まな板の上から

R-18。
キスの日ネタ。

 今日のスペインはキスの日だった。
 ロマーノがリビングのソファでくつろいでいたら唐突にキスをされた。なんだよと顔を上げると、それには何も言わずに返事の代わりか鼻の頭へと唇が降ってくる。なあと呼びかければ頬に、おいと言えば額。だんだん気恥ずかしくなってそっぽを向いたら、今度は手をとられてその甲へと口づけられた。ぎょっと振り返って見るとロマーノの手を恭しく掲げられて顔が熱くなる。何似合わねぇことしてんだ恥ずかしいやつ! 自棄になってそう言ったのはもうずいぶん前だ。やられっ放しでは癪なのでお返しに悪戯ばかりする唇に吸い付いたら離れられなくなってしまった。
 本当はすぐ終わるつもりだったのに、ちゅっと音を立てて離れようとしたらスペインの唇が追いかけてきてやり返される。それで終いにすれば負けたみたいだと、されたものより長く口づけてから離れたら今度はそれより長く重ねられた。躍起になって不毛な追いかけっこを繰り返している内に面白くなってきて、どちらからともなく忍び笑いが漏れだす。くすくすと笑いながら何度も何度もキスをした。

 挨拶と変わらないスキンシップの延長のようなそれが、啄むように明確な意図を持って口づけられるようになって、気がつけば互いの呼吸を奪い合うように唇を貪っていた。ロマーノの腕がスペインの首の後ろへと回され、それを合図に舌で口端を舐められる。この時はまだ余裕があって、どうやって目の前の男を驚かせてやろうかと考えながら、その下唇に歯を立てた。反応を見るべく薄目を開くと、焦点がぼやけるほどの至近距離でスペインが眉根を寄せて何かに耐えるような顔をしていた。それがおかしくて、満足してその舌を口内へと招いてやる。我が物顔で侵入してくるのがまさにスペインそのもののようで、またおかしくなって笑いが込み上げた。
 ソファで体を捻って抱きついていたから少し疲れて背中が痛い。もぞもぞと身じろぎをすると、スペインの丸く大きな手のひらが腰に回された。
 彼の手は仕事をするのにとても向いている。手のひらが厚くて皮が分厚い、丸っこくて働きものの手だ。いつも温かい手のひらは、常より温度が高いように思う。シャツ越しにも熱いとわかる温度の高さにずるずると力が抜けてソファに沈み込み、重力に任せるまま後ろへと倒れた。その拍子に唇は離れてしまったが、またすぐに追いつかれて頬や目の下にキスをされる。ほんの少しも待てないのかとにやけるのが止められない。

 スペインとは、どちらが引き金を引いたかは問わず、何かに追われるように性急な行為へと及ぶこともある。と言うより、ほとんどの場合がそれなのだが、まるで獣にでもなったかのように、どうしようもない飢餓感に突き動かされるまま求め合うのは嫌いじゃなかった。はじめから頭の中が煮立っていて呼吸さえも儘ならず、ただ振り落とされないように必死でしがみつくことしかできない。頭の中を白く塗り潰されて、たいていのことがどうでも良くなっている。恥ずかしいとか苦しいとか、どれもが些細なことになる瞬間。愛しているなんて言っている暇もなくて、ただ口について出るのに任せて意味もなく名前だけを呼ぶ。その時だけはロマーノの世界のすべてがスペインになるのが、嫌ではないのだ。
 それに比べれば今はやけに緩やかで、セックスのはじまりとは思えないほど穏やかな気持ちだった。このまま飽きるまでじゃれ合って眠りに就きそうな。
 そういう時、ロマーノは長くいすぎたなあと思う。あるいはふたりの関係に名前が多すぎるのかもしれない。手を繋ぐだけでドキドキしてどうしようもなくなることもあれば、舌を絡め合っているのにウトウトと眠気が訪れることもある。

 そうしてふわふわとした夢見心地を漂っていたら、スペインの指が今日キスをしたところを確かめるようにふれていった。額にかかった前髪を掻き分け、こめかみへ。頬を包み込むように添えて、瞳を覗きこまれた。スペインの目は翡翠のような宝石よりも濃い、青葉の色をしている。その濃緑の瞳がリビングの蛍光灯を反射してキラキラと瞬いた。
 ぼんやりと、その色が真夏の陽射しの強い日にスペインで見る木漏れ日の色と同じだと思った。その途端。不意にスペインの舌がロマーノの舌の根を抑えた。

「は……、ァっ」

 押し殺しきれなかった吐息が漏れてやけに大きく響いたことにロマーノ自身が驚いて、思わず顔を離して見上げると、キョトンとしたみどり色の瞳とかち合う。どうしたん? いや、気にしてないなら良いと瞼を伏せる。ふうん、気のない返事は上の空というのがありありと伝わってくる。

