「あ、ロマーノ。そこ座っとって。今コーヒー淹れるわ」
まだコートも脱いでいないロマーノにソファを勧めて、返事も聞かずにキッチンへ逃げ込んだ。どうやって家まで帰ってきたのか、気がついたら見慣れた景色になっていた。何の心の準備もできていないのに、ロマーノは当然のように家までついてくるし(当たり前だ。そういう約束だったし自分はそれに了承した)、家の中はしんと静まり返っていてふたりきりであることを強烈に突きつけてくる。
心臓がぎゅうっと縮こまって変な汗をかいた。鼓動は高鳴り、握り込んだ拳の中は汗が滲んでいる。頭の中は真っ白だ。落ち着かせようと唾を飲み込もうとしても、口の中がからからだった。
緊張している。それも最上級に。こんなにドキドキするのも久しぶりだろう。まるで戦場にいる時のような、あるいは新しい航路を見つけ船に乗り込んだ時のような、高揚感とプレッシャーで目の前がぐるぐると回っている。そのくせ気分はやたらとハイなものだから、余計なことを口走ってしまいそうだった。
ロマーノがリビングにいる。
そんなことは今までにも何度もあったことなのに、今日はどうしても平静を保てそうにない。
湯を沸かす間も立ち止まっていられなくて、そわそわと行ったり来たりしてしまうほどである。こんな姿を誰かに見られたら、それこそ腹を抱えて一生からかわれるネタにされそうだった。
「はあ……あかん、落ち着かな……」
呟いた端から白々しさに肩を落とす。落ち着こうと思って落ち着けるものでもない。そんなことは自分が一番よくわかっていた。
「ロマー。コーヒー、ミルクどうする?」
「多めにしろ。あ、砂糖は入れるんじゃねぇぞ」
「はいはーい」
慣れ親しんだ手順は考えなくとも勝手に手が動いてくれるらしい。自分でも何をどうやったかわからないが、気がついたらミルクたっぷりのコーヒーをなみなみと注いだマグカップを二つ掴んで立っていた。
安物とは言え、コーヒー豆の香ばしい匂いとミルクのほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。それを思いきり吸い込むと少し力が抜ける気がして、何度か深呼吸をしてからリビングへと足を踏み入れた。
「あ、テレビはつけんじゃねぇぞ」
マグカップをテーブルに置き、気を紛らわそうとリモコンを手に取ったところでロマーノから声がかかった。
「ええ、なんで?!」
「いや……あー、えっと……会議のバカ騒ぎにうんざりしてんだよ! そう、そうだ。だからテレビの騒々しいのは暫くはいらねぇ」
「なるほど」
確かに一理あるかもしれない。今日もいつもと変わらぬ大騒ぎだった。そう言えば、ロマーノはあの喧騒に嫌気が差して会議に来なくなったのだ。半分ぐらいは自分が責められるのが嫌、というのも含まれているとは思うが。久しぶりの会議の騒々しさに多少面食らったかもしれない。そう思えばわざわざテレビをつける気にもなれず(そもそもスペインに見たい番組はない)、大人しくリモコンをテーブルに戻す。
しかしそうなると静けさが際立って落ち着かない。となりにいるロマーノのことを余計に意識してしまい、どうにかなりそうだ。
だってソファに並んで座ると、ロマーノの気配を強く感じられる。決して体のどこかがふれ合っているわけでもないのに、まるで二の腕同士がひっついているような熱や重みが伝わってくるのだ。
そういう意味では、ロマーノの質量は大きい。背丈は自分と変わらないどころか小さいぐらいだし、決して体格が良いというわけでもない。スペインのほうがよほど筋肉もあるのに、今こうやって並んでいると、どうしてだろう。自分などちっぽけな存在のように感じてしまう。それぐらい、ロマーノは大きかった。
今まで散々ハグもしてきたし、子どもの頃は抱っこもキスもしていた。それなのに今さらソファに並んで座るぐらいで何を言っているのだ、と、自分でもそう思うのに立場や状況が違うだけでそれは新鮮で堪らなく緊張するようなシチュエーションに感じられる。いつもなら場を和ませるために手数だけは多い会話の糸口が、今は何も思いつかないぐらい。
何も思いつかない。ロマーノと話したいことはたくさんあるのに、何を言えば良いのかわからない。
「あ、あー……せや、代わりに音楽でもつけよか」
「ああ、そうだな。お前の好きなやつかけろよ」
「せやなあ。何かあったかな」
またソファを立つ。ロマーノに背を向けて、リビングの壁際に置いているチェストへと歩み寄った。
