少年の日々は美しく続いていく

 その日、珍しく朝から起きだしたスペインはロマーノに屋敷の掃除を言い付けると、いそいそとよそ行きの服に着替えだした。オーストリアの屋敷へと出かける時ぐらいにしか着ることのないパリッとしたシャツに上質な上着を羽織って、手みやげにと朝食に出されたチュロスを詰めている。鼻歌を口ずさみながら支度をする姿を馬鹿馬鹿しいと思うものの、キラキラとした表情から彼が今日の用事をいかに楽しみにしているのかが知れて、ロマーノはついに何も言えなくなってしまった。
 最近のスペインのお気に入りはヴェネチアーノだ。今日のように何かと理由をつけてはしょっちゅうオーストリアまで出かけて行って、一緒に遊んで帰って来る。もちろん彼が誰を気に入ろうとロマーノには関係のないことなのだけれど、帰宅した時に弟の可愛さを語られるのにはうんざりしていたし、ロマーノには決してかけられることのない賛辞が弟にばかり向けられていることにも嫌気が差していた。そんなこと本人に言えば良いだろ、なんで俺に言うんだ、なんて。言わずともスペインはヴェネチアーノ本人に、可愛え可愛え、なあなあイタちゃんも俺ん家に来ぉへん? などと伝えて存分に可愛がっている。その本人に言っても足りない溢れた分の楽しい気持ちが帰宅した後も続く「イタちゃん可愛え」語りなのだ。
 馬鹿弟のことをこんなに可愛がるなんて、やっぱりこいつも馬鹿だな。どうせ今日もいつもと同じ展開になるだろう。それを想像すれば途端に白けてしまい、ロマーノは形の良い唇をきゅっと引き結んだ。

「それにしても今日は一段と冷えるなあ。雪が積もってるやん」

 先を歩くスペインがのんびりとした口調で呟いた。それは後ろをトコトコとついて来る子分に対して話しかけたものなのか、単なるひとり言なのかは判断できなかったが、確かに彼の言うように今朝のマドリードはよく冷えた。暖炉に火を入れているとは言え、ふたりが歩く廊下は底冷えのするような冷たい空気に包まれていて、はあ、と息を吐き出せばあたりは白く濁る。食事を終えたばかりでせっかく温まっていた体もカタカタと震えだすほどで、手足の先は冷たく縮こまった。足の指を床につける度に、じん、と痺れる。スペインの冬は南イタリアのそれよりも厳しい。
 廊下を見やれば雪が高く積み上がっていて思わず心の中で悪態をつく。何もこんな日にオーストリアまで向かわずとも良さそうなものだが、寒がりのはずのスペインは浮かれた足取りで歩を進めていた。大人のくせに子どものようにはしゃくスペインのことを、ロマーノはすっかり見下していた。

「ロマーノも一緒に来たらええのに。美味しいお菓子出してくれるで?」

 ほら始まった。そんな子どもじみたものに釣られたりしないと言うのに、スペインはそんな言葉でもってロマーノを誘えるつもりなのだ。それはきっとスペインが幼いせいに違いない。ロマーノは彼とは違うから、お菓子なんかでは動かないのだ。

「……行かねぇよ。さっきそうじしとけって言っていたじゃねぇか」
「それはおお前が留守番しているって言うからや。何もないのに家でゴロゴロしとくんはあかんやろ」
「……」
「オーストリアん家にはイタちゃんもおるし、ふたりで遊んでたらええやんか」
「……行かない」

 堂々と掃除をサボれるのは願ってもない申し出だったが、どうしても気乗りしなくて断った。スペインが残念そうに、そっか、と頷く。前にひとりの道中はつまらないとぼやいていたから、ロマーノと一緒に行けば良い暇つぶしになるとでも思っているのだろうか。しかしスペインとヴェネチアーノの三人で遊ぶ姿なんて全く想像できなくて、考えただけで気が滅入りそうだ。
 何よりも、そしてこれが一番の理由だったが、ロマーノはオーストリアの家の上司があまり好きじゃなかった。スペインの上司とも繋がりがあるので今のロマーノの立場では大っぴらに批判することはできないが、できればあまり近づきたくない。

『ロマーノはスペインの子分なんやから、ちゃんとお見送りせなあかんよ』

 今朝、スペイン邸へやって来た手伝いの女に言われた言葉を思い出す。スペインは、別に気にせんでええのに、と苦笑していたが、そんな風に甘やかすから馬鹿にされるんやで、と追い立てられて今に至る。スペインと一緒に出かけないのならせめて見送りぐらいはさせなければ、と思ってのことだろうが、こういうことをさせられる時、ロマーノは自分がスペインの下に下る支配国に過ぎないことを実感させられて、言いようのない無力感に襲われた。
 だって、こんな理不尽なこともないだろう。皆、ロマーノには子分だからと言ってあれこれさせるくせに、オランダたちがそんなことを言われているのを見たことがないのだ。ロマーノばかりが、スペインの言うことをよく聞いて良い子にしていなさい、とたしなめられる。

「なあ、今日はベルギーも午後から出かけるらしいねん。ほんまにロマーノひとりで大丈夫か?」

 やっぱり一緒に、と言いだしそうなスペインに慌ててもっともらしい言いわけを取り繕う。

「そとがさむいから行きたくない!」
「え? ああ、そっかぁ。確かにオーストリアんとこはこっちよりずっと寒いもんなあ」

 スペインはロマーノの言葉に納得したようだった。そうしてくすっと吹き出して、子どもは風の子やのに、と笑う。

「ああでも、やっぱり誰か手伝いつけといたほうがええんちゃう? 今から言っとこか?」
「うるせぇ。とっととでてけよこのやろー。もう帰ってこなくていいぞ」
「おっまえ……ほんまかわいないわぁ。やっぱ今度の休みは口のきき方教えなあかんか?」

