素直になれないのはお互いさま

 昼過ぎには戻ると言い残したスペインが出かけて行くのを見送って、ジャケットを脱ぎソファの背もたれにかけた。太陽に燦々と照らされている庭を見やって、シャツの袖を捲り気合いを入れる。夏場とは違って暑くて仕方ないと言うほどでもないが、この天気の中で長時間、外で作業をするのは疲れる。
 ジーパンも膝したまで折り曲げて庭に出てみれば、時間が全然なくて困ってたって言うわりに花壇がすっかり整えられていた。てっきり草取りからしなきゃいけないもんだって思っていたから、忙しいくせにちゃんと手入れしてんだなって素直に感心する。これならすぐ終わりそうだ。
 園芸用のスコップで土を掘り返しかき混ぜ柔らかくして、渡された種を植えていく。何が咲くのかは、夏になればわかるからって答えてくれなかった。何をもったいぶってんだって眉を顰めたけど、自分で確かめにおいでとしか言わないので、俺はこの花が咲いた時にわざわざスペインまで来なきゃいけないらしい。……まあ、季節ごとどころか、しょっちゅう行き来してんだけど。
 整えられていたおかげで花壇の世話は順調に進み、予定よりも早く終わった。時計を見ても、まだ三十分も経っていない。ついでに周りをほうきで掃いて、出しっぱなしになっている園芸道具を片付けておいてやった。ぐっと伸びをして額に貼り付いた前髪をかき上げる。
 家の中に入って洗面台へと向かった。石鹸を泡立てて手を洗う。指の間やツメ、手首と念入りに時間をかけて洗ったが、それで過ぎる時間なんてたかがしれている。置いてあったタオルを勝手に拝借して手を拭きながらキッチンを通りがかると、買ったままになっている野菜を入れた袋が目についた。
 とにかく時間が余っていたんだ。スペインはいつ戻ってくるかわかんねぇし、こんな状況でぼんやり家にいるには気をつかうだろ。それで、たぶんきっと、魔が差した。
 キッチンの中まで入って棚をあさった。探すってほどじゃない。
 戸を開けて覗いたらすぐ鍋が見つかった。オリーブオイルと米と、冷蔵庫を探ってイカにエビにあさり。外に出されたままの袋からパプリカとハーブ。パエリアを作るには十分だ。サフランとブラックペッパーを出してきて、コンロの前に立った。
 底の深い鍋にサッと油を引いて火にかける。スペインの前では料理どころか家事の一切をしたことがないが、まあイタリアにいる間は俺が料理を作ったり洗濯をしたりしているのでできなくもない(洗い物だけは俺がやったあとをなぜかヴェネチアーノが片付けているが)。
 そう言えば、スペインのやつ、前に好きな子にパエリアを作ってもらうのが夢だのなんだのって言ってたっけか。確か、好きなタイプとか彼女がいるかとか聞かれて、スペインとそういう話をするのは気まずいようなくすぐったいような変な感じがするんだけど、根掘り葉掘りいろいろ聞かれたから、お前はどうなんだよって聞いたらそういうことを言っていた気がする。あれは女の子に作ってもらいたいって意味なんだろうけど、別に俺が作ったからって嫌がりはしないよな。……しない、よな?
 俺はあんまりそういう家庭的な願望がなくて、可愛い彼女と映画見に行ったり買い物に出かけたり、そういう外でのデートがしたいから、スペインの気持ちはあんまりわからない。けど、別に童貞でもないんだし、彼女以外にはしないでほしいなんて年でもないだろうから、こんぐらいでは怒らないよな。それにもうやりかけちまったし、あとには戻れないし……よし、悪いことは考えないようにしよう。

「ただいまー」

 あとちょっとってところで、玄関から声がした。

「ロマーノー、帰ったでー。庭はどう……って、何してるん?」

 廊下からひょっこり顔を覗かせたスペインが、面食らったみたいに驚いた表情でぽかんと立っていた。俺と俺の手元の鍋を交互に見て、パクパクと口を開けたり閉めたりしている。

