誰もが褒める中庭は確かに美しい。しかしスペインの楽園はそんな誰もが足を踏み入れることのできるものではなかった。彼の愛する庭は、彼の国の人ですら立ち入ることのできないと言われている離れにある。
「おっせぇぞ! 一体いつまでまたせんだ、このやろー!」
スペインを出迎えたロマーノがぽこぽこと怒っている。スペインの腿のあたりまでしかない小さな身体で、生意気にも腕組みをして仁王立ちをしていた。
「すまんなあ、上司に捕まっとってん。すぐ用意するわ」
「じょうしぃ? ……スペインこのやろーめ。ほんとに仕事おわっているのか?」
今日は朝からロマーノと離れの中庭でピクニックをする予定だった。テーブルセットを出して、バスケットに詰めたパニーニを食べ、青空の下ふたりきりで遊ぶ。
誘ったのはスペインだ。最近忙しかったから久しぶりにロマーノとゆっくりしたい。ロマーノも離れの中庭を気に入っていたし、スペインと遊ぶのを楽しみにしていた。
しかし朝から上司に捕まった、ということは仕事で何かあったということだ。幼いロマーノの眉が器用に寄せられていく。
「あーちゃうで。手紙の返事を溜め込んどってなあ、そのことで。仕事はちゃんと昨夜のうちに終わらせたから大丈夫や」
「てがみ?」
ごまかそうとへらっと眉を下げて笑ってみせるが、ロマーノの真っ直ぐな眼差しは追及を続けた。おまえ、まさか……ひそめられた眉根がぴくぴくと引きつる。
「いやあ、うぅん……今朝、オーストリアから返事の催促の手紙がきとって……」
筆不精なスペインは手紙を数週間分も溜め込んで、まとめて返事を書く癖がある。付き合いのある相手からは、おかげで気長になったなどとぼやかれる始末だが、そうは言われても癖を改める気にはなれなくて、やっぱり数週間分を溜め込んでしまう。
その当然の結果と言うべきか。ついには溜め込んだ手紙の返事を催促する手紙が届いたのだ。それも一度目の催促はスペイン宛てだったが、二度目は上司直通。それで溜め込んでいたことが発覚し、今朝の大目玉に繋がったのだ。
「それってつまりだめなんじゃねぇのかよ」
ロマーノが呆れた顔で見上げてくる。
大事な内容だったらどうするんや、早く返事を書け、とカミナリを落とす上司に往生際悪く泣きついて、もう少し待ってや、今晩書くからと駄々をこねたスペインよりも彼のほうがよほど大人だった。
最近のスペインは書類仕事が溜まりに溜まっていて机にかじりつく日々が続いていた。元来、じっとしていることが得意ではない彼にとっては苦痛でしかなく、すっかり煮詰まっていたのだ。窓の外は快晴で天気も良いというのに、一体何をやっているのだろう。
だからスペインも今日のことをとても楽しみにしていた。上司の無粋な文句さえなければ、今頃は何の気がかりもなく離れに飛び出して行ったのに。
「せ、せやけどぉ……」
しゅん、とあからさまに肩を落として気落ちしてみせると、ロマーノもおろおろと困ったようにうろたえだす。何とも大人げないことをしている。自覚しながら顎を引いて上目づかい。傷ついた顔をしてみせれば、ロマーノはいちいち律儀だった。
「うぅ……でもオーストリアのやつ、こまってんじゃねぇのか?」
その通りだ。
「しかも上司がよびだしてきたなら、今すぐかいたほうがいいんだろ?」
スペインとしては返事なんて昼間に書こうが夜に書こうが今さら大きくは変わらないと思うのだが、上司は早馬を出すと言って聞かない。確かに一ヶ月近く放置している自分が悪いのだけれど。
困ったなあ、でも今日はロマーノと一緒におる日って決めてたしなあ、頭を悩ませて考えつつ、結局どうすることもできない。仕方ないので妥協案を提示した。
「……わかった。中庭のパティオで返事書くわあ。天気ええし、外のほうが捗ると思うねん」
本当はロマーノとふたりで遊びたかったのに。しかしそこはそれ。ぐっと堪えて、遊んでいるロマーノを見守りながら催促されている返事を書き上げることで我慢することにした。
「ふん、おまえまで一緒になってあそぶんじゃねぇぞ」
「せやなあ、頑張るわ。ロマはバスケットを頼むな。腹が減ったら一緒に食お」
「おう、まかせろ! このバスケットは俺がまもってやるぞ!」
