朝目が覚めたら雨が降っていた。それも、シトシト、なんて可愛らしいものではない。雨粒が窓ガラスを打ち付ける音が耳につくほどうるさく、どうやら風も出ているようだった。こんなどしゃ降りの中を出かければ、傘を差していてもたちまち濡れてしまうだろう。靴の中にまで染み込んでくる雨水のことを思って、想像だけでうんざりした。
二日前にスペインからデートに誘われて、天気が良ければ行くと返事した。天気が良ければ、と言ったのだから、今日は会えない。昨日の朝見た天気予報では晴れると言っていたので、早起きをしたのに無駄になった。けれど、心のどこかで安心している部分もある。堂々と行かなくて良い理由ができたのだから、今日は一日中をただ怠惰に過ごすのだろう。
まだ早い時間ではあったが頭はすっかり目覚めてしまったので、適当にシャツを羽織りキッチンへと向かう。コーヒーメーカーのスイッチを入れ、豆が入った瓶を傾けた。ザラザラ、ザラザラ、コーヒー豆は心地の良いさざ波のような音を立てて流れてく。
コーヒーを淹れて椅子に腰を落ち着かせ、何をするでもなく宙を見つめる。表の大通りを通り過ぎる車が雨粒を跳ねていく。その音がひどく遠くに聞こえた。ザアザアと降り続ける雨がうるさくて、世界は静寂に包まれる。穏やかな朝だ。
そのままぼんやり過ごしていると、テーブルに置いた携帯電話が鈍く震えた。時計を見やれば起床してから一時間ほどが過ぎていた。それでも思っていたよりは早い。
「なあ、ロマーノ、イタリアは雨なん?」
繋がった途端、挨拶もなしに切り出した、感情を押さえ込んだスペインののっぺらな声が白々しく届く。いつになく早口だったので聞き漏らさないように電話を耳たぶにぴったりとつける。
「どしゃ降りだ」
「ほんまに来ぉへんの? こっちは晴れとるよ」
「空港行くまでに濡れんだろ」
「風呂貸したるやん」
「そういう問題じゃねぇよ」
大体、いくらなんでもスペインに着くまでに飛行機の中で乾くだろう。けれど、その機内こそが嫌なのだ。搭乗前に水滴を払い落としても、どうしても残る雨の気配が嫌だ。生乾きの水の匂い、じめっとした靴下の中、水びたしになった鞄。考えただけでも気持ち悪い。そう告げるとスペインは気のない声で唸った。
「ちょっとやん、こっち着いたら空港まで車で迎えに行くし」
「やだ。つうかそっちは晴れてんだろ」
「わかった、タクシー乗って行ったらええやん」
「なんでそこまでしなきゃなんねぇんだよ」
来て、行かないの押し問答。もうこうなってしまってはどちらも譲らない。ロマーノとしては、元々、天気が良ければという約束のはずだと思うのだが、スペインがこちらは天気が良いのだからと言い出した。そんなものは詭弁だったが、スペインはさもそれが当たり前のことのように言ってのけるので、ついそのペースに巻き込まれてしまう。
暫くそうやって動きのない言い合いを続けていたのだが、不意に良い大人が二人して不毛なやり取りで数分を過ごしていることがおかしくなってきた。堪えきれなくなったロマーノが吐息だけでふっと笑ったら、電話の向こうでスペインがムッとしたのが伝わる。ああ、剥がれてきてんなと、それにもまたおかしくなって、今度は遠慮もしないで声に出して笑った。電話口で面白くなさそうに何がおもろいねんと呟いたのが聞こえたが、一度笑い出したら止まらなくなる。一頻り笑う間に、スペインはすっかりへそを曲げてしまったのか黙り込んでしまった。
「はあ、悪い悪い」
「……」
「悪かったって……今度の休みはそっち行くよ」
「…………」
「なあ、次は雨が降っても行くから」
それはロマーノなりの譲歩だったのだが、それに対してスペインは間延びした声で唸るばかりだった。しつこいと思うが、ロマーノだって頑なに譲らないので似たもの同士だ。
