スペインの禁煙宣言から半月が経った頃、イタリアで仕事があるから家へ来てもいいかというメールが来た。先日の礼にごちそうしてくれると言う。
あの後もあいつは相変わらず忙しかったようで、夜に一通二通の挨拶をかわすだけのメールはしていたが、電話をすることも会うこともなかった。それでも、下らないメールやちょっと長い文章の甘い言葉を連ねたメールも、ちょっとしたことなのに、それがあるだけで全然会えてない感じはしなかった。最初の頃は禁煙辛いとへたれてたスペインだったが、段々と仕事が順調に片付いていってると前向きな内容を送ってくるようになって、もうすぐ会えると言われた時は、やっぱりちょっと嬉しかった。
スペインの仕事が終わる時間に、俺の近所でオープンしたばかりのレストランで待ち合わせをした。弟が以前にドイツと日本と三人で行ったらしく、すごく美味しかったと高評価をつけていただけに、まあハズレはないだろうとそこを選んだ。
その店はやはり料理も酒も美味しくて、落ち着いた店内の雰囲気も良く、俺はすぐに気に入った。何よりスペインと外食に来て、禁煙席に座れるのが良い。やっぱり料理にあんな無粋な煙の邪魔はいらないな。スペインも店のことは気に入ったようで楽しそうにしていて、ほっとする。禁煙、上手いことやってんだな、と言えば、うんとだけ返ってくる。ちゃんと続いているのが嬉しくて、自分でも機嫌が良くなるのがわかった。
スペインが、仕事が一段落したので近く休暇を取るつもりだと言った。
「どうせならお前の誕生日にとれよ」
「なあに、祝ってくれるん?」
「気が向いたらな」
なんやのーとか軽口をかわす。こういう他愛のないやりとりは好きだ。
店を紹介した弟はと言えば、ドイツの家に行っていた。あいつは2000年代に入っても相変わらずドイツドイツで、向こうも向こうでイタリアが好きみたいなので、随分仲が良いこった。60年前なら会いに行くことさえ嫌った俺だったが、今はそこまでうるさく言わない。お互い大人だし、あの頃とは違って政治的な意味合いもない本当にただの仲良い二人だ。
弟がいないのだから、心置きなくスペインを家へ呼べるわけで、泊まってくだろと誘えば、微妙に視線を彷徨わせて頷いた。なんだ、今の?仕事が落ち着いたなら、ゆっくりできるのかを聞けば、曖昧に笑う。さっきまでは楽しそうに休暇の予定を立てていたから、急なスペインの態度の変わり様についていけない。
「なんだ、忙しいのか?」
「いや、そんなことあらへんよ!……なんか、久しぶりやから緊張するわあ」
テーブルについていた肘を意図的に撫でられると、ひやっと背筋が震えてドキドキする。こんな一瞬で俺を混乱させたり、期待させたりするから、スペインもなかなかに罪深いはずだ。
「な、ななな何言ってんだよばかやろー!」
こんな動揺しきった声を上げれば全く意味がない。はは、ロマ顔真っ赤やでーと笑われて、ますます恥ずかしくなった俺は、今すぐテーブルの下にでも隠れてしまいたい気分だ。そんなみっともないこと、何があってもできないが。
結局、俺の顔が赤いのは会計中も引かなくて、そのまま店を出ることになった。何を今更、初心の娘でもあるまいし、と思ったりもするのだが、あいつの前ではいつまで経ってもかっこ良くならない。きっと久しぶりだからだ、と誰に言うでもない言い訳をしながら、夜道を無言で歩いていた。いつもはうるさいぐらいに喋り通すスペインも、なぜか黙ったまま。冬のローマ市は、俺の知っているとおりに寒くて、火照った頬にひんやりと冷たい空気が当たる。家に帰るまでに落ち着いてくれるといいな、と思った。
家に入るとすぐに抱きすくめられた。厚い唇がぴったりと重なって、その柔らかさが久しぶりだなって思った。先日会った時もキスぐらいしたのに、こうやって意味合いが変わると感触も違う。少しカサカサした冷たい唇の表面が少しだけ下顎をかすめ、入ってきた舌の熱さにクラクラする。
久しぶりのキスは、いつもより甘い匂いがした。舌も痺れるような苦味がなくて、つい確かめるように何度も舐めた。いつもと違う味覚に、何も考えずに味を追っていると、スペインも興奮してきたのか、些か強引に体を押し付けてくる。そういう時のスペインは少し怖い。抵抗しているわけでもないのに、左手を忙しなく絡めて扉に抑えつけ、力任せに膝の間に右足を差し入れてくる。その強さに膝が少し崩れると、スペインを見上げる形になってしまう。それを支えるように右手が後頭部に回された。しかし、優しい手つきだったのも束の間で、ぐっと力を入れて強く押し付けられる。苦しさで喉が鳴った。
暫くすると、暴れ回るように口の中を探っていた舌が、漸く落ち着いたと言わんばかりに、ねっとりと舌を撫でてくる。そのやらしさに背筋がぞわっとして、思わず右手で胸を押したけどびくともしなくて、むしろスペインはその抵抗が良いのだろう。クツと喉の奥で笑った。