 気まずくなって腕を持ち上げて目を覆っていたらシャツのボタンを外された。遠慮のない指先がするすると前身頃を開いていくので、じとっと睨み付けたがスペインは気づいていないのか、やけに楽しそうな顔で袖を抜かれる。上を脱がされて素肌にまたキス。肩や鎖骨に落とされていく。好きにされているのが何だか悔しいような気持ちになって、けれど今さら止められても困るから。負けじとロマーノもスペインの上着へと手を伸ばしたが、ボタンにふれる前にやんわりと手首をとられて押し留められた。何をするんだ、どうせお前も脱ぐんだろうって、訝しげに視線を送ったらこめかみへのキスでごまかされた。
 そのままスペインの唇は耳へと下っていって軟骨を挟まれた。彼は耳を弄るの好きらしい。ぼんやりと考え事をしている時は手慰みに自分のそれを捏ねて遊んでいるし、ロマーノとセックスをする時は必ずと言って良いほど口に含む。感触が良いのだと言っていた。実際、産毛を確かめるように舐め上げ、唾液で濡れたところに息を吹きかけて、耳の穴に舌をねじ込む。毎回のように繰り返される決まりごとのようになっていて、そのせいでロマーノはすっかり耳が弱くなってしまった。低い声で囁かれるだけで背筋が痺れるようにゾクゾクと震える。

「ロマーノ、ロマ」

 耳元で名前を呼ばれる。切羽詰まった余裕のない声。耳に熱い息がかかる。ああ、スペインも興奮しているんだ。
 けれど、あからさまに期待するロマーノを無視して、耳たぶにふれるかふれないかのギリギリのところを掠めて唇は離れていった。焦れったくてなって首に噛み付いた。加減しないで思いきりやったのに、スペインは軽く肩を竦めただけで大して効果はないようだ。
 何もせずにただ抱かれているのは苦手だった。どんな顔をしていれば良いのかもわからないし、まるで調理を待つだけの鯉にでもなったようで面白くない。けれど、一度そうなるとスペインは相当頑固で、下手にロマーノが手を出すと嫌がるので好きにさせておくしかないのだ。自分勝手だと思う。

「はっンぅ……!」

 首筋を舐め上げられた。気持ちの上ではまだ冷静な部分が残っていたのに、なぜかそれだけで体が異常に反応してビクッと背が浮いた。まだ何もされていないのに全身に力が入っているのを感じる。それを緩める方法はわからなかった。

 ゆっくりと、気が遠くなるぐらい時間をかけて頭のてっぺんからつま先まで、余すことなく口付けられていく。肋骨の隙間、腋、わき腹、足の付け根。今までそうさわられた記憶もないようなところも、念入りに舐められて吸われて変になってしまいそうだった。狭くなった視界に水の膜が張ってぼやける。自分自身で信じられないぐらい、いちいち大げさに反応を返すほど敏感になっていて、それをちろちろと舐められるばかりなので気が狂いそうだ。いっそのことひと思いに噛み付いてほしい。噛み付いて咀嚼して痛いぐらいに揺さぶって。何も考えられなくなってしまいたい。
 しかし、ロマーノの願いとは裏腹によく知った分厚い唇はちゅっと音を立てて吸い付いただけで、それ以上は求めてこなかった。再び掠めるように肌を辿りだした唇の動きに、息を詰めていたのが解けて勝手にはっと漏れる。体が熱くてどうにかなってしまう。
 唇を噛んで腹の底のほうから湧き上がってくる熱に耐えようとするのに、どこもかしこも神経がむき出しになってしまったかのように感覚が鋭くなっていて、スペインにキスをされる度に体が強張って息が詰まる。そうなってくると今度はこわくなる。心臓が破れるんじゃないかってぐらいドクドクと脈打っていて、尋常じゃないぐらいの汗が噴き出した。血がごうごうと音を立てて体中を巡っている。細い血管がミシミシと音を立てるようだ。こめかみが痛い。酸素を求めてパクパクと開閉を繰り返す口から唾液が伝ってシーツへと落ちていった。それを舐められて唇が塞がれる。瞼が重くて開けていられない。目を閉じると眦にキスされた。それから額に頬に鼻の頭に。たったそれだけでひっきりなしに体が跳ねて制御できない。
 ロマーノが自身の管理を離れて好き勝手に翻弄されはじめると、目の前の男は殊更嬉しそうな顔をする。ニヤニヤとだらしなく頬が緩むのも気にした様子はなく、まぶしそうに目を細めて笑った。

「なあ、ロマーノこの後どうしたい?」

 ああ、これはあれだ。茹でガエルと同じなのだと気づいたのは、もう後に退けなくなってから。弾んだ声にどうしようもなくいら立ったが、今さら遅すぎた。何せすっかり頭の中は煮立っていて、指の先を動かすことすら億劫なのだ。

「シャワー浴びる? それとも寝る? あ、そう言えばこないだ面白い映画見てん、一緒に見る?」

 わざとらしい唇に噛み付いて、痛い! と悲鳴を上げるのに少しだけ溜飲を下げる。自分の恋人の面倒さにロマーノは大げさなため息を吐いて、寝室を指さした。

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