 こんな生意気なことを言えば普段のスペインならばやいやい言ってくるところだったが、やはり上機嫌だからなのか、まあええか、と笑ってそれ以上叱ることはなかった。その顔もまた面白くなくて、ふん、と鼻を鳴らす。スペインにはきっとロマーノの苛立ちも不満も理解できないのだろう。

ガチャリ

 ロマーノには開けられない重いドアノブを事もなげに回す。スペインが扉を開くと外は一面の雪景色だった。見慣れた風景が白く染まっていて、この世のものが何もかも雪に埋もれてしまったような奇妙な錯覚に陥った。空は高く薄灰がかっていたが雲ひとつない晴天で、積雪に反射する朝の陽光がきらきらと眩しい。

「うひゃーこれはオーストリアんとこも寒そうやなあ」

 ぼやきながら首を竦め腕をさする。スペインが屋敷の外へと踏み出した。上等な革のブーツが雪かきをした後の濡れた地面を踏みしめると、ジャリ、と溶けかけた雪の粒が潰れる音がする。

「あ……」

 そのままスルリと飛び立ってしまいそうな背中にどういうわけだか動揺して、思わず声を上げてしてしまう。引き止めるつもりなんてなかったのに、その声はスペインにも届いたのだろう。目の前の大きな背中が振り返った。きょとんとした大きな瞳が小さなロマーノを正面から見据える。しかしロマーノ自身にもどうして自分がそんな声を上げたのかがわからなくて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。そのまま何と言えば良いのかも思いつかず呆然としていると、不意にスペインの瞳が揺らぐ。

「なんちゅう顔、してんの」
「え……?」

 言われたことの意図が理解できずに首をかしげる。スペインは、ああ自覚がないのか、とぼやいて、そうして微かに笑った。見慣れたものよりも大人びている、少し苦々しい感情を含んだような笑みだった。

「ロマーノ……」

 先ほどまでのフェスタを前にした子供のような浮かれ方とは違う、低く掠れた声。じっとロマーノを見つめるみどりの瞳には音がなくて、しかし彼が永い間ずっと燃やし続けているのであろう情熱が揺らめいている。
 たまにそういうことがあった。ヴェネチアーノのことを可愛がる時とは全く違う表情で、じっとロマーノのことを見つめてくる。普段はコロコロと表情を変える言葉よりも雄弁な瞳が老成を滲ませて切実に訴えるのは、明るく陽気なスペインには似つかわしくないような哀愁だ。しかし未だ幼いロマーノには彼が抱える感情がどういう類のもので、なぜそれを自分に向けられているのかは理解できなかった。
 じっと言葉に詰まって黙り込んでいると、腰をかがめたスペインの指先がロマーノの頬を撫でる。反射的に眇めるように目を細めて、少し顎を仰け反らせる。彼の指先は温かくも冷たくもなかったが、ロマーノの輪郭を確かめるように顎先までなぞっていって、やがて、はあっと吐息を漏らした。白い息の塊が空気中を霧のように散っていく。同時に一瞬ふたりの間に漂った奇妙な雰囲気も溶けていった。

「あんま大人を見くびるなよ……」

 固い声音にひやりとする。スペインが怒っているのかと思ったが、今のやり取りの間で彼に怒られるようなことはしていない。思い当たる節のないロマーノは思わず首を引っ込めた。
 怯えた態度を見せるロマーノに、スペインの手が逡巡したように宙をさまよう。そのまま宙を切って拳をつくり、ふっと力が抜けたみたいに腕を下に下ろした。

「なあロマーノ、子どもでのままいたいんやったら、それらしくしとかなあかんで。特に俺の前では」

 彼が言っていることの意味を理解する前に顔が近づいてくる。背後に太陽を背負って、小さなロマーノをすっぽり影に包み込むような大人の体。ぎゅうっと肩を強張らせて縮こまると、一瞬ためらったスペインの唇がロマーノの頬を掠めていった。ふれた温度を認識する前に、それは離れていく。

「……」

 ぱちくりと瞳を瞬かせてスペインを見上げる。少し腰を屈めて小さなロマーノを覗き込むスペインの目がきらめいて見えて、初夏の木漏れ日を思い起こさせた。手のひらで両頬を包み込み、親指の腹が耳の後ろを撫でていく。甘やかす仕草に胸がざわついた。

「……ほな行ってくるわ!」

 奇妙な雰囲気を散らすように取り分け明るい声を発して、ニカっと笑うとロマーノの髪をぐしゃぐしゃと撫でていく。その時にはもういつも通りのスペインだった。そうして今度こそ彼はオーストリアへと旅立った。

「スペイン!」

 迷いもなく進む背中に焦燥を覚えて呼びかけるが、それきりスペインは振り向きもしなかった。先ほど廊下をロマーノがついて歩いていた時とは明らかに違うような早足で、あっという間に遠ざかっていく。彼の言葉の意味も理解できないまま、ロマーノは呆然と立ち尽くしていた。

 今もあまり得意ではないが、スペインの家に来たばかりの頃のロマーノはとにかく掃除ができなかった。ほうきやタスキを使えば部屋のものはごちゃごちゃと散らかっていくし、雑巾がけをすればそこら中が水浸しになる。それでも一応は一通りやってはみたが、いつも終わった後の部屋はひどい惨状で、当然誰かに褒められたことはなかった。
 上手くできないからロマーノも用事を言いつけられること自体が面白くないと感じるようになっていった。