「腹減ったから……勝手に使ったぞ」
「勝手に? ああ、うん……いや、それはええねんけど」

 野菜の入ってた袋を指さすと、そんなことより料理できたんか、と問うてくる。俺は照れくさいのもあって、おう、とだけ返して鍋の中身を皿に上げた。

「昼まだなんだろ」
「う、うん」
「じゃあ食おうぜ、腹減った」

 これ運べって突き出したら、呆然としていたスペインが慌てて皿を受け取って、何か言いたそうにしながらも結局何も言わずにリビングへと行った。なんでこんなことしたんだって聞かれたら、正直答えにくかったから助かった。食器棚からスプーンを取り出して俺もスペインの後を追う。
 リビングのテーブルに着いたスペインは、怒ってるのか驚いてるのか困ってるのか焦ってるのか、何かよくわからない複雑な表情をしてじっとパエリアを睨みつけていた。まるで、中に入っている具が気に入らないとでも言われているみたいで、何だか居たたまれない。けれど、パエリアは、というか俺が作れるたいがいの料理は、スペインが作ってくれてたものをその通りになぞっているだけだし、今さら舌に合わないなんて言われても困る。何か嫌ならお前のせいだって言ってやる。
 無言のまま微動だにしないスペインにスプーンを渡して俺も椅子に座った。向かい合ったスペインは、泣き出しそうな真っ赤な顔で、情けなく眉を下げて目を三角に尖らせている。そのうち、皿の中身が浮き上がりそうなぐらい熱心にパエリアを見ているので、おい、と声をかけた。

「え、えーと……どうか、したのか?」
「なにが?」
「いや、その」

 顔。
 って言ったらさすがに悪いか。でも、何を思ってるんだか変な顔をして、あまり喋らないスペインなんて、今までに見たことがないからどうして良いのかもわからない。困ったのはこっちのほうで、親指の爪を唇に当てて、どうしたもんかと表情をうかがう。

「……とりあえず食おうぜ」
「ん」
「え、と……いただき、ます」

 すっかり心は萎んでしまって、余計なことするんじゃなかったって後悔ばかりが渦巻いた。腹が減ったのは本当だけど、大人しく何もせずにスペインの帰りを待ってれば良かった。
 米をスプーンで掬って口へと運ぶ。ほとんど味はわからない。さっき味見した時はそこそこ美味かったから、そう、外してはいないんだろうけど。チラッとスペインをうかがったらちょうど向こうもひと口食べたところだった。スプーンが降ろされ米が咀嚼される時間がひどくゆっくりのように感じた。

「ど、どうだ?」

 きっかり三十回、噛みしめるように口を動かしたスペインが、何も言わずにまたもうひと口、スプーンを運ぶ。俺が聞いても暫くは無言が続いて、心臓が何度も跳ねた。

「……しょっぱい」
「えっ」
「ちょっとしょっぱいわあ……」

 やっと出た言葉はそれだけで、また黙り込んでしまった。怒ってるんだろうか。掠れた細い声は震えそうだ。そのまま俯いて顔も上げないので、そんなにダメだったかと緊張で体が強張る。俺がちょっとこれは、と思うものでも、スペインは気にしない半分、社交辞令半分でたいていのものは美味しいおいしいって食べるから、そうじゃないって事実が重くのしかかった。
 塩を入れすぎたか、水が足りなかったか。頭の中はすっかり混乱してしまって、さっき自分がどうしていたか料理の手順を思い出そうとしたが、考えても考えても、思い浮かぶのは最近のスペインの怒っているみたいな顔ばかりで。別のことばかり考えていたから失敗した、きっとそうだ。
 ただでさえスペインは俺のことを怒っているのに、余計なことをしたって焦って目の前が真っ白になった。
 どうしよう、どうしよう。そればっかりが頭の中をぐるぐると回って、喉の奥がキューっと痛くなった。耳のすぐ下のリンパが腫れてきて痛い。

「ロマーノ? え、ちょっ、どないしたん?!」
「……え?」
「泣いてるやん、何かあったん?」

 言われて頬に手をやれば、涙がぽろぽろと落ちてきた。びっくりして顔を上げたら、ガキの頃に木から落ちて大けがした時以上に焦った顔をしたスペインが、むだに手のひらを胸の前で翻して何やら俺に話しかけている。けれど、その言葉はほとんど耳には入ってこなくて、ああ、俺泣いてんのかって自覚した途端、急に泣き声がせり上がってきた。

「うっ……な、なんでもっ……なぃ」

 しゃっくりのように声帯が痙攣して声が震えた。みっともない、恥ずかしいって思うのに涙は止まらなくて、むせ返りながらも必死で首を横に振る。

「何でもないって……そんな泣いてんのに、何でもないわけないやん」
「ちが……ぅっ」
「ああもう! 目擦ったらあかんって」

 怒っているようなその言い方に俺のネガティブは止まらなくて、頭の中は呆れられた怒られたって余計に混乱していく。うつむいて泣きじゃくってたらパエリアが視界に入った。俺、ほんと何やってんだろう。手のひらが落ちたスプーンが皿にぶつかってカーンって高い音がした。

