正直きっかけはもう思い出せないし、たぶん普段ならどうだって良いような些細なこと———例えばスペインの支度が遅いせいで見に行くつもりだった映画に間に合わなかっただとか、あいつが空気を変えようと明るくふるまってんのに俺がそっけない反応ばっか返してただとか、そういういつものことだ———だったんだけど、とにかくスペインとケンカをした。俺は自分でもないなってぐらい激しく罵ってあいつにひどい言葉をぶつけたし、スペインだって普段はうるさいぐらい喋り倒すくせにさっきからずっと黙りを決め込んでいて、これ以上ないぐらい険悪な雰囲気だ。おかげでせっかく遊びに来たと言うのにテンションはだだ下がりで、今すぐにでも家に帰って部屋に閉じこもりふて寝を決め込みたいぐらいなんだけど、こんな時に限って飛行機が飛んでくれない。チケットを手配しようと部下に電話をかけたら突風がひどくて無理だと告げられ、交通情報と天気予報は無情にも今日中に帰国できそうにないような情報ばかりを伝えてくる。
困ったことに、上司と弟に連絡したところで一泊して来いとしか言わない。どうせスペインの家にいるのだろう、下手に動かれては厄介だからそのまま泊めてもらいなさい、なんて、まるで頼りない学生相手にするみたいな言い草であしらわれた。
呆然としつつ電話を切る。背後でスペインがわざとらしいため息を吐いた。振り返ると、いつもの朗らかな表情からは想像できないような冷たい視線を向けてくるから、余計に頑なになった俺は素直に折れることができずに意固地になってしまう。
「何だよ、文句あんのか」
「べつに」
全然、別にって顔じゃないくせに、何でもないと首を振るのが気に食わない。俺が怒鳴っても罵っても、大人の顔で涼しい風に聞き流すのが気に食わない。あれもこれも気に入らない! 何もかもにムカつくんだ。思わず顔をしかめた。
「泊まってくんやろ」
「……」
「明日、空港まで送るわ」
「……いらねぇよ」
「……」
「自分で帰れる」
「ふうん」
あっそ、と言い捨てられる。その言い方にカチンときたが、言い返す言葉も思い浮かばなくて黙った。
その場にいるのが辛くなるぐらい、互いに口を開かず立ち尽くすこと数分。手持ち無沙汰になると、普段ならば見過ごせるようなどうでも良いことが目についた。
そんなことをいちいち咎めて突っかかるからケンカになるんだって、わかっていても止められない。だってさ、何だって俺があげたジャケットをそんなしわくちゃにするってんだ。服の手入れはちゃんとしろって言ってんじゃねぇか。それにCDや本や雑誌を雑多にごちゃごちゃ出しっぱなしにしているのも気に入らない。
イライラとしつつ、ちゃんと並べろよって言ったら、スペインから、そんなん言うたってジャンルとサイズが必ずしも上手く一致するとは限らんやん、そういうのきっちりやりたいもんって反論された。いやいや、諦めんなよ。てか、なんでお前はそう極端なんだよ。ジャンルだとかサイズだとかどうでも良いけど、とりあえずぐちゃぐちゃのままで良いはずないだろう。呆れてため息を吐いたら
「言わせてもらうけど、ロマのほうが片付け全然できてへんやんか。いっつも出したもん出しっぱなしやし、なかなか家に呼んでくれへんのもどうせ部屋の中が散らかっているからやろ? なんでそんな細かいとこばっか気にすんねん。あと、洗い物の食器ももっとちゃんと並べてくれへんと水気とれへんし乾きにくくなるんやけど」
と反論された。そんなの詭弁だ。俺は今目の前のお前の惨状の話をしてんのにすげ替えてんじゃねぇよ! って後からだったら思えたのに、その時の俺は頭に血が上っていたから売り言葉に買い言葉で食ってかかった。
「俺の部屋を俺がどうしようと勝手だろ。それに食器はお前ぐちゃぐちゃに並べるじゃねぇか」