チェストにはディスプレイ代わりになっているレコードプレイヤーと、何枚かの古いレコードが並べられている。レコードは中古で買ったものだ。昔持っていたものを一度手放したのだが、最近になってわざわざ最近になって買い戻した。そういうものだった。曲目は昔よく聞いていたポップスと、たぶん自分にはあまり似合わないジャズナンバー、一枚だけロック歌手が歌っているものもある。
「…………」
円盤を手に取って少し躊躇った。どれもこれもラブソングなのだ。
好きなものをかけて良いと言われたからには、これから再生する曲はどれであれスペインの意図したものになる。それを聞いて、ロマーノはどう思うのだろう。
あの雑誌のスペインのコーナーをロマーノは読んだのだろうか。もしもそうだとしたら、自宅のリビングにラブソングのレコードを置いているスペインのことを、どう思うのだろう。
息を呑んで、プレイヤーに円盤を載せた。まるで初めて蓄音機にふれた時のような慎重さで、決して傷をつけないようにと細心の注意を払って針を置く。気を抜くと変に力が入っている指先が震えそうだ。
ジジジ―――……
最初の音がブレないように、そうっと再生する。アナログのノイズ混じりにハスキーな声が、ゆったりとしたノイズ混じりに歌い上げていく。
歌い上げるのは、世界で一番有名なラブソング。
「え、……」
ソファに戻ろうと振り向くと、ロマーノが豆鉄砲でも食らわされたような顔でスペインのことを見ていた。あまりに意外で、想像していなかったとでも言うような、そんな表情だ。
きっとロマーノは知らないだろう。スペインがどんな気持ちでラブソングを聞くのかなんて。そもそも、そういった音楽を好んで聴くとは思っていないのかもしれない。
「好きな音楽かけてええって言ったから」
そんなつもりはなかったが、レコードの音に引きずられたのだろう。スペインの声も甘ったるくひそめられて、静かな部屋の中にやわらかく溶けていく。
「……これがお前の好きな曲?」
「ん、そうやで」
何度も何度も繰り返し聞いて、擦り切れるほど再生した。この曲が発表された頃はスペインはまだ他国との交友にあまり積極的ではなくて、ロマーノとさえ会う頻度が少なかった。会えない日々に想いを募らせ、甘いあまい音楽に、自分の気持ちを重ねるようなそういう、らしくもないことをしていたのだ。
「一度手放したんやけど……あんまりにも上手くいかへんから。全然伝わらんくて、もう諦めようかと思って。そん時はレコードがあるだけで辛かったから全部処分してん」
だからこの家にあるレコードププレイヤーは昔持っていたものとは違う。最近のレコードブームに乗っかって発売された比較的新しい(そして意外と安価な)ものだ。
「伝わらなかったって何……」
「あの雑誌、見たんやろ?」
「……っ!」
「せやから、あー……そういうこと」
ごまかしそうになって緩く首を横に振った。
「ファッション誌の恋愛相談コーナーで日本の女の子たちに笑われるほど拗らせている男がラブソングを聞いているんやから、恋愛しかないやんなあ」
くしゃっと笑う。自分でも情けない笑顔になっている自覚はあったが、この状況で格好などつけられるものでもない。
ロマーノは何を思って今日スペインの家に来たのだろう。どうしようもない不安と、少しの期待で地に足が着かない。
「勝手にロマーノの話してごめん。名前は出さへん約束やったし、俺もああやって人に聞いてもらって楽しんでたとこあったんやと思う」
ロマーノ本人には全く伝わらない不毛な感情が、全く見知らぬ他人にには喜ばれ、あまつさえ応援しているとまで言われる。本来ならばスペインの中だけで決着をつけてなかったことになったであろう気持ちの居場所を見つけたようで、楽しかったのは事実だ。
「あれは……俺のことなのか?」
「……せやで」
ロマーノが息を呑むのがわかった。
「お前は、いつから俺のこと、その」
「ずーっと前から……ロマがまだ独立するずっとずっと前からやで」
一度口にしてしまえば決壊したかのように言葉が澱みなく続いていく。ロマーノの目が見開かれる。想像もしていなかったのだろう。そこに今はまだ不快感のようなものは見えないが、罪悪感はあった。
「なのに、どうして何も言わなかったんだよ」
はっと吐き出された息。ロマーノの視線が揺らぐ。部屋の照明に照らされた琥珀色の瞳も、声も、さっきはあんなに大きく感じられた存在感すら揺らいでいるように見えた。ゆらゆらと心もとなく見えるのは、スペインが立っているせいだろうか。
「言うてたんやけど、あー……俺らって、その。今までもずっとああやったやんか。せやからあんま伝わってへんかったみたいで」
ロマーノを責める言い方にならないように言葉を選んで答える。スペインの言葉を受けて少し考えるそぶりを見せてから、まさか、と顔を上げた。
