを考えている間にも曲は二転三転と転がり続け、もはやサウンド・オブ・ミュージックの面影など残っていない。それがジャズとは言え結構長い時間弾いているし、一体どうやって収拾をつけるつもりだろうと見守っていたら、ヴァイオリンのソロになったところで転調し、気がつけばモーニンの旋律に変わっていた。特徴的な出だしをしつこいぐらいに繰り返すので、壊れたレコードのようだ。それに乗ったのがベース、次いでサックス、パーカッション、最後にトランペット。それぞれがスペインがはじくヴァイオリンの旋律に続いてアドリブで続ける。少しテンポが軽すぎるのだろうか。それともしつこく同じフレーズを聞かされすぎたせいか、原曲の渋さは微塵もなくてどこか滑稽な響きがある。それが店内の客の笑いを誘い、楽しませていた。狙ってやっているのなら大したものだ。
 いつまでも立っているわけにはいかないので席を探す。が、立ち上がる者、踊る者、テーブルに突っ伏している者で店内はしっちゃかめっちゃかだ。どこが空いているのかもわからない。仕方がないので近くにあった椅子を引き寄せる。誰のものかは知らないが、この状況ではどのみち名乗りあげる者もいないだろう。
 腰を落ち着けたちょうどそのタイミングで、スペインの合図を受けたベースとパーカッションが五拍子を打ち始める。管楽器がフェードアウトする。リズム隊だけで聞かせる軽妙なリズム。テイク・ファイブだ。ヴァイオリンが弦を構える。しかし響く旋律は想像していたものとは違っていた。何だろうと首を傾げていると曲が盛り上がってくる。ラテンの曲のようだがタイトルを知らない。それにしてもリズムが違うだろうによくやるものだ。国内では有名なナンバーなのか、店内はますます盛り上がっていた。スペインが弦を振って手拍子を煽る。さらに客が立ち上がる。勢いのままにヴァイオリンは好き勝手をして、お次はダンシング・クイーン。最近映画でも見たのだろう。さすがにテンポは落ち着いてきて、ゆったりとしたものに変わっていく。それにつられて煽られた人々が近くにいる者同士で手を取り合った。胸を寄せ合って揺れる。邪魔になるからとテーブルは端に追いやられ、急にムーディーになった店内でひとり取り残されたロマーノは、男女で踊る人々をぼんやりと眺めていた。
 何だかなあと思わなくもない。が、この場は演奏している彼らのものだ。どうアレンジしようが自由である。客も喜んでいるからそれで良いのだろう。しかしどうにも持て余すので、とりあえず手近にあったワイングラスを呷る。誰のものかなど知ったものか。ついでにカヴァを注文する。店員も演奏を聞いていたいのか、おざなりにグラスに注いで寄越してきた。何だかなあ。
 旋律はしばらく迷走を続けた後、やがてニューヨークに迷い込んだ。スティングか。異国、哀愁、男のものかなしさ。そう言えば、どことなくスペインに通じるものがあるのかもしれない。こんなしっちゃかめっちゃかでデタラメな演奏をしているこの男もフラメンコを弾かせればこれがなかなか良いのだ。普段どこに隠しているのやら、大人びた色気まで出してくる。今夜はちょっとすごいかもしれない。
 と、少しは期待をしたのだが。まさかスペインが素直に演奏するはずもなく、やっぱり曲は破綻した。

「だああ、やめだやめだ! テメーのイングリッシュマンは陽気すぎる!」

 ついに耐えきれなくて立ち上がった。客をかき分け店の中央、楽器を持つ者たちが立つステージへと歩み寄る。突然のダメ出しにもスペインは嬉しそうな顔をしている。ハメられている気がしなくもない。