「ちゃうやん、今度じゃ遅いねん」
少し切羽詰まった声に何かあったのかと目を瞬かせ心当たりを探したが、思い当たるものがなくて怪訝に眼を細める。
「なんでだよ」
「やって、なあ」
そこで急にスペインが声のトーンを落としたので、思わず耳につけていた携帯電話を離す。
「やって今すぐロマーノに会いたいもん」
それでも耳元で聞こえた言葉に一瞬、息を詰めた。余裕のない低い声が甘ったるく響く。ずるい、なんて。絶対に言わないけれど。
「ロマーノは? 言うてくれへんの?」
「……」
何も返さずにいると、鼻にかかった声で再び、なあ、と問いかけられる。それにむず痒くなって曖昧に相槌を打てば、受話器の向こうで腹の底から深く息を吐き出す音がした。あからさまな反応に眉を顰めたが、ムキになっては負けてしまったみたいだと黙り込む。気まずく流れる沈黙の間も雨音は激しくなって、音だけで部屋が揺れそうなほどだった。
「そんなに会いたいならこっちに来れば良い」
「……」
冷えた声でやり返せば、今度はスペインが言葉を詰まらせ押し黙る。
「ほらな、俺だって面倒なんだよ」
「ちゃうよ、俺は雨でもええけど」
「そっちは晴れてんだろ? 俺は迎えに行かねぇけどタクシーでも何でも使って来れば良い」
目の前にいたら、ぐうと音でも出そうな顔で睨みつけてきただろう。電話ではその表情が見えず、ただ静かになっただけだった。
「俺はそうしたいけど」
「俺は止めねぇぞ」
「……ロマーノずるい」
先に退いたのはスペインのほうだった。
「ずるくねぇよ」
むしろどっちがだよ。それで遂に観念したのか、繕っていたものが全て剥がれ落ちて拗ねた口調になる。きっと今頃、わざとらしく唇を尖がらせているのだろう。
「やってイタリアじゃイチャイチャできへんやん」
「そりゃあな、弟もいるし」
「ほらなあ。せっかくのデートやのに手も繋がれへんとか無理や」
「無理じゃねぇよ」
「ないわ」
「ないことはねぇよ」
二人はそれだけではないのだから。
家族のように何をするでもなくただ同じ空間で過ごすことだってできるし、友人同士のように他愛ない話題で盛り上がることだってできる。事実、恋人同士に収まるまでの数百年、ずっとふれ合わずともいられる関係だった。ただ、それがここ数年、奪い合ったり求め合ったり、そればかりになっているだけで。
「無理やって、ロマが言うこともわかんねんけど」
あー、と低い声が鼓膜を震わせる。
今がギリギリちょうど良い距離感だ。スペインとロマーノは別々の個体で、二人の間には決して越えられない境界線がある。これ以上、近付き過ぎてそれすら失ってしまってはいけない。わかっているのに、何か理由でもなければ際限がなくなっている。
「今我慢するぐらいなら明日死ぬほうがマシや」
「そういう生き方やめろよ」
「なあ、ほんま意地悪言わんといてや」
どっちがだ。半分以上、流されかかった思考が余計に恨みがましく言い返した。
何の連絡も寄越さずに、かっちりしたスーツに花束を抱えてローマまでやって来た目の前の男に頭を抱えた。つい先週、仕事の打ち合わせをロマーノとのデートだと称して来た時は、Tシャツにジーパンといったラフな格好だったくせに、一体何をどうすればこうなるのだろうか。今日は何かあったっけと胡乱げに見やれば、ロマーノのために、だか、ちゃんと仕立てもらった、だか何だかをボソボソと呟いてる。久しぶりにこんなええやつ着たとはにかむ姿に、なるほど確かにそうだろうと頷く。ここ二十年ぐらいずっとスペインの一張羅は量販店で買ったサイズの合っていない型遅れのスーツで、それも何年も着倒している。おかげでただでさえ薄っぺらな布はすっかりヨレヨレになってしまって原型を留めていないような有様だったので、それと比べれば今着ている服は、一目で仕立ての良いものだとわかった。
