煙草に纏わる恋人同士の話

R-15。
 
 
 
会えない日が続き、そういえば連絡もとってなかったなと気付いたちょうどそのタイミングで、スペインから殆ど泣き言でしかないメールを受信した。会えないことをこの世の終わりかのように嘆くスペインが何とも情けなく哀れにすら思えたが、言葉を尽くして俺がいないと生きていけないと請われると悪い気はしない。仕方がないから明日行く、とだけ書いた簡潔なメールを送れば即効で電話が鳴った。携帯から聞こえてくるはしゃいだ声に、ああ寝れてないんだなと気付いた。いつも以上の高いテンションも、仕事が忙しくて徹夜続きだからだとわかってしまって、飯でも作ってやるよ、と珍しく殊勝な気持ちで素直に言えた。そんなことにすらオーバーに喜びを表現するスペインの声を、穏やかな気持で聞いていたのが昨日のことだ。
翌日、朝一の便で飛行機へ乗り、すぐさまスペインへと向かった。道すがら市場へ寄って食材を買い込み、後は勝手知ったる土地のこと。迷わず行けば予想より早くに着いた。
慣れた屋敷の中を、家主の了承も得ずに勝手に上がり込む。相変わらず広い家の中は、かつての活気がなくなっても穏やかで、あの頃から変わらず俺を待っている。きっと家主の気性が反映されているのだろう。

長い廊下を抜けて漸くたどり着いたリビングの戸を開けば、室内は煙で白く霞んでいた。つんと鼻孔を刺したじんわり苦い、安い匂い。予想していなかった惨状と煙たさで、軽くむせたが咳き込むことは何とか堪えて怒鳴りつけた。

「てめー……、タバコくさいんだよ!」
「あー……ロマーノやあ、楽園がおるー」

部屋の真ん中に敷かれた質の良いラグに座り込んでいたスペインが、安い咥え煙草で煙を燻らせたまま抱きついてくる。煙が近づいてくるのに思い切り顔を顰めて、腕を突っ張りハグを拒絶した。内職中だったらしい。辺りには造花が転がっている。
このラグは以前に俺がプレゼントしたもので、程よい毛足の長さと触り心地の良さがなかなかの一品だ。高いブランドのものではないが名のある職人のもので、プレゼントした時きは目の前の男も喜んでいた。……煙草の灰が落ちて汚れているが、大事にしているらしい。

「……ったくテメーが呼びつけたんだぞ」

舌打ちをして睨み付ければ、スペインが短くなった煙草のフィルターをつまみ上げるように口から離し、情けない声を上げた。

「やってロマーノ全然会いに来てくれんのやもん」
「なんで俺が会いに来てやらなきゃなんねーんだ。俺だって暇じゃねぇんだよ」
「親分が好きやからやーん!」

わかってへんなあ、とぼやきながら、また一口フィルターに口をつけ目を細めて煙を満喫する。色の悪い分厚い唇に、太い節くれだった人差し指が当たった。乾燥しきった表面の皮がめくれかかっているのに気付き、いっそ剥いてやりたいと酷い考えが過る。こういう時もスペインは、みみっちい吸い方をするからちっとも決まらない。恋人のあまりのいけてなさに溜息をついて、持ってきた食材をテーブルに置いた。
ただの親分子分でしかなかった頃は、スペインは俺の目の前で煙草を吸うことはなかった。あの当時は今のように健康被害がどうのという話はなかったが、俺が悪ノリしたスペインと腐れ縁の悪友たちに一度吸わされて以来、煙すら嫌がったからだろう。子どもの時はスペインが屋敷の中で吸っているのを殆ど見かけなかったように思う。
耐性もなく嫌な思い出しかない俺は、独立してイタリアとして一人前の国と認められた後も、ずっと煙草嫌いのままだった。幸い、弟も非喫煙者だったため特に問題にはならなかったが、すっかり形も製造過程も変わった煙草を、スペインは相変わらず愛用していたらしい。
全くあんなものは百害あって一利なし、吸わない者からしてみればただただ迷惑でしかないというのが俺の理論で、しかし、あんなものでも嗜めてやっと一人前の大人の嗜好品だった時代があったのだ。害悪でしかないその煙が、ウイルスか何かのように嫌われている今からは想像もつかないが。そう、現代は素晴らしい時代だ。喫煙者はさながら犯罪者かのように迫害され、すっかり俺の生活は煙草の煙と無縁になった。時代が俺に追いついたとしか言いようがない。
そんな世論とは逆行しているのがスペインで、こいつは恋人になって何年か経つと取り繕う気がなくなったのか、目の前に俺がいようがいまいが気にせず煙草を吸うようになった。せめて女性の前ではやめておけよ、と忠告したことがあるが、果たしてちゃんと聞いているのだろうか。