「そりゃあ俺はスペインやからなあ。スパニッシュマン・イン・ニューヨーク?」
「お前のは軽すぎんだよ」
「ほなロマーノも楽器持つしかないなあ」

 そらきた。

「俺がどっか飛ぶのが気に入らんのやったら、ちゃんと隣で見張っとかんと」
「……俺が来たのいつ気づいたんだよ」
「いつやったかなあ」

 店内は突然の乱入者に興味津々といった具合で、数名の野次馬が何だ何だと群がってくる。楽隊はどれを使うのかとカウンターに並べた楽器を見せてくるが、あいにくスペインとは違い器用な性質ではない。何かひとつを必死でやって、どうにか形になるかどうかといったところだ。
 ロマーノはタンバリンを取った。それを見ていた客は興ざめといった風で野次を飛ばしてきたが、パーカッションをやっていた男が楽しそうに手をたたく。

「マイクはどこだ」
「歌ってくれるん?」
「ちょっとだけな」
「せやったらタブーでもやろかなあ」

 それ、日本じゃなきゃ通じねぇよ。いつだったか極東で見たテレビ番組のコントを思い出してため息をつく。結局、大真面目に歌わされて、そのおかしさを知るのはロマーノとスペインだけになるのだろう。案外、この男はそういった秘密を好むのだ。

「……ダンシング・クイーンの時も思ったけど、お前、案外いやらしい」
「そんなん今さらやろ」

 ヴァイオリンをギターに持ち替えながら、ふんす、と鼻を鳴らす。本当に何を考えているんだか。

「男はみんなスケベやで。ほらほらマイク持ってきてもらったから持って、タンバリン構えて」

 ばちん、とウィンクをされて肩を竦めた。今夜はちょっとすごいかもしれない。

屈服したつもりもない

2017.11.06

※暗いのと念のためのR15。
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彼の絶対的な領域で

2017.07.10

 今になって思えばカッコをつけていたのだとわかる。若い頃のスペインは大して必要のない時でも、よくマントを羽織っていた。後にロマーノもまた同様の憧れを抱くようになるのだが、当時はまだ幼く、彼の心情もあまり理解していなかった。ただ幼いロマーノは度々スペインのマントの中に潜り込んでいた。その多くは身を切るような冷たいからっ風を避けたり、苦手なドイツ兵から隠れたりと自分を守るためであったが、スペインも積極的にロマーノを招き入れた。泣き虫なロマーノが妙な意地を張らずに思いきり泣けるようにと、わざとその身を隠してくれることもあった。
 特に故郷が恋しくて涙を流している時は必ずそうしてくれた。
 遠い自国を思って泣く時のロマーノがスペインのそばを離れ、こっそりと泣いていたからかもしれない。人目を避けて声を上げることもせず、ただやりきれない切なさに喉を震わせる子どもを彼がどう思っていたのかは知らないが、幼いロマーノが持て余し気味の郷愁に胸を詰まらせていると、どこからともなくやって来てそうっとロマーノの体をマントの中へと覆い隠したのだった。
 スペインは決して慰めなかったが、よく歌を聞かせてくれた。意外なことに彼の歌は哀愁がある。聞いていると一層苦しさが込み上げてくるのだが、ロマーノはそれが嫌いではなかった。互いの体温が伝わるほどぴったりと寄り添って、彼のマントに包まれながら感じるさみしさは不思議と優しく、孤独なロマーノの心を穏やかにした。
 だからだろう。ロマーノにとってスペインのマントの中は落ち着ける場所でもあった。分厚い布に阻まれて光の届かぬやわらかな闇とスペインの体温、何より絶対的な安心感が好きだった。これ以上に安全な場所を探すのは難しいと幼心に思っていた。
 
 
 
「なんやあロマーノ。イタちゃんと遊んどったんちゃうん?」

 キョロキョロと隠れる場所を探していたロマーノにスペインが声をかけた。オーストリアは庭にでも出ているのか、そばにはいない。これ幸いと彼の背を覆う濃紺のマントを引っ張った。

「スペイン、ちょうどいい! おまえちょっとじっとしてろ!」
「え、ちょ、どこに……」
「いいか? 俺がここにいることはあいつにはぜったい言うんじゃねぇぞ!」

 そう言って彼のマントの中に潜り込んだ。
 程なくして弟のヴェネチアーノがやって来た。

「スペインにいちゃん! にいちゃんはみなかった?」
「イタちゃん、どないしたん? 一緒に遊んでたんちゃうん?」
「うん、あのねーかくれんぼしているの!」
「あーなるほど……」

