「スペイン兄ちゃんのところに行くの?」
独立してから一度も顔を見せていないから、ちょっと遊びに行ってくる。そう告げた時の弟の反応が予想と違っていたので、ロマーノは面食らってしまった。眉が上がり、唇は大きく歪む。ベッラの前ではしない表情だったが、奇妙な形に歪んだ眉がロマーノを表情豊かに見せていた。もっとも、元々ロマーノは感情表現が豊かなほうだ。良くも悪くも自分を取り繕うということをあまりしない。
一方、日頃から朗らかなはずのヴェネチアーノは硬い表情で、百面相で忙しい兄の表情筋を眺めていた。どことなく上の空のようにも見えた。何かを思案しているのかもしれない。
いつもは子どもっぽいとすら思うほど天真爛漫な弟の、大人びた憂いのある面差し。それはざらっとしたもので触れられるような、あまり好ましくない違和感を与えてきた。
ロマーノは一層きつく眉を寄せて問うた。
「何だよ、俺が休みの日に何しようと勝手だろ。文句あんのか」
「ううん……文句は、ないんだけど」
文句はないんだけど思うところはある。そういうことだろう。
「……文句ないなら良いだろ」
「うん……ああ、いや、ねぇ兄ちゃん。スペイン兄ちゃんちにはひとりで行くの?」
「そのつもりだけど……」
質問の意図を計りかねて怪訝に眉をひそめる。ヴェネチアーノの思考が読めない。暫し考えるも、ロマーノには答えが掴めなかった。
「もしかしてお前も一緒に行きたいのか? まあ、お前ならいきなり行ってもスペインの奴も喜ぶだろうけど、」
「ううん、そうじゃないんだけど」
「…………」
言葉尻に被せるように否定されて、何とも言えぬ心地になった。スペインが弟のことを可愛がっていることを知っているだけに、そうもきっぱりと断られるとスペインに対して同情めいた感情が込み上げてくる。もしもここに彼がいたらしおしおと打ちひしがれていたのだろう。そう思うとやるせない気もする。別にスペインがヴェネチアーノに遊びに来いと誘ったわけでもないのに。
ロマーノがスペインの家に遊びに行くと決めたのは今朝のことだった。たまたま夢に見たから、今日は休みだし会いに行こうと思い立ったのだ。そうやって何の連絡もなしに押しかけてもスペインは嫌な顔ひとつしないだろう。ああ、ロマーノよう来てくれたなあ、いつまでこっちにおれるん? とにこやかに出迎えてくれるに違いない。そこに弟がいたところで、やはりスペインは歓迎する。むしろ兄弟ふたり揃って楽園だと喜ぶかもしれない。
つらつらとここにはいない元宗主国に思いを馳せていたら、ヴェネチアーノが言いにくそうに切り出した。
「兄ちゃんは平気なの?」
「何がだよ」
「何って言うか……兄ちゃんたちって、その、……二国だけの世界っていうか、そういう感じだったじゃん? まだイタリア国内のことも落ち着いていないのに急に会いに行って大丈夫なのかなあ……って、思って」
そこまで説明されても未だヴェネチアーノの懸念が理解できないロマーノは、はあ、と気のない返事をやった。
だって、大丈夫も何も。
「イタリアはイタリア、スペインはスペインだろ。それがどうしたって言うんだよ」
それに対してヴェネチアーノが声にはならない曖昧な音を喉奥から漏らして、やがて諦めたようにため息をついた。
すっきりしないヴェネチアーノをイタリアに置いてスペインへとやって来たロマーノを、彼は予想通りに歓迎した。夢で見たから会いに来てやったぞ、ぶっきらぼうに言えば感激したように声を弾ませて、夢に見るほど俺のことが恋しかったん? などとのたまっている。その表情は至っていつも通りのもので、ロマーノにはよく見慣れたものだ。一体、ヴェネチアーノが何をあんなに渋っていたのかと少しおかしくなるほどに。
「あいつ、やっぱ寝ぼけていたんだな」
「ん? 何か言った?」
ロマーノのひとり言を拾い上げたスペインが首を傾げている。何でもねぇよ、そっけなく返してもスペインは気を悪くする風でもなく、むしろ今まで以上にニコニコとして目尻を下げた。つれなくされて笑うなんておかしな奴だ。しかしロマーノは僅かに眉間の皺をつくっただけで文句を言う気もなかった。スペイン相手にいちいち腹を立てても仕方ない。彼はこういう奴なのだ。ロマーノが怒鳴ろうが嘲ろうが、謝ろうが礼を言おうがニコニコニコニコし倒す。それはたぶん、ロマーノがどう思っているかなんて関係ないのかもしれなかった。
