誰かのものを欲しがるのは人間の悪癖だ。特に恋愛では顕著に発揮されるようで、それまで全く興味がなかったのに彼が誰かのものだと知った途端に惜しくなるらしい。よくあること話。しかし、ちょっと待ってみてほしい。それは本当に愛と言えるのだろうか。誰かのものを奪ってしまえるほどの自分の魅力を、他者に顕示したいだけではないのか。あの手この手を使ってでも意思を持った人の心を手に入れようとするなんて、きっと正気の沙汰ではない。手に入れ難いものを攻略することに囚われる時、人は傲慢で醜悪さに塗れているものだ。
「それになあ、恋をしている人が魅力的に見えるのは当たり前のことやと思うねん。それを横から茶々入れて欲しがるなんてカッコ悪いで!」
カラカラと笑って放たれるスペインの言葉に、それまで黙ってワイングラスを傾けていたフランスが眉をひそめた。
「はあ、これだから鈍感男は。何もわかってないねぇ」
大げさに肩をすくめると、気障やなあ、とまた笑われる。酒が入っているせいか、今夜のスペインはいつも以上に陽気だ。
「これじゃあロマーノも苦労するわけだ」
わざとらしくため息をつけば、子分の健気な気持ちに気づかない鈍感親分はさも不本意だと言わんばかりに唇を尖らせてみせる。
「何やねん。ロマは関係ないやろー」
「お前がないと思っているから問題って言うか? 逆にわざとのほうがよっぽどかマシって言うの?」
「俺はずぅっと昔っから、あいつのことは大事に大事にしてきたんやで。あいつも俺と同じでユーロでは劣等生やしいろいろあるやろうけど、少なくとも俺との付き合いでは何の苦労もさせへんよ!」
「あーはいはい、そいつは立派な親分愛だな」
「せやろー?」
話の発端が何だったかはもう覚えていない。そもそもスペインとは互いの恋愛観を真面目に突き合わせたところで、意見が合うわけがなかった。元々ふたりは互いの価値観に共感して付き合っているわけではない。むしろ、そういった点では意見の相違も多いのだ。
スペインは誰かに恋をしている相手に横恋慕することを、あまり好ましく思っていないらしい。彼に一体どれだけの恋愛経験があるのかは知らないが、愛の国を自称するフランスとしては彼の意見はあまりに一方的なように思えた。
「……別に誰かのものだから良く見えるってわけじゃなくてさ、もっと単純な話、人は恋をすると内側から輝きだすんだよ。幸せのオーラっていうの? それがあまりに魅力的だから人はついフラフラと惹かれちゃうってわけ」
だからと言って手を出そうだなんてことはこれっぽっちも思っていないが、あんなに生意気な子が見せるいじらしい眼差しにドキリとさせられたことは一度や二度じゃない。あれはその気がなくたって魅力的だ。その肥沃な大地を思わせる琥珀色の瞳はいつだってスペインへと真っすぐに向けられていて、きらきらと輝いて見える。端から見ていても美しいその恋心は、できれば向けられた本人が受け取って応えてやるべきだと思うのだが、悲しいかな、スペインはずっとこんな調子である。スペインが鈍感を拗らせて愚直な親分愛を注いでいる間にも、そのうち掻っ攫われたって文句も言えないと言うのに。
……まあ、ロマーノに限って、そんなことはあり得ないのだけれど。
擦れた子どもだと思っていたのに、南イタリアは意外なほど一途だった。それは燃え上がるような情熱的なラブロマンスとは程遠いが、静かに、しかし着実に彼が育ててきた愛情である。
「報われないねぇ……」
何とはなしにぼやいた言葉はスペインには聞こえなかったようで、彼はなおも不服そうに首を傾げていた。
「でもなあ、人生幸せな時期もあれば不幸な時期もあるわけやし、良い時だけ見て好きやーって言うのもなあ」
続けられた言葉に、そうだ、ここにも意外な奴がいたと思い出す。スペインは陽気で明るくて良い奴なのだが、意外にも面倒くさい。
「そういう調子ええのは誠実ちゃうで」
「そりゃあその人の良い時と悪い時、全部見てから好きになれたら良いんだろうけど、人間の人生は短いんだよ。そんなことを言っている時間はないの。魅力を感じた瞬間が恋をするベストタイミングなのさ」
それに恋をする相手のために日に日に美しくなっていく。人によっては服装や髪型まで変えて、その表情は明るく輝き、時に憂いを見せるが優しい眼差しを愛しいその人へと一心に向ける姿は慈愛に満ちている。そんな風に自分も愛されてみたいと、そう思ってしまうのは仕方のないことではないだろうか。誰かに恋をする姿が魅力的に見えたというのはきっかけに過ぎず、要はその姿を見てふたりの未来に思いを馳せてしまっただけのこと。それは決して人に非難されるようなことではないはずだ。
「批判されるべきはやり方であって、あり方ではないだろ」
ひらひらと手のひらを翻してテーブルに肘を突いた。スペインはテーブルから体を起こしフランスから少し距離を取った。まあなあ、のんびりと打たれる相槌は、あまり同意するつもりのない言い方だ。
「でもなあ」
ほらきた。フランスが肩をすくめる。
「いくら魅力的やって言っても、お前が同じように愛されるわけちゃうやん。やっぱただの横恋慕やで」
「ほんっと、意外にも面倒くさい奴だよな。好きになったら好き、それで良いじゃん。愛に気づいたきっかけが何であれ、今そこにある情熱は本物なんだよ?」
「その情熱を注いでいると思っているのが、ほんまは別のものかもしれへんで。そんなん相手に失礼やろ」
「後から結果論を言うだけなら誰でもできる。当事者には区別なんかついてないんだよ」