「やから、あかんって!」

 スペインに手首を掴まれる。鷲掴みにされた強さに全身が竦み上がって声も出ない。スペインはイライラしているようで乱暴に立ち上がって俺を引き寄せた。余裕のないため息が耳に届いた。
 近くなったみどりの瞳を今日はじめてまともに見たことに気づき、ボロボロ流れて止まらない涙はそのまま、ぼんやりときれいだって思った。俺も外ではみどりっぽく見えるけど、もっと深くて夏の深緑のような濃いみどり色をしている。

「なんで、泣いてるん?」

 両手が俺の頬に添えられる。ずっと責めるように聞こえていた声のトーンが抑えられて、苦しそうに響いた。逸らすことを許さない強い視線に吸い込まれそうだ。

「……俺が悪いから」

 ぽつり、思わず口にする。

「ロマーノが?」
「お前、最近怒ってたから、それなのにパエリアも食べられないぐらい失敗したし」

 自分の甘えたような泣き声がみっともなくて恥ずかしかったけど、ここで虚勢を張ったってどうせ強がりにもならないんだってわかりきっていたから、正直に考えていたことを話した。弟にはわかってもらえないし、誰にも相談できないし、庭手伝えって言うわりにちゃんとしてたし、スペインに頼れないし、最近のお前わけわかんねぇよこのやろー全部スペインのせいだ。支離滅裂になっていくが、スペインが何も言わなかったので思い浮かんだ言葉を好き勝手に口にした。気を抜けばまた涙が込み上げてきたが、逆らわずに泣き続けていたらスペインが俺のことを抱きしめてきた。胸に俺の頭を押し付けて、ポンポンとあやすように優しく背中を叩くので、それで昔に戻ったみたいな気になって、わんわん泣いた。
 どれぐらいそうしていたんだろう。いつのまにか床に座り込んでいて、頭の中が酸欠でボーッとしてきたので、ようやく少し正気に返ってスペインから離れようと身を引こうとする。しかし、俺が身じろぐと回された腕の力が強くなって離れなくなった。

「……スペイ、ン?」

 嗚咽の合間に問いかけても反応は返ってこない。どうしたんだろうと訝しんでいたら、急に低い声で唸り始めた。

「あーもう! ほんま、あかんなあ」

 突然声を張り上げて天井を見上げたのでビクッと肩が跳ねる。俺が緊張したのを感じ取ったスペインが、ちゃうでロマーノが悪いんじゃないと困ったように笑う。

「俺ってほんまあかんなあ。ロマーノは何もしてへんし、悪いこと何もないのに」

 それで泣かせてまうなんて最低やって言って唇を噛んだ。まだスペインの顔はすげぇ真剣な目をしていてこわかったけど、とりあえず俺のことを怒っているんじゃないと言葉を重ねられたので、それを信じてそろそろと肩の力を抜いていく。ダイニングテーブルの下で二人蹲ったままの態勢で、俺は顔中ベタベタしてたし、スペインの服は涙を吸い込んで湿ってるしでなかなかの状況だ。急に泣きじゃくったことが恥ずかしくなって、もぞもぞと態勢を変えようとする。

「ごめんなあ」

 しかし、なかなか手を離してくれないので上手く抜け出せなくて、今度は俺のほうが困ってしまった。困っている間に二の腕をさわさわと撫でられてなんか変な気分になる。とはいえ、離してと言うと今密着していることを認識させられてしまうし、なんかそれって恥ずかしい。何て言ったら良いのかわからなくて、もう大丈夫だと伝えてスペインのことを仰ぎ見た。

「スペイ……っ」

 名前を呼ぶ声は呑み込まれた。唇にふにっとしたものが重なって、一瞬思考が停止する。目の前にはさっき見たみどりの目が細められていた。ちゅっと音を立てて離れ、また角度を変えて口付けられて、それでようやくキスされているんだって気が付いた。慌てて身をよじったが、俺の動きよりも強い力で抱き込まれて身動きが取れなくなる。
 いきなり口付けてきたくせに妙にたっぷりと味わっていくので、俺は知りたくもない野郎の唇を覚えさせられることとなった。意外としっとりとしたそれが俺の口に吸い付いて、何度も啄むように音を立てて口付けられる。その度にふっと吐息が零れて、それが静かな室内にやけに生々しく響いた。何しやがる離れろこのやろーって思うのに、俺の抵抗は最初にちょっと身をよじったきりで、後はずっとされるがままだった。互いに目も瞑らないせいで、焦点も合わない至近距離で男の眼を見つめ続ける。明確な意思をもったその視線が、ねっとりと俺のことを舐ぶるように観察していった。

