子どもの庭

 暖炉の前に座り込むロマーノに歩み寄り、背後から彼が抱えているものを覗き込んだ。それは子どもの体には大きすぎるような本だった。挿絵が入っていて、文字の読めない者にも内容がわかるようにしているものだ。

「なあなあ、ロマーノ。それ俺んちの本やけどひとりで読めるん?」

 両手を背中で組んで、座り込む子どもの肩越しにひょっこりと顔を出す。声をかけられたロマーノは難しい顔で眉をひそめていた。

「……ちぎぎ、ぜんっぜんよめねぇぞ」
「はは、せやろなあ」
「雨ふっててヒマなんだよ。せっかく中庭であそべるとおもったのに」

 今日のスペインは一日休みだ。先日は仕事が入ってしまってゆっくりできなかったから、今日こそはふたりで遊ぼうと予定を立てていたのにあいにくの天気だった。

「せやなあ、こればっかりはお天道さん次第やしなあ。……よし、ほな親分が文字教えたるわ。夜寝る前に音読したって。今は一緒に読もうなあ」

 そう言ってロマーノを後ろから抱きしめる。いつもなら文句のひとつも飛び出してくるのだが、今日はとても大人しかった。よほど本の内容が気になるらしい。自分がいなくても読めたほうが本人にとっても良いだろう。文字を教えるべく、ひとつひとつ単語を指さしながら読み上げていく。

「ほんまスペインさんはロマーノくんのことになるとよう気ぃつくなあ」

 朗らかなベルギーの声に視線を向ける。

「ベルギー! オランダも、おはようございますだぞ」
「おはよう、ロマーノくん」
「もう出て行くん? 晴れるの待って行ってもええやん」
「うーん雨止むのいつになるかわからんし、予定通り里帰りしますわ」

 ベルギーの後ろでそっぽを向いていたオランダが可愛い弟分の声に反応する。彼とは折り合いが悪く関係もギクシャクしているが、さすがに幼いロマーノの前でまで険悪な雰囲気を作る気はないらしい。言葉少なに挨拶を交わしている。

「文字を教えてもろたん?」
「おう! ねるまえにきかせてやるんだぞ」
「えらいなあ」

 にこやかなベルギーと元気いっぱいのロマーノが会話をしていると、スペインまで明るい気持ちになってくる。胸のあたりがあたたかくて、まるで自分まで善き者になれるような気がしてくるから不思議だ。

「なあベルギー、そのリボンってあたらしいやつか?」
「そうやで! よう気づいたなあ。こないだ市場に行った時に見つけてん」
「かっかわいいぞ! ベルギーににあっている」

 ふたりのやり取りにきょとんと首を傾げる。あいにくスペインは彼女のリボンの色の違いを覚えていなかった。ベルギーの後ろにいるオランダもそのようで、彼も不思議そうな顔をしていた。そんな些細な変化に気づいたロマーノに驚いているらしい。

「お兄ちゃんもスペインさんも全然気づいてくれへんねん。でもロマーノくんはいつもすぐわかってくれるなあ」
「? そんなのあたりまえだろ。ベッラがかわいくしてくれているのに、何も言わないなんてマナー違反だ」

 さすがイタリア男。そんな言葉が出かかったところでさらなる火の粉が降りかかった。

「スペインさんが気づくのはロマーノくんのことだけやからね」

 暗に気の利かない男だと言われているような気がして首を竦める。そのロマーノにすら、スペインはわかってくれない! と怒鳴られることも度々あると言うのに。

「親分さんやからな。ちゃあんと見ているんやろね」
「……そんなええもんとちゃうやろ」

 それまで黙っていたオランダが耐えかねたように口を挟む。

「お兄ちゃんはスペインさんに文句言いたいだけやろ」
「だいたい親分ってなんやっちゃ」

 吐き捨てるようなオランダの言葉にもベルギーはくすくすと笑い声を立てている。自分も人のことを言えないが、ベルギーは少しズレていると思う。紙一重で天然と言うべきか。

「うーん、それはうちにはようわからんけど……親分なあ。男気がある態度? でもそういうのって女には理解できへんやん」

 別に理解する気もないとでも言うような言い方だった。男ってそういうの気にするやんなあ、知らんけど。女性陣がよく使う言葉である。呆れられているのだろう。自ら親分と名乗り男らしさを誇示したがる節があることを自覚している身としては、何とも言い難い話題だ。別にわかってもらおうとも思っていないのだけれど。