「お前なあ、上に積み重ねていったら乾かへんの! 何回も言うてるやん、立てて並べてって」
「そういう並べ方すんの難しいんだよ、ちくしょー」
「ちゃんとここに揃えるだけやん、なんでできへんの」
「だあ、ぐだぐだうっせぇなあ。んなこと知らねぇよ」
ふん、と鼻を鳴らす。スペインが呆れたような顔をした。
こんな時に限ってなのか、こんな時だからこそなのか。スペインのアホやろーは俺のタブーを踏み抜いて行くんだ。あいつはそういう点では天才と言っても良いぐらいで、よくもまあ、そんなことを言えるもんだと感心するほどだ。
「子どもん時に教えたやん。……まったく、そんなんやから、イタちゃんもしょっちゅう愚痴るんやで」
「……あ?」
ギロリと睨みつけたらスペインもあからさまにしまったって顔をしたけれどもう遅い。
「ああ、そういうこと。お前らたまに会ってるみたいだけど、俺のいないとこで悪口言ってんのかよ」
「そ、そんなんちゃうよ!」
慌てたようにスペインが取り繕い、仕事で会った時に聞いただけだと言うのだが、言ってしまった言葉は返らない。胸に込み上げてくるえづくような気分の悪さや、ムカムカした気持ちが溢れだしてくる。
「コソコソと気分悪ぃ。そんなに馬鹿弟がいいならあっちと付き合えばいいだろ」
「……は?」
「昔っから何かって言うとイタちゃんイタちゃん! 本当は弟のほうが好きなんじゃねぇの。こーんなガキの頃からデレデレしてたもんな、このペドやろー」
「ペドちゃうわ!」
「へー、やらしい目してたぜ?」
「はあ、お前が俺のこと疑うん? 言っとくけどお前もたいがいなんやからな」
「あん?」
「ちょっと優しくされたらすぐ人信用して、警戒心はないわ、鈍感やわ。危なっかしすぎて外に出すのもヒヤヒヤするわ」
「てめぇなんかに鈍感って言われたかねぇよ!」
そっから後はもう不毛なことばっか言い合って、最後には互いにそっぽを向いて顔も合わせなかった。
しばらくそうやって黙りこんでいたけど、次第に沈黙に耐えきれなくなった俺は逃げるように居間から出て行った。何をするでもなく人の家(それもケンカ中の相手の家)をウロつくわけにもいなくて、とりあえず洗面所の中に入る。勝手にシャワーを浴びて勝手に着替えを拝借する。帰れないんだから仕方ないとは言え、何だってこんな時もスペインのもので賄わなきゃなんねぇんだ。
風呂から出た後、どうしようかと悩んで客室のほうへと向かった。あいつが手入れしているかはわからなかったが、居間やあいつの寝室にいるよりは自然だろう。
途中、廊下でスペインとすれ違ったが、あいつは勝手に服を着た俺に何も言ってこなかった。一応、すれ違いざまにチラリと視線を合わせたが、目をキリキリとつり上げて見たことないぐらいこわい顔をしていたので、俺の気持ちも萎んでしまってこちらからも声をかけられなかった。
正直に言えば、先ほど言い合っている最中も、自分自身、何をやっているんだろうって何度も我に返った。でもどうしても自分から謝るなんてことができなくて、振り上げた拳を下ろすタイミングがわからなくなっている。
先に地雷を踏んだのはスペインで、俺だっていっぱい嫌なことを言ったけど、言われた言葉に傷ついているのも事実だったから、このケンカはそう簡単には許せそうになかった。悔しくて、腹が立って、ムカムカするしかなしい。頭の中がぐちゃぐちゃで、気を抜くと涙が込み上げてくる。
「……くっそ」
勝手に入った客室のベッドは完璧に用意されていて、いつでも寝れる状態になっていた。たぶん、俺が風呂場にいている間にスペインが準備していたのだろう。それを見ると再び腹が立ってきて、あいつ始めから俺を客室へ閉じ込める気だったんじゃねぇかとイライラしてきた。まあ、俺は言われなくても自分の足で自発的に来てやったけどな!
