オールドタイマー

「なぁこれからロマーノのこと口説くから、もし落とされたら俺と付き合ってや」

 スペインの家で過ごす休日、穏やかな昼下がり。ソファに寝そべってゴロゴロと怠惰に寛いでいたら、そばまでやって来たスペインが床に膝をついて顔を覗き込んできた。いつも朗らかな笑顔を浮かべている彼にしては珍しく、いつになく真剣な眼差しにロマーノは首を傾げる。ぱちぱちと瞬きを繰り返して言われたことの意味を理解しようと努めた。口説く? 落とされる? それは自分とスペインとの間には不釣り合いでとても奇妙な言葉だ。

「何を言って……ふざけてるのか?」

 またからかわれているのかと思って眉をひそめる。彼は時々こういった突拍子もない冗談を言い出すので、いつもロマーノは振り回されて呆れさせられるのだ。だからどうせ今日もそうなのだろうと思った。いつものそれだから相手にするだけ無駄だと、適当にあしらおうとした。
 しかしスペインはロマーノの右手を掬い上げるように取って、至近距離で見つめてくる。熱っぽい瞳が間近に迫って、なぜだかどきりと心臓が高鳴った。
 スペインはロマーノの右手を両手で包み込むと、まるで神様に祈りを捧げるかのような真摯さで囁く。低く掠れた声がロマーノの耳をかすめていく。

「ふざけてへんよ。でもロマーノがふざけてるってことにしたいんやったら、そう思ってくれてもええから」

 例えばここで、スペインがロマーノの手の甲にキスを落として甘く囁やけるような器用な男であったなら、ロマーノは手を振りほどいて顔を真っ赤にして怒ったのだろう。ふざけんのはやめろ! と怒鳴って、このふたりの間に漂う妙に濃厚な空気も何となくうやむやになったはずだ。
 しかし実際のスペインはロマーノに縋るような目で見つめてくるものだから、ロマーノは怒鳴る気が削がれてしまった。こんなスペインが抱えているのはきっと悪戯心などではなく、もっと厄介でロマーノの手には負えないようなもののはずだ。

「だから……なに、言って……」

 カラカラに乾いた喉からどうにか声を絞り出す。今自分の身に起こっていることがとてもおそろしいのに、スペインの瞳から目を逸らせなくて参っている。長い付き合いのはずなのに、今までに見たことのない瞳だと思った。知らないスペインの表情、知らない彼の声。
 いつもは深緑を思わせる健やかな色をしている彼の瞳が、かつて見せてもらったグリーンスフェーンの際立つ輝きを宿し、じっと食い入るようにロマーノのことを見つめてくる。その中に写り込んだロマーノの姿が万華鏡のように形を変えていく。あまりにその様が美しくて、スペインの瞳に映る自分は何て綺麗なのだろうと感嘆してしまう。窓から差し込む太陽はだいぶ傾いていて、あたりは夕焼けの色に染まっていた。やわらかな橙色の光がスペインの瞳の中でキラキラと屈折し、何重にも折り重なって複雑な色彩を放つ。

「ふざけてるって思っててもええから、俺に口説かれてよ。いつもはぐらかして言わせてくれへんような真面目なことも、ちゃんと言わせてや……」

 はあ、と吐き出された吐息の、何と熱っぽいことか。思わず背筋に震えが走ったことに動揺する。頬が熱い。スペインに握りしめられている手と同じぐらい熱を持っている。

「何を……言いたいんだ?」

 ごくり、乾いた口内にはほとんど何もなかったが、無理やり唾液を飲み込もうとする。喉が鳴る音がやけに大きく響いたような気がした。
 スペインが額をコツンと合わせてきて、ほとんど吐息だけで囁く。

「俺にとってロマーノがいかに大切かってこと……」

 幼い頃からよくされていたから、吐息がかかる距離も不快感はなかった。むしろそうされて安心してしまうのだ。あやすように宥められ、頭を撫でられたり優しく背をさすられたりするとどんな不安もたちまち消えてしまい、ロマーノは身も心も彼に委ねてしまう。その安らかさや安寧は何にも代えがたく、ロマーノにとってなくてはならないものだった。
 けれど、ロマーノはもう大人だったから、スペインのその態度が保護者にしては行き過ぎていることを知っていた。過保護だとか親馬鹿だとか、そういう言葉では片付けられない一線を超えている関係性。

「……ロマーノの瞳はいつ見ても綺麗やなあ。狼の目や……」

 うっとりとした声音。スペインの右手がロマーノの頬の一番高いところに添えられる。揃えられた指先は壊れ物でも扱うかのように慎重で、優しい手つきだった。

「ほっぺたもあんなにぷにぷにしとったのにいつの間にこんな……ああ、もう。こんなかっこ良くなってもうて」

 そのまま輪郭に添って滑らされた指先が、頬を辿り耳の下に行き着いて、顎のほうへと下がっていく。子どもの頃と比べればすっきりとシャープになった。当たり前だ。だってロマーノはもう独立していて、自国では成人として扱われるような見た目にまで成長している。