 ようやく得心したスペインが感心したように声を上げた。目の前にいる幼い国の化身は、スペインのマントの中に隠れている兄を探しているのだろう。ロマーノも考えたものだ。いつもは家具の影やカーテンの裏に身を潜ませるばかりなので、ヴェネチアーノもそうそう思い至らないかもしれない。

「ロマが見つからんかったらイタちゃんはどうなるん?」
「あのねぇ、ごふん以内にみつからなかったらしょうしゃの王冠をあげるんだあ」
「勝者の王冠?」
「そう。ぼくがシロツメグサであんだやつ!」

 先ほど庭で大人しくしていたが、どうやらそれを作っていたようだ。おおかた上手く作れなかったロマーノが、素直に弟のそれを欲しがれなくてそんな条件を押し付けたのだろう。
 容易に想像できるその光景に、知らず知らずのうちに頬が緩む。ロマーノのわかりやすすぎる強がりが最近のスペインには微笑ましかった。それは幼いヴェネチアーノにもわかったらしく、誇らしそうに胸を張った。

「じいちゃんの王冠みたいに上手にできたんだよ」

 ニコニコと笑うヴェネチアーノを見て、スペインはどうしたものかと悩まされるはめになった。
 ロマーノの居場所を教えるのは簡単だが、この可愛らしい勝負をそんな無粋な形で終わらせて良いとも思えない。もちろんヴェネチアーノが自力で見つけ出したなら構わないのだ。ただスペインが水を差してはいけないような気がした。

「それはええなあ。せやけどごめんな。ロマーノの居場所を教えられへんねん」
「そっかあ。うん、わかった! にいちゃんのことは自分でさがすよ」
「ロマーノは隠れんぼが上手いから頑張ってな」
「うん! じゃあね、スペインにいちゃん。ありがとう!」

 立ち去るヴェネチアーノを見送って、スペインは自身の背後を探った。マントの中でごそごそと身じろぐ気配がする。ほうっと息をつくロマーノにこっそりと笑った。このまま見つからんかったらええな、そう思いつつも、律儀に隠れんぼが終わるまでじっとしていたのだった。
 
 
 
 不意にそんなことを思い出したのは、久しぶりにスペインがマントを身に着けていたからだ。ハロウィンの仮装に彼が選んだのは、いわくのよくわからないゴーストのものだった。

「昔っからそういうの好きだよな」
「惚れ直した?」
「直すってなんだ、直すって」
「せやかてロマーノも騎士好きやろ?」
「ばっ……! う、うるせぇよ!」

 過去のあれこれを思い出して慌ててスペインを黙らせる。この男はロマーノのことをよくよく思いやってくれるが、些かデリカシーに欠けるのだ。

「つーかそれって騎士なのか?」

 聞いても的を得ない返事しか返ってこない。元よりスペインがまともに説明してくれるとは思っていないので、彼の仮装が何かを知ることは諦めて話題を変える。

「昔はよくお前のマントの中に潜り込んだよな」
「せやなあ、あん時のロマーノほんまむっちゃ可愛かったわあ」

 あの時がどの時を指しているのかはわからないが、スペインはニコニコと楽しそうにしている。良かったな、とそっけなく返しても、ほんまになあ、と笑うばかりだ。

「まあ俺が昔から可愛さにあふれているのは当たり前のことだけどよ」
「うんうん、今からでもマントの中で隠れんぼしてええんやで」
「……誰から隠れんだよ」
「イタちゃんが月桂樹でほんまもんの王冠作ってくれるかもしれへんやん!」

 シロツメグサの王冠も似合っとったけどな、そう微笑むスペインをじろりと睨んで、へんっと鼻で笑う。隠れんぼの勝者になったロマーノがヴェネチアーノに被せてもらったシロツメグサの王冠を一番喜んだのはまさにスペインだった。その時のことでも思い出しているのか、でれっと顔を崩している。