「お前は俺が泣き出しても笑ってそうだよな……」
「まさか、そんな薄情なわけないやんか」
「ふうん」
「ほんまやで! 親分、めっちゃお歌を歌ってロマーノのこと励ますんや! がんばれロマーノ〜泣くなロマーノ〜、ってな!」
「いらねぇよ……」
呆れて目を眇めてもスペインはますます眉をへんにゃりと下げて微笑む。穏やかな口元や柔らかな目尻は平素のやんちゃさが鳴りを潜め、幸福に満ちあふれていた。だからと言ってロマーノにまで彼の幸せが伝播するわけではないのだが、まあ毒気が抜ける、ぐらいの効果はある。はあっと息を吐き出してソファに背を押し付けた。
何を考えているのか計り知れない、と言わるスペインの笑顔だが、ロマーノにはわかりすぎるほど理解できる。今の笑顔は、ロマーノが来てくれて嬉しいわあ、だ。むしろそれしかない。邪気がなさすぎて空恐ろしいとは、彼の悪友の言だったか。
「……二国だけの世界、なあ」
確かに一時期はスペインとばかり一緒にいた気がする。でもそれは世界情勢の問題で、何かがあったわけではない。ロマーノにしてみれば、スペインの下にいるのは気楽だし甘やかされ放題だしで、待遇が悪くなかっただけなのだ。
「むしろ養え、スペインこのやろーがって感じだよな」
「ロマーなあなあ今日はうちに泊まって行くやんな? いつまでおれるん? ロマーノの部屋、ちょっと掃除できてへんから、俺の部屋で一緒に寝ぇへん?」
「……何で俺がお前と一緒に寝なきゃいけねぇんだ、はげ!」
罵倒文句ですら愛おしいのか、はげてへんよぅ、とヘラヘラしている。ダメだ、救いようがない。
こんな何も考えていないような奴に弟は何を警戒しているのだろうか。ロマーノは不思議で仕方なかった。スペインなんて絶対に危害を加えてくるわけがないし、ロマーノがそこにいるだけで浮かれすぎて笑顔をやめられなくなるような男である。
「なあ、お前大丈夫なのか?」
そう言えば弟が気にしていたと思い出して、直接本人に聞いてみた。口に出してみると、ますます一体何が大丈夫なのかと疑問が過るが、スペインは朗らかな笑顔のまま頷く。
「大丈夫やでー」
「そうか」
だったら良いのか。でもじゃあやっぱりヴェネチアーノの懸念は杞憂だったんだな。一体何をあんなに渋っていたのか結局わからないままだけど。
まあきっと、馬鹿弟だからだな、脈絡もなく結論づけて考えるのをやめた。
ロマーノの長所は物事の本質を見極めてブレないところにあったが、短所はそれだけに満足して文脈を顧みないところだろう。だからスペインのことを害のない男だと平気で決めつけられるのだ。だってスペインは自分のことを愛しているし、可愛がっている。だったら何も害がない。それがロマーノの理屈だ。
「なあなあロマーノ、今日一緒に寝てもええ? ええやろ?」
思考を中断されて眉をひそめる。
「寝ないって言ってんだろ」
「一緒に寝るだけやん。俺のベッド広いで? 一緒に寝たら楽しいで!」
スペインはたいていのことには拘らない男だったが、今日は珍しくしつこく食い下がってきた。何度話を逸してもしつこいその様子に、いよいよ断るのも面倒になったロマーノは、わかったわかった、と投げやりに頷いた。
「ったく、今日だけだからな!」
「ありがとぉ、ロマはほんまにええ子分やなあ」
にっこりと笑うスペインにまたも毒気を抜かれる。それもまたロマーノの悪癖だ。そうやって流されるままにスペインのほうへと引き寄せられて、考えることをやめてしまう。
果たして、男に邪気がないからと言って下心がないとは限らない。ニコニコと笑顔でいるからと言って、何の激情もない抱えていないわけではないのと同じように。ロマーノがそれを学ぶ時はすべてが後の祭り、つまるところ手遅れなのだが、この時はまだいっそ微笑ましいような気持ちでスペインの笑顔を見ていたのだった。
騎乗位への考察。
[Read]