こんなことでわざわざ怒鳴り込むのも馬鹿馬鹿しくて、予定通りふて寝を決め込むことにした。ここが俺の家ではなく、部屋が自室じゃないだけで、だいたい似たようなもんだろう。
冷たいシーツに潜り込みながら、そばにはいない元親分様のことを考える。本当なら映画を見て一緒に飯食って、同じベッドで寝ている頃なのに。でも、さみしいと思うには頭に血が上り過ぎていた。
イタリアに帰ったらしばらくあいつとは距離を置こう。
距離が近すぎたからケンカになったんだ。だったら、しばらく距離を置いて互いに頭を冷やすべきなんだ。
***
ゆっくりと訪れた睡魔に身を委ねて眠りに就いたのはわりと早い時間だった。それから浅く微睡むのと夢へと沈むのを何度も繰り返していて、体感的には丸一日寝たような気になっていた。
しかし、次に意識が浮上してきた時、まぶたの裏には何の明かりも映っていなくてまっ暗やみだった。まだ夜なのだろう。
トイレに行きたくなって体を起こす。頭がはっきりしなくて視界がずいぶんと狭い。そのぼんやりとした思考のまま、廊下を歩いた。
寝ぼけ眼のままでも慣れた屋敷だ。難なく用を足して部屋に戻って来れた。ベッドに腰掛けたところで、不意にスペインとケンカをしたことを思い出した。嫌な気持ちでいっぱいになって、早く再び眠ってしまおうと、シーツを被り直そうとする。あたたかいベッドで楽しい夢を見れば忘れてしまうはずだ。
ベッドの中に入ると懐かしくて柔らかい日なたの匂いが鼻先をくすぐった。何か、あたたかくて大きなものに包み込まれる。外に干したシーツに包まっているみたいで安心する。ああ、これだ。これがずっと欲しかった。そう思いながら、それに寄り添って頬を引っ付けた。何かかが背中に回された。その力強さにホッとする。イライラした気持ちがなくなってしまって夢見心地になった。頬を擦り付けると強く抱きしめられた。決して離さないようにとこめられた力に自然と頬が緩む。
ああ、暖かい。気持ち良い。愛しいいとしい。
寝ぼけて働いていない頭が取り留めなく言葉を選んで心に信号を送っている。目の前の伸びきったシャツにしがみつくと、後頭部を支えられた。そのままサラサラと髪に指を通して何度も撫でられる。もっとしてほしくて頬を寄せると、ぎゅうっと抱きしめられる。うっとりしながら再び眠りに落ちた。
***
自分でも驚くほどぱっちり目が覚めた。
「な……ななな、なんで……?」
叫びそうになったが、びっくりし過ぎて大きな声は出なかった。
だって起きたら目の前にはケンカしたはずのスペインがまぬけ面晒してぐーすか寝てんだ。それも俺のことを抱き込むようにがっちり腕を回して足を絡めて。
ぴったり引っ付いた体の間は熱がこもっていて、短くはない時間そうしていたことがわかる。そう言えば、夜中、トイレから帰ってきた時にあたたかくて大きな何かに頭を撫でられていた気がすると思い出して、じわじわ顔に血が集まってくるのがわかった。スペインの手のひらが、俺の後頭部に回されていてしっかり固定するように添えられている。きっと、これなんだろう。
何があったのかとあたりを見渡せば、何てことはない。ここは俺が眠りに就いた客室ではなく、ばっちりがっつり、いつものスペインの寝室だったのだ。一人では広過ぎるベッドは、客室なんかよりも慣れ親しんだ、しょっちゅう寝起きをしているものだ。
「……恥かしいぞ、ちくしょー」
けれど、誰に強要されたわけでもない。ゆうべケンカしたスペインがロマーノを探してベッドに入り込んできたわけでもない。そうであれば、どれだけ良かったか。
無意識でスペインのベッドに潜り込んでしまった自分の行動に、恥ずかしさから頭を抱えた。眠りに落ちる前、あんなに距離を置こうと誓ったのが馬鹿馬鹿しくなるほど、やっていることはスペインにベッタリ引っ付きにいっているわけで。
