―――お前ってはちみつみたいだよな。
それはスペインがロマーノに甘すぎることを、まさに甘やかされている当の本人が鬱陶しがって喩えた言葉だ。ベタベタに構いたがって世話をする姿が、とろりと纏わりつく蜜のようだと言いたいのだろう。
ロマーノはそうやって鬱陶しがるけれど、実際、そんなスペインの甘さを当てにしているのだから理不尽だと思う。スペイン支配時代に宗主国を相手に横柄な態度を取っていたこととか、独立してからも事あるごと「スペイン助けろこのやろー!」と呼び出していたことも忘れてしまったのだろうか。
今だってそうだ。スペインがロマーノの意思を尊重するために、どれだけいろいろなことに耐えているのか、きっと彼はわかっていない。
「ろっロマーノ?! どうしたん、急に。そんなひっつかれたら、親分……」
「急じゃねぇよっ。俺たち恋人だろ……だ、だったらっ、こういうことしても変じゃねぇだろ!」
ソファに腰かけるスペインにロマーノが覆い被さってきた。焦ったのは真剣な眼差しでスペインを見据えて、戯れのようなキスを仕掛けてきたからだ。常々ロマーノと、そういうことをしたいなあ、と思っているスペインとしては理性が試されているような状況だった。
スペインとロマーノが恋人になってそれなりの時間が経っているにも関わらず、ふたりは未だ一線を踏み越えていない。いつも肝心なところでロマーノが怖気づいて、これ以上はだめ、と泣きだしてしまうから、それがどんなに良いところであってもスペインは泣く泣く手を引くしかなかった。
「せやけどロマーノ、こわいんちゃうん? 無理してこんなことせんでも、もうちょっとやったら我慢できるし……」
本当は付き合う前からずっと手を出したいのを我慢しているからそろそろ限界なのだが、それを言ってロマーノを焦らせ、無理を強いたくはない。
そう訴えるとロマーノが泣きそうな顔で睨みつけてくる。しかし顔は真っ赤で瞳がうるうると涙目になっているから、怖くも何ともない。
「恋人に我慢させるなんてイタリア男の名折れだ! それにこんなこと、こわくも何ともねぇよ」
「こんなことって何するかわかっているん?」
「わかっているに決まってんだろ。ばかにすんなっ」
「セックスするんやで?」
明確に言葉にして確認すると一瞬ロマーノが怯んだが、すぐに身を乗り出してきてスペインの鼻先に自分の鼻がくっつくほどの至近距離まで迫ってきた。視界がぼやける距離に目を丸くする。
ロマーノが気の強そうな瞳を尖らせて、言い聞かせるように言った。
「だから、わかっているって言ってんだろ」
「ロマーノ……」
「い、言っておくけど! 俺は何もできねぇからなっ、お前が俺を抱くんだぞ、このやろー!」
それは願ってもないことだ。スペインの頬が期待から紅潮する。
今までロマーノはスペインがさり気なく空気を作ってもだめ、宣言をして覚悟をさせてもだめ、じゃれ合いの延長線のような軽い雰囲気から持ち込もうとしてもだめで、結局何をやっても怯えて最後までできなかった。もはやスペインからは押すことも引くこともできず、このまま恋人に手も出せず健全なお付き合いを続けるかないのだと、まだ若い体には辛い決意をせざるを得ないところまで追い詰められていたのだ。
そんな状況でロマーノに押し倒された。先を期待するなと言うほうが無理な話だ。
「もちろんや。ロマーノ、絶対優しくするから」
「……ん」
「好きやで」
スペインは舞い上がっていた。ようやく心を決めてくれたのか、あるいは大人になってくれたのか、どちらかは知らないがロマーノがその気になってくれたことにひどく浮かれていた。
彼を怖がらせないように精いっぱい甘ったるい声音で囁きかける。居た堪れなさそうな顔でロマーノが視線をさまよわせて俯いた。スペインの体に圧しかかってくるその体を抱きしめて、そうっと背中を撫でてやる。何もこわいことはない。そう伝えながら優しく体勢を入れ替えた。
「スペイン……っ」
「大丈夫、気持ち良いことだけしかせぇへんから」
ほとんど吐息で空気を震わせるような低い声で囁くと、ロマーノの琥珀色の瞳がはちみつのように蕩けだした。これはいける気がする。シャツのボタンを外しながら、顔中にキスを降らせていった。心臓が痛いぐらいに高鳴っている。全身に送り出される血液が熱くて、頭の中がくらくらする。どうにか興奮しすぎて我を忘れないように、理性の端っこを握りしめながらシャツを肌蹴させていった。
「ああ、ロマーノ。可愛え、俺のロマーノ。愛してんで」
しかし今までずっと我慢してきたものが手に入りそうなのに、いつも通りの顔で優しくなんてできるはずもない。
熱に浮かされて表情に表れたのか、見飽きるほど見てきたロマーノの素肌を見つめる眼差しか、自分でも熱すぎと感じるほどに熱を持った手のひらか、あるいはその全てだろうか。とにかくスペインは決して普段通りではなかった。それを感じ取ったロマーノが体を強張らせたのも、わりとすぐのことで。