「なあ、ロマーノ。どうしてお前はやろうともせずに、かえって散らかしているんだ?」

 スペインからしてみれば引き取ったばかりの子分が、仕事を放棄して居眠りばかりする有様だ。呆れたように腰に手を当てて、うんざりといった態度を隠しもしなかった。

「フン、やり方しらねっていってんだろー」
「何回も教えただろ! もーなんでイタちゃんは上手にできんのにロマーノはこうなんや」

 それどころか、軽々しく弟と比べてロマーノのことを出来が悪いと評価する始末だった。
 ロマーノだって好きで散らかしているわけじゃない。咄嗟に眉を吊り上げムッと口を尖らせるが、スペインなんてどうせ何を言ってもわからないんだろうと思うと怒鳴る気も失せた。
 そりゃあ確かに馬鹿弟のほうが俺より器用だし役に立つんだろうよ。しかし、そう弟への劣等感を自覚しているロマーノとて、そんな風に面と向かって弟と比べられるのは面白いわけがない。それで一層やる気が失せてサボってばかりいたら、扱いづらいのを押し付けられたと匙を投げられる。
 悪循環にハマっているとわかっていても、嫌なものは嫌だし、もういっそ寝るぐらいしかやることがない。それが当時のロマーノだった。

「……どうせおれはたいして役にたってねぇよ」

 ごろりと寝転がるロマーノにスペインが、はあっとため息をついた。

「こんなんやったら何もさせへんほうがマシやわ」

 その頃のスペインはロマーノに言い聞かせる時は公用語を使っていたから、スペイン語でぼやかされたそれは咄嗟に出たただの愚痴だったのだろう。別にロマーノに聞かせるつもりもなければ傷つける気もない、言うなれば本音だ。
 チクリと胸に何かが刺さる。その言葉は杭のようにロマーノの胸に留まり、悪気のなさゆえにふつふつと痛みが湧き上がってきた。
 けれどロマーノに何ができるのだろう。どんなにスペインが嘆いても弟のようにはなれないことは、とうの昔にわかっていたことだ。だったらヴェネチアーノと取り替えてもらえよ、なんて、卑屈な言葉を口にできるほど無邪気でもない。世界情勢が、ロマーノがスペインの家に来るようにできていた。
 だったら何も気づかないふりをするしかない。

「うるせぇ……ちくしょーめが」

 悪態をついて自分を守ろうとする。相手を否定する言葉を使って守ったはずの自尊心。しかし悪い言葉を口にするほどどんよりとしてモヤモヤとした感情が込み上げてくる。ロマーノは自分の感情を無視し続けた。とにかく自分を守るためには痛みと恐怖以外のすべてのものを下らないと切り捨てるしかなかった。
 それにスペインの言葉に傷ついたらロマーノは認めることになる。無力で何もできないちっぽけな自分のことを。小さなロマーノにとって自分を正当化するには、そんな言葉を無視して周囲を見下すしかなかった。
 下唇を噛みしめて、頬をぷっくり膨らませ俯く。スペインはロマーノのそんな頑なに態度を軟化させることは諦めて、散らかった部屋の片付けを始めた。
 
 それが始まったのはそんなある日のことだった。
 
「ヴォアアアーーー……!」

 ロマーノはスペインに叱られても口を閉ざして嘆きもしないのだが、突然発作に見舞われた。なんでもないのに泣きわめき、自分の意志に反して手足が引きつりだす。

「ああ、どうしたん。転んだんか?」

 子どもの号泣する声にスペインはいつもすっ飛んで来てくれた。しかし彼から何を聞かれてもロマーノには何もない。何かあったか? こわい夢でも見たのか? 気づかう言葉はすべて違うとしか言えない。ただ首を横に振るしかなかった。
 それはきっと罰だった。ずっと自分の気持を裏切って見て見ぬふりをし続けてきたから、ロマーノの心のなかに確かに根付く国としての誇りと、その一方の現実と無力感が暴走したのだろう。それはロマーノの心をバラバラに引き裂いて、体の自由を奪った。

「うああ、あっ……ひっ、ぐぅ」
「ああもう泣きすぎて引きつけ起こしとるやん。泣いてばかりでいるとしんどいやろ? 少し落ち着き」

 そうは言えど、何せロマーノ自身にすら何が悲しいのかもわからない。だから涙を止めようがないのだ。むしろ泣けば泣くほど心がざわついて、余計に泣きたくなる。
 このまま自分はどうなってしまうのだろう。感じたことのない恐怖がロマーノを襲った。死ぬまで痙攣を起こし続けるのだろうか。だってどんなに疲れていても体は勝手に動く。まるで何かに操られているかのように手足が引きつり、そんなことしたくもないのに部屋の中をくるくると躍り狂うばかりだ。しかもおそろしいことに、ひとたびそれが始まればどんなにロマーノがもう嫌だと思っても止まらない。体力が尽きて倒れるまで続くのだ。

「はあ……はっ、はあー……ぜぇ、はあ……」

 発作が過ぎ去ると、ひととき平穏が訪れる。スペインは倒れ込んだロマーノを抱きかかえ、小さなその体を自分の膝にもたれかからせた。彼を頼りたくなくて、ロマーノは自身の細い両腕に顔を埋めた。涙と汗で顔中がベタベタになっていたが、気にかけている余裕なんてない。

