恋など知らない

恋などいらない。その身勝手な感情が誰かを傷つけたり、愚かにも期待をぶつけたりする醜悪さにうんざりする。
栄養など考えてない食事しか摂っていないのだろう、影の濃い青白い頬を緩く引き上げ、イギリスはシニカルに笑って言った。おいおい、アフタヌーンティーには無粋すぎる、もっと明るいことを話そうぜと軽口を叩いたが、到底楽しい気分にはなれなさそうだ。何せこんなイギリスを哀れむことさえ傲慢だと知って尚、救われなさに絶望するしかない。今のイギリスは黄金時代を迎え、かつてない繁栄を女王の名と共に世界に轟かせている。この世界の抑止力ともなっているその力は、孤立を保つことで世界のパワーバランスをとる重荷も背負っていて、けれどそんな状況は長くは続くまい。ひと時の危うい平和が全てイギリス次第なのだ。
没落していく権力に世界は非情だ。その栄光に翳りが見えたとき、きっと彼を支えるのは掛け値なしの無償の愛でもって隣に立つような、そういう人だろう。けれど、だからと言って愛こそ全てだなんて伝えられはしない。そんなことを言ったところで彼には偽りに見えて届きはしないだろう。

「相変わらずだよねえ」

溜息を呑む代わりに呆れた声を上げる。ティーカップを傾けて、かちゃかちゃと手元を遊ぶ。フランスにはこうして午後の紅茶を共にするぐらいしかできないのだ。
珍しくイギリス自慢の庭園に呼ばれたのは秋も半ばを過ぎた頃だった。清潔な白いテーブルクロスの上に乗るティーセットを眺めて、再び溜息がこみ上げる。その布の端には細かな刺繍がされているが、彼自身が施したものだと知っているから何とも言えない気持ちになる。裁縫に対する細やかさと器用さとは反対に、料理の才はこれっぽちも与えられなかったらしい。何というか、どす黒い。供されたスコーンに眉をしかめる。黒焦げになったそれらにはなるべく手をつけず、サンドイッチやビスケットといった確実なものだけを腹に収めていく。

(お茶はいいんだけどさ)

鬱蒼とした気持ちに上塗りするかのように話題はどんどんと重苦しくなっていく。お茶会に政的な意図はないとは言っていたが、彼はそういう利害のないことはしない。軽く情勢の話はするが、けれど不自然なまでに現在お互いが抱えている問題点には少しも触れないで、ただ空気だけがギスギスと鋭くなっていく。少しでも弱みを見せれば付け込まれるのは目に見えている。そういったボロを出させようとお互い泥沼の駆け引きを繰り返している。
フランスとしては、わざわざ休日にまでそんな話はしたくはないのだが、ドーヴァー海峡を越えてロンドンの地へ足を踏み入れた瞬間から、面倒な社交になることぐらいわかっていた。わかっていたから、せめてもの抵抗として、来年に控えたパリ万博の話題を持ってきたのだ。力を入れただけあって、今回もなかなかに立派なものへとなりそうだった。特に今回は世界に向けて紹介したい人がいる。

「紹介?」
「まあお前もよく知ってると思うけど」

最近のお気に入り、お兄さん一押しよ、とわざと軽薄に告げれば怪訝に眉を寄せられた。おおよそ予想通りの答えだったが、絆されやがったか、と毒づくのを苦々しく聞く。
イギリスが本当にただの可愛げがない生意気なガキ、であればそこまで思うまい。幾度となく戦争にもなったし、利権を巡った泥沼の政争も数知れない。何せ数百年間だ。お互いの利害をぶつけ合い過ぎて、全くの無関心でいられるほど他人ではいられなくなった。とはいえ、決して良き隣人ではなかったことぐらいわかりきっているから、一体どうしてフランスの口から、お前は愛を知るべきだなんて告げられるだろう。いくら見切られるほど非情にはなれないとは言え、友人でもなかった。きっと、何を企んでやがる、と返されてしまいだ。
この百年でずいぶんと時代は変わった。フランス自身、次の時代はもっと目まぐるしい変化が訪れると確信していたが、最近はある程度変化しきった行き詰まりを感じている。これ以上の変化には何かきっかけがいるのだろう。

(今の俺たちに必要なのは、ああいう慈愛みたいな存在だろう、それを博愛というのだけど)

控えめで穏やかな彼のことを、イギリスもきっと気に入るだろうと思ったのだが、まさかこうも重症だとはおもっていなかった。海を七つ巡っている内に、なのか、今のイギリスは世界中の悪意をぎゅっと固めたどす黒いスコーンみたいだ。昔はもっと可愛げがあったものを、これでは友人など絶対にできまい。そんなこと心配しても、フランス自身はイギリスとのそういう関係を望んではいないが。

「お前は愛だの恋だのに現抜かしてやがるから弱くなってんだよ」

爽やかな秋の風が吹き抜けて木々を揺らす。神経質なまでに完全美を追求した左右対称の庭園は、毎年見事なまでに美しい薔薇を咲かせる。秋の気配に落ち葉が目にも鮮やかに映った。贅沢な程の自然を残したまま、けれど統率された庭だ。この秋も、イギリスの計算どおりに演出されている。フランスとしてもなかなかのものだと評価したいところではあったが、最近思うところもあって賞賛を口にはしなかった。フランスだって以前は、こういう人間らしさを不自然に排除することが美しいのだと思っていたのに。今は殆ど心動かされない。