ロマーノおしゃれさんやから、と視線を下げて手遊びをしているその指先を見やる。分厚い皮はとこどころひび割れていて、切り過ぎなぐらい短く切られた丸い爪と指の腹の間には土が挟まっていた。
普通にしていれば良いのに。スペインの頑張りはロマーノから見ると少しずれている。昔から式典や国の公式な行事、あるいはそこまでいかなくても畏まった服装が求められる時にそれは顕著だった。ちゃんとした格好せなーと言って着て来るのが、よくわからないボタンの多いジャケットに布がたっぷり使われているフリルのついた装飾過多のシャツだ。華美と言えばそうなのだろうけれど、何かが違う気がしてならない。
単に趣味が違うだけではないかと言われれば、確かにロマーノはソフトスーツを気楽に着こなすほうが好きなのだが、しかし、それにしても。
照れくさそうにしているスペインには悪いが、いかにも質の良さそうな生地や丁寧な職人の手仕事を思わせる美しいラインを見ていると、嫌味なぐらい余裕たっぷりのフランス人がお気に召した? と頭の中でうるさいので正直言って面白くない。そんな格好をして来るぐらいならば、打ち合わせの後、バルへ繰り出すために合理的なのだと言い張っていた、変な文字が書かれたシャツのほうがよっぽどかマシだろう。
ロマーノの反応を窺うためにチラチラと、しかし期待たっぷりに気にしているスペインににやっと笑う。ぱあっと目の前の顔が明るくなるのがわかった。
「チェンジ!」
「えええ、何それ?!」
「そうか、鍵忘れんなよ」
フランスたちと飲みに行ってくると告げると、ロマーノはいつも通りの素っ気なさでそう返した。
せっかくの休日だと言うのに出かける恋人を引き止めもしないそのつれない態度に、スペインは言葉を詰まらせて黙りこんだ。しかし、あからさまに落ち込んだそのようすに気づきもしないロマーノは、ソファに寝そべったまま読んでいた雑誌から顔も上げずに、車には気を付けろよと追い打ちをかけてくる。強がるでも無理をしているでもない、何なら少し嬉しそうな明るい調子が(例えそれがスペインの被害妄想であったとしてもそう聞こえたのだ)面白くなくて、常々、ロマーノに関しては燻っている、あまり好ましくない感情がひょっこり顔を出した。
理解のある恋人で良かったではないか、出かけたかったのだろう、何が気に食わないんだ。
問われたところで答えなど持ち合わせていない。ただ、ロマーノが素っ気ない、だから面白くない。それだけだ。ではどうして欲しかったのかと言えば、会合があると支度をするスペインに対するまだ幼いロマーノの、お前なんかもう帰ってくるな、と駄々をこねて拗ねていたあの可愛げはどこへいったと、さめざめ嘆く。当時は当時で、わがままばかりで困ったものだと言っていたような気がするが、本気で彼のその愚痴めいた惚気を聞いている者などいないので、はいはいと流されるだけだった。
「つまり、ロマーノは俺に冷たいと思う」
フランスとプロイセンが胡乱な視線を返した。フランスに至ってはまたそれか、と声にまで出してつぶやいて心底うんざりと言った表情だ。それでも、どれだけその話題に飽きていても面倒くさくなっていたとしても、結局は話に付き合って聞いてやるのだから、存外、親身なものだろう。
「おにーさまは男嫌いなんじゃなかったっけ? 冷たいも何もそういうもんじゃねぇの」
「でも仮にも恋人が出かけるって言ってんのに引き止めもしてくれへんのってどうなん。せっかくうちまで来たのに放ってかれるんやで、それとも放っておかれたほうが楽でええってこと?」
「はあ?! お前ら付き合ってたのかよ」
「恋人が家に来てるのに飲みに行くお前もお前だけどね」
「昔はそんなことなかったのになんでなん! もしかして俺のこと飽きてるんやろうか」
「なあ、いつから付き合ってんだよ」