「ロマーノ、頑張れロマーノ。大丈夫やで。親分がついとるからな」

 スペインの大きな手のひらがロマーノのまるい頭に乗せられる。優しい手つきで撫でられてロマーノは目を開く。困惑し驚くロマーノにスペインが苦笑する。その手を払いのけようとしたが、もう腕を上げる気力も残っていない。

「ええから……今は大人しくしとき」

 一体、この優しい手をどのように受け止めれば良いのだろうか。
 当時、人々はまだその集団ヒステリーについてほとんど何もわかっていなかった。ただ何もないのに突然感情を爆発させ、泣き叫ぶロマーノに周りの大人たちは困惑し手を焼いた。スペインは良く言えば大らかで、悪く言えば何も考えていない男だったから預かっている子どもがいきなり泣きだしてもそこまで深刻には受け止めていないようだったが、それでも一度癇癪を起こすと止まらないロマーノに手がかかりすぎるとぼやいていたのを聞いたことがある。
 それなのにどうしてこんな。

「おまえ、……おれのこと嫌いなんだろ?」

 中途半端に優しくするのだろう。ロマーノの虚ろな眼差しが宙に向けられる。子どもにしては整った顔に影が落ちた。

「嫌い……?」
「だっておまえ……おれのことおかしいって言っていた。……おれもそう思う。おれは、ばかおとうとみたいにはなれねぇから」

 以前にスペインから、どこかおかしいんちゃう? と問いかけられたことがある。あまりに不躾な言葉だった。その時ロマーノは普通にやっているつもりだったから、そんな風に狂人のように扱われてひどく腹を立てた。本当に悲しかった。どうしてスペインはそんなことを言うのだろう。自分は彼の言うようにおかしいのだろうか。国として欠陥品なの? だからこんなヒステリーを起こしちゃうのか。そんな誰にも問いかけることのできない疑問が沸き起こり、悲しみに明け暮れた。
 スペインはたっぷり三秒、沈黙して首を傾げた。

「俺が、ロマーノのことを嫌いに?」

 スペインの淡々とした低い声が鼓膜を奮わせた。いつも通りの飄々とした調子に、ロマーノは自分の状況を忘れそうになる。スペインの左手が伸ばされて頬を撫でられた。その温度に、ぞくりと背筋がわななく。
 ロマーノの瞳がゆっくりとスペインへと向けられる。上方にある彼の顔は翳っていたが、感情の読めない無表情に近い顔をしていた。

「勘違いせんといて。俺がお前を嫌になったことなんて一度もないで。……そんなん最初の一回きり。後はずーっと可愛くてしゃあなかった。もちろん手放したいなんて考えたこともないで」

 彼の言葉がにわかに信じがたくて、ロマーノはシニカルに笑う。きっと今弱りきっているロマーノに同情して、その場しのぎのでまかせを口にしているのだろう。そうとしか思えないぐらいにはロマーノはスペインのことを信用していなかった。

「手は焼けるし……俺も聖人とはちゃうから腹は立っているよ。やってお前、俺のことみくびって信じてへんもんなあ」

 間延びした声がロマーノの図星を突いていった。思わず首をすくめるが、彼は怒ってはいないようだった。あるいはもうずっと怒っていて、腹の中で煮えたぎらせているのかもしれない。しかしスペインはただ淡々と言葉を紡いだ。それはいつも鷹揚としていて能天気そうに見えるスペインの姿からは想像しがたいもので、どこか大国の老獪を感じさせた。

「余計なことは考えずに、お前はただのロマーノでおったらええんやで」

 そう言ってスペインはロマーノのまぶたの上に手のひらを乗せた。急に真っ暗になった視界に、スペイン? と不安げに訊ねる。彼は何も答えなかった。スペインが黙るとロマーノにはもう何も言えなくなる。ただ自分の荒い呼吸とスペインの温度だけを感じた。それが幼いロマーノの現実だった。
 
 
 
 それからしばらくしてロマーノの癇癪には舞踏病という名前がついた。その頃には症状もだいぶ軽くなっていたが、スペインはどこかから聞いてきたという音楽療法でロマーノを勇気づけようとしてくれた。
 ふたりの間の何かが緩やかに変わっていく。それが何かはわからなかったが、少なくともスペインの態度が幾分か柔らかくなってきたように感じていた。

 ある日、ロマーノはスペインとケンカをして家を飛び出した。
 しかし勢いで飛び出して来たものの小さなロマーノには他に行くアテもなくて、仕方なく庭の柵に登ってみた。柵を支えるための柱の上に立つと、いつも見ている景色とは表情が違って見えて少しだけ溜飲が下がる。
 スペインの家の裏手には雑木林があって、そこを抜けると小高い丘になっていた。ロマーノひとりでは遠くまで行けないが、時々、スペインがピクニックと称して丘のほうまで連れて行ってくれることがあったので、あの木々の向こうには素晴らしい花畑が広がっていることも知っている。春になれば色とりどりの花が一面に咲き乱れ、小鳥やリスなどの小さな生きものと野を駆け回れるのだ。
 スペインとの関係は険悪とまではいかないし一時期のことを思えばだいぶ良好になっていたが、ここのところケンカが絶えない。元々ロマーノも従順ではなかったから、今までどんな支配者たちとも上手くやれたためしがなかったが、それにしてもスペインとの毎日の騒動はひどすぎるように思えた。顔を合わせる度にギャンギャン怒鳴るか叱られるかを繰り返しているし、彼に呆れられることも多い。何よりもふたりはとにかく衝突が多かった。