「スペインさん、上司さんにロマーノくんのこと守るんやって言うたんやろ?」
「ああ、まあ……」
「……のくてぇやっちゃ」
「そういうのはかっこええなあって思うで! トルコに連れさらわれそうになっているところ助けたりして、まるでロマーノくんの騎士さまやね」

 褒められているのだろうか。あの時は上司に散々にどやされ叱られ大変だった。だからと言って曲げるわけにもいかず、ヘラヘラと躱しながらどうにか守り抜くことができたが、国として上司に楯突いてどうすると言われれば何も言えない。ベルギーの言葉もどう受け取って良いかわからずスペインは曖昧に微笑んだ。ごまかすつもりだったが、それが良くなかったかオランダが面白くなさそうに鼻を鳴らす。

「ま、何をもってかっこええとするかなんて、うちからしてみたらどれも一緒やねん。せやから所詮、自分の信条やん。貫いたらそれが男気やって思うんよ」

 もしかするとこの場にいる誰よりも男気のある彼女がふんわりと笑って言った。迷いのない言葉に呆気にとられると同時に、スペインも彼女ぐらい朗らかでありながら芯の強いものでありたいと思った。

「せやから思うんよ。スペインさんが自分のかっこええと思う親分を貫いたら親分なんやって」

 さてその理屈で言えばスペインは自分を貫いた結果、子分を口説き落としてしまう男こそが親分だと思っていることになってしまうが……いや、深くは考えまい。
 
 
 
 ベルギーたちを見送りに玄関まで出た。ふたりは二、三ヶ月で戻る予定だが、オランダはどうだろう。最近、彼の家の周辺では不穏な動きが目立っている。

(そろそろオーストリアにも相談したほうがええんかなあ)

 考えるだけで気が滅入ってくるような議題だ。またウィーンまで出かけて行って会談の場を持たなければならないかもしれない。

「さいきん雨ばっかでつまんねぇぞ」

 ロマーノがぽそりとぼやいた。彼の言う通り、ここ数日雨の日が続いている。雪ではなく雨。春を連れてくる雨だ。

「んーそろそろ止みそうなんやけどなあ」
「そろそろっていつだ?」
「二、三日中には」
「今日は?!」
「さすがに今日は晴れへんかなあ」

 空は分厚い雲が覆っている。当分は雨が振り続けるだろう。これが過ぎれば春はすぐそこだ。ピクニックも小川で釣りも良い季節になるだろう。

「……つまんねぇぞ」
「家での遊びにも飽きてしもた?」
「お絵かきもえほんも飽きた!」
「うーん、さっきまで本読んでたのになあ」

 子どもの興味の移り変わりの早さには舌を巻く。これでもまだロマーノはひとつのことに集中するほうだ。スペインが押さなかった頃なんて……今もそうだが、好奇心のままにあちこち突き回していた気がする。

「それやったら親分以外とならどうやろうか」

 きょとんと小首を傾げるロマーノにニィっと口端を持ち上げた。歯を見せて悪戯っぽく笑むと、警戒心をむき出しに眉をひそめられるので余計におかしくなった。
 その耳元に唇を寄せて、とびっきり甘やかした声で囁いた。恋人にサプライズでプレゼントを贈るような、そんな気分。

「手紙が届いてん。今日か明日あたりにイタちゃんたちが家に来るって」
「えっ」
「もう来てますよ」

 驚くロマーノの声と大人の涼やかな声は同時だった。部屋の入口を振り返ると、オーストリアとヴェネチアーノが並んで立っていた。ヴェネチアーノはいつものメイド風のエプロンドレスではなく、よそ行きの上品なワンピースを着ている。ライムグリーンの爽やかな色合いが春先の今の季節によく映えた。

「あれー早かったなあ」
「貴方、また手紙を溜め込んでいたのでしょう。先週には届くように出したはずですよ」

 図星だった。

「ちゃんと馬車で来てくれたん?」
「ええ、まあ」
「そこの街道までおくってもらったんだよー。でもスペインにいちゃんのお屋敷がどこかわからなくて、ちょっとまよっちゃったんだけどね」