「さすがにこの図体じゃあ隠れきれねぇよ」

 あの頃のスペインは若いとは言え、既に青年期に差し掛かっていた。それに引き換えロマーノは幼く、まだほんの小さな子どもでしかなかったので、マントの中に潜り込むなんてことも容易に叶ったのだ。今ではさすがに体勢的に無理が生じる。それだけロマーノも成長した。

「何言うてるん。むしろ今のほうがこのマントも活躍するやろ」
「はあ? ハロウィンの仮装以外で何に使うんだよ」
「そりゃあもちろんロマーノを隠すためやん」

 常々、子ども扱いされていると思っていたが、まさか彼の中では未だロマーノは幼い子どものままなのだろうか。ぎょっとして見上げると、スペインがニッと笑った。それが先ほどまで浮かべていた優男のような笑みとは違い、やんちゃな少年のようで一瞬反応が遅れる。ぽかんと呆けたロマーノを見逃さずに、スペインはマントの裾を引き寄せるとバサリとロマーノの頭から被せた。

「うわ、ちょ、なにす……ッ!?」

 突然暗くなった視界に慌てて布を振り払おうと腕を上げるが、すぐさま手首を掴まれる。びっくりする間もなくスペインの気配が間近に迫って息を呑んだ。と、同時に唇にやわらかなものが押し当てられる。

「……ふ、ぅ……ン」

 ちゅ、と一度吸い付いたそれはすぐに離れて、角度を変えて再び重ねられた。咄嗟のことで抵抗もできずなすがままになっていると、腰を引き寄せられる。スペインの分厚い胸板が押し当てられる。
 はるか昔、ロマーノをあらゆるものから守り慈しんだスペインの絶対的な領域の中で、幼い頃の記憶からは程遠い熱に浮かされる。唇は何度も寄せられては離れ徐々に深くなっていった。やがて簡易的な暗やみに慣れた目が僅かな光を頼りに目の前のスペインの姿を捉える。彼は保護者の顔でも親分の顔でもない、ただの男のそれを見せている。
 なぜ急にこんな展開になったのだろうと考えていると、よそごとに気を逸したロマーノを窘めるかのように噛み付いてきた。僅かに熱を持ち始めた下唇を甘噛されて思わず鼻にかかった声を漏らす。