「またケンカしたん?」

 声をかけられて振り向くと、ベルギーが下から覗き込んでいた。

「そろそろご飯の時間やでーこのまま意地張ってたら食いっぱぐれてまうよ」

 せやから帰ろ、と諭す声は優しくて、ロマーノのことを宥めようとしていることがわかった。ロマーノだって女性のことを困らせたいわけではない。本当ならすぐにでもその手を取って、心配かけてごめん、と謝りたかったが、しかしどうしてもロマーノにはそれができなくて首を横に振ることしかできなかった。まだ先ほどのわだかまりが残っていて、とてもじゃないが素直な気持ちにはなれそうにない。もう構わないでくれ、と小さな拒絶を込めて俯く。

「スペインやったらもう怒ってへんよ」
「……ちがう。おれが帰りたくねぇんだよ」
「ロマーノくん」

 意地を張り続ける弟分の姿に、ベルギーは何を思ったのだろう。
 でもあんなやつきらいなんだ。こっちはまだ許していないし、何よりあんなに怒っていたのにもう気にしていないなんて無神経にもほどがあるだろう。
 憤慨してボソボソと文句を言えば、含みのある笑みを浮かべた猫目に捕らわれた。

「ほか。でも今日のご飯はロマーノくんの好きなパスタやで。はじめてここで、ちゃんと食べてくれたやつ」

 ベルギーの声に片眉を跳ねさせる。

「はじめてじゃねぇよ」
「はじめてや。最初の頃は……ほとんど食べてへんかったもん」

 その言葉に据わりが悪くなって、もぞもぞと身じろいだ。
 どうしてそんなことを言えたのかは今でもわからない。普段から口も悪くて横柄に振る舞っていたから、越えてはならない一線も軽々越えてしまったのだろうか。しかし思ってもいない悪態と、八つ当たりでぶつける悪口では相手の受け止め方も違う。それを何となく理解していたつもりだったのに、結局ロマーノは感情のままにスペインを傷つけてしまった。
 そもそもの量が多いし、何よりスペインとイタリアでは一日に食べる回数も違う。スペインでは一日五食に分けて食べるのだ。生活習慣の違いから慣れるまでに相当な時間を要した。だが、それよりも何よりも決定的に駄目だったのが口に合わなかったことだろう。
 スペインは料理が上手いほうだと思う。何でも器用にこなす男なので家事に対してもそつなくて、出される料理も悪くはなかった。ただ彼の住まいであるこの内陸地ではどうしても南イタリアにいた時のような新鮮な食材が手に入り難くて、季節によっては使える素材も限られている。必然的にロマーノが今まで食していたものとは異なるし、かと言ってそれを理解できるほど大人でもないのだ。

「……あのときまずいって言ったのは、わるかったっておもっているぞ」

 癇癪を起こして、勢い余って言ってしまった言葉。ロマーノがそれを口走った時の、スペインの情けない顔はたぶん一生忘れられそうにない。情けないほどに悲しみを露わにする様を目の当たりにして、すぐにしまったと思った。言いすぎだった。いくらふたりが毎日のように喧嘩をしているからと言ったって、超えてはならない一線はある。普段から口も悪く横柄に振舞っているロマーノにも、それはわかっているつもりだったのに。

ーーーこんなもの食えたものじゃない。

 浮かんだのは、言いようのない罪悪感と後悔だ。常々、俺のかっこええとこ認めてや、などと言っているくせに、そんな表情は簡単に見せてくるのだから困った男である。おかげでスペインのことをかっこいいだなんて感じる暇もない。

「せやねぇ、でもあれがきっかけでイタリアの料理取り入れて美味しいご飯作れるようになったんやから、結果的に良かったんちゃう?」

 ベルギーが軽い調子で言った。彼女にとっては間違いなく人ごとだったから仕方ないが、こうも適当に言われると考え込むほうが馬鹿馬鹿しくなってくる。

「それにそういうことはスペインさんに直接言ったらなあかんやろ」
「あいつにいったら調子にのりそうだからやだ」
「ははは、それはあるわな」

 ロマーノが真面目に考えて謝れば、それをなかったことのように茶化すのがスペインという男なのだ。どうも本人は良かれと思ってやっているようで、きっとそれが彼なりの男の美学なのだろう。しかしやられたほうとしては、人が真剣に言っている時に、と腹が立つばかりだ。何度怒ってもきっと本人にはまるで伝わらないのだろうけれど。
 そう、こんなにもスペインとロマーノは噛み合っていない。なのにスペインの一挙手一投足で、ロマーノの罪悪感や怒りや悲しみが容易く引き出されてしまう。そういうのは、とてもずるいことだと思う。何と言うのか、とにかく公平じゃないと感じた。

「……あいつ変なんだ。おれのことあきらめてくれねぇ」

 ローマの遺産と教会を盾に尊大に振る舞えば、たいていの大人たちは呆れて去って行った。コロコロと変わる支配者、それによって変わることを余儀無くされる生活。どんなに綺麗事を言ったって搾取されている構造には変わりない。民が抑え付けられ蝕まれた分だけ、ロマーノ自身もまた萎縮し心がサクサクと刺々しくなっていく。いつまでも成長しないで子どもの姿のままでいる体がその象徴で。
 実際スペインだって最初の頃は生意気なロマーノに本気で怒っていた。ヴェネチアーノと取り替えてと言っていたとも聞くし、ふたりの関係が決裂するのも時間の問題かと思われた。言いつけられた仕事も満足にできない、何かをすればかえって散らかしてスペインの仕事を増やし、ケンカばかり繰り返して。いい加減、今度こそ本当に自分のことを嫌いになってもおかしくないはずだ。
 自分から手を離せば、愛されないことに傷ついたりすることはない。一番こわいのは優しい顔で近付いてくる者たちだ。