ロマーノの大好きな具材ばかりを挟んだパニーニと水分代わりのフルーツを詰めたバスケットを見せる。食い意地の張った彼は素直にバスケットを受け取って大事そうに抱えた。その姿に吹き出しそうになりながら、膝かけと筆記用具を持って屋敷の裏手から外へ出た。小さなロマーノに合わせてゆっくり歩くことを忘れずに、彼は彼の楽園へと出かけたのだ。
屋敷の裏には十年ほど前に開墾した畑が広がっている。この畑はほとんどスペインの趣味で世話をしているようなもので、自分たちが食べる分ぐらいの規模の小さなものだった。側道は馬も通れないほどの細い小径と雑木林になっていて、大人の足で歩いて五分ほど行ったところに石造りの小さな橋が架かっている。散歩にはもってこいだし、橋の下を流れる小川では天気の良い日に釣りもできた。もっともスペインの屋敷の敷地内だ。裏の畑を含めて、このあたりを訪れる者はもっぱらスペインと彼の小さな子分だけだ。
小川に架かる橋を渡った先、小高い丘の上に小ぢんまりとした離れがある。客人をもてなし多くの国や人が寝起きする本邸とは違って昼間でも人けがなく、いつもひっそりとしている。この静かな離れはスペインの個人的な空間なのだ。
「スペイン、はやくはやく!」
「ちょっと待ってなー鍵開けるからこれ持っといて」
「ん」
逸るロマーノの肩に持っていた膝かけをかけると、門を開ける。滅多に人の訪れることのない離れは時間が止まっているかのようだ。ロマーノの背を押して中に入るよう促す。門をくぐり、大きな扉を開いて室内へと足を踏み入れれば、まだ昼間だと言うのに中は暗かった。回廊は二階までの吹き抜けになっていて、どの部屋の暖炉も当然ながら火が入っていない。しかし明かり採り用の天窓から差し込む太陽光のおかげか、それほど寒さは感じなかった。等間隔に窓から差し込む陽射しがやわらかな陽だまりをつくっている。そこを通る時はぽかぽかとしていて、少し暑いぐらいだ。今日が過ごしやすい気候で良かった。
離れの中庭は本邸とはかなり趣が異なっていた。応接間から直接降りられるあちらの中庭とは違い、こっちは正方形の回廊の途中にある木の扉からしか行き来ができないようになっていた。そのため四方は二階まである白い壁で囲まれていて、広さはそれなりにあるもののどことなく閉鎖的だった。箱庭と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。庭から上を見上げれば、空が四角く切り取られている。青く澄みきり清々しい青空。本来は大地を抱く、広い広い大空だ。
そうっと扉を開くと、光あふるる楽園のような中庭が目の前に開けた。ロマーノが嬉しそうに歓声を上げて飛び出す。その後ろを追いかけながら、転ばんといてな、と声をかける。まだ幼いロマーノは頭が大きくて、足がもつれやすいのだ。彼はきゃらきゃらとした声を上げながら、わかっている! と返す。言ったそばから転げそうになっているが、危なっかしいながらもロマーノは中庭を駆けて行く。
本邸と比べるとだいぶ小ぢまりとしているが、離れの庭にも噴水が引かれている。凝った細工のないシンプルなものだ。ロマーノは一目散に水辺へと駆け寄って行った。噴水の周りには小さな滝や川もあり、夏場ならば水遊びもできた。最近は日中こそ暖かくなってきたとは言え、まだまだ風が冷たく上着がなければ肌寒い陽気だ。さすがに水に入ることはできないが、ロマーノにには流れる水を見ているだけでも面白いらしい。
庭中に様々な草木が植えられていて、季節ごとに色とりどりの花を咲かせた。中にはイタリアで自生しているものや、欧州では見かけない珍しいものもある。それらは全てスペインが持ち込んだもので、彼が自ら育て世話をしていた。
そもそも離れ自体が全てスペインの管理下にあった。掃除も洗濯も、料理だって彼が自ら行っているのだ。本当はロマーノにも手伝ってほしいのだが、まだ幼くて不器用な彼には難しいようで、今はできるところからやらせている。ロマーノは料理や庭いじりのほうが得意なようなので、もう少し大きくなったら中庭全体の手入れをさせてみるつもりだ。
「ローマー! バスケット置いて行き!」