「ん、ぁ……スペ……っン」

 今さらマントの中で隠れんぼをするはめになるとは思わなかったが、これもロマーノが成長したからこその行為だ。甘んじて受け入れながらそうっとスペインにしなだれかかる。

「ん、っは……なあ、ロマーノ」

 ちゅう、と音を立てて離れていった唇が耳元に寄せられる。ぴったりと引っついた体は熱く、彼が熱を持て余していることを容易に知れた。

「ハロウィンの後、うちに来ぉへん?」

 低い声がロマーノの耳をくすぐる。それに肩をすくめながら、ロマーノは喉の奥を鳴らして頷いた。

いつまでもこどもじゃない

2017.01.22

 ロマーノは怒っていた。全身の毛を逆立てて、血液が沸騰し逆流するような激しい怒りを抱いていた。その顔は険しく、琥珀色の瞳は狼のようにギラギラと輝いた。周囲を威嚇していることには気づいていた。向かいから歩いてきた人たちが、厄介事に巻き込まれないようにと足の向き先を変えるのが見えたからだ。だからと言って怒りが収まるわけもなく、むしろ募る苛々をどこかにぶちまけたかったのでわざと足音を立てて床を踏みつけた。
 ロマーノの怒りは激怒と言って良いだろう。しかし彼は友のために走ることはなかった。政治がわからないのは事実だが、結婚を控えた妹もいないし、邪智暴虐の王を殴ったわけでもない。正義感によって覚えたりもしない。そもそもロマーノは国だから、処刑を命じられることはないだろう。もしもそんなことを言い出す王がいたら、その残虐さよりも愚かさについて責めなければならなかった。ロマーノだってそんな上司は嫌だ。どうせならロマーノが何もしなくても国内を富ませてくれるような立派な上司が良いのだ。そう、ありていに言えば、馬鹿な上司より利口な上司。誰だってそういうものである。有能なトップがいて自分たちは何も考えずとも流されるままでいたい。弟のヴェネチアーノが聞いたら、まずちゃんと仕事して! と泣き出しそうな持論を脳内に展開して、どうにか理性を引き寄せようとする。
 唯一の救いは飛行機が予定時刻通りにローマ・フィウミチーノ空港へと降り立ったことだろう。快挙だ。幸先の良さに思わず口端を釣り上げた。本人は満足げに微笑んだつもりだが、端から見れば皮肉げで良からぬ類の笑みである。売店の店員が頬を引きつらせたが、ロマーノは構わなかった。空港に着いたその足でスーパーマーケットへと向かう。足を向けたのは市内の中心地、地元民が利用するごく日常的な店だ。規模が大きいわけでも小さいわけでもなく、取り立てて特徴もないような……。平日の午前中だから、客はまばらにしかいない。かっちりとしたスーツを身に纏い、早足で歩くロマーノは場違いだった。実際、店に着いた彼は異様なほどに浮いていた。しかしロマーノだけは何の迷いもなく店内を進む。目的は決まっていた。
 ロマーノは怒っていた。怒りの原因はスペインにある。元宗主国で自称親分のあの男は、今現在、恋人でもあった。わざわざ口にして言わなくても自然に囲い込んめば良いものを、変なところで融通が利かないあの男は、言わなければズルいから、というだけの理由で思い出す度にこっ恥ずかしくなる愛の告白とやらをかましてきた。ロマーノだって断る理由はなかったので、羞恥にどうにかなりそうだったものの何とか頷いて恋人として付き合うことになったのが今からおよそ一年前。そこからが焦れったいぐらいに発展しない。キスはするくせに強く抱きしめてこないし、ロマーノが擦り寄ると大げさなまでに避けようとする。
 彼が何を恐れているのかなんて、ロマーノに想像できるはずもない。だが、こういうことははっきりさせたい、と言って関係を恋人に軌道修正したのはスペインのほうなのに手を出すこともしない、ロマーノからのアクションも許さないなんてどうかしている。馬鹿にされているのではないかと思った。
 だからロマーノは昨夜、彼に突きつけた。今すぐ俺を抱くのか、それともセックスのひとつもできないくせにどうして恋人になろうとしたかを説明するかどっちか選べ、と。それに対する彼の答えが、これだ。

「いやいやそんなん、ロマーノとしたいに決まっているやん! やって俺めっちゃロマーノのこと好きやもん! せやから、あー、恋人らしいこともいっぱいしたいねんで……? でも今日は……ゴムとかないし……、そんないきなりはできへんよ!」

 ヘタレかよ、クソ野郎。

 あまりに腹が立ったので、ロマーノはとりあえず眠ることにした。ここで怒鳴ってもしょうがないだろう。一晩寝て、頭の中がすっきりしてもまだ腹を立てていたら行動を起こす。そう決めてベッドに入ったが、目覚めた時には眠る前よりもより一層怒りが増していて噴火寸前だった。ロマーノのとなりでスペインが間抜けな顔で寝こけていたせいかもしれない。それで雑な書き置きを残して、今朝ひとりでイタリアまで帰ってきたのだ。
 思い出すと再び苛々が込み上げてくる。タイミング良くスラックスの尻ポケットに収まった携帯電話が二回震えた。差出人を見ればスペインだ。小さく舌打ちをして画面を開き、内容を読んで理解する前に返事を打った。パチン、勢い良く折りたたんでポケットに戻す。
 いくつか曲がり角を曲がって店内を突っ切る。“それ”を手に取るのは初めてだったが、どこにあるかは知っていた。ピルが一般的なこの国では、あまりポピュラーとは言えない避妊具だ。それはスペインでも似たような事情だろう。だからこそ品質はあまり良くなくて、価格も高め。いつだったか日本が、アジアではこちらのほうが一般的で……、と言っていたのを思い出す。そのあたりの事情については今度詳しく聞くとして、今は国内で流通している少々割高の品で妥協するしかない。どのみちロマーノが使うものじゃない。彼が質の悪さをどう味わおうと知ったことではないのだ。
 無造作に箱をひとつ手に取ってレジへと向かった。肩で風を切りながら颯爽と歩いて行く。レジは空いている時間だったから、半分以上が封鎖されている。空いているひとつに並んで、キャッシャーの上に商品を置いた。ふとレジの側にあったキシリトールのタブレットが目について、それも掴む。一緒に差し出せば無愛想な店員が眉を僅かに上げた後、バーコードを読み取っていった。いくら、と言われてスーツのポケットでくしゃくしゃになっていたユーロ札を渡した。支払いの時に金を投げる男が嫌いだ。それでも勢い余って押し付けるようになってしまったのは否めない。悪い、言いかけて口を噤む。相手も口ばかりの謝罪は望んでいないだろう。程なくして釣り銭が返ってくる。袋はいらない、と辞退して商品と一緒にスラックスのポケットに突っ込んだ。
 時計を見れば、スペインを飛び出してから三時間が経っていた。あと一時間もすれば、あの男もロマーノを追ってイタリアにやって来るだろう。外で話し合いなんてしようものなら、人前でみっともなく喚き散らしてしまいそうだ。それで足を自宅に向けた。弟と暮らしているほうとは別にある、ローマ市内のアパートだ。スペインに合鍵を渡しているのもその部屋。

