「あっれーフランシスやん。どないしたん?」
学生時代の頃はよくここに入り浸っていたなあと主が変わってもさほど雰囲気の変わらない室内を懐かしんでいたら、間延びした独特なイントネーションの声に名前を呼ばれた。部屋の入り口を振り返るとやはりそこにはアントーニョがいて記憶と違わぬ友人の姿に目を細める。
「変わってないね」
「お前はおっさんになったな!」
「おっ……おっさんって……。久しぶりなのに相変わらず失礼な奴だな。アントーニョには言われたくないよ」
「俺、若い子と一緒におるからけっこう保ててるで」
「まあ、ある意味、学生時代から変わってないけど」
でも全然羨ましくない、と肩を竦めて近くにあった椅子に腰をかける。机の上にあったブロックのおもちゃが目についた。学生と言うのは、なんでこういうものが好きなんだろうなあ、と自分もかつて通ってきた道を懐かしんで笑う。それは学部卒で就職したフランシスには何年も前の遠い出来事のようだった。
言われたアントーニョはフランシスの言った言葉をあまり理解していないのか、そう? と気のない返事をして荷物を机の上に置いた。講義だと聞いていたから、その授業で使った資料だろうか。分厚い本が二三冊と学生の頃から使っているファイル、使い込まれたノートがドサッと音を立てた。
「あ、コーヒー飲む? って聞いたほうがええんかな。てか何しに来たん?」
「いや、さっき飲んだから良い。今日は友人の遅すぎる初恋を確かめに来た」
「え、なんでその話、フランシスが知っとるん?」
自分の分を淹れるのだろう。何年も前から見ているマグカップを持って流しへと向かった。きちんと洗わないから茶渋と日焼けで色が変わっている。特別それがお気に入りなわけではない。この研究室にあるカップは全部そうなのだろう。予想ができたのでここに来る前に自販機で缶コーヒーを買った。
「お前が夜中に電話かけてきたんでしょ。しかも平日ど真ん中の……覚えてないの?」
「あー……」
思い出せているのかいないのか、うーんうーんと唸っている。こちらは仕事が終わってさあ寝ようとベッドに入ったところで電話がかかってきて、何事かと思ったらハイテンションで好きな人ができたどうしようって騒がれたのだ。堪ったものではなかった。
「酔っているようには見えなかったけど、まあ、アントーニョはいつでも酔っているようなもんだしね」
先日、同級生と集まったらその場にいたほとんどの者が電話がかかってきたと言っていたので、知っている番号に片っ端から電話したんだろうなということは想像できた。なぜかギルベルトにだけは連絡がなかったようだったが。
「まあ、そんなことは良いとして。それで? 可愛いかわいいロヴィーノちゃんとはどうなの?」
今日の本題はそれだ。八割は好奇心。学生時代から周囲を辟易とさせるほどのこの研究馬鹿が恋愛をしたらどうなるのかという、ただの興味だ。あとの二割は純粋な友人として成就を願う友情。周りも似たようなもので、会ったらどうだったか報告しろと言われている。
フランシスの問いかけにアントーニョは、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの笑顔になって、幸せでどうしようもないと声を弾ませた。
「上手くいってるで! 今日も授業の後に会おうって約束してんねん」
「へぇ、そりゃあまた」
失敗して欲しいとは思っていなかったが、アントーニョの恋路がそんな順調だとは思っていなかったので意外だった。驚いた顔をしたフランシスをどう受け取ったのか、俺が上手くいってたら何か悪いん? と妙に鋭いことを言い出す。
「いやいや、そうじゃないけど……悪くはないよ」
「ふうん」
「ギルベルトとこないだ会った時にその話になってね。ちょっと心配してたの。お前って人の話聞かないし誰かと付き合うなんて無理なんじゃないかって」
「そうなん?」
「男同士つるんで馬鹿騒ぎする分にはいいけどさあ、恋愛って相手のことも思いやってやんなきゃいけないじゃん」
友人として付き合う分にはアントーニョは良い奴だ。細かいことは気にしないし、自分の好き嫌いがはっきりしていてわかりやすい。嫌なものに当たったからと言って機嫌を損ねるほど子どもでもなく、陽気な性格だから一緒にいたら楽しいタイプ。だが、それはあくまで友人として、というだけで深く付き合うにはちょっと面倒な相手だった。何せ相手の価値観を理解しない。根本的に興味がないから分かろうともしていないのだろう。だから、フランシスもギルベルトも、良い友人ではあったが親友と呼べるほどの関係ではなかった。
「まあでも上手くいってんなら良かった。お前の失恋慰めんのは大変そうだし」
