どうしてこうも三月というのは雨が多いのか。しかし、アントーニョと初めて会った日は冷たいものだったが、雨が降る毎に暖かくなっている気はする。前日の夜中から降り始めた雨は激しくはないものの、長く降り続けてなかなか止まなかった。
気象予報士も週末はずっとぐずついた空模様、と言っていたので朝から覚悟していたロヴィーノは、仕事から帰るなり玄関に用意していた洗濯物を取ってコインランドリーへと向かった。
店内には誰もいなかった。あれ、と拍子抜けし肩の力が抜けたロヴィーノは一番奥の角にあるいつもの洗濯機を使おうと蓋を開けた。
(あれ、じゃねぇよ)
知らず知らずの内に、今日ここに来るということはアントーニョと会うものだと思っていたことに気付き、ゆるく首を振った。これでは彼がロヴィーノの心を侵食しているようではないか。
長椅子に座っていつも読んでいるインテリア雑誌を手に取った。彼女が好きだった雑誌だ。少しでも良く思われたくて、家のインテリアの参考に読み始めてから、癖のように購読している。この埃っぽいコインランドリーにも置いてあるので、いつも洗濯待ちの時は読んでいる。
適当にパラパラとページを捲って気になったところだけ斜め読みしていると、入り口が開いて夜の風が入ってきた。
「あーロヴィーノやん。おったんやあ」
間延びした声が聞こえる。
「よう、遅漏野郎」
複雑な顔でロヴィーノを見ているが知ったことではない。男に綺麗だなんだと言われても嬉しくなどないのだ。
「今来たとこ?」
「まあな」
「ほな隣使わせてもらうわ」
十台ぐらい並んでいるのに、わざわざロヴィーノの使っている真横の洗濯機の扉を開ける。これが可愛い女の子だったらなあ、と思わなくもないが、相手は図体の大きいばかりの立派な成人男性だ。
「別のとこ空いてんだろ」
「ええやんええやん、俺がおったらほら、パンツ忘れへんで」
ロヴィーノがむっと口を噤んだのを見て良しと受け取ったのか、袋から無造作に衣類を取り出すと機会に放り込んで洗濯物を回し始めた。
「って、なんで隣に座るんだ!」
「えー、やってここ使ってるんやしロヴィーノおるのに離れて座るん、変ちゃう?」
「こんだけ空いてるのにぴったりくっつくほうがおかしいだろうが!」
せめて人一人分、間が空くように距離を取ろうとしたがロヴィーノが角に座っているためにそれ以上、空けられない。ギロッと睨み付けるも痛くも痒くもないといった風で彼は鼻歌を歌い始めた。数年前に流行ったポップスで、耳馴染みの良いメロディーとピアノの音が印象的な歌だ。あまり音楽を聴かないロヴィーノでも知っている。ラジオや有線でも繰り返し流れていたからだ。
「……おい、それ何の歌だよ」
「え、知らんの? めっちゃ流行ったやん」
「いや知ってっけど」
英語の歌だ。一番有名な盛り上がるサビの出だしのところに、歌詞にするには意外な単語が入っているので、どういう内容なのか気にはなっていた。けれど、わざわざちゃんと通して聞いたこともなかったし、何より英語などほとんどわからない。
アントーニョも聞いたままを歌っているのか、ところどころ発音がはっきりしていない。不明瞭な音を拾いながら、何て言っているのだろうかと考えた。
「ええ歌詞なんやでー」
「らしいな。どういう意味なんだ?」
「え、えーと」
ロヴィーノが聞くと途端にしどろもどろになって視線を彷徨わせた。うんうん唸るので呆れたようにため息を吐く。
「知らないんじゃねぇか」
「いや、知ってるんやけど、俺、英語わかるもん」
右眉が跳ねた。
「どう見ても外国語喋れない系だろ」
「失敬な! 俺にとってはイタリア語も外国語やねんから!」
「え」
「俺は生粋のスペイン人やからなあ、十歳の時に移住して来たから言葉には困らんけど」
ああ、それで言葉に訛りがあったのかと納得をする。ロヴィーノが知る限り南イタリアのほうでも、同じような訛り方をしているから特に意識はしていなかった。
「仕事は観光業やからな、英語も喋れんで」
「じゃあ、なんで歌の意味答えられないんだよ」
「う、それは、やって長い歌を端的に言うのって難しいやん」
情けなく眉をハの字にして困ったように首を傾げた。その間も口の中でぶつぶつ歌を口ずさんで意味を確認しているのか考え込んでいる。
「そんな日もあるさって歌やで」
「…………なんだそれ」
そんな日もあるさって、どんな日だよ。こちとらそんな日だらけだよ、と呆れた。聞いていられないと雑誌に視線を落とそうとしたが、その紙の端を掴んでロヴィーノの気を引こうとする。
「ちゃうねんって、やから、気にすんなってこと!」
雑誌を引っ張られて体が傾く。見上げた先にあったみどりの目は透き通っていた。真っ直ぐに視線を合わせてくる。
「何をだよ」
変な顔をしてしまいそうで、唇を歪ませて不機嫌な顔を作った。
「今日は悪い日やってんよなあ」
「慰めてるつもりか?」
「ちゃうよ、歌の話やで」
そうしてまた同じ歌を口ずさむ。ロヴィーノが歌詞の意味すら知らない歌を。今までサビしか知らなかったその外国の歌は耳馴染みの良いメロディーなのに、ドラマティックな展開を聞かせるわけでもなく、ただ淡々と続いていく。随分と軽快なテンポだ。何と言っているのか聞き取ることもできない下手くそな英語に、本当に観光客を相手に通用しているのかと疑問を抱きながら、心地良い低音が空気を震わせるのを聞いていた。
「なあ、歌っとったら元気になれるんやんな?」
さあて、それはどうだろうか。イタリア人の皆が皆、陽気というわけでもない。イタリア男はたいてい女好きかもしれないが。
「人によるんじゃねぇの」
「そっかあ」
相変わらずの緩さで相槌を打って、何が楽しいのやらニコニコと笑っている。元気になることはないが、彼を見ていると悩んでいる自分が馬鹿なんじゃないかって思うことはある。何せ、アントーニョはあまり細かいことを気にしない。ロヴィーノがどれだけ突っぱねても不快を態度に表しても関係なく自分のやりたいように生きている。
強引でいい加減ではあったが、どこか憎めないその男に、知らず知らずの内に気を許していたのか、結局その後も乾燥が終わるまでそのままで雑誌を読んで過ごした。
その日の夜はいつもより幾分、穏やかな気持ちで眠りに就いた。