『お前の言いわけは聞き飽きたから、俺に手を出す気があるなら家に来い』

 メールを打って自宅に足を向ける。彼が部屋に来たら、さっき買ったコンドームの箱を投げつけてやるつもりだ。
 スペインが家に来たら、なんて仮定で考えているが、ロマーノには確信があった。彼は慌ててロマーノを追って来ているだろう。できれば今までのロマーノとの関係に罪悪感を覚え、背徳に怯えながら神様に懺悔するのは飛行機の中で済ませておいてほしいが。ついでに寝起きでそのまま飛び出して来ただろう彼に、キシリトールのタブレットを噛ませたい。キスの前のオーラルケアはマナーだ。
 なので、情けなくも眉を下げて心なしかげっそりとした顔をのスペインがロマーノの部屋にやって来た時、ロマーノが行ったスーパーマーケットと同じ店の袋を下げていたのには予想外で、思わず笑ってしまった。

壁に追い詰める

2016.11.08

「ろっロマーノ?!」

 いつも飄々としている男が慌てふためく姿は珍しくて少しおかしかった。スペイン宅のリビング。夕食の後、ワイングラスを傾けながらソファで寛いでいた時のことだ。これまでの不毛な片想いを思えば驚くほどに些細なきっかけで我慢の限界を迎えたロマーノは、突然、何の前触れもなくスペインの背後の背もたれに手を突いて彼を両腕に閉じ込めた。上から見下ろせば光が遮られて彼の顔が翳った。スペインの顔が赤くなっている。見開かれたみどりの瞳はキョロキョロとしきりにあたりを見回していて、ひどく落ち着きがない。ずいぶんと焦っているようだ。今までどんなにアプローチをしても気づかなかったくせに。

「どないしたん? 急に、こんな……ちょ、ちょっと落ち着こ?」
「うるせぇよ、ちくしょー」

 吐き捨てた台詞があまりにいつも通りのものだったから、我ながら他人事のように感じた。実際、ロマーノは今自分がしていることに実感がなかった。ワインを飲んでいたとは言え、泥酔して我を失うほど量を飲んだわけでもない。思考回路は正常で意識もはっきりしているが、それなのに頭の中がふわふわとしていた。先々がどうなっても構わないと言うような投げやりな気分だ。あるいは自暴自棄になっているのかもしれない。

「ロマーそんなひっつかれたら親分動かれへん……」
「くそっ! 何なんだよ、テメェ……誰もお前の子分になんかなったつもりねぇのに勝手に親分親分って、俺の親かよ! 俺はそんなの認めてねぇぞ、このやろー!」

 一度吐き出してしまえば胸の内から溢れ出る言葉をせき止められない。ずっとみっともないから黙っていようと見て見ぬふりをし続けてきた感情が、まるで洪水のようにロマーノの思考を塗り潰していく。

