ロヴィーノがドアノブを回して室内に入ると間髪入れずにアントーニョの、待ってたんやでー! という声とともに抱きしめられた。反射的に暴れたが抱きすくめる腕の力が強すぎてびくともしない。
「てめっ! 離せって!」
「ロヴィーノ、今日の授業で俺のこと見とったやろ」
「授業で先生のこと見てなかったらだめだろ」
仮に見ていたとしてもその心の内がどうであるかなんて、わかったものではないはずだが、この能天気お気楽男には全ての言動がポジティブに解釈されるのだろう。可愛すぎてどうしようかと思ったと耳元で騒いでいる。ふっと、この状況を通りがかりの誰かに見られたらアントーニョも学校に残っていられないのではないか、と脳裏を過った。
(……でもそうなったら俺も残れねぇな)
男の助教授にセクハラされていた男子学生なんて、スキャンダル以外の何ものでもない。今でさえ楽しいキャンパスライフからは程遠いのに、余計に居辛くなってはもう通い続けるのも無理だ。
「あ、そんなことよりロヴィーノ今日ご飯食べた?」
「食った」
「えー?! なんでなん、一緒しようと思っとったのに」
昼からの授業に出席するのに昼食を食べていないのは、それこそ寝坊したこの助教授ぐらいのものだ。
「用事はそんだけか? だったら離しやがれカッツォ!」
「離したらロヴィーノ帰ってまうやん」
「当たり前だろ。俺はやることがいっぱいあんだよ!」
「やることって何? まだ新学期始まって俺の授業しかないやんな?」
「……」
「予習も復習も課題のレポートも、全部俺が見たるからここでやったらええよ」
言いながらロヴィーノの腰を撫でてくる手のひらが気持ち悪い。ひっと喉を擦らせると、はあはあと熱い吐息が耳たぶにかかって、そのあまりの不快さに足をガンガンと蹴りつける。容赦なく力を入れたので、それでようやく、痛いいたい、と拘束が弱まった。するりと腕の中から逃げる。残念そうなアントーニョの声は無視した。
「だから、俺のことを考えろっつってんだろ。嫌だっつったら嫌なんだって!」
「うんうん、いつもロヴィーノのこと考えてるよ。今日もメール返ってきてめっちゃ嬉しかったわあ」
まるで話が通じないのに頭が痛くなってこめかみを抑える。ほら、ロヴィーノでなくたって良いのだ。
「もう、お前は俺とどうなりたいんだよ……」
弱りきってか細い声を絞り出したら、今度はロヴィーノが元気ないと慌てだした。もう一歩踏み込んで困っている、困らせているところまで気づいてくれれば、少しは付き合えそうな気がするのに。オリエンテーションの日はまだ多少は会話ができていたように思う。けれど、あの時はアントーニョが抱きついてこなかったからで、結局、嫌がっているのに無理やり体を触ってくるところが一番だめなところで。
(つーか、俺がこいつの言い分に付き合ってるのがおかしいんだ)
全部、アントーニョが何かを言ってそれに対する反論だから負けてしまう。やはり来いと言われても来るべきではなかった。
「思い通りにならないからって教授使うのやめろ」
「やって、ロヴィーノ、俺のこと無視するんやもん」
「なんで無視されてんのか考えろよ……」
「そういうのは減点対象なんやでー。俺が研究室来てって言ったら来んと」
「はっ俺のことお前の何だと思ってんだよ」
「研究室来るのって大事なんやで。他のゼミ生とも意見交換せな。ロヴィーノ、ただでさえ友達おらんねんし」
「え、他にゼミ生いんの?!」
驚いたロヴィーノにアントーニョが何を今さら言ってるん、と目を丸くした。しかし、考えてみれば当たり前のことだが、ロヴィーノにそれを知らされたのは初めてだった。
「ん? なんやロヴィーノ他の連中が気になってたん? 今年のカリエドゼミは三人やで」
それを早く言えよだったら研究室ぐらい来たのにと言ったらアントーニョはニヤニヤと笑って、二人きりなの期待してたん? などと言い出したので思いきり顔を歪めてやった。口端を力の限り下にひん曲げて、顔の中心を皺くちゃにする。それがさすがのアントーニョにとってもよろしくなかったのか、その顔はやめて……と言われたので、今度から面倒なことがあったら使っていこうと思った。
「で、他のゼミ生って誰なんだよ」
「言ってもどうせわからんやろ」
確かにロヴィーノは同じ学科の生徒の名前をほとんど覚えていないので反論はできない。それでも気がかりだったゼミは二人きりになるわけではないことに安心する。
「でもそっか……そっか、良かった」