「愛だの恋だのねえ」

少し上の空になりつつも、時間を稼ぐようにのんびり答える。イギリスが不要だと言って切り捨てる我々に与えられている全て、例えば誰かに感情を揺り動かされること、相手にもそれを望むこと、力の限り愛して憎んで悩んで、そういう人間の気の遠くなるような年月繰り返されてきた営みは、一体何だったのだろうか。それらの泥沼みたいな激情は醜いのだろうか。
例えば来年の初夏、また一年が巡って美しい薔薇が咲くだろう。しかし、きっとここ数十年と同じように咲くその淡い花びらを、誰かに捧げたり、それを見る度に自分を思い出して欲しいと願ったりすることはない。けぶる花びら、ひとひらに、ただただ何を思うでもなく煌めく季節の移り変わりを、彼は何と感じ取るのだろうか。

「軟弱だ」

この上ないのだ。面倒だろ、としたり顔でにやり。まるで劇中に悲劇をあざ笑うかのように無邪気に否定していく。お前が愛の何を知っているのかと出掛かって、知らないからこうなのだと思い至る。思わせぶりに顎を撫でて斜め上を見上げる。戯曲のように大げさなまでに身振り手振りをふるえば、イギリスも珍しく乗っかってティーカップを傾けた。

「俺には恋などいらない」
「へえ、賭けるか?」
「ああ、そんなことにでもなったらこの薔薇を全部青くしてやるよ」

ふうん、と、どちらかといえばイギリスに分のある賭けに頬杖ついて頷いた。こちらから切り出したくせに、あまり勝算はない。まあしかし、だ。このまま何も変わらないよりかは幾らかましだろう。

「じゃあ、もし、この十年お前の心が平穏無事だったら、俺の家の庭を紅茶で満たしてやるよ」
「はっ!それは傑作だ」

わざと挑発していることぐらいわかる。空気がささくれだって感じた。軽口を言い合っておいて、けれど本当の思惑がドロドロとしているから、こんなに荒む。肩を竦めて、お子様だねえと笑って返した。これについてはもう終わりだと目配せすると、老いた執事が頭を下げて場の空気を割った。

「イギリス様、よろしいでしょうか」

タイミングよく声をかける。話の切れ間を待っていたのだろう、不躾にならない程度の距離感を保って様子を伺っていたらしい。もっと早くても良かったのだが、よく教育されているこの家の使用人は、誰もが主人の話しの途中で割り込むような無粋な真似は当然しない。ちょうど良い声量で話しかけられ、相変わらずきっちりした家だなあと眺める。

「お客様がお見えです」

いかがされますか、と尋ねられれば、イギリスが一瞬ためらう間にフランスが訪問者に思い至って、席を立つ。いても立ってもいられないほど気がはやる。

「あ、日本?呼んで呼んでー、ってかお兄さんが迎えにいっちゃう」
「なんでお前が答えてんだよ」

ここは俺の家だ、とぶつくさ文句を言いながらも、室内へ通すよう指示を出す。執事が頷いて、それではこちらへと促した。

「フランスさん、こんにちは」
ころりころりと鈴の音が転がった。穏やかな柔らかな。
走ることは憚れる厳かな邸宅を、それでも出来得る限り急いで扉まで行けば、既にホールへ通された日本がいた。常より殊更に優しく微笑んで、老成した少年の瞳をもつ彼は、世界が愛しくて仕方がないという表情をしている。世界中のどんな本質にも惑わされないような芯の通った黒い瞳だ。ぴんと張り詰めた弓のような美しい緊張感を常に持っていて、そのくせしなやかな竹のように強い力を受け流す不思議な雰囲気を備えていた。そのミステリアスな印象は、何を考えているかわからないという恐さがあるはずなのに、一緒にいると冬の張り詰めた朝の空気ですら花が綻ぶように安心する。日本の傍にいるとフランスまで心が穏やかになっていくように感じるのだ。

「日本」

待ってたんだと告げれば、本日はお誘いいただきありがとうございます、と腰を折る。以前、そんなことしなくてもいいからと言ったのだけれど、礼儀正しい彼は美しく伸ばした背筋を曲げてお辞儀なるものを忘れない。美徳だと思う。絹のような黒髪が緩やかなカーブを描く頬をさらりと滑った。ほら、今だって日本が視界に入って挨拶を交わしただけで色彩鮮やかに世界が彩られる。世界中がきらきらと輝いているような。先ほどのささくれだった気持ちがなりを潜めていくのを感じる。