俺はなあ、スペイン。お前のことなんか数百年一緒にいて一度もかっこ良いと思ったことがねぇんだ。だってお前なんか情けねぇし、すぐに親分ヅラしてきやがるし、時々ほんっとにうざくて面倒くさくてしょうがねぇ。ちっとは落ち着けよ、ちくしょーめ。……でも、それでも……その、お前にかっこ良くいてほしいとか、守ってくれ……だとか、そんなことは一度だって思ったことねぇぞ、俺は……お前はそのままで良いんだよ。何百年一緒にいると思ってんだよ。お前、別にかっこ良くなくたって良いんだって…………それでもそばにいるんだって、それぐらい、わかれよ……このやろー……。
言葉少ない彼にしては珍しく、一息で言われた言葉だった。その声はひどく不安定で、少し掠れていた。昔から尊大に振る舞うくせに自己評価の低い子どもだった。こわいんだろう。いつだって拒絶される不安や恐怖がちらついて、素直な感情を伝えることもできない不器用なロマーノのことだ。真っすぐに見つめ返せば、瞳が揺れて不自然に視線を逸らされる。
瞬きをひとつ、静まり返った室内に互いの呼吸の音がやけに大きく響いた気がした。時が止まってしまったかのような長い一瞬だった。
「ロマーノ?」
絞り出した声は我ながら白々しいほどに飄々としていて、全くもっていつも通りのものだった。
「ははは、どうしたん急に。相変わらずつれんなあ。今回はアメリカに邪魔されてもうたけど、今度こそ俺のかっこええとこ見せたるよ! せやからそんなしょげんとって」
「…………」
「親分のかっこええとこは、かけっこだけちゃうからなあ。料理対決やったらええ勝負すると思うねんーあ、でもそしたらロマーノも強いやんな。今度は一緒に一番目指そうやあ」
ロマーノは少し俯いた後、すぐにいつもどおりの顔で口元をひん曲げてみせた。皮肉げに頬を引きつらせながら、腕を組む。
「面倒くせぇしやなこった。ベッラにチヤホヤされるような感じのやつじゃねぇとやる気出ねぇよ」
「えーほんまにロマは女の子のことばっかやなあ」
へらへらと笑って話を流せば、ロマーノの眼差しに憂いが宿る。その何もかも諦めたような瞳にもどかしさを感じたが、それをさせているのは他でもない自分だった。
彼の言葉は嬉しかった。上司に何を言われても手放せなかった子だ。憎いわけがない。それどころか、俺はこの子に対して、もっと適切ではない感情を抱いている。こんな俺じゃ、ロマーノが寄せてくれる絶大な信頼や穏やかな愛情に応えられない。俺には……この子を幸せにできないのかもしれない。
俺はずるくて最低な奴だから、ロマーノが一生懸命に伝えてくれた愛に平然と否定する言葉を吐く。そのくせ突き放すこともできなくて、俺の弱さが傷つけているとわかっていてもそばにいたいと彼を引き止める。
「あったりまえだろ。俺を誰だと思ってやがる! 南イタリアだぞ、このやろー」
「せやなあ、けど、親分はベッラちゃうのにそばにいてくれるんやなあ。嬉しいわ。……せやから、なあ、これからもずっと一緒におったってな」
あの子の美しい瞳には、今どんな醜い俺が映っているのだろう。ロマーノがこちらをじっと見つめてくるのはわ気づいていたが、ついに確かめることができなくて、そっと瞳を逸した。
※
スペインが何を考えているのかなんて全然、これっぽちもわかんねぇ。何百年と一緒にいるからやらかしそうなことはだいたい予想がつくようになってきたけど、相変わらず突飛でワケわかんなくて面倒くせぇスペインの思考回路だけはいまいち読めないままだ。というか読もうとするほうがバカバカしくて、とっくに努力を放棄している。考えてもわからねぇことはハナからやらない主義だ。
なんつーか、みんなゴチャゴチャ考えずぎなんだよな。シンプルにやりたいこと、やりたくはねぇこと、面白いこと。それだけわかっていたら十分なのに、答えの出ないようなややこしいことを考えて袋小路に迷い込んでいる。いちいちうるせぇんだよ、ちくしょーもっと普通にしていりゃ良いだろ。
「これからもずっと一緒におったってな」
そう言って不自然に視線を逸したスペインの、あいつらしくもない不安そうな表情に眉をひそめた。この話の流れで、なんでそうなるんだ?