「俺たちはロマーノじゃないから知らないって、本人に聞いてよ」
他人ごとのように、いや、正しくその通り他人ごとのフランスが肩を竦めると、スペインが何かを言いかけて口を開き、けれど少しの理性が働いたのか息を呑んで深呼吸をする。そうして、ぐっと手の中にあったグラスを睨みつけ勢い良く中身を煽った。カバを水か何かのように飲む様に、あーあーと残念がる声が聞こえたが、今日この場において酒はただのアルコールである。半分以上残っていた液体はそのひと口でなくなって、グラスをテーブルに置いた勢いで居酒屋の主人にお代わりを告げた。
「もっと味わって飲んでよ、もったいない」
呆れたフランスの口調にプロイセンが頷きながら、なんでフランスはおにーさまとスペインが付き合ってるの知ってんだ? と的外れなことを言っている。なんでなんで、と繰り返されるその声に二人は眉を顰めたが、誰か答えてやれよとスペインとフランスが互いに考えていたので、彼の疑問が解決されることはないだろう。
うるさいプロイセンのことは綺麗に無視したスペインが、テーブルの上に乗せられたナッツを行儀悪く肘をつきながら口へと運ぶ。その殻を奥歯でガリガリと噛み砕き、中身を取り出した。ロマーノの前ではしない仕草のひとつだ。
やってなあ、ため息と共に吐き出された。
「やってもっとデレてくれんと、ツンデレ黄金比とか俺には理解できへんもん」
「だから俺たちにじゃなくロマーノに言ってよ、そういうのは」
「言えるわけないやん。ロマーノは今まで俺が面倒見てきた子やで」
「そうだよ、それでお前はその子に惚れてる」
その一言でスペインはぐぅっと喉の奥で唸り黙りこんだ。イライラしたように指でテーブルをノックするが、ぎゃあぎゃあ騒がれるよりはいくらかましだ。
フランスに言わせればそれは馬鹿げた論だ。自分はロマーノの親分なのだから甘えられない、わがままを言うわけにはいかない。スペインは必ずそう言う。そのくせ愛を建前にその大事な子分に手を出して、挙句に気持ちを試すような真似を繰り返しては上手くいかずに、へそを曲げる。一体、どうしたいんだ。なんて、今までにも何度も何度も言ってきた言葉だ。
「それで? お前は具体的にどうして欲しいの?」
「もっと俺のことを愛してほしい」
「はは、おもしろーい」
何を言っているんだ、と、渇いた声で笑ってやった。と、その声が上がると同時にスペインの目の前に新たなグラスが置かれる。お代わりって言っただけなのに、なぜか中身はシェリー酒のようだ。フランスがぎょっとして主人を見返すと、何もかも分かっているかのように意味ありげに頷かれて、そうじゃないそうじゃないんだ、と叫びそうになった。
フランスの内心など考える必要性すら感じていないスペインは、確かめもせずにその中身を再び煽り、ほとんど味わうこともしないで喉の奥へと流し込む。あー、もったいない……なんて、思えるのはフランスだけで、なぜかプロイセンも張り合うように手元にあったビールジョッキをひと息に飲み干した。
「もう一杯!」
どうなっても知らないぞ、なんて、わざわざ言ってやるほどフランスも優しくはなかったから、ヤケになって飲み続けるスペインとそれに対抗しているプロイセンを適当にあしらって、ワインを傾けた。ロマーノごめんと今さらのことのように思いながら。
「ただいまあ」
体がふわふわと軽くなったみたいだった。アルコールの膜を張った意識では全ての感覚が遠く、ぐわんぐわんと轟音が耳について離れない。何の返事もなかったのでただいま、と繰り返すと、水中から外界の音を聞いているように鈍く響き渡った。狭くなった視界ではほとんど正面しか見えずに、何度か足がもつれて引っ掛けそうになる。
「ロマーノ? ロマーノおるんやろ!」