寝ぼけたスペインが、時おり手遊びするように指を髪へと絡めてくる。本当はこいつ起きているんじゃないかって慌てたが、しばらくじっとしていると指先から徐々に力が抜けていって目の前の男がよく寝ていることがわかった。けれど、むにゃむにゃと動かされた唇が、ろ、ま、と動かされたので、今度こそ湯気が出るんじゃな以下ってぐらい頭が沸騰する。
「……バカじゃねぇの」
ゆうべのケンカは夢だったのかもしれない。ここ数年で一番ヤバいんじゃないかってぐらい険悪で、ひどい言葉をいっぱい言って互いに地雷踏み抜いて罵り合ったことは、全部なかったことなのかも。
そう思わないとやってらんねぇ。
起きた後、それはそれで気まずい思いをするはめになったのだが、それは別の話。
「ロマちゃん、なーんか機嫌良うない?」
目を覚ましたらキッチンからマッシュルームの良い匂いがしてきたのでフラフラと階段を下りて見てみたら、いつも先に起きているのに絶対自分は動かない可愛い恋人がコンロの前に立っていた。珍しいこともあるものだ。しかも、鼻歌まで歌って鍋の中をかき混ぜる手つきは軽やかである。
「ちゃん言うな」
背中からロマーノを抱きしめてお玉を持っている手を掴み作りかけのスープの味見をしようとした右手をペシッと叩かれた。じろりと睨みつけられて、わざとおどけた表情を作って肩を竦める。
「やって、朝からフルコース作っちゃって。朝飯作ってくれるの珍しいやん」
「てめぇがいつまで経っても起きねぇからだろ」
「なあ、なんかええことあった?」
「だあ! まとわりつくんじゃねぇよ。つか腰に手ぇ回すな!」
「今夜いけそうな気ぃする〜」
「うっせー言っとくけどお前がいるからってわけじゃねぇんだからな」
ふいっと逸らされた視線を残念に思いつつ体を抱きすくめて斜め後ろから頬にキスを落とす。これはおはようの分。次いで唇の端。こちらは愛しているよ、だ。されている本人は鬱陶しそうに顔を左右に振っている。
「久しぶりに会えたのに」
「ふん、俺が会いに来てやったんだろ」
気に入らないなら自分から来いと暗に匂わせて再び鍋へと集中しだしたロマーノに、イタリアの前でイチャついたら怒るくせにと心の中で不満を漏らす。口にすれば当たり前だろうと怒られるのがわかっていたので(なぜなら何度も交わしたやり取りだからだ)、大人しく黙っておく。
しばらくそうして抱きついていたら、ロマーノが再び鼻歌を歌い始めた。肩にあごを載せて黙って聞いていると、陽気な歌がのびやかに歌い上げられる。
ほんまに嬉しそうやなあと思いながら、疑問を口にした。
「じゃあ何でそんな嬉しそうなん?」
「このシャツ気に入ってんだ」
「つれんなあ」
軽口を叩きながらロマーノの顎を掬い上げる。無理やり後ろを向かせて、今度は唇へと吸い付いた。
ジャケットを脱いで後部座席に放り投げた。シャツの袖のボタンを片手で外し無造作に肘まで捲り上げがらエンジンに鍵を差し込み右側へ回す。ガタガタと車体が揺れてすぐに消えたので、もう一度、鍵を回し直すが機嫌悪そうに燻っただけだった。ロマーノの車もじゃじゃ馬だが、スペインのはその遥か上を行くワガママレディである。一回でエンジンがかかった試しがないし、下手をすれば走行中に止まってしまうこともあった。気まぐれな小悪魔に振り回される趣味はないはずなのだが、気が付けばそういう役回りである。昔はもっと素直やったのになあと嘆きつつ、お行儀良く扱っているわけでもないのであまり大きなことは言えない。今度こそ、と勢い良く鍵を回すと三度目の正直か、ようやくエンジンがゆっくりと動きはじめた。サイドブレーキを引いてギアの位置を変え、バックミラーを覗き込む。ロマーノが助手席に滑り込んだのを確認すると、左手をハンドルに添えて背もたれに右肘をかけた。ラジオなんて気の利いたものはないので車内は静かだった。
体をよじって身を乗り出すと隣に座るロマーノと近くなった。息を詰める気配がする。狭い車だ。少し動けばふれ合いそうな距離だったがロマーノは何も言わなかった。