何で手に入らないのかなんて泣かれた言われた日には、どうすれば良いのかもわからない。今までのアントーニョは壁にぶち当たった時、その壁を壊すまで体当たりをするという荒技を何度も披露してくれた。生身の人間相手にそれは通用しないし、何よりロヴィーノとやらがかわいそうだ。フランシスの言っていることをきっと理解していないだろうアントーニョが、ズズッと音を立ててコーヒーを啜る。無神経だけど悪い奴ではないんだよなあ、なんて他人ごとのように思う。
「さてっと、ロヴィーノちゃんが来るなら、ちょっと教授のとこ行ってこようかな」
「え、ロヴィに会ってかへんの?」
「見たいけど気をつかわせるでしょ」
会ったこともない何年も上のOBなんて、無駄に緊張するし今すぐ会う必要があるわけでもない。それにフランシスはアントーニョといつでも会えるのだから、今は二人でゆっくり愛でも何でも育めば良いのだ。
「相変わらず気きくねんなあ。言われてみればロヴィーノ人見知りやったわ」
「お前の口からそんな言葉が出るとはね、ほめ言葉として受け取っておくよ」
「うん、褒めてんで」
うんうんと頷いて、アントーニョが首を傾げた。
「なあなあ、フランシスはなんで院行かんかったん?」
「どうしたの、急に」
「いやあ、よう考えたらフランシスって教授に気に入られとったやん。俺、ようボヌフォアを見習えって怒られとったもん」
それは研究や専門のレベルではなく、単にアントーニョが話を聞かなかったことに対して言っていただけなのだが、事実、教授に良くしてもらっていたのは本当なので、そうだねぇ、と相づちを打った。
「そうだねぇ、院に行かなかった理由か」
「よう考えたら聞いたことなかったやん」
当時、大学院には進学しないと言ったフランシスにアントーニョは何も言わなかった。そうなん、とまるで明日の天気の話でもしているかのように頷いたはずだ。それで今さら気になるなんておかしな話だったが、それがかえってアントーニョらしいかと思って苦笑が込み上げた。
あの頃はアントーニョとギルベルトの三人でいつもつるんでいて、三人とも大学に残るのだと同級生からも教授からも言われていた。アントーニョは他の学科の生徒にも覚えられているほど有名な実験馬鹿で、特に文系学科からはステレオタイプな研究者に見えたらしい。それにギルベルトの普通じゃあまり見かけない容姿と毎日ファッション科の学生のような服を着てくるフランシスがつるんでいるので、三人はわりと目立つほうだった。
「お前ってさ、研究好きだよね。もう毎日それしか考えてないって感じ。今はまあ、ロヴィーノちゃんのことも考えてんだろうけど」
それこそ、周りも顧みず一直線。三人でいる時だって口を開けばそんな話ばかりで、真面目なギルベルトですら辟易としたぐらいだ。いつも研究のことばかり話していたから、自然とフランシスの生活もそれ中心になっていたらしい。学外の友人や家族から本当に学校が楽しいんだねと笑われた。それは悪いものではなかったのだけれど、ただひたすらフランシスには重かった。
「好きやで。今はあの時とちょっと違うやつやけど、院の時に実験している時に気づいたことがあって」
「ああ、うん。その話は別に良いんだけどね。今度、教授にでもたっぷりしてやって」
始まったマシンガントークにブレーキをかける。放っておけば息が切れるまで止まらないからだ。何も変わらない旧友の姿にノスタルジックな感情が沸き起こる。
「……俺はさ、そこまで興味がなかったんだよ」
「え、そうなん?」
「そう。院に行ってまでやりたい研究もなかったしね」
初めて聞いたと驚くアントーニョに、初めて言ったと茶化して笑う。だってアントーニョはずっと全力疾走しているのに、そんな奴の前で俺はそうはなれないなんて無神経なこと言えるわけもない。
当時はそれなりに悩んでいたと思う。何のためにここに来たんだろうとか、どうして自分はああいう風になれないんだろうとか。結局、純粋に研究に打ち込むアントーニョや、目標があって努力しているギルベルトを見ていられなくなって逃げるように就職した。今はそこでそれなりのやりたいことを見つけて、結果的には良かったのだけれど。
「なんか、すまん」
珍しく気を回したのか気まずそうに目を逸らしたアントーニョに、堪えきれなくて吹き出した。笑うフランシスにアントーニョが不可解そうな顔をする。
「ま、研究好きは良いけどほどほどにしとけ。学生にプレッシャー与えるからさ」
きょとんとしたアントーニョが、どういうこと? と首を傾げたが、俺の言うことは聞いとけって笑う。今日は懐かしいし面白いことばかりだ。それにつられたのかアントーニョもヘラっと笑った。
「うん、これでもちゃんと進度見てやってんねんで」
「ならいいけど」
あんま追い詰めんなよと言葉を重ねて研究室の出口へと向かった。