香水の話

 月日は流れ、ロマーノはイタリアとしてスペインから独立した。見た目も成人した男のものへと成長し、それと伴うように精神も成熟していく。
 それは、ずっと一緒に暮らしてきたふたりにとってはさみしいものの、友人であり、親分子分であり、恋人でもある今までの関係は変わることなく続いていた。こればかりは世界情勢に流されることなく不変のものになるだろう。ロマーノはイタリアになってもスペインといることが落ち着くし、スペインもまたロマーノを変わらず可愛がり続けている。それだけの時間を共有してきたのだ。
 その日もロマーノは休日を利用してスペインの家へと遊びに来ていた。
「ロマー、今日はうちに泊まってく?」
 リビングで寛いでいるとキッチンで洗い物を片付けていたスペインが背後からロマーノの体を抱きしめてきた。
「ん、そのつもりで馬鹿弟には言ってあるけど」
「ほな今日はメシ外に食いに行こ。ええバル見つけてん」
「良いな。お前の食欲は信頼できる」
「性欲と睡眠欲もお行儀ええって評判やで」
「誰にだよ」
 不意にスペインの体臭に混じって香水の匂いが香った。既にすっかり慣れ親しんだものとなったいつもの香水だ。あれから何十年も経ち、今や既製品が出回っていると言うのに頑なにオーダー品にこだわっているらしく、少しずつ時代に合わせて調整しながらもスペインの香りは昔からほとんど印象が変わっていない。
「なあ、この匂い」
「パエリアは作ってへんで!」
 間髪入れずに返された言葉に呆れた視線を向ける。
「……お前ほんっと色気ねぇな。この状況で食い気かよ」
「まさかロマーノにそれを言われるとは」
「はあ?」
「んーん、何でもあらへんよ」
 サラリと返された言葉に訝しみつつ、どうせ碌でもない話なのだろうと追及せずにおく。そんなロマーノを微笑ましいものを見るような、どこか生ぬるさを含む笑みでスペインが見守っていたのだが、それには気づかずにため息をついた。
「まあ良いや。それよりさ、お前の香水って今は花の匂いがするだろ」
「んーせやなあ。ミドルは広がりのある温かな香り? とか何とか言うとった気がするわ」
「へぇ、ちゃんと考えてんだな」
「俺が調香したわけちゃうからなあ。初めて作った時にいろいろアドバイスしてもろて、ほとんどお任せでやってもらったもん」
 なるほど、どうりでスペインのことを客観的に捉えぴったり当てはまるように誂えてあるわけだ。納得しつつも、ひとつ気になることがあった。
「変化の仕方もか?」
「基本的にはそうやでー朝は爽やか、昼間は大らか、夜は落ち着くような匂いがええやろって話で」
 ふふ、と笑って一瞬遠くを見つめる。それは過去の自分を振り返って懐かしむような色が載せられていた。
「俺が注文したのはひとつだけ。夜だけや」
 ロマーノが気になっていたのはまさにそれだった。
 スペインの香水は夜になると昼間の顔から印象を変えて男性的な官能を纏う。それはあからさまではないものの、温かで甘い匂いの中に確かな色気を感じるのだ。スペイン自身の体臭と混じって余計にそう感じるのかもしれない。とにかくその香りにすっかり慣らされたロマーノは、その匂いを嗅いだだけで開放的な気持ちになって理性が薄らいでしまうほど気に入っていた。本人には絶対言えないが、彼のいない夜、香水をシーツに染み込ませてひとり寝の夜を乗り越えたこともあるのだ。
「それ、やっぱお前の注文だったんだな」
「ええ匂いやろ?」
 いつかの夜と同じことを聞いてくる。意図した瞳は色を含んでいて、抱きしめてくる腕にはロマーノをこの場から逃げさせないようにと力がこもった。
 あの夜のロマーノはまだあどけなさを大いに残す少年だった。そんな頃からふたりの関係は始まっていたのだ。手を出されたなどと言うつもりはないが、彼の香水に持たされた意味にも気づかないような未熟さがあったことは確かだ。
 香料ごとに持続時間が違うから匂いが変わる、香水とはそういうものだと教えられて、当時のロマーノは額面通りに受け取っていた。ふうん、と相槌を打ちながらもその裏側に隠された意図や駆け引きは理解できていなかったのだ。
 今ならわかる。スペインが何を思ってその香水を作らせたのかを。
 昼間の甘くて爽やかな匂いが終わる頃ーーーちょうどロマーノがベッドの中で彼に抱かれる頃合いだーーー、甘い匂いの影に隠れていたスパイシーなその香りが主張し始める。普段は甘い匂いを引き立てるためのアクセントでしかないその香料は、前面に出てくると男性的でどこか官能を匂わせるセクシーなものへと変化するのだ。
 それはロマーノだけがベッドの中で存分に感じられる男の匂い。そう思うと顔から火が出そうなほど恥ずかしく、据わりの悪くなるような居心地の悪さも感じるが、スペインだってロマーノと付き合うようになってから初めて意識するようになったのだと思えば多少は溜飲も下げられる。スペインのくせに、と理不尽な怒りをぶつけたい気持ちはあるが、それをするほどロマーノも幼くはなかった。
「ああ、そうだな。……俺の好きな匂いだ」
 だから代わりにスペインが想定していないだろう言葉を返す。あの頃は到底口にはできなかった素直な気持ち。それをニヤリと悪い笑みに混ぜて口に乗せれば、一瞬目を丸くしたスペインはしてやられたと言わんばかりのバツの悪そうな表情を見せた。
「……大人になったなあ」
「そりゃあな。お前が俺を大人にしたんだ」
「光栄なことで」
 軽口を叩き合いながらも甘やかな雰囲気を壊さないように言葉の合間に唇を重ねる。これもまたロマーノが成長してから覚えた駆け引きだった。
「ん……ぅ」
 スペインがロマーノの上に覆いかぶさるように乗り上げてきた頃には、すっかりふたりの吐息は熱く色を灯していた。
 ああ、せや。不意にキスが途切れた。
「なに……?」
「この香水な、ロマが独立してからは、普段使いしてへんねん」
 ひそめられた声。話しながら二度、唇が降ってくる。それに応えながら言われた言葉の意味を咀嚼した。
「ロマーノと会う時にしか使ってへんねんで」
 言葉尻を奪うようにスペインの首の後ろに腕を回し、ぐっと抱き寄せた。その勢いのままぶつかる唇に噛み付いて、はっと吐息を零す。
 ロマーノはどうしてとは聞かなかった。自分と会う時にだけ着けられる香水、その意味を今さら聞かずともわかっている。ロマーノだって香水を着けるようになったから余計に彼の心情は理解できた。それに仮に真意を問い詰めたとしてもはぐらかされてしまうだろう。それはあまりに野暮というものだ。
「俺専用の香水を特注するお前もたいがい俺のこと好きだよな」
「せやでーせやから精いっぱい愛されたってな」
「仕方ねぇなあ」
 ふふふ、と笑いながら脚を絡め合う。スペインから香り立つ匂いに煽られるように喉を鳴らした。それに煽られたスペインの体が熱くなる。高め合うふたりの体が結びつくまでにそう時間はかからなかった。
 後はもう何も考えなかった。ロマーノはただ一日の終わり、野性的な色気を帯びたスペインに五感を支配され翻弄されていれば良い。つまりはそういうことなのだ。

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