「はあ、はあ……、お前ほんとへんたい」
「そういうの、好きやろ」
離された隙に言いたいこと言ってやろうと、まさか!と口を開いたが、まあまあ、と宥めるようにまた唇が重ねられて、熱っぽく絡められた。あしらわれてんな、と思ってもこれを強く拒まない俺も、けっこういかれてる。
さっさとやること終わらせてベッドに行きたくて、性急にスペインのジーンズを脱がそうとベルトを外す。焦って震える手が滑って、カチャカチャと鳴る。それに気付いたスペインが、ふっと唇の隙間から吐息を漏らした。
「かわええ。でも、そんな焦ったらもったいないやん」
久しぶりやから、ゆっくりしたいと言い出したスペインを無視して早く進めようとする。こっちは遅漏のお前と違ってさっさと終わらせたいんだ!と怒鳴りつけてやりたいが、そんなこと言わなくたってバレてるし、言ったらもっと状況が悪化する。
いつもセックスの時は、俺とスペインの我慢比べみたいなとこがあって、こいつのペースに合わせると一晩中に近いぐらい付き合わなきゃいけなくなるから、絶対俺が主導で進めなきゃいけない。こういう時は恥もロマンも捨てるべきだ。
「いーから、ベッド」
「ん、せやね」
スペインが腕を掴んで俺を引き寄せる。一人で歩けるのだけど、こういう時にわざわざ離れようとするのも無粋だろうか。黙ってされるがままになる。ちょっとぐらい付き合ってやったってバチは当たらないだろう。
ベッドに入った後は、ねちっこく責めたいスペインと早くやってしまいたい俺との、殆ど耐久戦みたいなセックスになった。とにかく俺が恥ずかしがったり嫌がったりすると、スペインは喜んで、妙な火をつけてしまうので、極力スイッチを押さないよう事を進めようとする。
いつも途中は探り合いみたいに愛撫する。スペインに任せても、それはそれで気持ち良かったりもするのだけれど、かと言ってそれにがっつり付き合うと俺がヘロヘロになるまでやめないので、なるべくコントロールしたい。
こういう時のスペインはいつもしつこい。初めてセックスした時なんかは、自分なんかなくなってしまって、ひたすらスペインを求めるはめになった。それでもあいつはじっと俺を観察するように眺めるだけで、ずっと愛撫ばかり続けたのだが、ああいうのはできる限り避けたい。……、まあ、三回に一回ぐらいはあいつのペースに巻き込まれるが。
そんなややこしいことを背負っている俺たちだが、お互い最後はわけがわかんなくなって、普通に動物みたいに求め合うのだ。その理性がなくなるまでが面倒だったり楽しかったりする。
そうやって疲れきった俺たちは、抱き合ったまま眠りについた。
シーツの隙間にひんやりとした空気が侵入してくる気配で目が覚めた。まだ夢うつつの頭で、まだまだ寝てたいと毛布を引き寄せる。目が開いている感じは全然しなくて、このまますぐに寝られると思った。
がさがさ、と音がして背後に冷たい体が入ってくる。ふわりと香った懐かしいような、いつもの匂いに、ああ、煙草だって気付く。
(ん?煙草?)
「……スペイン、」
「っ!」
まだ寝ぼけ眼ではあるが、何とか声を絞り出せた。あーでも寝たいような眠い。けど、今言わないとだめだ。気合を入れて寝返りをうち、スペインのほうを向く。
「お前、煙草吸ってんじゃねーか!」
怒鳴りつけると体を丸めてびくっとする大きな体。
「おい、」
「うう」
振り返ればしゅんとした子どもみたいな大人。その情けない態度に思わず溜息が出る。俺の大きな嘆息に、びくびくと伺うようにスペインが目を上げた。
「それで?」
「……一週間は頑張ってん」
「ほう、一週間」
「うう、やって、朝起きたらまず吸いたなるやん。ご飯食べたら一服したいやん!」
スペインが言うには。
一週間は頑張ったものの、忙しさと苛立ちから結局また手を出してしまったらしい。朝起きた時に耐え切れなくなって吸ってしまったが最後、ずるずると一日一本のペースで。そんな中途半端に吸うなら、観念して白状すれば良かったんだ。
「まあ、お前の愛はその程度ってこったな」
ちゃうねん、ちゃう!と必死になって俺の機嫌を伺おうとするスペインに、怒ればいいのか哀れめばいいのかわからない。俺にはそこまで依存するものがないから、ちょっとぐらい我慢してみせろって思うし、そんなこともできないスペインは少し哀れだし。
複雑すぎて、どんな顔をすればいいのかもわからなくなって、寝返りをうつ。スペインに背を向けて、あーでも、と思う。
でも、俺のためにやめるって言ったの初めてだったから。
そこを評価すべきか、だからこそ本気でやめてほしかったと責めるべきか。
「ほんまやで!俺ロマのためなら煙草やめれる!」
「やめれてねぇじゃんかよ」
「次!次こそはやめるから」
俺の背中にぎゅっと縋り付いてくるスペインに、どんな顔をすればいいかわからない。たぶん俺はこいつが思っているほど単純に怒ってるわけじゃねぇんだよな。