スペインは中庭の一角にあるパティオに足を向けた。アーチ型の屋根がかかっていて、白い石でできている。中には人が寝そべられるぐらいの大きさのベンチがふたつ、大きなテーブルを挟んで向き合っている。世界地図を三枚は広げられるテーブルに持ってきた便箋と資料を広げた。書斎とは違ってすぐに調べ物をすることができないから、念のために本やら書類やらを持ち込んだのだ。
離れの自室にも机はあるが執務用ではないのでここまで広げることはできない。このパティオはロマーノと絵を描いて遊べるようにと、わざわざ大きなものを設えたのだ。思わぬところで役に立つ。
柱にはハンモックがくくりつけられている。これは夏の間に、スペインがシエスタをするためにつけたものだ。その時もロマーノは水辺で遊んでいた。ぱしゃぱしゃと立つ水音とロマーノの歓声が心地良かったことを思い出して目を眇めた。
「さてと、やるでー!」
腕まくりをして鷹の羽根でこしらえた羽根ペンを握りしめた。積み上げた封筒の塔の一番上はオーストリア宛て。しかし今日はできる限り崩していくと決意して、一心不乱にペンを走らせた。
しばらく真面目に手紙と向き合っていたスペインだったが、ふと集中力が途切れて顔を上げた。いつの間にかロマーノはパティオに入ってきていた。彼はスペインの向かいのベンチに座ってチェリーの木でできた机に肘をついている。何が面白いのかスペインが書き物をしている姿をぼんやりと眺めていた。
「……なにー? 親分が真面目にしている姿見て、カッコええって思った?」
「んなわけねぇだろ、ちくしょ」
そっけなく返される言葉に少し落胆する。いつだってカッコ良く思われたいのに、どうにも上手く伝わらない。男は背中で語れ! と思ってはいるのだが、ついおしゃべりになってしまうところがいけないのだろうか。
「相変わらずつれんなぁ……」
「おい、サボってていいのかよ」
ちょっと休憩、とテーブルに突っ伏したら、不機嫌そうに唇を尖らせたロマーノに咎められた。それを軽く受け流して手招きする。
「なあなあロマーノ、こっち来てや」
「手紙はかきおわったのかよ」s
「んー……」
「なさけねぇな。そんなんじゃ、いつまでたってもおわらねぇぞ」
「せやけど。こうも連日、机にかじりついとったらさすがに嫌になるわ……手紙って言うても難しいことばっかやもん。俺かて癒やしがほしいねん」
どちらが子どもかわかったものじゃない。駄々をこねればロマーノの形の良い眉が跳ねる。
「おまえなあ……」
「ええからこっち。たまには親分に優しくしたってよ」
強引に手招きする。早く、じっと見つめて急かすと、はあ、とため息をついたロマーノが呆れながらも動いてくれた。とてとてとスペインのそばまで寄ってきた。来てやったぞ、声をかけてきた少年の腕を掴む。机に突っ伏していた身体を起こしてロマーノを抱き上げた。わ、驚いた声が上がったが、そのまま膝の上に乗せて抱きしめた。
細い少年のうなじに高い鼻先を押し付ける。ロマーノからはミルクのような甘い匂いがした。スペインの好きな匂いだ。その匂いを嗅いでいるとどうしようもなく胸を掻き毟られるような激情と、彼を大切にしたいと思うあたたかな想いがこみ上げてくる。とくとく、心臓がゆっくりと速度を上げていく。
ああ、ロマーノ。ロマーノ。可愛え俺のロマーノ。
口には出さないまでも、ぎゅうっと抱きしめる腕に力を込めた。ロマーノがくすぐったそうに首を竦めた。それが堪らなく愛おしい。
「おい、……スペイン」
「んー? なあに?」
スペイン自身、驚くほど甘ったるい声が出た。客観的に判断できる者がここにいたら眉をひそめられたかもしれない。とても子どもにかけるような声ではなかった。
ロマーノは一度呼びかけてきたきり、口ごもってしまって何も言わなかった。彼はこの状況についてどう思っているのだろう。こう見えて意外と肝が据わっている彼のことだ。案外、何も感じていないのかもしれない。
「なあ、お歌を歌ってくれへん?」
「えー……めんどくせぇぞ」
「歌ってくれたら続き書くわ。なあ、俺が集中するまでの間でええから」