右足に力をかけていくと車が後ろに下がって行く。速度を上げてハンドルを回し、緩やかなカーブを描きながら車道へと出る。土曜の早朝、周囲には車どころか通行人の姿すら見当たらない。完全にタイヤが止まる前に前を向いてギアの位置を変えると、思いきりアクセルを踏み込んだ。急に速度を上げて進みだしたせいで慣性から体が座席に押し付けられる。ロマーノから不満の声が上がったが、さらにスピードを上げて黙らせた。
タイヤが悲鳴を上げながら広い道を走って行く。左側から鋭い太陽光が射し込んできてまぶしい。コンクリートの道路に反射した光に目を細めていると、ロマーノが助手席の日よけを降ろそうとしていた。ステッカーをベタベタ貼り付けているせいか、すんなりいかず苦戦している。
「ごめんなあ、フロント狭くてそれ降ろしたら見えんくなるねん」
だから降ろさないでくれと頼むと、小さな舌打ちが返ってくる。代わりにサングラスが入っていると告げるとごそごそと物音が聞こえてきた。自分もかけようと右手だけでハンドルを握り、左手でダッシュボードを探る。十五年ほど前に買った型遅れのフレームを掴み、つるを耳にかける。その間も車の速度はどんどん上がっていって、ひたすら畑ばかりが続く広い道を走って行く。真っ黒の大きなレンズが視界を覆った。太陽の光が遮られてようやく目を開けられる。
朝日に照らされた田舎道は何もなくて、どこまでも続いているような気にさせられる。このまま二人だけでどこまでも行けるのではないかとさえ思った。実際に二人はどこにだって行ったし、本気でやればできないことではない。――ただ、すぐに連れ戻されるだけで。まずは上司に連絡が入るのだろう。それからイタリアに伝えられて、付き合いのある近隣の国への聞き込みが始まる。例え世界の端まで逃げたって、二人が行けるところは誰にだって来れるところだった。
国だからと言って特別、不自由をしているとは思わない。確かに恋人といつでも会えるわけではなかったし、こんな時に好き勝手に逃避行を決め込むことだってできないが、誰にだって捨てきれないしがらみの一つや二つは抱えていて、皆ただの一人として生きているわけではないのだ。
「いいかげんラジオぐらいつけろよな」
この車に乗る度にロマーノが言っている不満。静かな車内は息が詰まるのだろうか。
「何か喋ってもええんやで」
「もたねぇよ」
「俺はロマーノとやったらいくらでも話せるで」
「駅まで行くだけなら良いけどよ」
実際あと何時間乗っているかもわからないのに、とぼやいている。さて、ロマーノが沈黙を嫌う性質だなんて知らなかったと茶化して見せれば、あいまいなうめき声が返ってきた。日ごろ人といて黙り込むのは決まってロマーノなのだ。
延々と続く道に途方に暮れる。見ていて面白い風景ではない。けれど、隣にいるロマーノは眠る気がないのか、たまにポツポツと他愛ないことを話しかけてくる。複雑な運転をしているわけではないが、そうかと適当に返せば満足したように黙り込んだ。
「ガムいるか?」
「ん、食べる」
「ちょっと待ってろ」
言って、銀紙が剥かれた板状のガムを口もとにふれさせられた。視線は前に向けたまま口を軽く開くと、そのまま口内へ放り込まれる。ありがとうと礼を言ってミントのガムを噛んだ。
目が覚めると時計の針が八時を指していた。今日は七時に起きなければいけなくて、八時と言うのは出発予定時刻である。そばに誰かがいれば顔が一気に青くなったと言ったであろう、スペイン自身、まだ寝ぼけ眼だった目が大きく開かれるのがわかった。慌てて起き上がってベッドから飛び出した。
洗面台で勢い良く水を出すとバシャバシャと顔にかける。
「うっわ、冷た……ッ!」
冷やりとした水に頬が引き攣る。完全に頭が覚めたと切り替えて、洗濯したまま積み上げていたタオルを一枚手に取った。ゴシゴシと顔を擦り鏡を見る。
ぴょんぴょんと飛び跳ねた髪は直している暇もないので、適当に手ぐしで流しておく。移動している間に重力と体温で馴染んでくるだろう。しかし、休みの間にこさえた無精ヒゲはロマーノに嫌われるかもしれない。剃っておいたほうが良いと判じてムースを手に取り顎と口の周りに伸ばした。縦長の西洋カミソリを掴み、刃を肌に当てる。ジョリジョリと音を立てて、まだ生えたばかりの短いヒゲを剃っていく。