「そうやっていつも見下してんだろ?! 俺なんかガキ扱いして良いって馬鹿にしてんだよ。テメェは気分が良いだろうな。何もできねぇ俺相手に親分ヅラしてりゃあ優越感に浸れるんだし」
「ロマ……?」
「お前なんか……お前なんか……」

 自分が口にしているのに、自分で自分の言葉に傷ついてしまう。両眼いっぱいに涙を溜めて今にも決壊しそうなのを必死で堪える。耳の下のリンパがぎゅうっと締め付けられたみたいにじくじくとしだして、それに刺激された唾液腺から次から次へと唾液が溢れてくる。酸っぱいものを無理やり口にしているような痛みに顔をしかめた。スペインがこれ以上ないと言うぐらいに目を見開く。彫りの深い奥まったまぶたから宝石みたいな瞳が零れそうで、フラフラと吸い寄せられるように魅入ってしまう。
 一瞬、沈黙。数拍してロマーノは身を乗り出した。暴力的なまでの自虐に揺さぶられてぐちゃぐちゃの感情のまま、衝動的にスペインの唇に噛み付いた。いや、噛み付こうとしたのだ。

「ーーーッ! あかん!」

 しかし唇がふれ合う直前、スペインが弾かれたように仰け反ってロマーノの動きを止めた。その衝撃にハッと我に返る。先ほどまで真っ赤に熟れていたスペインの頬は色が失せ、土のような色をしている。
 拒絶されたのだ。それを悟った瞬間、ロマーノは世界が崩れ落ちる音を聞いた。

「お前なんか……大っ嫌いだ……」

 俯いた拍子にずっと堪えていた涙が零れ落ちる。ぱらら、ソファの固い生地の上に落ちて一瞬で吸い込まれていく。まるで初めから何もなかったように、ソファは乾いたままだった。

 ロマーノはスペインのことが好きだった。家族に向けるような穏やかで優しい親愛の情もあったが、彼のことを想うだけで切なく胸は軋んだし、その笑顔が誰かに向けられているとどうしようもなく苦しくて溺れてしまいそうな激情に身を焦がしてもいた。それがどういった感情であるかは痛いほどわかっている。しかしスペインは弟のヴェネチアーノを可愛がっていたし、オーストリアやフランスとも親交が深い。それでも良いからそばにいたいと、そう思わなければやっていられなかった。
 そんな辛酸を嘗めさせられるような不毛な恋をずっと続けてきた。けれど、それももう限界。これ以上は少しも耐えられそうになかった。

 ロマーノの固く握りしめた拳から力が抜けて、だらりとソファに落ちていく。心臓が痛いぐらいに激しく脈打つが、指先は冷えていて温度を失くしたみたいだ。

「ロマーノ……」
「お前、ほんと……こんな時ぐらい空気読めよ」
「ロマ……」

 身を引こうとすると、スペインが引き止めるように抱きしめてくる。ロマーノはこれ以上、彼に自分の情けない顔を見られなくないと言うのに覗き込もうとしてくる無神経さだ。力なく拒絶するが、身を捩ればますます力を込められる。さっきはロマーノのことを拒絶したくせに。そう思うと瞬間沸騰したように一気に頭に血が上って、カッとなって言い募る。

「ほんとにやめろって……おい、スペイ……ッ?!」

 力任せに腕を振り払おうとする。しかし突然、腕を強く引かれて視界がぐるりと回る。急な展開についていけず、咄嗟にロマーノは自分の身に何が起きているのか把握できなかった。混乱し目を瞬かせている間に、スペインは身体の位置を入れ替えてロマーノをソファの上に座らせた。そのまま上から覆いかぶさり背もたれに腕を突いて、腕の中に閉じ込めるようにロマーノを追い詰める。

「空気やったら読んだつもりやで」

 上から見下ろしてくるスペインは今までに見たことのない顔をしていた。いつも快活によく動く眉はぎゅうっとひそめられ、普段よりも彩度の高いみどりは黄色みを帯びている。そう、まるで黄金にかがやくかのように煌めいてロマーノのことをじっと見つめてきた。