全くどんなワガママだよ、そうぼやかれても小首を傾げてお願いすれば、ロマーノがその愛らしい顔をしかめて呆れている。それでも彼は最後には、しょうがねぇなあ、と言って舌足らずの歌を披露してくれるだろう。だから歯止めがきかないのだ。何だかんだでそうやって甘やかすから、スペインもつい調子に乗って甘えてしまう。彼はそれをわかっているのだろうか。
この中庭には未だロマーノ以外の誰も足を踏み入れたことがない。スペインに用がある者は離れの玄関口に置いているベルで呼び出すことになっているし、庭の手入れをしているのはスペイン自身だ。別に誰にも知られなくて良い。この中庭はスペインとロマーノだけのものだ。
「ーーー……」
そんな秘密の中庭にロマーノの幼い声が響きわたった。たどたどしく紡がれる歌詞は最近流行りの大衆歌で、軽快なメロディーと哀愁漂う歌詞がイタリアらしい。ロマーノが、その歌詞の意味をどれだけ理解しているのかは疑問があったが、子どもらしく素直に歌い上げる姿はとても可愛らしかった。
ロマーノはこうやってスペインが頼んで歌をうたうこともあれば、きゃらきゃらと子どもらしくはしゃぎ回っていることもあり、あるいは気まぐれに神様への祈りの言葉を紡ぐこともあった。光かがやく庭の端っこでこっそりと何かを祈るロマーノの姿は神秘的で、いたいけな神聖さを放つ。……そういう時のロマーノのことを、スペインは少しだけ苦手としていた。ロマーノが神様に祈ることを厭っているのではない。ただスペインの中の信仰心とロマーノへの愛情が重なってしまうことが、とにかくおそろしかった。
「…………ッ」
息が詰まる。ロマーノの外見には不相応の諦念を漂わせた眼差しが、スペインを通り越して虚空へと向けられている。その瞳には何の感情も映っていなかった。ただ穏やかに、すべてを諦めた色が載っている。その顔が先ほど鳥の巣にはしゃいでいたロマーノと一致しなくて胸がざわつく。大人びているどころではない。少年の瞳には不釣り合いの老成すら感じた。
オリーブ色の瞳は陽の光を受けて琥珀のように輝く。相変わらず綺麗な瞳だ。充血のひとつもない青みがかった白目に、一切の濁りのない瞳。彼の瞳孔はくっきりとした黒色で、きれいな形の正円をしている。虹彩はみどり色だが、外側に向かうほどに黄色みが混じるため光の加減で違って見えた。ほとんどスペインと変わらないグリーンに見えることもあれば、弟のヴェネチアーノ同様のアンバーに見えることもあった。しかしたいていの時は、こんな風に黄色がちのみどり色をしている。スペインはその瞳を狼の目と呼んでいた。スペインと同じみどりの瞳に黄金の色彩が沈殿した瞳だ。
まだ幼いのに、元々ロマーノは大人が見てもハッとするような、とても整った顔立ちをしている。このまま成長すれば将来は彼の大好きなベッラが振り返るようなイケメンになるだろう。何せ眉の形が美しい。スッと通った鼻の付け根からバランス良く伸びた眉は、何の手入れもしていないのに理想的な直線を描いている。輪郭が整っているからだ。左右対称の均整の取れた骨格は、どんな権力者がいくら欲しいと願っても手に入れられるようなものではない。
美しい骨格に、正しく配置された顔のパーツ。目鼻立ちは大きすぎることも小さすぎることもなく、しかしくっきりとしている。幼いながらも既にどことなく凛々しさすら漂わせているのは、彼の心持ちが滲み出ているからなのだろうか。
そのいつもキリッとした顔立ちに、今はどことなく憂いを漂わせていた。物憂げでセンチメンタルな眼差しは何を見ているのだろう。
「ロマーノっ!」
神聖な祈りを捧げる時のような厳かな感情が込み上げてきて、咄嗟に胸を押さえた。ともすれば、それは些細なきっかけでスペインの胸に去来する決して抱いてはいけない感情だ。スペインはロマーノのことを可愛がってはいたが、信仰する気はなかった。信仰してはいけなかった。この子どもを神格化したくない。できない。
「……スペイン?」
思わず抱きしめると歌声がやむ。腕の中に抱かれた彼は不思議そうな声でスペインを呼んだ。ロマーノもまた異様な雰囲気を感じ取ったのか不安そうにしている。おずおずと腕の力を緩めて彼の顔を覗き込む。眉根を寄せた子どもがスペインに縋るような視線を向けていた。
その姿にようやっと安堵して、スペインは微かに笑った。きっと、ひどく情けない笑みだっただろう。