悪魔に魅入られる

「ローマが残した地上の楽園は悪魔に取り憑かれ、今まさに俺たちの目の前から失われようとしている」

 詩を詠むように朗々と続けられた言葉の真意を計りかねて首を傾げる。会議のすぐ後のことだった。長い廊下にはフランス以外の誰もおらず、彼がひとりでここに来たことを物語っている。

「何のことを言っているん?」

 あくまでも口調はいつも通りのまま返せば、フランスの腕がスペインの首に回される。肩を組む態勢で耳もとに寄せられた唇が動き、そっと耳打ちをするように囁いた。

「お前が一等可愛がっていた子分のことだよ」

 ああ、と気のない返事をやると、その反応がつまらなかったのか、フランスは鼻を鳴らしてスペインのことを突き放した。自分で引き寄せていて手を振り払う仕草は高慢で、とても彼らしい。皮肉げに細められたアメジストの瞳といい、スペインには決して真似のできない態度である。

「もっと落ち込んでいるのかと思ったのに残念だよ」
「何やねん、俺が泣いている姿でも見たかったん?」
「別に。お前が嘆こうが激昂しようが、どちらでも良いんだけどさ。少なくともその態度が気に食わない。らしくないじゃん」

 ゆっくりと瞬きをひとつして見返した男は不敵な笑みを浮かべていた。感情を表に出さぬよう抑制された表情はフランスを大人びて見せ、生来、人の気持ちを察したり場の空気を読んだりすることが苦手なスペインには、もはや彼が何を企んでいるのか見当もつかなかった。もっともスペインは自身の鈍感をどうにかすることを随分前に諦めている。変にあれこれ勘ぐって的外れなことを言うよりも、今目の前にあることだけに意識を向けているほうがよほど有益だったからだ。それはフランスとの付き合いを通して学んだことでもある。生まれ持って気の利いたことを言える機微に富んだ者にはどうやったって叶わないのだから、自分がそれを頑張る必要なんてないだろう。
 結果的に言えば、それがスペインにある種の野生的な勘の良さを身につけさせ、直感を研ぎ澄ませた。スペインはずっと空気の読めない鈍感な男のままだったが、それで困ることもなかった。
 その直感が言っている。これ以上フランスと話を続けても碌なことにならないと。

「そうか、期待に添えんくて悪かったなあ。早よ片付けなあかん仕事もあるし、用がないんやったら今日はもう帰るな」

 フランスが作り出した場の空気にはそぐわない緩い口調、しかし有無を言わさない強引さでもって会話を切り上げる。フランスのポーカーフェイスが成熟なのだと言われれば、スペインだって大人になってから身につけた表情のひとつやふたつ持ち合わせていた。

「ねえ、お前のそれってどこまで本気?」
「本気って? 俺はお前と違っていつでも真剣やで」

 はっ、と一笑される。それにいちいち突っかかるほど若くもない。
 先般、フランスに煽られて始めた戦争で手痛い目に遭って以来、スペイン帝国の財政は現状を維持することすら困難なほど逼迫していた。この上さらに殴り合いなんてできるわけがない。

「ところでさ、ナポリの王宮は結局誰も住まなかったんだって?」

 しかしフランスもやすやすと引き下がる気はないようだ。思いがけないところから切り込まれて、一瞬、肩が反応しそうになった。どうにかそれを押さえ込んで、いつも通りの飄々とした調子を崩さぬように続けた。

「まあなあ。ロマーノが里帰りした時には滞在できるようにって進言はしとったんやけど、なかなか機会がなくて」
「へぇ。そう言やお前、ロマーノを南イタリアにほとんど帰らせていなかったよね」
「道中は危険が多くってな。俺が付き添ってやれる時だけってことになったんよ」
「スペインと南イタリアの間に? 一体どんな危険があったんだろうね」
「お前のことや、お前の!」

 フランスが緩いウェーブのかかった髪を掻き上げて笑った。元々、整った顔をしているせいか、そういう酷薄な笑みがよく映える。スペインの隣人は存外に性質が悪い男なのだ。それは昔から変わっていない。

「どっちでも同じだよ。ロマーノはほとんど里帰りをしなかった。その事実に変わりはないんだから」
「……まあそれは、ちょっと悪いことしたなあとは思てるよ」

 ロマーノを守るためと言いつつも、実際のスペインはあちこちに火種を抱えていて常に戦争状態。自分の支配下に入ってからひととき、南イタリアには平和をもたらせたとは思うが、それ以外のことは結局何もしてやれなかった。そんなことを今さらになって悔やんでいるなんて、この目の前の男には絶対に言えやしない。
 言えば相手を喜ばせるとはわかっていた。それと同時に彼はスペインのことを許さないだろう。ロマーノはもうスペインの下を去っていて、オーストリアで暮らしている。今周りの国々が警戒しているのは、ロマーノ本人の意思よりも何よりもスペインの執着心だ。

「俺はね、お前の支配を見せしめるためだけに作った砂の城のことはどうだって良いんだけど」
「砂ちゃうよーちゃんと石でできているんやで」
「肝心の街のほうも放ったらかしになっっていたんでしょ。誰も寄り付かない、あの王宮そのものみたいにまるで無関心でさ」
「無関心、ってわけとちゃうかってんけどなあ」
「あの子の街も、まあパリの次ぐらいには良い都市だよ。だから俺もお前も欲しがったんだし」
「せやなあ、ナポリは綺麗やもんな」
「ところがどうだい、スペイン支配に下って百五十年。ナポリは無秩序に人が増え続ける一方で全くの無策ときた。お前まさか人口問題を知らないなんて言わせないよ」