俺はただ、お前はお前のままで良いぞ、って言いたかっただけなのに、相変わらずちっとも伝わらないしそれどころか勝手に落ち込んでいやがる。だいたい、俺のかっこええとこ見せたる! って言っているけど見せたいのはお前だろ。誰もそんなこと頼んだ覚えがねぇよ。ずっと一緒にいる、っていうのもそうだ。俺が嫌がってもうざがっても、……それこそ上司に怒鳴りつけられても、ずっとそばにいたがったのはスペインじゃねぇか。何で急にしおらしくなって、俺にお願いしてんだよ。
「…………」
考えていたら腹が立ってきて何か言ってやりたくなったが、どうせさっきみたいに流されるだけだってわかっていたからやる気も失せる。なんつーか、ほんとうに、面倒くせぇ奴。
「仕方ねぇなあ……一緒にいてやるからせいぜい俺に感謝しやがれ、ちくしょーめ」
ふん、と鼻を鳴らすと勢い良く顔を上げられる。思いのほか間近にあった顔を真正面から見つめるはめになって、びっくりして少し固まってしまった。そのまま三秒間、お互い黙り込んでいたら不意にスペインが泣きそうな顔をした。
「うん……おおきに。お前のこと、幸せにできるよう……頑張るから」
何考えているんだか、大げさな言葉に呆れてため息をついた。どうせろくなことじゃねぇな。だいたい、お前なあ。
「うるせーお前が俺の幸せを決めてんじゃねぇよ」
目を丸くして驚いているスペインはやっぱり馬鹿だ。俺には理解のできねぇ思考回路で何やらグダグダ考えていたんだろうけど、そんなことにすら思い至らない。
本当に馬鹿なヤツ。
俺はお前がどんなヤツでも、何を考えていても、構わないんだよ。幸せするって? 馬鹿だな、今でも十分幸せだ。
「ろっロマーノ?!」
いつも飄々としている男が慌てふためく姿は珍しくて少しおかしかった。スペイン宅のリビング。夕食の後、ワイングラスを傾けながらソファで寛いでいた時のことだ。これまでの不毛な片想いを思えば驚くほどに些細なきっかけで我慢の限界を迎えたロマーノは、突然、何の前触れもなくスペインの背後の背もたれに手を突いて彼を両腕に閉じ込めた。上から見下ろせば光が遮られて彼の顔が翳った。スペインの顔が赤くなっている。見開かれたみどりの瞳はキョロキョロとしきりにあたりを見回していて、ひどく落ち着きがない。ずいぶんと焦っているようだ。今までどんなにアプローチをしても気づかなかったくせに。
「どないしたん? 急に、こんな……ちょ、ちょっと落ち着こ?」
「うるせぇよ、ちくしょー」
吐き捨てた台詞があまりにいつも通りのものだったから、我ながら他人事のように感じた。実際、ロマーノは今自分がしていることに実感がなかった。ワインを飲んでいたとは言え、泥酔して我を失うほど量を飲んだわけでもない。思考回路は正常で意識もはっきりしているが、それなのに頭の中がふわふわとしていた。先々がどうなっても構わないと言うような投げやりな気分だ。あるいは自暴自棄になっているのかもしれない。
「ロマーそんなひっつかれたら親分動かれへん……」
「くそっ! 何なんだよ、テメェ……誰もお前の子分になんかなったつもりねぇのに勝手に親分親分って、俺の親かよ! 俺はそんなの認めてねぇぞ、このやろー!」
一度吐き出してしまえば胸の内から溢れ出る言葉をせき止められない。ずっとみっともないから黙っていようと見て見ぬふりをし続けてきた感情が、まるで洪水のようにロマーノの思考を塗り潰していく。
「そうやっていつも見下してんだろ?! 俺なんかガキ扱いして良いって馬鹿にしてんだよ。テメェは気分が良いだろうな。何もできねぇ俺相手に親分ヅラしてりゃあ優越感に浸れるんだし」
「ロマ……?」
「お前なんか……お前なんか……」
自分が口にしているのに、自分で自分の言葉に傷ついてしまう。両眼いっぱいに涙を溜めて今にも決壊しそうなのを必死で堪える。耳の下のリンパがぎゅうっと締め付けられたみたいにじくじくとしだして、それに刺激された唾液腺から次から次へと唾液が溢れてくる。酸っぱいものを無理やり口にしているような痛みに顔をしかめた。スペインがこれ以上ないと言うぐらいに目を見開く。彫りの深い奥まったまぶたから宝石みたいな瞳が零れそうで、フラフラと吸い寄せられるように魅入ってしまう。
一瞬、沈黙。数拍してロマーノは身を乗り出した。暴力的なまでの自虐に揺さぶられてぐちゃぐちゃの感情のまま、衝動的にスペインの唇に噛み付いた。いや、噛み付こうとしたのだ。