さすがにゼミを欠席するわけにはいかないからどうしたものかと頭を悩ませていたが、他に生徒がいるならアントーニョだって無茶なことはしないだろう。先ほどのように抱きつくとか、腰を撫でるとか、そういったことは。春休み中、悩んでいた問題が少し解決されたことでロヴィーノは安堵からほっとため息を吐いた。いつの間にか眉間に力が入っていた力が抜けていくのを感じる。ようやく安心したロヴィーノにアントーニョが、何かをつぶやいた。
「……」
声は聞こえたが何と言っているのかまでは聞き取れなくてロヴィーノは首を傾げた。
「なんか言ったか?」
「……かわええ」
「は? っ、んぅ?!」
何を言っているのか聞こえない、と繰り返そうとしたところで、急にむにっと唇に柔らかい何かが押し当てられて息を呑んだ。驚きのあまりに目を見開くと、至近距離にアントーニョの顔らしきものが見える。鼻の頭にチクチクとした硬い髪の毛が刺さってくすぐったい。
やけに長い時間そうしていたように思ったが、その間ロヴィーノは一度も瞬きをしなかった。混乱しきった頭が状況を把握しようと起こっていることの材料を集める。唇が湿っている、暖かい、顔に吐息がかる、肩を強く掴まれた。それらが結ばれる前に唇を舐められた。ぞわぞわと嫌悪感が走る。
「……ッ! ぅっ あっ……!」
分厚い舌がロヴィーノの口端をペロペロと舐めるのが気持ち悪くて暴れだす。強く押し付けられた顔を無理やり動かそうとすると首が痛くなって、目の前の胸板をドンドンと叩いた。それで肩を掴む手に力が込められ、片方の手を後頭部へと回される。
「……ゃ、やめろっ!」
思いきって首を振りながら胸を押し返すと、ようやく体が離れる。目の前のアントーニョの唇がテラテラと光っていて、何が起こっていたのかを一瞬で認識させられた。空気にふれて湿っているのを感じる自分の唇を乱暴に手の甲で拭い取って、信じられない、と言った。
「何してんだよ……」
「やってロヴィーノ可愛かったんやもん」
「……」
まるでロヴィーノがどうして怒っているのかもわからないと言ったその表情に、ふつふつと怒りが込み上げて目の前が真っ白になったが、その感情の激しさに対して言葉は何ひとつ生まれてこなくて、何度も大きく息を吸っては吐き出した。怒鳴りつけてやろう、と思うのに、何も言えなくて悔しくて情けなくて涙が瞳に膜を張る。
「……もういい。もう二度と、金輪際、俺に近づくんじゃねぇ」
言っても無駄なのだろうけれど、それでも少しは伝われと一語一語を区切ってはっきりと言葉にする。これ以上その場にいるのも耐えられなくて、逃げるように研究室を後にした。
「ちょ、ちょっと今のはなに?!」
「あれフランシスやん、どうしたん?」
「どうしたんじゃないよ!」
教授との話が弾み、アントーニョと三人で食事でもと誘われて研究室に呼びに来たら、アントーニョがロヴィーノに振られているところだった。途中から見ていただけのフランシスには、アントーニョが先走って失敗しただけかと思ったのだが、飛び出してきた青年は顔を真っ赤にしていて目に涙をいっぱい浮かべていた。その尋常ではない様子に慌ててアントーニョの元へと駆け寄ったのだが、それにしては平然としていてフランシスが動揺する。
「さっき出て行ったのロヴィーノちゃんでしょ? 泣いてたけど何したの?」
「ロヴィーノ泣き虫やもん」
「そういう問題じゃないでしょ!」
泣かせたのはアントーニョなのだから。ロヴィーノのことを好きならどうしてそうも普通でいられるのか。
「え、ちゃんと上手くいってるんだよね?」
「うん、俺ロヴィーノのこと好きって言ってんで」
「それで向こうはなんて?」
「なんて言ってたかなあ」
間延びした声。まるで他人ごとのようで、フランシスは目を丸くする。
「は?」
「ロヴィーノと一緒にいる時はなんかこう、いっぱいっぱいになんねんなあ。あんまロヴィーノが何て言ってたかは覚えてへん」
「え、じゃあ、なんで上手くいってると思ったの?」
「やってロヴィーノ、俺しか頼る相手おらんし」
友人の症状が想像以上に重症だったらしい。ぐらり、と世界が回ったような気がした。手の甲で額を抑えて、いや確かに彼のこの性格を面白がって放置してきたし所詮他人だからと深く関わらなかったのもフランシスのほうだ。けれど、これはあんまりだと頭を抱えてアントーニョを見上げた。彼は状況がわかっていないのか、照れくさそうにロヴィーノ可愛い、と言っている。
「よし、わかった。俺がお前のこと甘く見てたみたい」
恋をするとかしないとか、それ以前のところで立ち止まっている友人に呆れるべきか哀れむべきか悩んで、どっちにしたって同じだと考えるのをやめる。
「ちょっとお話をする必要があるみたいだねぇ……」
懐かしい研究室にむなしく声が響いた。