「ロマーノくんやって、すぐスペインさんに突っかかってるやん」

 何もかも見通しているような緑色の瞳を向けられて泣きそうになる。この屋敷にいる者たちの目は緑色をしていることが多いことに今さら気が付いた。

「来たばっかの頃はつれへん返事ばっかやったのになあ。いつの間にそんな怒るようになったんやろ」

 指摘されたことをすぐに理解できなくて、一瞬目を丸くする。ベルギーは穏やかなほほ笑みを浮かべていた。

「わかってもらいたいから怒るんやろ。自分を知ってほしいからケンカするんちゃうの?」

 八重歯が覗く。無邪気な笑顔は愛らしく、とても素敵な女性だと思った。しかし音が出るほどの勢いで顔を赤くしたのは、見惚れていたから、というわけではなかった。
 ロマーノがこの上なく顔を真っ赤にし、ポコポコと沸騰させながら口を何度も開閉させる。それを見てベルギーが笑う。

「だぁいじょうぶやってー! スペインさんはロマーノくんのこと見捨てたりせぇへんよ。舞踏病の時やって見放さへんかったやろ? 並大抵のことちゃうで」
「なっ、あ、ちが……ッ!」
「せやから、そろそろちょっとは信じたってもええんちゃう?」

 違うんだ、違う。本当にスペインに怒っているし、大嫌いなのに。少女の見守る目はひたすら優しかった。

 その夜、ロマーノがスペインの部屋を訪れると、彼は得意の勘違いで歓迎してくれた。
 スペインと同じベッドで眠るのはロマーノにとってとても危険なことだ。何かにつけて彼は一緒に寝たがったが、スペインときたら寝相は悪いしいびきも寝言もうるさい。となりで寝ていてぎゅうぎゅうに抱きしめられて息苦しさに目覚めることも数知れず、おちおち安心して寝ていられないのだ。
 だから普段は滅多に一緒に寝ようとはしない。外の風や雷の音が気になって、ひとりじゃどうしても寝られない時にだけこっそり寝室に忍び込むぐらいだ。
 スペインはそんなロマーノの事情を知らないから、たまに夜中寝室を訪れるとやたら嬉しそうにする。

「もしかして一緒に寝てくれるん? 今日はそういう日?」

 自分の枕を持ってやって来た子どもを出迎えて、何やらはしゃいでいる。友達の家に泊まりにきた子どもじゃあるまいし、何をそんなに喜ぶことがあるのか不思議なぐらいだ。

「……」
「え、ちょ、ロマーノ!」

 そういう顔をされると、照れくさくなって可愛げないことを口走ってしまいそうになる。自身の素直ではない性格に散々困らされてきたが、今だけはどうしても突っかかるような真似はしたくなかった。
 無理やりベッドに潜り込んでスペインに背を向けた。顔を見られたくなかったが、耳まで熱を持っているので一目瞭然だろう。
 昼間に見た光景が頭の中をぐるぐると回っている。いつものように上司に叱られていたスペイン、その台詞。

『南イタリアなんかたいした役にもたたんやろが! せっかく大陸で稼いだ金をあんな奴のために使うなんてアホかっ!』

 ずっとスペインは弟が欲しいのだと思っていた。だってひどく可愛がっていたし、いつも比べられていた。だからきっと祖父の遺産が目当てなのだと思っていた。実際に祖父が遺したものを見せればひどく喜んだ。フランスやトルコと戦うのも、ロマーノにスペイン語を覚えさせようとするのも全部それだけなのだと、そう信じていたのに。
 自分にはそれだけの価値があると確信していた。しかしそれらは全部ロマーノの思い上がりだった。
 ……いや違う。本当はちゃんとわかっていた。だってスペインは何度もロマーノに伝えてくれたじゃないか。それを自分を守るために突っぱねて意地を張っていたのだ。
 それはきっと軽々しく否定して良いものではなかった。

(きっとスペインの言うとおり……おれはこいつのことをみくびっていたんだ)

 黙り込んでしまえばまた言えなくなると思ったから、勢いのまま言いきってしまおうと口を開く。

「あ……あり……と」
「え、なんて?」

 しかし、こんな時に限って声は小さくはっきり発音できないし、スペインもちゃんと聞いてくれていない。恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。

「あ……ありがとよ」

 スペインがキョトンとしているのがわかる。それを聞こえていないのだと解釈したロマーノは、いよいよ居た堪れなくなって枕に顔を押し付けた。ついさっき口にした言葉が残響のように室内をぐるぐると回っている気がする。それなのにスペインには届かずに消えてしまったのかと、熱くなる頬を冷たいシーツにひっつけ唇をぎゅっと噛みしめた。
 再び口にするのは恥ずかしいのに、なかったことにはできそうにもない。破れかぶれで息を吸い込めば勢いで言葉を紡げた。

「だから……ありがとって言ってんだよ、ちくしょ」

 顔から火が出るとは、まさにこのことなのだろう。暑くて熱くてどうしようもなかった。
 頭上から息を呑む気配がする。ここで空気も読まずに何のことかと言いだしたら殴ってやろうかと思ったが、さすがにそこまで鈍感なわけではなかったらしい。