「お前の好きって、そういう……?!」
瞬間、わかりやすく顔を真っ赤にさせて狼狽えだす。相変わらず捻くれているようで素直な子だ。そのどうしようもなく伝わってくる感情の揺らぎや、ストレートじゃないまっすぐさにスペインは惹かれている。
「ちぎっ、まさか、お前のあれもこれも……!? てっきりいつものズレたアレかと思っていたぞ、ちくしょー!!」
「ズレたアレって何やねん」
「天然って言うか、ボケボケと言うか、あるだろ! そういうところ!!」
実はロマーノ以外の前ではそこまででもないのだが、スペイン自身意図して態度を変えているわけでもなく自然とそうなってしまっているので説明ができない。そうかなあ、と苦笑すれば、そういうとこだよ、と食ってかかられたが。
「お前……っ、ほんっと、わかりにくい!」
そうなのだろうか。フランスにはしょっちゅうからかわれているし、イタリアなどかわいそうなものを見るような生ぬるい視線を送ってきているのに。ロマーノが鈍いだけでは、と思ったが、お前にだけは言われたくねぇよ、と怒鳴られるのが見えていたので言葉を呑み込んだ。藪蛇というものもある。
「ごめんなあ」
「ほんとだ、ちくしょー!! そうとわかっていたら、俺はなあ!」
はて、首を傾げる。
「わかっていたら、何なん?」
「俺は……だから、俺はなあ!!」
・・・
ロマーノが顔どころか耳や首まで真っ赤にして、口をぱくぱくと開いては閉じている。言いたいことは決まっているのに、声が喉を通る時に掻き消されているような不自然さで、しかしスペインのことはしっかり睨みつけてきて。
眉が困ったようにハの字になっているのでこわくもない。
「俺は? ……ロマーノが、どうかしたん?」
「……っ!! ちぎっ、ちくしょースペインやろーテメェ性質が悪いんだよ……」
「えぇっ?! 俺の何が悪いって!?」
わりと善良で良い奴だと思っていたのだが。
いよいよ、ちぎちぎと鳴きだしたロマーノにおろおろと狼狽えていると、唐突にロマーノが立ち上がった。
「へっ、あ、ちょ……ロマ??」
そのままズカズカとスペインの目の前まで歩み寄って来たかと思えば、ぐいっとシャツの胸元を掴まれて引き寄せられる。勢いがつきすぎてたたらを踏みながらも、ロマーノにぶつからないようにどうにか踏ん張った。しかし視界ゼロ距離にロマーノの鼻先が迫る。
「ふえ?」
「俺だってテメーのことが好きなんだよ、ヴァッファンクーロ! そうとわかっていたら回りくどいことせず、さっさとくっついていたのに、ちくしょー!」
「…………へ?」
うわーうわーロマーノの顔が目の前にある! どないしよ、まつ毛めっちゃ長いやん、可愛え。大人になってもやっぱほっぺのもちもちは変わらんなあ、イタちゃんもそうやもんな。イタリアってすごい。
あまりの事態に半ば現実逃避で関係のないことを考える。その間にもロマーノの言葉を脳が処理しようとして、何度も頭の中で再生を繰り返していた。
誰が誰を好きだって?
回りくどいって何が?
くっつくってつまり?
疑問符だらけのスペインがそれを理解した瞬間。
ぼふっ
「あ」
ロマーノのことを言えないぐらいに顔が熱くなる。これは自分の恋愛相談コーナーを知られたのと同じぐらいの衝撃だ。
「え、ロマーノ、あ、えええ??? それって、つまり、その」
まともな言葉が出てこないぐらいに焦った。何の実感もないのに、得られる情報が多すぎて思考回路が渋滞を起こしているようだ。
目を回しながら焦るスペインを見て逆に冷静になったのか、ロマーノは少し落ち着きを取り戻していた。ふーっと大きく息を吐きだして、ずっと握りしめていたスペインのシャツを放してくれる。解放されたからと言ってスペインには何ができるわけでもなかったが、息苦しいのはマシになった。酸素を入れたほうが良いかもしれない。
「ロマ、あの、あの。俺の勘違いやなかったら、それって告白に聞えるんやけど」
ふっと笑う音。顔を上げるとくしゃくしゃの笑顔でロマーノが鷹揚に頷く。
「そうだよ。俺は告白してんだ。他でもないお前に、スペイン、アントーニョ・ヘルナンデス・カリエドに」
その声があまりに穏やかだったので、スペインはいつぞや夢に見たロマーノのことを思い出した。笑顔も夢の中の姿と重なる。優しくて、世界中の幸せを煮詰めたような、まるでスペインのことを慈しみ愛するような笑顔。声。
信じられないほどの幸福感が沸き起こってスペインは理解した。これが現実だということを。
レコードはゆっくりと止まる。最後の余韻を響かせるように、あたたかなアナログの音が再び静まり返ったリビングに緩やかに広がっていった。