最後の審判

「スペイン! おい、スペイン! 家にいるんだろ?!」

 玄関のベルがリンリンと鳴らされているが無視を決め込みシーツに潜り込むと、近所に響き渡るような大声で何度も名前を呼ばれた。出て来い、いるのはわかっているんだと叫ぶ声は聞こえないふりで、今は留守やでと胸の内だけで告げた。
 プロイセンの声は大きい。スペインだって大きいほうだが、彼のそれはいささか無神経の類に分けられる。さすがに元軍事国家だけあって、その声には耳にした者に何事かと緊張を抱かせる重圧感があるのだが、彼の親戚であるオーストリアや教え子の日本のような凛とした背筋の伸びる声質ではなくただただとにかく喧しいので、寝起きや体調が悪い時には聞きたくないものだった。戦場ではよく通るのだろう、しかし、ここは二十一世紀のマドリードだ。大砲が行き交うわけでもなければ上空で戦闘機が待機しているわけでもないので、どう考えても不必要な声量である。
 うんざりとして眉をひそめていると、カツカツと規則正しい靴音が聞こえてきた。慌てて飛び起き扉の鍵が開いている理由に考えを巡らせると、そう言えば今朝イタリアに帰るロマーノを見送った後、鍵をかけた記憶がないことに思い至る。やってしまった。子分からはあれほど防犯意識を持てと怒られていたのに、彼を見送ってかけ忘れていては世話がない。
 家主の案内も待たず屋敷に侵入した男は、おそらく一階の端の部屋から順に扉を開き中を確認して回っているのだろう。バタン、バタン、と一定の調子で扉が開き閉まる音がしている。背筋をピンと伸ばして頭のてっぺんからつま先までをきれいに揃え、お手本のような堅苦しさと仰々しさでもってドアノブを回しては、あの瞳孔の開いた赤い目で室内を見わたし、またきっかり扉を閉めて次へと向かう。見ていなくたって思い浮かぶ光景にため息が漏れた。
 階下から聞こえてくる足音は、きっかり脈の早さと同じリズムを刻んでいる。ただの革靴でこんなに厳めしい音がするものかと感心はした。長く住んだ家だがスペインが歩く際にこんな音は響かない。
 この国では今はシエスタの時間である。スペインも例外ではなく昼寝をするつもりで寝室にいた。プロイセンがベルを鳴らすその直前まで、うつらうつらと夢の中に誘われていたところなのだ。

半身を起こしてベッドヘッドにもたれかかった態勢で、扉が開かれるまで、ただただ待っていた。

「こんな昼間っから寝こけやがって」
「シエスタなんやって」

 ヘラっと笑ったスペインとは正反対の冷たい表情。どうやら今日の彼は相当ご立腹のようで、赤い瞳はギラギラと輝いている。

「てめぇの堕落した習慣なんか知らねぇ」
「失礼なやっちゃなあ。そういう文化やん」
「はっよく言うぜ……」
「ロマーノやって同じやで」

 それもまた気に食わないのだと細くつり上がった眉をひそめた。彼をそんな表情にさせる想いが一体どこからきているものなのか想像もつかないが(例えばロマーノに対する独占欲なのか、兄的なおせっかいなのか、あるいはシエスタをただの昼寝と切り捨てているプロイセンにとって自分の周囲に二カ国も堕落した習慣を持つ男がいることが許せないのか)、けれど本人に聞いたところで明確な答えは用意されてはいまい。
 肩をすくめて適当に流していると、プロイセンが声を少しだけひそめて切り出した。スペインと長々世間話をするために来たわけではないのだろうから、その単刀直入さを嗜めるようなことはしない。

「おい、てめぇイタリアちゃんのお兄様と」
「ロマーノ」
「……ロマーノと、付き合っているって本当か」

 言葉尻に被せて可愛い子分の名前を呼べば、居心地悪そうに舌打ちをして言葉を訂正する。律儀やなあと思ったが口には出さず頷いた。別にプロイセンがロマーノのことを何と呼ぼうが、スペインにとっては気になることではない。ロマーノ自身がそうなのだ。あのいもやろうが何て呼ぼうがどうでも良い、そんなことより家に入り浸ってんじゃねぇよ! きっと、そんなことを言うのだろう。だからスペインだって本当はどうでも良いことなのだけれど、わざわざイタリアありきの呼び名を指摘したのは揶揄半分、残り半分は自覚できないもやもやとした微妙な気持ちがあったからだ。それが何かなんて考えたこともないのでわからない。あまりにぼんやりとした感情で掴み所のないものだった。
 胸に溜まった息を吐き出した。それでも夜明け前の空のようにはっきりとしない胸の内は晴れず、知らず言葉はきつくなる。