フランスが呆れたようにため息をつく。それに対してスペインが、わかってへんのはフランスのほうやんか、とおどけた仕草で首をすくめるのを見て、これ以上は何を言っても無駄だろうと判じた。
・・・
とまあ、ほんの数ヶ月前までのスペインは恋愛というものを他人事のように考えていて、絶対安全な外野から好き勝手なことを言っていたのだ。みんな大変やんなあ、ちゃんと自分を好きになってくれて社会的に正しい関係性の相手を好きになればええやん。俺の好きなタイプ? せやなお互いに尊重できる人がええなあ。……そんなことを容易く言ってのけてしまえるぐらいに、その感情と向き合ったことがなかった。
それでも今までは何の問題もなかった。スペインは多少鈍感が過ぎるところはあっても、意図して周りにいる誰かを傷つけるような性質ではなかったし、誰だって害がないものに対しては寛容だ。かくして彼の考えが変わることはなく、今まで通りの日々を過ごしていくかのように思われた。
きっかけはロマーノの忘れ物だった。
「…………何やろ、これ。手紙?」
それは掃除をしている時のことだった。客間のベッドと壁の隙間に封筒が落ちているのを見つけた。
「ロマーノのかなあ……ここに落ちとったってことは、こないだ遊びに来た時やろか」
シンプルな白い封筒には宛名や差出人の名前はなく、切手ももちろん貼られていない。とても古いものなのだろう。表面は毛羽立っていて手触りもあまり良くない。
随分と大事に扱われてきたようだ。角は欠けて丸くなり、端はよれていたが目立った傷は見当たらない。
「んー大事なもんやったら早めに返したほうがええやんな……って、あっ」
ひらり
拾い上げた拍子に封筒から便箋が落ちた。パサパサと床に落ちる紙の束を慌てて拾い集めるが、その拍子に見るつもりのなかった文面が視界に飛び込んでくる。
『惨めな気持ちになるだろ。どうせお前は俺のこと好きじゃないんだろうけど、俺は好きになっちまったんだから。』
瞬間、便箋を拾う指先がぴくりと跳ねた。驚愕に思わず身を引く。体が強張り、その場に縫い止められたように硬直してしまう。
「これって……」
スペインの目が見開かれる。その一文はとても鮮烈で、一瞬にしてスペインの脳裏に焼き付けていった。
便箋は封筒よりもさらに古く、しかもスペインの位置から見える短い文章ですらインクが違って見えた。それぞれ違う時期に書かれたものなのだろうか。よく見れば全てロマーノの字ではあったが、大人になってからのものと今よりももっと若い時期のものが混在している。
「どういうことなんや」
いや、そんなことよりも内容だ。
(ロマーノが誰かに恋をしている……?)
彼とてイタリア男だ。可愛い女の子が大好きで、声をかける姿も幾度となく見てきた。先日も観光客の女性をナンパしたらしく、なぜかスペインの家まで連れて来ていた。その恋愛遍歴はスペインのあずかり知らぬことだが、ロマーノだって今までに恋のひとつやふたつしてきているのだろう。
床に落ちた古い便箋と先日会ったばかりのロマーノの顔が重なる。あの日のロマーノにいつもと変わったところがあるようには見えなかった。いつも通りの可愛げのない態度で、小さなワガママを積み重ねてスペインに甘えてきた。スペインはそんな彼を、しゃあないなあ、と甘やかして、いつまで経っても子どもの頃から変わらならいロマーノを微笑ましく思っていた。そう、ロマーノは子どもだ。とっくにイタリアとして統一し独立した国ではあったが、スペインに対する態度は幼い頃から全く変わっていない。ずっとそう信じて接してきた。それなのに。
(……しかもその相手は、ロマーノのことを好きちゃうんか)
惨めな気持ちになってでも、それでもなお諦められず好きな相手。手紙にしたためて持ち歩くほどである。それは間違いなく本気の恋だろう。
彼がその気持ちを大事にしていることは、手紙の状態を見れば一目瞭然だった。
「……何も、こんな手紙に書かんでも……。俺なんかじゃ大して相談には乗られへんかもしれへんけど、愚痴ぐらいやったら聞いたるのに」
養え、だの、メシを食わせろ、だのと常日頃から居丈高に振る舞うくせに肝心なところでは何も言わない。
昔からそうだった。幼い頃も小さな手足を精いっぱい伸ばして腕と足を組んでふんぞり返り、家来にしてやっても良いぞ、なんて言っていたが、本当にしてほしいことは口にせず舞踏病に罹ることもあった。
「あの頃を思えば今は食欲旺盛やし、目ぇ離したらあっちこっち行ってまうし、ほんま……元気にしてくれて嬉しいわ」
いつの間にかアメリカに行っていたこともあったっけ。普段はぐうたらなくせに、謎に行動力のあるところには本当に手を焼かされる。
ふふ、と笑いが込み上げてきて手の甲で口元を押さえる。それでも押さえきれない笑い声が漏れた。
「……せやけど、ほんまは悩んどったんやな」
ロマーノが、本気の恋をしている。しかもとても苦しい恋のようだ。辛いことや痛いことが大嫌いで、苦痛から逃れることにかけては一生懸命なあのロマーノに耐えられるのだろうか。
不意に胸がチリチリと焦がれるような焦燥感が沸き起こった。
(何やろ、これ……むっちゃ嫌な感じがする……)
何とも言い知れない感情に囚われて、思わず眉をひそめる。嫌な感情はロマーノの手紙について考えると込み上げてくるようだった。床に落ちた便箋を苦々しい思いで睨みつける。しかし、いくら眺めていても便箋があることに変わりはない。その事実に気が滅入ってきて、スペインは自分で自分の感情に混乱した。
目の前が真っ暗になり呆然としていると、廊下から足音が聞こえてきた。