「な、なに……」
「こうして欲しかったから、あんな風に迫ったんやろ?」

 耳元に寄せてきた唇がふうっと息を吹きかけてきて、低い声で囁く。ぞくりと背筋に良くない感覚が走っていって、ロマーノは身体を戦慄かせた。そのまま彼の唇は頬から顎のラインへと伝っていって、首筋に吸い付かれる。湿った感覚に思わず目を見開いた。片口に顔を埋めた彼はロマーノの身体をきつく抱きしめて、はあっと熱い息を吐きだす。

「ロマ……情熱的なのは大歓迎やけど、そんな強引にしたらあかんよ」

 ああ、どうしよう。逆に追い詰められてしまった。

「いくら俺がお前に惚れているからって、いつでも優しくできるとは限らへんで」

 ギラついた眼差し、余裕のない表情、そのわりに低く甘やかな声音。心臓はこれ以上ないぐらいに高鳴っていて、スペインが言っている言葉の意味を半分も理解できない。どうしてこんなことになったのだろう。先ほど確かにロマーノはスペインに拒絶されたはずなのに。
 顔を上げたスペインが鼻先をふれ合わせるほど近づいてきて、すうっと目を細めた。彼らしくもなく嗜虐的な表情に、彼が支配者であることを思い知らされる。手首を掴まれて背もたれに押し付けられる。逃げ場をなくしたロマーノは捕食される小動物のような心許ない気持ちでスペインの言葉を待った。

「スペ、ぃ……ンぅ」

 彼は言葉もなく静かにロマーノの唇を奪う。下から掬い上げるように重ねられた唇。やわらかくて、表面が少しかさついていた。口付けは一瞬のような気もしたし、とてつもなく長い時間にも感じられた。ぬるり、と侵入してきた舌の熱さに反射的に噛み付いてしまった。

「いぃ……ったぁ!!」

 容赦なく力いっぱい噛んだせいでスペインが絶叫する。腕の力が弱まった隙を突いて、さらに頭突きをかました。見事に顎に当たって、ぶへっ、と情けない声が上がる。

「ひゃにひゅゆん」
「う、うぅううるせぇ! 誰が勝手にキスして良いって言った!」
「ひぇもしゃっきりょまーぉ」
「ヴァッファンクーロ!」

 力が抜けたスペインの身体を無理やり引き剥がし立ち上がる。スペインをソファに押し倒してロマーノは急いでリビングから逃げようと床を蹴った。背後でスペインの焦る声が聞こえたが振り返る度胸はなかった。とにかく一刻も早くここを立ち去りたい。その一心で、ドタドタと足音を立てながら二階の寝室へと逃げ込む。

 取り残されたスペインは逃げ足だけは早いロマーノの後ろ姿を見送って呆然としていた。

「…………」

 遠くで階段を駆け登っていく足音が聞えるが、追いかけるよりもソファに座り直して膝に肘を乗せる。前屈みになって頭を抱えた。

「……やぁってもうたー…………」

 聞く相手のいないひとりきりの部屋で苦々しくため息をつく。
 彼から迫られて咄嗟に避けたのは、後からそんなつもりはなかったと怒られると思ったからだ。彼は猫のように気まぐれで、自分から近づいてきたくせにスペインが手を伸ばすとその手を振り払い、嫌そうに顔をしかめるところがある。それなのに今夜は少し様子がおかしかった。ロマーノがひどく傷ついた顔を見せて、スペインを縋るように見つめてきた。だから期待したのに。もしかして、と思って強引に迫ってしまった。

「…………強引にしたのは俺のほうやろ」

 ロマーノはきっと怒っている。あの子が何を考えているのか、いまいち読めないのはいつものことだが、今日のはさすがに堪えた。
 あんな顔で、あんな声で。スペインに食われるのを待っているような態度を取っておいて、それでもそんなつもりじゃないと言うなら、一体どういうつもりなんだ。

「あかん、ロマ……あかんってぇ」

 泣きそうになりつつ、どうやって今夜のことをごまかしてロマーノの機嫌を取ろうかと必死になって考える。そんなこと無駄になるとも知らずに、スペインはその夜一睡もできないのであった。

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SPAIN ✕ ROMANO

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