「ぅ……ぁ、スペ……ン」
「ロマーノ……」
「だめ、だめスペイン……っ」
宥めようとする時間もなかった。彼が限界を訴えたのと、子どものように泣きだしたのはほぼ同時だった。
「やっぱりだめだ、このやろー! お前なんかこええぞ、ちくしょー!」
興奮しきっていたスペインの頭を冷やすには十分すぎる反応だった。
もちろんロマーノのことはゆくゆくは泣かせてやりたいと思ってはいる。シチュエーションもほとんど同じだった。できれば最初はソファではなくベッドで、彼を押し倒して自分の腕の中、もうだめと泣きじゃくるほどに愛してやりたいとは思う。ただ今日は彼が泣きだすタイミングがあまりにも早すぎたのだ。
ロマーノいわく、はちみつみたいなスペインでなければ、あの状況で体を起こして慰めたりできなかっただろう。
泣きたいのはむしろスペインのほうだ。
「いや、ええねんええねん。俺が甘いのは事実やし、だから何ってわけでもないし」
ロマーノが気まずそうに視線を逸した。さすがに多少の罪悪感はあるようだ。
ぼさぼさの髪、肌蹴たシャツ、泣きじゃくったせいで真っ赤な目と頬。なるべくそれらから視線を逸しながら、ロマーノの手を引いてソファから起こしてやる。
「せやけど甘いのと理性が強いのは別やからなあ。いたずらに俺を試すようなことして、ほんまに怖い目に遭っても知らんで」
ボタンが四つ目まで外されたシャツのあわせを引き寄せる。晒された鎖骨やら胸板が、今はあまりにも目に毒なので。未だ熱が燻る体の内側を無視するように思考をロマーノから逸らそうとした。こういう時は小難しいことを考えて熱を鎮めるに限る。確か今朝のニュースはユーロ安が続いていて貿易が好調、失業率が何%で……。
何が悲しくて恋人の裸を前に、理性を総動員して衝動に耐えなければならないのだろう。しかもこれが初めてではないから困る。
「俺は別に無防備にパジャマも着んでベッドに潜り込んでくるなとか、無自覚で誘ってくるみたいな上目づかいはやめてとか、そういうことを言うてるんとちゃうで。……いや、まあそれも結構やばいから、この際言うとくとやめてほしいねんけどな。特に一緒に寝るのはなあ、何度も言うてるけど、せめてパジャマ着てや。俺のベッド狭いから引っ付いて寝なあかんやん。素肌に触れるのは、さすがにきついねんって……」
我ながら情けない。
「でもな、それはええとしても、その気がないのに、恋人を押し倒して襲ったらあかん!」
その気がないのに、を強調して一気に捲し立てた。
ロマーノが何か言いたげな視線を寄越したが、シャツのボタンを一番上まで留めていく。こういうところもまた、はちみつと言われる所以なのだろう。
「今回はたまたま我慢できたけど、次こんなことがあったらロマが泣いても縋っても途中ではやめたらへんよ! それで俺のことがこわいって怯えても知らんからな! だいたい恋人を襲っておいて、やっぱやめて、はないやろ! それでやめれる男がどこにおるねん……ここにおるけど。もう……ほんま、ほんまに」
ブツブツ文句を言っているが、スペインもロマーノも知っていた。スペインは次にまた同じことがあっても、ロマーノが泣いたらやめるのだと。
とは言え、こんなことがそうしょっちゅう起こっても困る。スペインはロマーノとの付き合いを通して忍耐を鍛えたいわけでもないので、なるべく同じことが起きないようにと釘を刺した。
「俺のこと試しているんちゃうかったら、もう絶対にしたらあかんで。お前も同じ男やったらいたずらに煽るような真似したらあかんことぐらいわかるやろ」
「……ちぎぎ」
「って、ああ。ナンパに成功しそうになったら逃げ出すロマーノには難しいんかなあ? 据え膳食わずに敵前逃亡が信条やもんな」
言わなくても良いことをわざわざ口にするのところはスペインもロマーノもよく似ている。ロマーノがむぅっと唇を尖らせた。
「べ、別に逃げ出したりなんかしてねぇし何だよその信条っ」
「ふうん、ほんならアリーチェちゃんとは進展があったん?」
それなら話は別だと眉を釣り上げたスペインにびくりと肩を強張らせてみせた。眉はへにゃりと下がっているくせに、瞳だけは強気で一生懸命スペインのことを睨みつけてくるから参るのだ。
だから、そういうのが男を煽るのだと。内心、頭を抱える一方で穏やかではない感情がむくりと起き上がる。ロマーノを見やると、びくっと肩を強張らせた。剣呑な表情でもしていたのだろうか。
「あっいや、ロマーノが浮気しているって疑っているわけとちゃうよ。イタちゃ……人から何もなかったって聞いているし」
慌てて取り繕って態度をやわらげた。危ない危ない、ロマーノに嗜虐心が強いだなんて思われても困る。決して彼のことを苛めたいわけではないのだ。