「ーーーッ! あかん!」
しかし唇がふれ合う直前、スペインが弾かれたように仰け反ってロマーノの動きを止めた。その衝撃にハッと我に返る。先ほどまで真っ赤に熟れていたスペインの頬は色が失せ、土のような色をしている。
拒絶されたのだ。それを悟った瞬間、ロマーノは世界が崩れ落ちる音を聞いた。
「お前なんか……大っ嫌いだ……」
俯いた拍子にずっと堪えていた涙が零れ落ちる。ぱらら、ソファの固い生地の上に落ちて一瞬で吸い込まれていく。まるで初めから何もなかったように、ソファは乾いたままだった。
ロマーノはスペインのことが好きだった。家族に向けるような穏やかで優しい親愛の情もあったが、彼のことを想うだけで切なく胸は軋んだし、その笑顔が誰かに向けられているとどうしようもなく苦しくて溺れてしまいそうな激情に身を焦がしてもいた。それがどういった感情であるかは痛いほどわかっている。しかしスペインは弟のヴェネチアーノを可愛がっていたし、オーストリアやフランスとも親交が深い。それでも良いからそばにいたいと、そう思わなければやっていられなかった。
そんな辛酸を嘗めさせられるような不毛な恋をずっと続けてきた。けれど、それももう限界。これ以上は少しも耐えられそうになかった。
ロマーノの固く握りしめた拳から力が抜けて、だらりとソファに落ちていく。心臓が痛いぐらいに激しく脈打つが、指先は冷えていて温度を失くしたみたいだ。
「ロマーノ……」
「お前、ほんと……こんな時ぐらい空気読めよ」
「ロマ……」
身を引こうとすると、スペインが引き止めるように抱きしめてくる。ロマーノはこれ以上、彼に自分の情けない顔を見られなくないと言うのに覗き込もうとしてくる無神経さだ。力なく拒絶するが、身を捩ればますます力を込められる。さっきはロマーノのことを拒絶したくせに。そう思うと瞬間沸騰したように一気に頭に血が上って、カッとなって言い募る。
「ほんとにやめろって……おい、スペイ……ッ?!」
力任せに腕を振り払おうとする。しかし突然、腕を強く引かれて視界がぐるりと回る。急な展開についていけず、咄嗟にロマーノは自分の身に何が起きているのか把握できなかった。混乱し目を瞬かせている間に、スペインは身体の位置を入れ替えてロマーノをソファの上に座らせた。そのまま上から覆いかぶさり背もたれに腕を突いて、腕の中に閉じ込めるようにロマーノを追い詰める。
「空気やったら読んだつもりやで」
上から見下ろしてくるスペインは今までに見たことのない顔をしていた。いつも快活によく動く眉はぎゅうっとひそめられ、普段よりも彩度の高いみどりは黄色みを帯びている。そう、まるで黄金にかがやくかのように煌めいてロマーノのことをじっと見つめてきた。
「な、なに……」
「こうして欲しかったから、あんな風に迫ったんやろ?」
耳元に寄せてきた唇がふうっと息を吹きかけてきて、低い声で囁く。ぞくりと背筋に良くない感覚が走っていって、ロマーノは身体を戦慄かせた。そのまま彼の唇は頬から顎のラインへと伝っていって、首筋に吸い付かれる。湿った感覚に思わず目を見開いた。片口に顔を埋めた彼はロマーノの身体をきつく抱きしめて、はあっと熱い息を吐きだす。
「ロマ……情熱的なのは大歓迎やけど、そんな強引にしたらあかんよ」
ああ、どうしよう。逆に追い詰められてしまった。
「いくら俺がお前に惚れているからって、いつでも優しくできるとは限らへんで」
ギラついた眼差し、余裕のない表情、そのわりに低く甘やかな声音。心臓はこれ以上ないぐらいに高鳴っていて、スペインが言っている言葉の意味を半分も理解できない。どうしてこんなことになったのだろう。先ほど確かにロマーノはスペインに拒絶されたはずなのに。
顔を上げたスペインが鼻先をふれ合わせるほど近づいてきて、すうっと目を細めた。彼らしくもなく嗜虐的な表情に、彼が支配者であることを思い知らされる。手首を掴まれて背もたれに押し付けられる。逃げ場をなくしたロマーノは捕食される小動物のような心許ない気持ちでスペインの言葉を待った。
「スペ、ぃ……ンぅ」
彼は言葉もなく静かにロマーノの唇を奪う。下から掬い上げるように重ねられた唇。やわらかくて、表面が少しかさついていた。口付けは一瞬のような気もしたし、とてつもなく長い時間にも感じられた。ぬるり、と侵入してきた舌の熱さに反射的に噛み付いてしまった。
「いぃ……ったぁ!!」