「せやけど肌はもちもちしとんな。何食ったらこんなに触り心地良いままなん?」
「し、らね……テメェとだいたい一緒だし……それに男に何言ってんだよ、トチ狂ってんじゃねぇのか?」

 何だか落ち着かなくて、スペインの言葉にムズムズする。飄々と告げられるから怒鳴り返すほどではないが、言われている内容はあまりにも気障な台詞だ。それでむすっと唇を尖らせて悪態をつくと、彼は困ったように苦笑した。

「ひどー罵倒されてもうたぁ。ロマーノはこんな時でも口悪いん?」
「いきなり俺が貴族みたいに上品ぶった言葉づかいになったら気持ち悪ぃだろ」

 わかりきったことだ、ふん、と鼻を鳴らして顎を仰け反らせる。すると、参ったなあ、と情けなく眉を下げるスペインがロマーノの目よりも僅かに下のほうを見やった。至近距離にいるからこそ目が合っていないことがわかる。
 こんな時ばかりよく動く自分の口が、我ながら憎らしい言葉ばかり紡いでいく。ペラペラと思いつくのは豊富な罵倒文句で、普通は下品だと眉をひそめられるようなものだ。ロマーノは今までこれが普通だったから、呆れられても今さら変えられない。

「ちくしょーさっきからお前変だぞ。何か変なもんでも食ったんじゃねぇのかよ、ヴァッファンク……んぅ」

 滑らかに繰り出される悪態の合間に、ちゅ、と音を立ててスペインの唇が自分のそれに吸い付いてきた。

「…………へ?」

 それはほんの一瞬で、ともすれば気のせいだったのではないかと錯覚してしまうほどだったが、確かにリップ音が部屋に響いたし、唇に残る湿った感触がキスをされたことを物語っている。
 スペインにキスをされた。頬でも額でもなく、唇に。
 元々、スペインもロマーノも身内への愛情表現は濃厚なほうだったからスキンシップも激しいものだが、挨拶でもないのに唐突にキスなんてしない。しかもさっきまでの空気だ。この流れでそれをするということは、つまりそういうことのはずで……。

「こうやってキスしとったら、ロマーノの口悪いのが吸い出されたりせぇへんのかなあと思って」

 またいつものようにふざけている。そう思うのに、睨みつけたスペインの目は熱っぽく、どこか熱に浮かされているようだ。あくまで彼は真面目にロマーノへと口付けてきたのだ。
 それが余計に恥ずかしい。いっそからかわれているのなら、腹を立ててこの場を立ち去れるのに。

「バカヤロウ。ふざけんなよ、カッツォ! お前なんか……って、んぅ……っ! ……んー!」

 今度は頭の後ろ、うなじのあたりに左手を添えられて唇をぐいっと押し付けられる。やわらかな感触をねっとりと味わわされて、じたばたと身じろいでみるが、だらしなく横向きに寝そべっていたのと上から押さえつけられる体勢のせいで力が入らず、上手く抜け出せない。どんどん、と胸を叩く。するとあっさり唇を開放されて、ちゅ、と鼻の頭に口付けられた。

「……ちくしょー」

 ロマーノの両頬を手で包み込み、小指で耳たぶを撫でながら甘ったるい視線を投げかけてくるスペインを睨む。焦点が合う距離まで離れたことで、彼の表情が克明にわかる。うっとりとした顔でロマーノを見つめ、慈しむ姿はどうかしている。どうかしているのだけれど、けれどきっとずっとそうだった。

「いっぱいキスしてロマーノの天邪鬼を吸い出したら、ちょっとだけ素直になってや」

 いけしゃあしゃあとそんなことを言ってのける男が、何よりも情熱的に感情を露わにしている。言葉よりも雄弁な瞳が、大人はそう滅多に見せないだろうというぐらい明け透けに自分の想いを載せて、じっと見つめてくるものだからロマーノは口を噤んだ。今さら何を言えば良いのかもわからない。
 これが口説かれている、という状態なら、ロマーノの思っているそれとは随分と違う。スペインは気軽に天使だとか運命だなんて言ってはくれないし、わかりやすく愛の言葉を囁きもしない。
 そんなんで誰を落とせると言うのだと、普段のロマーノなら馬鹿にして一蹴しているのだろう。自分のナンパの戦績も散々なものだと言うのに。

「……今の俺が素直じゃないって誰が決めたんだよ」
「そんな顔真っ赤にして何言うてんの。可愛えだけなんやで」

 人差し指の第二関節で頬をくすぐられて、咄嗟に目を細めた。甘やかされて伸び上がった猫のように、スペインの手に寄り添っているのを本人だけが気づいていない。

「なぁロマ……何回でも口説くから、もし俺に落ちたら付き合ってや」

 耳をくすぐる低い囁き。その言葉じわじわとロマーノを侵食していって、頷くまで少し。オールドタイマーが仕掛けられた。

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