「えーなにーそれホンマ? お前かわええとこあんなぁ」

 漸く意味を理解したらしいスペインがへらっと笑う。その声があまりにも甘ったるくて、溶けきっていて。自分からやったことなのに平静でいられない。
 ロマーノがベッドを占領したことに怒っていたくせに、すっかり蕩けきった様子でペラペラと何やら喋っている。合間合間に抑えきれないのか、へへ、と緩む声が恥ずかしい。
 スペインの言葉が耳に入ってこなかった。ただ自分が言ったたった一言でここまで浮かれしまうことに胸の内がざわめく。ロマーノが彼に与えられる影響に、心が自然と浮き立った。
 頭を撫でられて気持ち良かった。優しい手つきでふれられることが嬉しかった。大人しくされるがままになっていると、スペインの言葉に熱がこもりだす。
 元々手加減のできない男だということを、すっかり失念していた。湧き上がる感情に興奮し、抑えのきかなくなったスペインの暴走はロマーノもよく知るものだ。
 不意にスペインの指がくるんにふれた。条件反射的にちぎっと鳴けば、スペインの指先が毛束を際どく弄ぶ。背筋にぞくりと這い上がる悪寒に似た感覚。腰から力が抜けていくような、しかしもどかしい刺激に頭がカッと燃え上がる。

「そこはさわるな!」
「べふっ!」

 怒りの余りに頭突きを食らわせると、大げさに身をのけ反らせて痛いと泣かれた。
 自分のやったことが悪いくせに、大の男にさめざめ泣かれると、こちらがひどくしたような気になって罪悪感が沸き起こる。

「そ、そんなに痛くねぇだろ」

 焦りながらもつっけんどんに言い放つが、スペインは眉を下げて涙目で訴えた。

「ほんま痛いわー…ロマーノ容赦ないんやもん」

 ひどい、痛い、と非難され言葉に詰まる。その一瞬の動揺を見抜かれたか、スペインの要求はエスカレートした。

「……あかん、もうだめや」
「えっ!」

 頭を押さえて蹲る姿にどうすれば良いのかわからずオロオロと狼狽えるロマーノには、ちらりと視線だけ上げて幼子の様子をうかがうスペインの顔が見えてなかった。

「だ、大丈夫なのかよ」

 うっかり心配して問いかければ、もうあかんかもと返されて、いよいよどうすれば良いのかわからなくなる。

「ど、どうしたら」
「ロマーノがキスしてくれたら元気なるかも」
「〜〜〜〜〜!」

 悔しさに唇を噛んでスペインを見返す。意外にも彼は目をやわらかく細めてロマーノを見ていた。

 それから長い間スペインは帰ってこなかった。
 トルコとの戦いに行ったスペインの戦況をロマーノに教えてくれる者はいない。風の噂でフランスも一枚噛んでいるらしいと聞いたが、それがどこまでの信じて良いものかすらわからなかったし、スペインの状況を予想するのに有益な話ではなかった。今までスペインのことを気にしてこなかったツケが回ってきたのかと思うほどだ。何を聞いても皆一様に、祖国は強いのだから南イタリアが気にすることはないのだとあしらおうとする。

(……属国にそんな重要な情報を教えるわけないか)

 パタパタと洗濯物を干していくベルギーの背中を見つめてひっそりと思う。オランダは最近また帰って来なくなった。
 そうだ。いくら一緒に暮らしているとは言え、いちいち勝った負けた、今どんな状況か、スペインがどこにいていつ頃終わりそうなどと教えるような真似はしないだろう。戦争における情報の重要性は戦うことが苦手なロマーノにも何となくわかっている。戦争の間に南イタリアで軍を整えて反乱を起こされても堪らない。今のオランダのように寝首を掻こうと虎視眈々と狙う者も出てくるかもしれないのに。
 屋敷を出入りする者たちは大勢いたが、スペインがいなければ誰もロマーノの相手などしてくれない。何人か話をする者たちはいたが、仕事がある大人たちが幼いロマーノの遊びに付き合ってくれるわけもなかった。
 たまにロマーノにはわからない話をしているのを見ると、胸に去来するさみしさをごまかせなくなる。普段ならば気にならないような些細なことにすら疎外感を抱き、ひとり寝の夜を幾夜も過ごしてはどうしようもない孤独を感じた。

(早く……はやく、帰って来いよ)

 胸のあたりをぎゅっと掴んでシーツに包む。あとどれぐらいこうしていれば、彼は帰ってくるのだろうか。
 
 
 
 ふっと屋敷の騒がしさで目を覚ました。耳を澄ませば玄関のあたりから怒声が聞こえ、大人たちがバタバタと廊下を走る気配がする。窓の外は冬であることを差し引いても、未だ暗く夜も明けていない。
 ベッドから下りるとひやりとした空気が足を掬う。机に用意されている着替えを手に取って、ぼんやりした頭を必死で働かせようとする。
 そうだ、昨夜はスペインの上司の部下たちが大勢家に詰めていて、ロマーノにはいつもよりも早く寝るようにと寝室に放り込まれた。彼らは朝から一日中慌ただしくしていた。

(……スペインが帰ってきたのか?)

 ロマーノは何も聞かされていないが、昨日の屋敷全体を取り巻いていた落ち着かない雰囲気はスペインの帰還が原因なのだろうか。寝室を出て、ひとり廊下を歩く間も誰にも会わない。
 玄関にたどり着くと、そこは戦場だった。煌々と火が焚かれ、広い玄関ホールに普段は屋敷に出入りしていないような兵士や医者たちまでもが詰めている。その中央にいるのは傷ついた数人の兵士と彼らに抱えられたスペインだった。

「ーーーっ!」

 声にもならない悲鳴が喉を擦り上げて、ひゅうっと鳴った。

「……ずっと自力で歩いていたし平気そうにしていたのでありますが、山のあたりから突然苦しみだしてーーー」
「峠越えで傷が開いたんか……戦場での手当てが不十分やったんやろ」
「ええからすぐ治療に当たれ! この時間ならここでやってもうたほうが早い!」
「子分らは絶対に近づけんなや。特に子供……南イタリアは見張っとけッ!」