容赦なく力いっぱい噛んだせいでスペインが絶叫する。腕の力が弱まった隙を突いて、さらに頭突きをかました。見事に顎に当たって、ぶへっ、と情けない声が上がる。
「ひゃにひゅゆん」
「う、うぅううるせぇ! 誰が勝手にキスして良いって言った!」
「ひぇもしゃっきりょまーぉ」
「ヴァッファンクーロ!」
力が抜けたスペインの身体を無理やり引き剥がし立ち上がる。スペインをソファに押し倒してロマーノは急いでリビングから逃げようと床を蹴った。背後でスペインの焦る声が聞こえたが振り返る度胸はなかった。とにかく一刻も早くここを立ち去りたい。その一心で、ドタドタと足音を立てながら二階の寝室へと逃げ込む。
取り残されたスペインは逃げ足だけは早いロマーノの後ろ姿を見送って呆然としていた。
「…………」
遠くで階段を駆け登っていく足音が聞えるが、追いかけるよりもソファに座り直して膝に肘を乗せる。前屈みになって頭を抱えた。
「……やぁってもうたー…………」
聞く相手のいないひとりきりの部屋で苦々しくため息をつく。
彼から迫られて咄嗟に避けたのは、後からそんなつもりはなかったと怒られると思ったからだ。彼は猫のように気まぐれで、自分から近づいてきたくせにスペインが手を伸ばすとその手を振り払い、嫌そうに顔をしかめるところがある。それなのに今夜は少し様子がおかしかった。ロマーノがひどく傷ついた顔を見せて、スペインを縋るように見つめてきた。だから期待したのに。もしかして、と思って強引に迫ってしまった。
「…………強引にしたのは俺のほうやろ」
ロマーノはきっと怒っている。あの子が何を考えているのか、いまいち読めないのはいつものことだが、今日のはさすがに堪えた。
あんな顔で、あんな声で。スペインに食われるのを待っているような態度を取っておいて、それでもそんなつもりじゃないと言うなら、一体どういうつもりなんだ。
「あかん、ロマ……あかんってぇ」
泣きそうになりつつ、どうやって今夜のことをごまかしてロマーノの機嫌を取ろうかと必死になって考える。そんなこと無駄になるとも知らずに、スペインはその夜一睡もできないのであった。
「兄ちゃんたちって意外とドライだよね」
ヴェネチアーノが何の脈絡もなく唐突に言ってきた。玄関先でのことだ。俺達は昨夜家に泊めてやったスペインが、朝からフランスで会談があるとかで慌ただしく出て行くのを見送った。さあてリビングに戻るかと踵を返そうとした時、馬鹿弟が馬鹿なツラ下げてため息をついたのだ。
「あん?」
「スペイン兄ちゃんと兄ちゃんって付き合っているんでしょ? それなのにお見送りもあんなそっけなくて、スペイン兄ちゃんに何か言われないの?」
馬鹿弟に見送りの仕方を非難されるとは思いもよらず、思わず眉をひそめる。
「普通だろ。何で俺がスペインにとやかく言われなきゃいけねぇんだよ」
「だってスペイン兄ちゃんって自分で情熱の国って言っているし、俺から見てもスキンシップ大好きじゃん! なのに兄ちゃんの態度は冷たすぎるよぅ」
「……何で俺ばっか批判されてんだ」
別に俺とスペインの挨拶が特別そっけないかと言うとそうでもない。ハグして両頬を擦り付ける、ごく普通のものだ。さっきはスペインの野郎がなかなか起きてこなくて遅刻寸前だったからバタバタしていたが、それでもちゃんとハグはした。それを馬鹿弟に文句言われる筋合いはないはずだ。
「フン、今朝は急いでいたからそういう風に見えたんだろ」
「でもスペイン兄ちゃんってば昨夜突然ウチに来て、今朝もう出て行ったんだよ? せっかく会えたのに八時間ぐらいしかいなかったじゃん。もっと名残惜しいとかないの?」
「……ねぇよ。どうせすぐ会えるだろ。昔みたいな情勢でもねぇし、今は飛行機があるんだ」
「ほら! やっぱり兄ちゃんドライだー!」
ぎゃあぎゃあとうるさいヴェネチアーノの言葉を聞きながらリビングに戻った。こいつの話を聞いていると頭が痛くなってくる。だいたい俺がドライだとして、それがお前に何の関係があるんだよ、ちくしょーめ。
「そんなつれない態度ばっかり取っていたらスペイン兄ちゃんかわいそうだよ」
「スペインが今さらベタベタしたくねぇんだろ」
俺達の付き合いは長い。俺がちんちくりんのガキの頃から一緒に暮らしていたし、お互い結構な黒歴史を知り尽くしている。それを恋人になったからって今さら付き合い方を変えるのは、なかなか難しい話だ。