「受動喫煙で俺の肺は間違いなく真っ黒だな」

悪態をつきながらじとっと目を細めると、スペインはふにゃっと笑って、すまんなあこれ吸ったら今日は最後にするから、と言ってのける。ぷかぷかと煙を浮かせ、ドーナツ―とか何とか言って笑った。昔は俺も喜んでいたが、今はお前はイルカか、としか思わない。

「今日と言わず、一生の最後にしろ。じゃがいも兄どころか、フランスもやめたじゃねぇか」
「あー……、うんうん。考えるよって」
「はっ、いつまで経ってもやめられねぇんじゃ、ただの依存症だぞ」

90年代から禁煙しろと言っているのに、様々な理由を盾にかわし続けられている。とは言え、そんなスペインですら最近の風潮には肩身が狭いらしく、反論も言い訳もしなった。以前は、やめようと思えばいつでもやめれるだの、喫煙室での付き合いだのと言っていたが、その喫煙室の一番の連れが、健康と美容を理由にあっさりやめたとあれば、もう逃げられないようだ。
三人の中で一番のヘビースモーカーだったプロイセンは存外あっさりやめた。もう10年ほど前になる。ドイツと再統一を果たしたのを機にすっぱりと吸わなくなった。ドイツも非喫煙者だったから、健康に配慮したらしい。じゃがいも兄のことは憎きじゃがいもの親族ぐらいにしか思っていなかったが、そういうところはスペインにも見習ってもらいたい。
フランスは自分で依存症だからやめられないかも、などと散々言っていたし、事実依存ぶりが激しかったので周囲もあいつだけは世界の残り一人になってもやめないと思っていたのだが、半年ほど前に突然禁煙を宣言して以来、会議で会っても喫煙席にいるのを見なくなった。本人は服やインテリアに匂いがつくのと美容に良くないからと言っていたが、新しい恋人ができたんだ、と俺たち兄弟は踏んでいる。
禁煙中のフランスはとても荒れていて、普段はお得意のユーモアとやらでかわすイギリスの皮肉にもいちいち突っかかってたし、気品と優雅をモットーにしている彼らしくもない癖が目立った。例えば苛々と人差し指で机を叩くだの、大きな溜息が多くなるだの。それでも、恐らくフランスであるという意地だけで絶対に貧乏ゆすりだけはしなかった。
二人のヘビースモーカーぶりはよく知っていたから、一番軽いのしか吸っていないし本数も少ないと言い張っていたスペインがやめられないことが少しだけ不服だ。せめて俺の前では吸わないで欲しいと常々思っている。

「はあ……、まあいいけど。俺への愛で禁煙してみせるぐらい言ってもいいんだぜ?」

肩を竦めて捨て台詞のような嫌味を言い残し、キッチンへ向かった。これに関しては何を言っても無駄だとわかっているから、さっさと夕飯でも作ってやろうと買ってきた食材を取り出し、下ごしらえを始めることにした。

その夜の食事は我ながらよく出来た。酒は、スペインが自宅で漬けてるサングリアを空けたが、今年はとても良い出来で、口当たりの良いそれをけっこう飲んだと思う。スペインもスペインで、内職はいいのかよ、と聞いてもへらっとゆるい顔で笑んで、今日ぐらいはゆっくりしたってバチは当たらへんよと言って、一緒になって食って飲んで、喋ってた。

「さっきのでやめるなじゃなかったのかよ」
「美味いご飯食べるとついつい」
「……普通逆だろ。酒が不味くなる」

食後の一服とか言ってまたも煙をふかし始めるスペインに皮肉は言うが、今日は多めに見てやる。連絡をとっていなかった間を埋めるようにお互いの話をして、大いに盛り上がることのほうが大切だ。久しぶりに会って、深く考えすぎて変にもやもやとするのも嫌だった。
下らない話をしているとあっという間に時間は過ぎて、酒で前後不覚になった俺たちはそのままなだれ込むように一緒のベッドに入り、抱き合って眠った。

翌朝、目が覚めると珍しくスペインが先に起きていた。寝起きの悪い俺は、それでもスペインよりは早く起きることが多いので、珍しいなと思いつつ、ぼおっと天井を眺める。いつもなら、こんな朝はスペインの煙草の匂いで目が覚めるのだ。煙に包まれての目覚めは最悪で、慣れてしまったスペイン産の安い煙草の匂いが、まるでスペインそのものの匂いにすり替えられてしまったように安心してしまう。そんなんだから、街中ですれ違い様に同じ匂いを辿ると思い出すんだ。
(できれば、香水とかのほうがいい)
そんなロマンティックなことを、スペインに求めるだけ無駄なのだが。
思考に沈んでいると、おはようのキスが降りてくる。そう言えば、昨日はしなかったなと気づいて、俺もその頬へ唇を返した。
今朝は爽やかなミントに香りがした。ガムを噛んだらしい。珍しいこともあるもんだ、と思ってじっと観察していると、スペインが口を開く。