声を張って名前を呼べば、耳の裏側が震えて大きくふらついて、平衡感覚を失ったかたつむりが世界を回しているようだ。地面が揺れているみたいに真っ直ぐ歩くこともままならない。脳内のどこか冷静な部分が、こんな状態でよくもまあ帰って来れたものだと感心している。もう一度、ロマーノ! と大声を上げたところで、ついに転倒し尻もちをついた。
「おい、今すごい音がしたけど大丈夫か? ……って、大丈夫じゃねぇな」
ひょっこり廊下へ顔を出したロマーノが、床に転んで目の前が回転するのを楽しんでいたスペインを認め、しっかりしろ、と駆け寄ってくる。
「あは、ロマーノやーん!」
「うわ、ちょ、っと、待て抱きつくな!」
手を伸ばして起き上がらせようとするロマーノの首の後ろへと腕を回し、深く考えずに力いっぱい振り絞ってしがみつくと、勢いは止まらずにそのままロマーノが覆いかぶさってくる形になった。冷たい床が火照った肌に心地良い。仰向けに寝転んだまま、好きやー好き、と繰り返してその首筋に頬擦りをすると、首の後ろから先ほど飲んだシェリー酒のような雨と似た匂いがした。
「ええ匂いするー」
「シャワー浴びてたからな」
確かにロマーノの髪は濡れていて、黒いシャツにジーンズというラフな格好だった。そうかあ、と間延びした声を上げて、それがどういうことかを理解せずにぼんやりしているスペインに苦笑し、背中へと腕を回し宥めるように緩やかに撫でてくる。トントン、と子どもあやすようなリズムが心地良い。
「ロマーノずっと家におってくれたん?」
「ああ」
「ロマーノおれのこと好き?」
「おう」
わざとらしすぎるぐらいに甘ったるくて舌足らずなその猫なで声に、自ら不愉快になって複雑な顔をしたが、問われたロマーノは嫌な顔ひとつせずに頷くので、いろんなことがどうでも良くなって、まあ良いかとなってしまう。
まあ、良いか。今は酔っているからちょっとぐらい。
何を言ったところで、それは全部酔っ払いの戯れ言なのだ。アルコールに浸されて何もわからなくなった酔っ払いの、明日になれば記憶に残っていないような言動を本気で受け止めることはないだろう。常であれば、気持ち悪いと顔を顰められ怒られるところではあったが、穏やかな表情でスペインの髪を撫でていく手のひらは優しく受け入れてくれる。それに調子に乗って
「ね、キスしたって」
と声にすれば、驚くほど素直に、はいはい、と頬に唇が寄せられる。あっさり望みは叶えられたのに、挨拶よりも呆気なく離れていくそれに頬を膨らませて不満を表した。眉間にしわを寄せて口を窄める無言の抗議ににやにやと笑ったロマーノが、しょうがねぇなあと言って前髪を掻き上げ、額にも同じようなキスを送られた。ちゅっと可愛らしい音を立てて、額にまぶたに頬に鼻の頭に、次々と口付けていくのがくすぐったくて、くすくす笑いながら目を瞑る。
「なあ、好きって言ってや」
「さっき言っただろ」
「ロマ、頷いただけやもん」
「伝わってんだから同じことだ」
「そんなんじゃ伝わらへん」
聞き分けない子どものようにわあっと喚いてしがみつくと、参ったなあという声が聞こえた。全然参っていないような優しい声で紡がれるそれは、スペインが前後不覚になるほど酔っ払った時のロマーノの常套句で、参った困ったと言いながらも、いつだってぬるま湯のように甘やかしてくれる。
どうも、ロマーノはスペインが酒に酔うと記憶を失うと思っているので、普段ならば恥ずかしがって、言わないことやしてくれないことも、頼めばある程度は叶えてくれるし、翌日以降に酔っている時のことを蒸し返す真似もしない。
「お前、酔ってるのか? どんだけ飲んだ?」
だから、ちょっとだけずるをした。
「酔ってへんよ!」
「……酔っ払いはそう言うんだ。ったく、毎回毎回、どうやって帰って来てるんだか」