それにヴェネチアーノは勘違いをしているが、ドライなのはスペインのほうである。あいつは街中で手を繋ごうとしたらヒラリと躱すし、ふたりきりの時にそれとなくロマンティックな雰囲気を作ろうとしても、せっかくのムードをぶち壊しにしていきやがる。恋人らしい演出も、浮かれたようなデートも、どんなに俺が頑張ったところで叶った試しがない。
昔から言っているが、スペインはひどい奴だ。いつもニコニコしているし人当たりが和らいからごまかされているけれど、薄情だし俺の話なんか聞いてもいねぇ。俺のほうがツンケンしているから、逆だと思われがちだけどな。
「ヴェー……それだと兄ちゃんがスペイン兄ちゃんといちゃつきたいみたいに聞えるよ」
「…………」
馬鹿弟にしては鋭い指摘だ。思わず黙り込む。
「そうだったらスペイン兄ちゃんひどい! あんないかにも恋人は愛し抜く情熱のラテンみたいな顔して!」
「顔は関係ねぇだろ」
何だかんだでイタリアも愛にはうるさいラテン国家だ。恋人への愛情表現が乏しいなんて冷たいと、馬鹿弟がぽこぽこと沸騰している。
まあでも、スペインは薄情だけど気持ちはわからなくもないんだ。昔からの付き合いで、ましてやあいつにとって俺はガキの頃から世話してきた子どもみたいな存在。今さらいかにも恋人みたいな関係性に切り替えろって言われても照れや気まずさがあるんだろう。
「でもスペイン兄ちゃんは手を出しているじゃん! 恋人みたいなムードにはなれなくてセックスはできるなんて矛盾しているよ!」
「……お前も結構言うよな…………」
「え、まさかまだ手を出されてないの?」
そりゃあ、お互い成人した男の体を持っている恋人同士。ヤることはヤっているけどよ。でもそれとこれとは違うっていうか、最中は盛り上がっているからノリでできるところもあるし……と、そこまで考えてノリで掘られているのはアリなのかって疑問も出てくる。今でこそ慣れてきたから良いが、最初の頃はすげー痛かったし恥ずかしい格好はさせられるしで、我に返ったら何やっているんだろうと思うことばかりだった。
…………。
「この話はもうやめようぜ……」
俺のダメージばかりデカい気がする。
「イタリアの恋人なら照れとか恥ずかしいとか、そんなことにこだわってちゃダメダメ! スペイン兄ちゃんにちゃんと抗議しなきゃ!」
「……いや良いんだよ、俺たちはこれで」
「兄ちゃん!」
ヴェネチアーノが珍しく目を三角に尖らせて憤慨している。自分のことでもないのに、そうやっておせっかいなことを言ってくるところがおかしくて、吹き出してしまいそうになった。笑ったら怒るんだろうな。他人事のように考えながら、本当に良いんだって、と繰り返した。
「それにスペインは薄情な野郎だけど、俺に対して情熱がないわけじゃねぇんだ」
「そりゃあそうなんだろうけど。あれだけ南イタリアにこだわっていたわけだし、でも……」
「こういうのは当人同士にしかわかんねぇこともあるんだって」
不服そうな顔を見せているが、これ以上、何も言ってくれるなと視線を合わせる。俺よりも爺ちゃんの色に近いアンバーの瞳が一瞬見開かれた。丸くてアーチを描く目がゆらゆらと揺らぐ。心配してくれているのはありがたい。でも、スペインとの関係は馬鹿弟がそんな風に気を揉むようなことでもない。
「ま、お前が思っているよりかは俺達はちゃんと恋人だぜ」
「ヴェー……」
「ところでコーヒーいるか?」
「……兄ちゃんが淹れてくれるの?」
「仕方ねぇな」
「俺、カプチーノが飲みたいであります!」
元気の良い返事を聞いて、ふっと笑う。俺はカプチーノを淹れにキッチンへと向かった。
※
その日の夜。時計の針は日付が変わるところだった。ヴェネチアーノは寝支度を整えて、自室のベッドに入ろうとした。兄は先に眠っている。彼は意外と早寝早起きで、朝が早いのだ。今朝もなかなか起きてこないスペインを、朝から仕事だって言っていただろ、と起こそうとしていた。……思うに、ロマーノはスペインに対して健気すぎる。それが端から見ているとスペイン本人にはあまり伝わっていないように見えて、複雑な気持ちになるのだ。
ヴェネチアーノはそれを、兄がそっけない態度を取ってばかりいるせいだと思っていた。照れ屋のロマーノはきっと恥ずかしがって、恋人らしい雰囲気になっても自らぶち壊しているのだろうと。しかし実際はその逆なのだと言う。
(兄ちゃんはああ言っていたけど、やっぱり……もどかしいよー!)