 肩を竦めておどけて見せる。

「いろいろやることが多くて忙しいねん。内政にまで手が回らんかったんや」
「へぇロマーノにはかまけている時間があったのに?」
「なあ今は個人的な話? 国の話? どっちの話をしているん?」
「どっちもだよ」

 ああ、やはりこういう腹の探り合いをするのは苦手だ。互いに獲物を持って一騎打ちのほうが性に合っている。
 その考えを読まれたのか、フランスが言い当てるように確信をもって言葉を紡ぐ。

「皮肉なもんだよねぇ。神の名の下に誰よりも潔癖に信仰を守ろうとしているお前が、誰よりもその教えに背いて戦争好きときた」
「……」
「それで忙しくてロマーノには何もしてやれなかった。なあ、本当は後悔してんじゃないの? もっと一緒にいてやれば良かったとか、何かしてやりたかったなんて」

 フランスはうっそりと目を細めた。まるで憐れみながら責め立てているような、嘲笑と似ていた。

「さあどうやろね。今さら言ってもしゃあないやろ」
「ところが今からでもやり直せるんだよ。……ロマーノを取り戻して、再び自分の支配下に収めさえすればね」

 何て傲慢な考えなのだろう。

「新大陸ではそんなに神のお言葉が通じなかった?」
「やめてぇや。それに対して俺が何かを言える立場にないのはわかっているやろ」
「もちろん俺は謝罪や弁明を聞きたいわけじゃないのさ。ただ……お前の上司たちはずいぶん熱心に異端を排除していたみたいだけど、その実お前の方こそ悪魔に取って代わられたんじゃないかって、これでもお兄さんは心配しているんだよ」

 眉間にしわを寄せる。白々しい言葉だった。フランスはむしろスペインが心中に飼っている悪魔を、白日の下にさらけ出したがっているというのに。先ほどの、いつも通りでいるスペインが気に食わないという言葉が何よりの証明だ。

「本当に何もわかんないんだな」

 ふう、と大げさなため息をつく。芝居がかった態度が癪にさわって眉をひそめた。元よりスペインにはわからないだろうとわかっていて言っているような、そんな言い方だったからだ。

「だから何やねん、さっきから」
「あのねぇ。次々と災厄に見舞われたナポリのことを世間で何て言われているか知っているか?」
「ナポリ?」
「悪魔に取り憑かれた楽園だと」

 ああ、なるほど。そういうことか。ようやくフランスの言っていることが腑に落ちた。どうやら先ほどの彼の言葉は、どうやらオリジナルのものではなかったらしい。やけに食ってかかってくると思っていたが、周りからどう思われているのかをまるで知らずに受け流していたらしい。それは確かに愚かな支配者だと蔑まれても仕方のないことだ。

「……それは知らんかったわ」
「まぁったく。ロマーノもやっかいな男に囲わていたもんだな。何の手出しもしない、なのに自立させることもない。まるで飼い殺しだ」

 太陽の角度が変わったのか、フランスの背後にあった窓から夕日が差し込んできた。寒々しい冬空は橙色から赤、紫へと色を変えていき、あっという間に夕闇を連れてくる。複雑な色合いはフランスの瞳の色と似ていた。彼は落日の、夕焼けと夜の間の色を纏っているのだ。道理でスペインにはその変化が読み取れないはずだと思った。自分には落ちていく兆しすら察することができなかった。

「さて前置きが長くなったけど本題だ。新大陸に注がれていたお前の情熱はしばらく国内に向けてもらうよ。南イタリアのことは残念だけど……、わかっていると思うけど勝手には動くな」
「フランス」

 名を呼んだだけなのに、かたちの良い眉がつり上がった。別に彼が危惧するような口答えをするつもりはなかったので、ああちゃうで、と手を挙げる。スペインは今後、この男と手を組むことに異論はないのだ。

「楽園は失われへん。ロマーノは誰が奪いにこようと俺のものや」
「……お前、条約の意味を理解している? 力任せに暴れ回られると俺だって困るんだ」

 もう今までとは違うのだと言いたいのだろう。もちろんフランスにはそれに口出しをする根拠があった。スペインだって今自分が考えていることが普通ではないことぐらいわかっている。けれど、スペインもフランスももう大人で成熟しつつある国である。それでも聞き分けよく理解してやれないことは、もはや理屈でどうにかなるものではない。

「どうやらお前の言う通り、ローマ爺が残した最後の楽園は悪魔に魅入られたらしいで。俺はあいつがおらんようになってから、もうずっと穏やかじゃない」

 彼の言葉に乗っかて芝居がかった台詞回しを真似ると、フランスがわずかに目を見開いた。今日ずっと余裕しゃくしゃくだった友人の態度を崩せたことに少し溜飲を下げる。しかしちっとも気分は晴れなかった。もうずっとそうだった。スペインの胸の内は荒れ狂い、嵐のような激しさと情動が渦巻いている。それは理性の制御を外れて、気が狂いそうな孤独と激情を連れてくる。
 スペインは確かに悪魔を飼っているのかもしれない。だってこの執着は普通ではなかった。だからと言って泣きじゃくったり激昂したりするような気にもなれない。
 きっと誰にもわからないのだろう。この情熱は温度の高い炎のように、青白く静かに燃え続けている。それは平和な時には見過ごされがちだったが、確かにスペインの胸の中で燻っていて、こうやって何かの拍子に理性を食い破ろうとするのだ。

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