一部分だけ残っている冷静な思考が罪悪感を刺激した。そう返せばロマーノは酔っていると判断するとわかっていて、少しだけ計算したことを責められる。その判断ができるならば酔っているとは言えないのではないか。けれど、チクチクとトゲが刺さっているような居たたまれなさは感じていたが、同時に、今日は出かけ際に冷たくあしらわれたのだから少しぐらい甘えても許されるはずだと飛躍した結論も浮かぶ。そうだそうだ、今日ぐらい良いのではないか。それで、もっと甘えようとして身をすり寄せてキスをねだった。
「しょうがねぇなあ」
ため息と共に唇へと口付けられる。何度も何度も唇を重ね合わせている間に、頭がぼうっとして思考が霧散していく。今日のできごとが取り留めもなく浮かんでは消え、纏まらない感情がぐるぐると渦巻いていた。合わさっては離れていく柔らかい唇、シェリー酒の匂いと重なるロマーノの香り、家を出る前に感じていた感情と今のふわふわした心地。目を開くと目を細めたロマーノと視線がかち合った。その琥珀色の瞳に吸い込まれるように目を離せずにいると、啄むようなキスの合間に、これで伝わったか、と囁かれて、先ほどのスペインの駄々を叶えてくれているのだと気づく。
ロマーノのしょうがないは偉大だ。たったそれだけで、スペインの心のやわらかい部分を捕らえて放さない。
「なあ、ロマーノ。もっと俺のこと好きになってやあ」
「……」
「聞き分け良く家から追い出さんといて」
「……もう寝るか?」
「シャワー浴びたい」
「溺れんじゃねぇぞ」
「ロマーノが入れてくれへんの?」
お前がそれで良いなら、と告げられて、一体どうしてそれを拒む必要があるんだと返す。しかし、言ったそばから自分が何を言ったか思い出せなくなって、反芻しようとしてやめた。夢見心地に陥って、どこまでが現実だったかも考えられなくなったのだ。ぐりぐりとロマーノの胸元に頭を押し付けて匂いを嗅いでいたら、はあ、とため息が落ちた。
「いつもそうだったらなあ」
「ロマーノーロマーノー好きやでー」
「お前が俺のこと試してんじゃねぇよ」
言葉が遠くなっていく。何を言ったか問いながら夢うつつの合間を漂う。
「いいからおやすみ。明日になったら忘れてんだろ、親分」
まぶたに太陽の光が刺さって意識が浮上する。遠く何万光年も離れた彼方で燃え上がる炎が、暗闇の中でチカチカとかがやいていた。ずっとながい夢を見ていた。しかし、その終わりはよく覚えていない。何かを欲しがっていたような飢餓感だけが残った。
柔らかなシーツとタオルケットの肌ざわりが心地良くて夢うつつをさまよい、陽だまりの中でまどろみ続ける。まだ目を覚ましたくはなかったが、そうしている間にも心臓は静かに動き始める。トツトツと時計のように脈打つ鼓動はネジが緩んでいるのか、徐々に速くなっていく。
腕に痺れを感じて上に載せられた重みを思い出した。遠慮なくかけられた人の頭ひとつ分の重みだ。ぼんやりとした意識が取り留めもなく記憶を引っ張り出すのに従って、コマ落ちした古い映画のような不鮮明で色あせた映像を再生する。初めて共に眠った夜は、まだ慣れていなかったために、目を覚ますと肩も回らないほどに凝り固まって辛かった。自分で気づかずとも胸の内に不安のある夜は、必ず強く抱き締めてしまい、朝になって目の下に隈を作った彼ににがく笑うこととなった。
それでも、今も離れずに預けられている温度。その穏やかな重みにまた心臓が高鳴って、ごまかしのきかないぐらいに体温を取り戻した体が、まず内側から活動を始める。手足へと血液が押し出されて、筋肉が外へそとへと膨張していく。堪らず大きく伸びをする。意識がまたひとつ取り戻される。