「……何でそんなこと知ってんのか知んねぇけど、成功しそうにもなってねぇよ。確かに家に来ないかって言われたけど、あんなのからかわれただけだし……、お前の言う通り、こわくなって逃げ出したんだ」
先に口を開いたのはロマーノだった。しおしおに垂れたくるんが彼の感情を表しているかのように下がり、おずおずと上目づかいで見上げられた。
「だから、その、そんな顔しないでくれよ」
一体どんな顔をしているのだろうか。気にはなるが、確かめられそうにない。
不安に揺れる瞳の色が、先ほど押し倒した時に見たものと同じく頼りなく見えて、まだ腹が立っているのに許してしまう。本当はナンパだってしてほしくなかったが、それ以上は何も言えなくて、もうええよ、と囁いた。
「ごめん、親分もきついこと言ったなあ」
「……いや」
「落ち着いたら何か食いに行こか。腹減ったやろ?」
こんな時でもどうして食欲があるのか不思議だったが、ロマーノはこくりと頷いたので出かけることにする。それに今はふたりきりでいないほうが良いかもしれない。賑やかな店で楽しく食事をすれば、この苛立ちにも似た興奮状態も落ち着くだろう。
「髪ボサボサになってもうたから、鏡見てなおしておいで。ついでに顔洗ってきたらええよ。準備できたら家出よか」
「スペインも……髪が」
「俺はええから早よ用意してき?」
「……わかった」
のろのろと洗面所へと向かうロマーノの背中を見送って、ソファに深く腰かけた。ぐったりと背もたれに背中を預けて天井を見上げる。はあっと腹の底から吐き出すみたいにため息をついた。今日は何だかひどく疲れた。
ロマーノに押し倒された時こそ喜んだが、正直なところスペインは半ば諦めていた。ロマーノは元々女の子が好きだったし、痛いのも怖いのも苦手だ。女の子相手に何かすることさえ尻込みするほどへたれな彼が、スペインとどうこうなるなんて難しいのかもしれない。
(あの子が俺とこうなってくれているだけで嬉しいって思わな……好きやって言って受け入れられて、たまあに好きって言うてくれる。それだけで十分なんかも)
それでも、と思う。それでもロマーノがスペインに全てを委ねてくれたなら、はちみつの甘さだけではないスペインの愛情全てで抱きしめるのに。
この恋は甘いばかりではない。ただロマーノに抱く感情が恋情だけではないから、どうにか優しさを保てているだけだ。これが恋だけだったらナンパなんて絶対に許していないし、どんなに泣かれても怯えられても途中でやめたりはしないだろう。けれどそんな優しさだけで愛せるのなら、初めから恋人になろうと望んだりはしなかった。
セックスをする時は恋愛感情が優位になるからいけなかった。きっとロマーノはそんなスペインの胸の内で吹き荒れる激情を感じ取っているのだろう。どんなに甘やかしても優しくしても、どこかにその片鱗が滲み出ている。それに怯えて泣くのだ。ロマーノがこわがっているのは行為そのものというよりも、スペインに対してなのかもしれない。
「……きっついなあ」
それでも願わずにはいられない。ただひとりの愛しいロマーノだからこそ、スペインの愛情の全てを受け入れてほしいのだと。
○
「ロマーノー用意できた? 夜は冷えるから上着持っておいでや」
「おう、わかっているっての」
「お、まぶた腫れへんかったな。これやったらバルに出ても平気そうやなあ」
ロマーノが支度している間にどうにか我を取り戻して、カーディガンを羽織らせる。良い子良い子と頭を撫でるのは普段なら子ども扱いだと怒られそうだが、今はやり過ぎるぐらい甘やかすぐらいでちょうど良いだろう。スペインにとっても、それぐらいの空気のほうがありがたい。自分が親分であることを思い出させてくれる。
玄関へと促して靴を履いた。外へ出ようとして、ふと服の裾が引っ張られた。
「ん? どうかしたん?」
ロマーノがスペインのシャツの裾を掴んだらしい。どうかしたのかと振り向くスペインの視線から逃れるようにそっぽを向いた彼は、しかし耳まで真っ赤にしながら憮然とした表情をしていた。
「さっきのことだけど」
「あー……もう怒ってへんし、話したいことがあるんやったらまたの機会でも」
もう少し冷静に話せる時にでも。
しかし彼は首を横に振って勢い良く顔を上げた。そうしてさっき泣きじゃくったことも忘れたかのように、自信満々の態度で早口で宣言してくるからスペインはますます頭を抱えるはめになるのだ。
「あ、あのさ。今日はだめだったけど、ちょっとずつならできそうな気がする! だから、スペイン! お前もあれぐらいでめげずに挑戦しろよなっ」
……ちょっとずつのほうが難易度高いんですが。
けれど早速その晩からロマーノがどこまでならできるのかチャレンジすることになるのだった。
まほろば八満さんのツイートを見て。 https://twitter.com/hatimitu21gou/status/860819860170752000