「……はっ、あ」

 ようやく解放された時には呆然として言葉がすぐには出てこなかった。肩で息をついて目を見開いたままぽかんと放心していたら、それをどう解釈したのかスペインがまた顔を近づけてくるんで、ようやく我に返って手を突っ張って距離を取る。

「な、な、ななな、なにして! いま、今、キス?!」

 いくらキスが挨拶で、こいつのスキンシップ過多のおかげで唇にまで引っ付けてくることがあると言ったって、あんな濃厚なものは挨拶とも呼ばないし親愛の範疇を超えていないか? 何考えてんだって張り上げたはずの声は弱々しくて、聞かなくたって充分意図は理解できていた。

「ロマーノ、さっきはごめんなあ」

 また謝罪。けれど、今度は申し訳そうな色はなくて、俺の耳に吹き込むように低い声で囁かれる。

「お、俺は、俺……その」
「今日言いたかったこと」
「へ?」
「今のが今日言いたかったこと」

 ごめんが?
 なんて、俺は残念ながら空気が読めてしまうので、ついでに言うと鈍感ではないので、今の、が指しているのが、先ほどのキスだって気づいちまって、カーッと顔が熱くなった。ついでに言えば心臓もバクバクいいだした。

「は、はあ? そ、そんなんで、何言われてんのか、俺はその、わっかんねぇし」
「はは、全然説得力ないなあ」

 うっせーってこの甘ったるいような空気をぶち壊すべく叫ぼうとしたら、スペインが俺の鼻先に人差し指を突きつけた。

「黙って」

 低く吐息のような声に俺は暴れ出しそうになったんだけど、体は意思とは正反対にピクリとも動かなくて、ただ口をパクパクと開閉するだけになった。

「なあ、もっかいちゅーしてええ?」
「……だ、だめだ」
「なんで?」
「なんでって」

 泣き出しそうになって縋るような思いでスペインを見てんのに、なぜか相手は表情を変えずに、かわえーとほとんど平坦な声で言って勝手に俺の額やら頬に口付けていく。

「だめ……」

 鼻の頭、唇の端とキスをされて、自分でもないなってぐらい、もう明らかに怯えてるような声で絞り出したらスペインの動きが止まって、俺から少し離れた。ついでに体も放されて自由になる。

「スペイン?」
「ロマ、それ、わざとなん?」

 何がって眉を顰めたら、俺以上に深刻な表情をしたスペインが唇を突き出して、あかんわーあかんなあとうんうん唸りだした。

「やから、その……お前のこと好きな奴にそんなんしたら、煽ってるだけやん」

 全然可愛くないんだけど、ロマーノ可愛いんやもん、なんて拗ねた子どもみたいな言い方に、もんって言うなって突っ込んでから俺は当然の疑問を返した。

「お前、俺のこと好きなのか?」

 それにスペインはガバッと顔を上げて、はあああ? ってすっげぇこわい顔して言った。つうか、俺のこと掴みかかる勢いで、もしかして気づいてないん? って迫ってくるもんだから、やっぱお前こわいって身を竦めるしかない。

「さっきのの意味わかってる?」
「あ、あれは……その、なんかそういうあれだろ」

 恥ずかしくなってごまかして視線を逸らしたらスペインの胡乱な目に追いかけられた。

「……ロマーノ、お前自分の気持ちに自覚あるん?」
「俺?!」

 なんだそれって目を瞠った。本気でわかんなかったから、意味がわかんねぇって正直に伝えたらスペインが肩をガクッと落として、そうかあって渇いた、今朝会った時に聞いたものとは比べものにならないぐらい渇ききった声で笑われた。

「なんだよ、何かあるならはっきり言えよ」
「うーん、うん……ちょっと親分の見込み違いやってん」
「はあ?」
「ロマーノってなあ」

 はあっとため息をつかれて、今日はもうこいつの言動わけわからなすぎて、考えるのも面倒になってたけど、とりあえず俺が何か呆れられたらしいってことはわかって顔を顰めた。

「鈍感やんなあ」

 どっかで聞いたセリフだなって思いながら、とりえあず言うべきこともハッキリ言わないこいつを殴ってひと言言ってやろうと拳を握る。
 だから、お前らにだけは言われたくねぇよ!

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