不意に甘い匂いがした。バニラビーンズのような甘い香辛料の匂いが、彼の体温と太陽の温度で豊かに香る。誘われるように鼻を付けた。誰に言っても分かってもらえたためしはないが、彼は何も付けていなくても甘い匂いがする。すんすんと匂いを嗅いでいると、くすぐったいのか抗議の声が上がったが、判然としないうなり声では拒絶にもならない。しつこく匂いを追い続ける内に、どんな味がするのかが知りたくなった。何度も舐めたことのあるそこが、本当に甘い味がするわけではないことはわかっている。
そうっと、うなじを舐め上げた。予想どおり、ほとんど味はしなかった。朝の空気に冷えた肌はぬるい。舌を押し広げて押し付けるように、舌先でくすぐるように、何度も舐める。それだけでは足りなくて、噛みたくなった。ためしに軽く犬歯を軽く当ててみる。皮膚を突き破る想像をした。これだけ甘い匂いがするのだから、食べられても文句は言えないのではないか。噛んで咀嚼して、ぜんぶ自分のものにしてしまいたい。暴力的な衝動を察したのか、くぐもった甘い声が漏れ聞こえる。仕掛けておいて、それで目まいのする劣情に襲われた。
惰眠を貪ることは諦めて瞼を開き瞬きを繰り返すと、磨りガラス越しで見ているようにぼやけた視界が鮮明になっていく。ロマーノがスペインの腕を枕がわりにして眠っている。穏やかな寝顔は起きている時よりも幼く見えた。この猫のようにつれない彼が、自分に甘えたように眠る。胸にこみ上げる強烈な感情をやり過ごし、ぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「スペイン……?」
かすれた声に名前を呼ばれた。むかしからずっとそうだった。漸く深く息を吐いて、胸いっぱいに空気を取り込む。ロマーノがいつも、スペインをそこに引き留めた。
「ロマーノ、おはよ。!Feliz cumpleanos!」
額にキスを落とし、誕生日の朝を始めようと囁いた。
そりゃあ久しぶりに会ったら盛り上がるのもしゃあないわけで、玄関先に立っていたロマーノが鼻の頭を真っ赤にしてぶっきらぼうに「よお」とか言ってたら愛おしさも募る。それで堪らなくなって、しつこくちゅーしてたら「黙って抱け!」って怒られた。俺黙ってちゅーしてたのに(音はうるさかったかもやけど)理不尽ちゃう? でも素直じゃないロマが、俺のシャツを握り締めてぎゅーって抱き付いてくるもんやから、だらしなくにやつくのを止められないで、間延びした声で「りょーかいー」って言って従った。背中を掻き寄せるように回した腕に力を込め、顔を傾けて耳を引っ付け、隙間なくぴったり重なりたくて膝の間に足を入れる。普段は俺が力任せに抱くと苦しいって離れようとするのに、今はええのか満足そうにはーって溜息をついて頬をすり寄せてきて、引っ付けた耳はまだ冷たかったけど、じわじわ温度を分け合って温くなってきた。それがなんか、もうほんっと可愛くて。そんなに俺に抱きしめてほしかったんやなあ。ほんま可愛え。
でも、そうやって黙って抱き合ってると段々つまらなくなってきて、やっぱりちゅーしたいなあ、べろ舐めて吸って噛みたい。これだけ引っ付いてたらそういう気になってくるのも、やっぱしゃあないわけで、正直に言えばこちらとしてもご無沙汰やねん。で、ちょっと力緩めて体離そうとしたら、しがみ付くように力を込められて勢い余ったロマーノの顔が俺の肩にぶつかった。「わ、大丈夫?痛ない?」って聞いてもロマーノはうんともすんとも言わない。抱き枕にでもなったように抱き付かれて大人しくしていたら、くぐもった声で「……いきなりやめんな」って言ってくるから、なんかもうなんか。
なんでもええから、もうさっさとちゅーさせて!

短編など完結している話
リクエストBOXでリクエストしていただいた話
助教授×学生パロ
R-18、ゲームの世界観を借りたエロコメディ
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