「紅茶飲める?」

長い廊下を渡りながら問う。中国のお茶の文化が伝わっていると聞いたが、こちらとは形が違うらしい。今度はそちらのお茶へ呼んでくれと頼んだのは一番最近会ったとき、内容もほとんど覚えていない世界会議でだった。その時にこのイギリスのティータイムへ誘った。やや強引な形にはなったが、イギリスさんに悪いですと遠慮する彼を押し切って呼んで良かったと思っている。欧州中に彼を自慢して回りたい。できればその隣にいて欲しい。最近の彼への傾倒がただの異文化趣味の、一過性の流行ではない予感を感じている。
こういう感情をゆっくり大事に育てていくような、そういう恋を、できれば彼と。そう望んでいるのだ。

「ええ、たいへん美味しいですよね。特にイギリスさんのところはとても素晴らしいのだと聞いております」

ふわっと笑う。どうやら機嫌が良いようだ。前にロンドンへ来たときは気候が合わず、辛くてすぐに帰りたくなったと言っていたが、今日は抜けるような秋晴れで清清しいからかもしれない。
お茶菓子には気をつけろ、サンドイッチ以外には手をつけるなと忠告して、顎を弄りながら意味深に目配せした。どうやら先ほどの役者がかった立ち居振る舞いが抜けていないらしい。けれど日本は、やや低い位置にある黒い瞳を丸く開いて、きょとんとした。これが噂のいい男殺し。こちらの仕種もお構い無しに、日本は、あのイギリスさんにそんなこと言うのはフランスさんぐらいですね、と呟いた。何だかなあ、と思わなくもないが、とにかく一刻も早くイギリスへと紹介したいので、そのへん深くは突っ込まない。できれば先々、こちらの一挙手一投足にドキドキして欲しいとは思っているが。

「こっちだよ」

庭へ降りるには段差があるので一歩前へ出て手を引いた。そんなことしなくても、と小さな声で落とされたのは聞こえたが、こちらがやりたいのだ。気づかぬ振りをしてテーブルセットまでエスコートしていく。やや早足になるのは、日本と会えた高揚感からか。ぐいぐいと引っ張ってしまうが、自分より背の低い日本が小走りになったので、足を引っ掛けないようそれだけは注意した。日本も、そんな強引な態度にも緩く笑うだけだった。非難の声も上げないから、つい無理な態度を取ってしまう。

「ほら、イギリス!」

名前を呼ぶといつものぶっきらぼうな顔を上げる。イギリスがティーカップを置いて、乾いた金髪が風に攫われていく。秋の涼しい気候に、自慢のガーデンは美しい森を擁して、それを背景にした彼は悔しいぐらいに絵になったが、ふっと動きを止めた。その一瞬がひどくスローモーションに感じた。いつも不機嫌な表情をしているイギリスから感情が抜け落ちていくみたいに、本当に珍しい素の顔へと変化していく。まるで妖精に心臓を射抜かれたみたいな。

(あれ、)

フランスがその違和感の招待を言い当てるより前に、日本がフランスの手を柔らかく解いてテーブルに近づきチェアへ腰掛けたままのイギリスへと深く頭を下げた。名残惜しさと不愉快さが心を過る。

「あ、」
「イギリスさん、ご無沙汰しておりました。本日は素晴らしいお茶会へお呼びいただき、ありがとうございます」

用意していたらしい挨拶を述べて右手を差し出す。握手をするつもりだろう。無駄のない動きに、やっぱりいいな、と思う。彼も一分の隙もなくきっちりとしている。だが、フランスとは根本的に違う文化を持っていて、そういうところに強く引かれるのだ。彼をもっと知りたい、もっと多くの者に知って欲しい。そう思って今日、この場へと誘った。来年のパリ万博は間違いなく彼が注目されるだろう。その予感は酷く愛しい期待を孕んでいる。
さて、けれどその間、イギリスは微動だにしなかった。客人が来て立つこともしないのだ。やはり、様子がおかしい。そう思って顔を覗き込もうとした。何か声をかけるつもりだった。

「……」

その時のイギリスの顔といったら。魂を悪魔か天使にでも持っていかれたように呆けた表情で、ぽかんとこちらを見上げている。ある意味、そこまで無防備な表情を晒すこと自体が珍しかったので、フランスもたっぷり一拍、まじまじと眺めてしまったため、二人は見詰め合う形になってしまった。いやいや、だってさっき薔薇を青くするほどありえないのだと言ったではないか。

(これじゃ、まるで)

そうだ、先ほどの違和感の正体。

「イギリスさん?」
「…ブルーローズだ」
「え?」

また沈黙。日本の呼びかけに支離滅裂な言葉を返すイギリスに、日本は明らかな戸惑いを見せている。段々と正気を取り戻した思考が、ゆっくり状況を把握する。
ブルーローズだ、はこっちの台詞だと。一人の愚か者が恋に落ちる瞬間を目の当たりにして、また絶望がのしかかる。確かに恋をしろと、愛を知れとは思っていたが、相手が違うだろう。先ほどまで苦々しいまでに考えていた彼の愛は、嘘みたいにあっさりと射抜かれたらしい。けれどその心は、譲る気のない心臓だ。

「…日本、この薔薇園が全部青い薔薇になるんだよ、やったね」

力なく告げる。そういえば結局、挨拶してない。我に返ったイギリスがどんな反応をするか、それを如何にからかってやるか、どれだけを考えて、今度こそ盛大な溜息をついた。

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