「俺、ロマーノのために禁煙する」

起き抜けのあまり動かない頭でぼんやりと言われた言葉を反芻した。

「……きんえん」
「ロマーノのために」
「スペインが」
「他に誰かおるん?!」

ガシッと強く肩を掴まれ詰め寄られれば、いやいない、とのろのろ返す。少し額を左手の甲で抑えてふうと息をついた。ちょっと待て、お前。頑張って心臓が動いているのを意識すれば、何とか血が巡って働き始めた脳が、ゆっくり言葉を認識していく。

「なんだ、急に。昨日俺のためにやれって言ったからか?」
「いや……、ずっと気になっとったん。ロマ、煙草嫌いやんか」

そのわりには、ところ構わずスパスパと、という嫌味は我慢する。火事になるからやめろと言っても聞かず、事後に吸っていたこともあったぐらいだ。そうだ、セックスの後に煙草を吸う男は最悪だ。そのことを思い出して、ふつふつと怒りが湧き、ぶっきらぼうに返事した。

「まあな。誰かさんたちの悪ノリのおかげでトラウマもんだ」
「う……、それで俺もやめよ思て!」
「……今まで気にしてなかったのに」

なんだよ、と溜息をついてスペインを見れば、母親に怒られるのをビクビクしながら待つ子どもの仕草で俺の顔色を伺った。怒ってる?と聞かれると、いつもずるいなって思う。それで怒ってるとは言えないし、わかっててこいつは言っているから。
まあ俺も開き直って怒鳴るんだけど。

「やって……、ロマが」

しかし、そこまで言うと、ぐっと言葉が喉につっかえたように黙りこくる。あ、今なんか考えたな。

「何だよ、言いたいことあるなら言えよ。俺の何が不満って?」
「いや、その……、不満とかとちゃうねんけど」

しどろもどろ、はっきりしない言い方をする時は、たいてい俺が怒ると思って言わないでおいたほうがいいと判断した時のスペインの態度だ。そんなことをわざわざ聞いて嫌な気持ちにはなりたくないが、言いかけた言葉を途中でやめられると気持ち悪い。

「違うけど、なんだ」

半分、脅迫みたいに眉を寄せ顔を顰める。一度言いかけてやめたるなんてあからさまな態度を取れば、言っても言わなくても俺は怒るのに、そんなことをわかっててもスペインは繰り返すので、これもスペインの手段なんじゃないかと俺は思っている。ーー当のスペインにはそんな気などないのだが。

「う……、いやあの。ほんま、別にロマを疑ってるわけちゃうで!ちゃうねんけど、その」
「けど、なんだ。言っとくけど言っても言わなくても、俺は怒るぞ」
「え!いや、あの」

絶対に、絶対怒らんとってな!と何度も何度も念を押し、しつこく言い聞かせて漸く観念したのか口を割った。

「ロマが、昨日プロイセンとフランスはどうのとか言うから」

ロマは俺のやのに。
拗ねたような表情でふいっと顔を背けてしまった。あまりに珍しいスペインの言動に呆気にとられた。
(嫉妬?)
確かに昨夜は酒が入っていたのも手伝って、二人を(俺にしては)やたら褒めた。あいつらは大切な人のために煙草やめたんだよなーとか、そういうとこはいい男だと思う、とか。しかし、今までスペインは俺が誰を気に入ろうが、嫌おうが気にしなかったではないか。

「あ、あの、ごめん!俺、あの」

あああ、と謎の呻き声を上げて、何度も無意味に謝るスペインが面白くて、呆気にとられた状態から復活した俺は、ついぷっと吹き出した。きっと怒り出すと思っているのだろうスペインは、へっと気の抜けた声を上げる。

「なんつー顔してんだよ」
「いや、あの……怒ってへん?」
「なんで怒るんだよ」
「うん……、せやね。うん」
「まあ、なんだ。頑張れよ、禁煙」

気まぐれに笑えば、何かを堪えているような困った顔をして、スペインは声にならない声を上げる。そのまま固まった体がふるふると震えて、ぎゅっと抱きついてきた。
理由はどうあれ、本当に俺が少しでも動機になっているのなら、満更でもない気分だ。何より、経済的にも健康面でもインテリアや服のためにも!煙草をやめてくれるなら、俺はそのほうが嬉しいんだ。
その日は甘やかされた幸せに浸った。

固定ページ: 1 2

PAGE TOP

close