不意に若い頃はヒゲを剃るのが苦手でよく頬に切り傷を作っていたことを思い出した。薄い傷跡をロマーノにからわかれたものだ。ただヒゲを剃るだけでも時間もかかっていたので今日のように寝坊した日は剃るのを諦めなければならなかった。しかし、当時は泊まりがけの仕事でもない限りロマーノが起こしてくれていたので、こんな寝坊をすることもなかったのだけれど。昔のカミソリは刃が分厚く切れ味に悪かった。それが失敗の原因にもなっていたのだけれど、今では安全カミソリもあるし不器用なロマーノであっても、よほどのことがない限り朝から口の周りが血まみれの大惨事になんてことにはならない。
全部剃り終えて水で顔を洗う。ついでにカミソリも洗ってティッシュで拭き取った。
大慌てで服を脱ぎ捨てクローゼットから出してきていた服に着替える。こういう時こそTシャツにジーパンだ。すぐに着れるし動きやすい。これに履き慣れたスニーカーで走れば何とか予定していた電車に間に合うだろう。テーブルの上にあった腕時計を引っ掴んで財布と携帯電話をポケットに入れると家を飛び出した。
足を止めずに時計を左手首に巻いて全力疾走する。日頃は駅まで歩いて十分ほどかかるのに、あと三分でホームに入っていなければならないのだから本当にギリギリだ。運の良いことに信号には捕まらなかった。
切符を買い、改札を潜り抜けて、階段を五段ずつ飛ばしながら一気に駆け上る。何とかホームに駆け込んだちょうどそのタイミングで電車がやって来た。息が上がって死にそうだったが、電車の中に滑り込む。
車内には人がまばらにしかいない。休日の朝だと言うのに、それともまだ皆眠っているのだろうか。
ふと手首に視線を落として気が付いた。
「あちゃー、これネジのやつやん」
まだ自動式の腕時計なんて一般的ではなかった頃、ロマーノからもらった時計だった。ゆうべ手入れをするために出してきたものを間違って持ってきたのだろう。週に一度、決まった時間にネジを巻き、毎月一回、油を差しているため、贈られてから軽く百年ほどの時間が過ぎていたが、一分も狂うことなく現役で動き続けている。それでも少しばかり癖があって、どうやっても家の時計より三十秒ほど早く進んでいるが、日常で使う分には困らない。
「……まあ、ええか」
これから会うロマーノにはまだ持っていたのかと言われそうだが、怒られることでもなければ後ろめたいこともない。お前にもらったやつやから、とは言えないだろうが、そんなことは彼もわかっているだろうし気にせず付けておくことにした。
スペインがシャツの胸ポケットを右手で探り、ジーパンのポケットをジーンズの生地の上から抑え、ついでに尻のほうも軽く二三度叩いた。しかし、どうやら空振りだったようでしきりに首を傾げながら、おかしいなあとぼやく。腑に落ちない表情をしつつ財布の中をひっくり返しだしたが、無造作に放り込んだレシートの束がバサバサと落ちてきただけで目当てのものはなかったのだろう、小さくため息を吐いて喉の奥で呻いた。
「なあ、火持ってない?」
煙草を唇に挟んだまま振り向いたスペインがライターで火を点ける真似をする。彼には何も掴んでいない手の中にいつも使っている安っぽいライターが見えているのだろう。
「いつものチャチなライターはどうしたんだよ」
「どっか行ってしもた」
「じゃあ我慢しろよ、煙草ぐらい吸わなくても死にはしねぇだろ」
「それはムリやわ、もう丸一日吸ってへんねん」
困り果てたように苦く笑って口をもごもごと動かす度に白い紙で巻かれた煙草の先が左右に振れる。ヘビースモーカーと言うほどでもないが、煙草を吸わない日のない彼のことだ。今朝会った時、昨日から仕事が立て込んでいて一息入れる暇もなかったのだと言っていたから、ニコチンが切れてきたのだろう。貧乏揺すりをするように忙しなく足を揺らしている。ほどほどにしておけよ、と言ったところで聞くわけもないので何も言わない。ロマーノの言葉を素直に聞き入れる男でもないのだ。