「そうやで。ロマーノと付き合っている」
「あっさり認めるんだな」
「事実やし否定したら嘘つきになるやん」

 それがどうしたのだと返せば、プロイセンは色を失った白い頬を引きつらせた。

「おかしいだろ」
「なにが?」
「何がって」

 本当に意味がわからなかったので首を傾げる。低い声で唸るのが聞こえた。

「やってロマが俺のこと好きなんってみんなわかってたんやろ? 俺がロマーノのこと好きってそんな意外やったかな」

 ロマーノのことは笑わせていたくて、でも同じぐらいひどく泣かせたいし、さみしさも切なさも与えたくてスペイン自身持て余しているのだ。感情をそのままぶつけてしまっては彼を困らせるだろうからしないけれど、その衝動を適切に処理すれば、唇を重ねたり肌にふれたり、具体的な行為になって表れた。
 それは、友人としても親分としても、そう、家族としてだって不釣合いだろう。恋人と言うのが「道義的」に収まりが良いのである。

「そうじゃねぇだろ! てめぇ、そんなこと思ってあいつのこと育てたのかよ!」

 ガタガタ、とベッドが軋む。プロイセンがスペインの胸ぐらを掴んだ。

「せやで。でもちゃんと守っとったよ」
「いつからだ」
「ずっとやで。お前にあいつのこと守るって言った時からずっとや」
「なにが! くそッ! ロマーノのあれは刷り込みじゃねぇか!」

 生真面目で堅物で面倒くさい悪友は侮蔑と哀れみの間でさまよっているような、何とも言い難い顔をした。長く生きたスペインですら未だかつてそんな表情を見たことがなかったので、何と形容すれば良いのかがわからない。
 まだロマーノが幼かった頃、スペインが彼のことをずっと守りたいのだと告げた時も彼は激昂していた。そんなものは思い上がりだと、ただのスペインの自己満足だとなじって許さないと怒っていたことを昨日のことのように思い出せる。

「オーストリアが預けたのがお前じゃなくフランスだったらどうだ? あいつはフランスを好きになっていたんだぞ。……いや、あのまま誰にも預けずに兄弟一緒に育てていたらイタリアちゃんだ。お前、それがわかってるのか?」
「わかっとるよ。少なくともお前よりは」

 シャツを掴んでいた手の力が緩む。目一杯に見開かれた瞳がすぐ目の前に見えた。

「わかっとるよ、あの時、ロマーノを引き取ったのも、あいつが成長する間ずっと一緒にいたのも、たまたま俺やったってだけ。そんなこと、世界中の誰より俺が一番よう知っとるわ。ロマーノに自覚ないけど」
「じゃあ、なんでだ」
「なあ、刷り込みのなにが悪いん?」

 だってもしもの話なんてしたところでどうしようもない。現実はスペインがロマーノを引き取ったし、彼にもうやめてくれと泣かれても守り続けてきた。そうして今、ロマーノはスペインのことを愛している。それの何がいけないことなのだろうか。
 感情の正しさなんて誰にも測れない。プロイセンが何を危惧しているのか想像もつかないが、どんな頭の良い学者にだって、何でも見通せる預言者にだって、間違っているだとか正しいだとか、決めることはできない。
 プロイセンはスペインのことを信じられないものでも見るかのような目で見つめ、やがてスペインの胸ぐらを掴んでいた手を離した。そうして、ゆっくりと距離を取るように後ずさっていく。

「逆の話をするで。俺があの時引き取ったのがイタちゃんやったら何か変わったん? もしくはオランダが反乱を起こさへんかったら、イギリスに負けんかったら、フランスと手ぇ組まんかったら……そうしたら、ロマーノはどうなってたんやろうね」

 もしもの話なんかしたところでどうしようもない。事実、スペインはロマーノのことを離してやる気はないのだから。

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