 ヴェネチアーノが、らしくもなく歯切れの悪いオーストリアの言葉を継いで無邪気に説明してくれた。ちゃんと家の前まで送ってもらうように言っておいたのに……もちろん街道から迷子になるほうが難しいのだが。基本的にスペインの家まで一本道だ。

「まあ大捜索せんでもちゃんとたどり着いたんやったら良かったわ。イタちゃんがオーストリアのこと連れて来てくれたん?」
「えへへー」

 バツの悪そうな顔をしているオーストリアを横目に、愛らしい笑顔ではにかむヴェネチアーノの頭を撫でてやる。これがおそろしいことにお世辞じゃなさそうなところが困るのだ。オーストリアひとりでは、あの街道からでも自力ではたどり着けまい。
 挨拶もそこそこに荷物を家の中に運ばせる。今日の用事はオーストリアがスペインで仕事があるということで、二、三日、ヴェネチアーノを家で預かることになっていた。あいにくの雨模様なのが残念だったが、ロマーノも弟と一緒に過ごせるから良いだろう。
 視線を下げるとロマーノは早速ヴェネチアーノの鞄を手にして自室に案内している。仲が良いのか悪いのか、スペインから見てもよくわからないふたりだったが、互いに自分の部屋に相手を泊まらせることには抵抗がないみたいなので安堵する。そういうところは家族を大切にするイタリア人気の質が大きく影響しているのかもしれない。

「にいちゃん、ハンガリーさんがおいしいおかしを持たせてくれたの。後でいっしょにたべよ」
「なんだと! でかしたぞ馬鹿弟め! 俺もようはベルギーのワッフルがあるんだ。ふたり合わせたらごちそうだな!」
「ほんとー? うれしい! ぼくベルギーさんのワッフルだいすきだよ」

 お菓子の話題であんなにはしゃげるのも子ども同士だからだ。スペイン相手じゃ、せいぜいチュロスを作れと言われて、だったら一緒に作ろうとしかならない。

「ロマーノ、おやつの前に荷物片しておいで。絵本も棚に仕舞ってな」
「えほんがあるの?」
「そうだぞ! 俺はもう字がよめるんだ。スペイン語だってわかるぞ」

 さっきスペインが教えてやったところだ。読めると言えるほどでもないが、あの絵本ぐらいなら内容も覚えているだろう。

「わあ、にいちゃん、すごい! ぼくなんて字はまだぜんぜんだよー」
「おまえもにっきをかけよ。すぐおぼえられるぞ」
「そうなんですか?」

 へぇ、と感心したようにオーストリアが訊ねてきた。ロマーノの日記についても文字を教えていることにしても、どちらも本当のことだったので頷く。すると彼は喜ばしいことだと微笑んだ。

「貴方のことですから甘やかすだけ甘やかして、何もしていないのかと思っていました」
「どういうイメージなんやろ……教育についてはロマーノが家に来てからずっと力入れているんやで」

 なかなか功を奏していないところも多いが。家事などはほとんど成果を上げていないと言っても過言ではないのだが。

「にいちゃんはすごいなあ。ぼくもえほんをよみたいな」
「仕方ねぇなあ。あとで俺がよんでやるよ」
「ほんと? わあ、にいちゃん、ありがとー!」

 弟から向けられる賞賛に気を良くしたのか、ロマーノが照れくさそうにはにかんだ。ああ、その表情は自分ではなかなか引き出せないものだ。スペイン相手ではロマーノはどうしても子どもっぽい仕草が多い。それは知らず知らずのうちにスペインが彼のことを子どものように扱っているせいなのだろうけれど。

「……ああ、なんかええなあ」

 小さな身体を弾ませて全身で喜ぶふたりを見ていたら自然と呟いていた。

「ほんまに羨ましいわ……」
「何がですか?」
「へあ?」

 オーストリアに問われて我に返る。あれ、今自分は何を言いかけていたのだろう。

「今何か言いませんでした?」
「……うーん、あれ。何やろう? 思い出されへんなあ」

 首を傾げてみせる。相手は怪訝そうな顔をしていたが、スペイン自身、自分の考えがよくわからなくて首を傾げるしかなかった。

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