両想いで今も恋人として良好な関係を気づいている彼らに言うことではないのだろうが、ついおせっかいを焼きたくなるのだ。せっかく愛し合うふたりがそばにいるのに、ドライな付き合いでいるなんてヴェネチアーノにはとてもさみしいことのように思えた。
(まあでもあんまり口出したら兄ちゃんも嫌だろうしなあ……うーん)
人の付き合い方にとやかく言うのも野暮な気がする。しかし、けれど、だって……誰に言うでもないのに、そうは言えど放っておけないと頭を抱えた。
その時だった。ヴェネチアーノの携帯が鳴る。何だろうと画面を見やれば、思いがけない相手だった。
「あれ、スペイン兄ちゃんからだ」
珍しい。彼は筆不精で、仕事の用件ですらなかなか連絡を寄越してこないのだ。ロマーノとすらあまりメールのやり取りをしている様子はなく、どちらかと言えば電話を好んでいるようだった。
こんな時間に連絡が来るということは、仕事のことだろうか。最近の彼はハードスケジュールをこなしていて、今朝見送った時も少し疲れた顔をしていたのに遅くまで大変である。とりあえず緊急の用事なら返したほうが良いだろうと思い、ヴェネチアーノは画面に視線をやった。スペインからのメールはとても長かった。
ーーーロマーノはもう寝ているやろか。俺は昨日いきなり押しかけたのに優しく出迎えてくれたお前の顔が忘れられなくて、疲れているはずなのになかなか寝付けません。今日はずっとフランスに上の空やとからかわれてしまいました。なんでかって? 昨夜のお前の肌の熱さがまだこの手に残ってて、仕事どころじゃなかった。ロマーノは昨日会ったばかりだと呆れるかもしれへんけど、俺にはあれじゃ全然足りへんのや。……今すぐイタリアまで行ってお前を連れ去ってしまいたい。まだイタリアが統一する前の頃のように、いつでもそばにいたい。それで朝も昼も夜も、ずっと抱きしめて愛を囁き、キスを、愛撫をお前にーーー
「ヴェエエエエ!!!」
思わず携帯電話の電源を切ってしまった。内容が理解できなくて結構読んでしまったが、それでも画面の右端に表示されていたスクロールバーはまだまだ先があることを示していた。
「んあ? ……なんにょ……ばかおとうと、いま何時ら……?」
「ヴェ?! あ、に、兄ちゃん、ごめん! 起こしちゃった?!」
「んー……」
不明瞭な返事。ロマーノは夢と現を行き来している。ヴェネチアーノはじっとベッドを見つめた。心臓がバクバクと鳴っていて、妙な汗が吹き出てくる。
やがてロマーノは本格的に寝入ったのか、穏やかな寝息が聞こえてきた。それに詰めていた息を吐き出して、ずるずるとその場に座り込んだ。見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がする。
おそるおそる、携帯電話の電源を入れ直す。画面が点灯し、ロック画面に飛ばされた。解除してメールを再び開く。何かの間違いではないかと思ったが、残念ながら差出人はスペインで内容は熱烈なロマーノへのラブレターだった。おそらく間違えてヴェネチアーノに送信してしまったのだろう。
「これが……深夜のラブレター……」
ヴェネチアーノは自分も愛の国だと自負していたし、ラブレターはマメに書くほうだ。しかし、この内容をあのスペインが書いたのだと思うと気恥ずかしさで悶そうだった。よく知る身内と知人の恋愛事情を垣間見てしまった、そんな気まずさがある。
「……酔っぱらって書いたのかなあ」
さっきフランスのSNSにスペインと飲んでいると投稿があった。気心の知れた腐れ縁同士、過ぎた量を飲んだことは想像に難くない。その酔った勢いでどういうわけだかラブレターを書いて、誤送信したのだろうとは思う。
しかし、そうだとしても昼間のあの話は何だったのだろう。さっきまでやきもきしていた自分が馬鹿みたいだ。
「当人同士にしかわらないことって……こういうことなの?」
スペインが酔うと感情的になるとは聞いていたが、感情的過ぎる。普段からちょうど良い量の愛情表現をしていたら、もっとバランスが取れるだろうに……むしろ酔ってこういうことをするほうが恥ずかしい気もするが、それはヴェネチアーノが他人だからそう感じるのかもしれない。
はあ、とため息をついて、画面に再び視線を落とした。指をするすると動かしてメールを操作する。転送、宛先選択、ロマーノ。送信ボタンを押してヴェネチアーノはがっくりと項垂れた。
「兄ちゃんが幸せそうで良かったよ……」
今はすやすやと眠るロマーノが、ヴェネチアーノから転送されてきたメールに気づき悲鳴を上げるのは、翌朝になってからだった。

短編など完結している話
リクエストBOXでリクエストしていただいた話
助教授×学生パロ
R-18、ゲームの世界観を借りたエロコメディ
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