 男の声に首を竦める。廊下の隅から動けなくなってしまった。彼はここにいるロマーノに気が付いたら、どんな顔をするのだろう。反射的な恐怖で立ちすくんでいると、スペインのほうに気を取られ忙しなく動き回る大人たちからロマーノの存在が切り離されていく。そうこうしている間にも治療は進められていく。
 スペインの鎧の下衣は赤黒く染まりきっていた。普段の怪我で見慣れた浅い傷口とは全然違う。動脈から流れ出た血の色だ。
 どくどくと血が巡り、こめかみが脈打っている。呼吸すら止めてしまおうと息をひそめてじっと立ちつくしていた。
 不意に、きゃあ、というほとんど悲鳴のようなヒステリックな声が上がった。

「何であんたがここにおんの!」

 つんざくような高い声に驚いて視線をやれば、ふくよかな女が両腕を広げ駆け寄って来るところだった。いつもロマーノに口うるさく言ってくる手伝いの女だ。あっという間にロマーノの視界は遮られ、彼女の腕の中に抱きかかえられてしまう。それでスペインのほうに向いていた男たちの意識がこちらに戻り、ロマーノがここにいることに気付くやいなや怒声を響かせ騒ぎ立てた。

「あいつをここまで連れてくるな言うたやろ?! 見張りは何してんねん!」

 ガン、と椅子でも蹴飛ばされたような音が聞こえて、びくり、と肩を震わせる。あたりが一瞬シンと静まり返るが、男が早く連れ出せと叫んだのを機に、女は小さな体を抱き上げて部屋を飛び出した。ぎゅうぎゅうに抱きしめられるのがひどく苦しくて、まぶたをきつく瞑る。

「俺は知らんで! そもそも見張りは誰や」

 女が走るのと同じリズムで体が上下に揺れる。遠ざかっていく喧噪の中で男たちが怒鳴り合う声が追いかけてくる。互いに俺は知らない、俺じゃないと否定して責任をなすり付け合い、ヒートアップしていく様は知りたくないものだった。
 場の収拾がつかなくなりかけた頃に、じゃあ誰も見張っていなかったのか、とその場で一番偉そうな男の声がした。それが鶴の一声となって騒いでいた全員が黙り込んだ。
 ロマーノがここに来るまでに誰も咎める者がいないほど、屋敷に詰めていた者たちは皆スペインに気を取られていた。それだけの異常事態だった。血を失い過ぎて色をなくした頬、血塗れの鎧、苦しげにひそめられた眉根。ロマーノが、決して見ることのなかった彼の姿だ。
 突然ロマーノの眼から涙がボロボロと零れだした。
 さっきのスペインの姿がまぶたの裏に焼き付いて離れてくれない。
 武器を、傷を、血を、見たのがショックだったのだろうか。ロマーノとてそれぐらい何度も見たことがある。
 それなのに自分の涙が止まらないことに動揺した。
 そもそもどうしてロマーノは、すぐに泣いてしまうのだろう。かなしくても苦しくても、怒っている時でさえ涙が出る。けれどもうこれ以上は誰の関心も引きたくなくて、唇をぎゅうっと噛みしめた。堪えようとした嗚咽がリンパを痛めつけて、さらなる涙を生む。

「アホ! 南イタリアにスペインのこんな姿見せられるか?!」

 大人なんて大嫌いだ。特にスペインが、スペインのような人間たちが嫌いだった。
 見栄っ張りで無神経で声も大きくてやかましいし、デリカシーというものがまるっきりない。いくら女が廊下を駈けていたって、ロマーノを部屋から追い出してから数分と経っていない。そんな本人に聞こえるような状況で、怒鳴り合うことなどないじゃないか。
 そんなことはロマーノに聞かせないでくれれば良かった。

「あんたは何も心配せんでええ、何も考えずにええ子にしとったらええねん」

 女が早口で言った。何度も言い聞かされてきたことだ。普段と違うのは震える声が湿っぽく涙を含んでいることだけ。それでも男たちのようにみっともなく動揺し怒鳴ることなく気丈に言い切れるのは、彼女が女だからなのだろう。
 一際強く抱きしめられる。その手が震えていた。

「うちの祖国様は強いんやで。ロマーノ守るぐらい何ともない。あんなオスマントルコやフランスなんかに負けるわけないやろ」

 子どもの背中を撫でさする手が、震えている。

「心配なんかせんでええねん。誰もおまえを、南イタリアを、どこにもやらんし攻め込ませるようなことはさせへん。ロマーノは何も気にせず、ただええ子にしとったらええねんで」
「……ッ」
「せやから泣かんで。男やろ」

 ロマーノの震える背中を優しく撫でながら言い聞かせる優しい声に、いつもせっかちなこの女が確かに母であるのを実感した。スペインと同じ言葉で話すその声が、あまりに優しかったから。
 本当は知っていた。スペインも、スペインの屋敷に出入りする者たちも、皆そうなんだ。
 目の前にいるロマーノを本気で邪険にはできない。それはロマーノが良い子でいようとなかろうと、目の前にいる小さな子どもは守らなければならないという大人たちの優しさだ。
 涙が後からあとから零れて止まらない。誰が頼んだわけでもないのに、幼いロマーノを惨状から引き離そうとする大きな手のひら、心臓を締め付けるようなけたたましい怒声。
 この日々は明日も変わらず続いていくだろう。ロマーノが望んでも望まなくても、彼がスペインのものである限りロマーノの日々は美しく続いていく。

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