「仕方ねぇな、ちょっと待ってろよ」
言ってキッチンへと引っ込んだ。背後から悪いなあと聞こえてきた。
キッチンの食器棚の隣に雑貨を入れる棚を置いている。男の二人暮らしだ。雑貨と言っても可愛らしい小箱やら気の利いた小物やらが出てくるわけではない。要は紙コップや紙皿、鉄串のような酒を飲みながら騒ぐ時に必要なものを片付けているわけだ。棚には三つ引き出しが付いており、上から二つはヴェネチアーノが管理していて、一番下がロマーノのためにある。絶対手を付けないし見ないようにするから兄ちゃんのものは全部そこに仕舞ってと言った弟の呆れたような顔は忘れられそうにない。もらったものや押し付けられたものを、そう思い入れもないのに残しておくのはロマーノの悪い癖だろう。
整理もしていない混沌とした引き出しの中には、紙束や使い捨てのプラスチックでできたスプーン、用途不明のリボンが無造作に放り込まれている。開けるんじゃなかったと後悔してももう遅い。どうにか無理やり閉めていた棚の中身が爆発したように飛び出してきてあたりに散らばった。
面倒さに目を細めながら引き出しをひっくり返す。バラバラと床にものが落ちる音がしたが、聞かないふりをする。また力づくで閉めて何ヶ月も放置することになるだろう。
「ああ、あったあった」
底のほうに古びたマッチ箱がひとつ入っていた。むかし近所で流行っていたバルのマッチである。ロマーノには必要ないと言うのに、食事に行く度にスペインが持って帰って来ては家に置いて行ったので、当時はロマーノの部屋に大量のマッチ箱が増殖したものだ。そのほとんどは店が閉まる時に常連客にやったのだけれど、もらい手がつかなかった分がいくつか取ってあったことを思い出した。
箱の表にはイタリア語で店の名前が書いてある。その下に小さくスペイン語。あの店の店主は先祖がスペインから渡って来たと言って、わりとスペインを贔屓にしていた。マッチ箱だけではなくメニューにもイタリア語とスペイン語が併記されているほど。――そんなことをするから、スペインはいつまで経ってもイタリア語を覚えないのだと文句を言ったことも覚えている。結局、バルが閉じて別の店に通うようになった今でも彼はイタリア語を覚えないので、あまり関係ないのかもしれない。
「マッチあるぞ」
キッチンから顔を出してスペインに告げる。顔を上げた男に日焼けしてくすんだマッチ箱を見せると、少し目を見開いてからへらっと笑われる。
「懐かしいなあ、まだ取ってたんや」
「たまたま置いてあっただけだ……っと、ほらよ」
小さなマッチ箱を投げ渡す。軽い箱を投げるのが難しくて少し狙いが逸れ、スペインの座るソファより遥か手前で落ちかけたが彼は左手を伸ばして難なく受け取った。まるでロマーノがはじめからそこに向かって投げたようである。
「ありがとうな」
「手のかかるやろうだ」
スペインが咥えている煙草の端は潰れていた。待っている間に噛んだのだろう。落ち着きのない彼は手持ち無沙汰になるとストローや煙草を噛む癖があった。それも悪い癖だろう。
「なあなあ、久しぶりやからちゃんと付けられるかなあ」
軽口を叩きながら慣れた手付きでマッチ棒を取り出している。
「言ってろよ」
ふん、と鼻を鳴らす。そっけない反応を返すロマーノの何が面白かったのか、スペインはニヤニヤと笑いながら赤い頭薬をマッチ箱のよこぐすりに擦り付けた。摩擦でぼうっと勢い良く燃え出したマッチ棒を咥えた煙草の先端に寄せ息を吸い込む。難なく火が点された煙草に悪態をつく気も失せて部屋の窓を開けた。

短編など完結している話
リクエストBOXでリクエストしていただいた話
助教授×学生パロ
R-18、ゲームの世界観を借りたエロコメディ
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