好きってだけじゃだめらしい

 授業初日だと言うのに始業ベルとともに騒々しく教室へ駆け込んで来た教師に、お調子者の生徒から寝癖がついたままの髪への鋭い指摘が入ってざわざわと笑いが起こる。いやいや、ちゃうねんこれにはわけがあって。身振り手振りを交えながら、誰も聞いていないのに朝寝坊の原因となった自身の研究について語りだすともう止まらない。いっそ見ていて気持ち良いぐらい夢中になって実験の着眼点と結果を話すその姿に、生徒たちがこれは長くなるなと覚悟したところで教授が見回りに来た。ちゃんとやってるか、と声をかけられ慌てて出席をとって取り繕う。ゼミの予行ですわー、お前が語ってどうするんだ。まるで博士課程の頃と変わらないやり取りを交わしながら、生徒の指導そっちのけになるところがなあ、と零すと教授は教室の一番後ろの席に座った。

「いややわ、先生見てくん?」
「信用ならんからな。ちゃんとやってたら途中で帰る」
「あははー俺ちゃんと真面目にやってますって」

 軽い調子で言ってテキストとペンを出した。ヘラヘラと笑いながら、ほなはじめんでーと手を叩く。それでようやく新学期最初の講義がはじまった。
 これでカリエド助教授はこの学科の若きホープだ。一歩間違えればただの変人として大学のお荷物になっただろうアントーニョがこうして教鞭をとっていられるのは、ひとえに院生時代に発表した論文が国際的に注目を集め、その研究の実績を認められたからに他ならない。
 カリエドの何がすごいものか、こういう新しい学科ならそれなりの成果を出せば助教授ぐらいかんたんになれるのさ、なんて。この大学史上最年少で助教授に就いたアントーニョに言えるのは、今まさに教室の一番後ろで頬杖を突いて講義に茶々を入れている教授ぐらいのものだろう。
 何かとアントーニョに嫌みや皮肉を投げかける老先生であるが、そんな辛辣な言葉の端々からも助教授にかける期待の大きさがうかがえた。何と言っても彼の論文を学会で発表させたのも、大学に残すことを学校に推薦したのもこの教授なのだ。

「あーあ、お前を大学に推薦したのは失敗だった。生徒に教えるのはてんでだめだ」

 だから監視してないと、と大げさなため息を吐く。もう少しぐらい人の話を聞いてくれれば、とは何度も何度も生徒にまでぼやいているこの教授の最近の悩み。
 しかし、授業中に脱線して戻ってこなくなることを除いて、アントーニョの生徒からの評価上々だ。ヨレヨレの薄っぺらい白衣にボサボサの髪、ほとんど研究室で暮らしているような生活力のなさであるが、自分が入れ込んでいることでは結果を出している。それがどうにも男ばかりの理系学科では支持されているらしい。
 恩師に見られながらの講義は、普通ならばやりにくいとリズムを崩しそうなものだが、そんなものはどこ吹く風と言った風でいつも通りに授業を進めている。ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた教授から内容に対して鋭い突っ込みが入り、その度に意地悪いなあと文句を言っているが、それで生徒たちが内容に関心を持ったのか明らかに教室の空気が変わりみな集中していた。これでまたアントーニョの評価は上がるのだろう。
 ひとり授業に身が入らず、ぼんやりと教室内を観察していたロヴィーノは、その事実に気が付いて気が重くなった。瞼を半分降ろして口元を歪める。
 ホワイトボードに重要な式を書きながらその解説をしているアントーニョの背中を見て、ひっそりとため息を吐いた。こんなの絶対におかしいと思うけれど、じゃあそれを打開する方法もない。ロヴィーノがアントーニョを超えるか、少なくとも匹敵するような論文でも発表できたら話は別だが、今のところそんな予定は全くない。
 恨みがましくじっとりと睨みつけていたら急にその背中が振り返った。やたらと真剣なアントーニョのみどりの瞳が教室内を見渡し、大事なところだからと構文を繰り返し強調した。キョロキョロとよく動く目がロヴィーノのところでピタリと止まる。
 アントーニョが柔らかく目を細める。音をのせずに小さく唇が動いて、名前を呼ばれた、そんな気がした。

(教授が見てんじゃねーのかよ……)

 まるで授業参観で母親を見つけた子どものような無邪気な表情に毒気を抜かれて脱力する。そのふざけた言動で、余計に自分だけが空回ってるような虚しさを感じた。
 
 
 
 最後まで授業にはほとんど集中できなくて、ロヴィーノは終業のベルと共に逃げるように教室を出た。人波に沿ってキャンパスの入り口まで歩く。この行動が無駄になることはわかっていたが、今日取っている履修はこれで終わりだ。誰かから咎められる謂れはなかった。
 しかし、校舎から出たところで無常にも携帯電話がポケットの中で震えた。きたか、と諦めのようにため息を吐く。

『授業終わったら研究室集合!』

 表示された差出人と文面に疲れを感じ帰ってしまいたい衝動に駆られたが、これを無視すればしつこく電話がかかってきて、それも放っておけば教授に連絡がいく。一回目はまだ良いとして、そう何度も呼び出されては教授だってロヴィーノに何か問題があると思うだろう。
 逃げ場が防がれていくのを感じて途方に暮れた。

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