妄想ストリーム

滅多に出さないオートクチュールのジャケットは、ジャストサイズよりはやや細身に作られている。体のラインに合ったそれは、動きにくい気がして何とも苦手だったが、オシャレをすることは我慢することだと言い聞かせた。
同じブランドの履き心地が良い革靴と、靴と揃いの色のベルトを締める。どれも彼の国の、買う人も着る人も選ぶ有名なブランドのものだが、しかし無理をしてると思われても困るので、綿のパンツと首回りがラフなシャツを合わせた。こちらは自国の安くて丈夫なメーカーのもので、最近は欧州でもそこそこ知られた存在らしい。恐れ多くて今までは着たことがない組み合わせだが、他国からのイメージやバックグラウンドを考え選んだ。全部を高級品で固めるのも彼流ではないらしい。
船が沈没して海に投げ出されても沈まずに主人を守るのだというアタッシュケースに、普段は着ない服と、気合いの入った会議でしか出さない土産ばかりを詰め込んで、DVDボックスを2、3セット用意する。そうして、遥か遠くフランスの地へとやって来た。髪が跳ねていないか、そればかり気になって、何度も鏡を覗き確認する。この日のために1ヶ月も前からみっともなく美容などを始め、髪の毛一本から足の爪の先まで、これ以上ないほどケアをした。常々、そんなものは男のする努力ではないと思っていたし、そもそも自分はそういうことが似合わないことは解りきっている。地味な自分が、決して美しいわけでもないのに、外見に気をとられていると思われるのは恥ずかしい。まるで自意識過剰みたいだ。けれど、それもこれも、全てフランスとアニメ鑑賞会をするための努力である。いっそ場違いなことも確かだが、常々美しいものへのこだわりと優雅な文化で日本を魅了してやまない彼が相手とあらば、ジャージも封印するし当然の労力だろう。

(……だって、ほんとかどうかさえ。アニメなんか絶対見ないじゃないですかオシャレだし)

引かれたら生きていけない。

フランスから奇妙なおたく会議に誘われたのは二ヶ月前の世界会議だった。

「俺、最近アニメにハマってるんだよねー」

挨拶と共に話しかけられる二言三言の社交辞令は、天気がテーマでも良いはずだ。フランスとならどんな話題だって、話ができるだけで天にも上れそうな程に嬉しいのだから。けれどその日、アローの後に続けて挙げられたのは、あまり大手を振って紹介できない日本文化のラインナップだった。一瞬、色んな音が遠ざかった。目の前が真っ白になり、混乱極まった頭をフル回転させ、いや、そもそもどこで知ったのだろう。日本でしか放送してないし、当然日本語だし。

「え、あ、え……?いやいや、そんなまさか、いやいや、だいたい言葉どうしたんですか」
「はは、テンパってる日本もかーわいい。言葉はただ今勉強中ー」

実はある程度の日常会話なら喋れるんだよ、コンニチワー。と片言の日本語混じりで笑顔のフランスに言われると、あのフランスさんが、日本語…!と言葉にもならない変な感動でいっぱいになる。そんな簡単に近寄るのはやめてほしい複雑な気持ちと、自分に興味を持ってもらったことがくすぐったいような感情に挟まれて右往左往している滑稽な自分を、ひどく冷静な自分が遠くから見ているみたいにしっかりしろ!みっともない姿を晒すな!と叱咤する。

(だって、フランス語が世界でいちばん美しい言葉だって言ってました…)

英語コンプレックスの強い日本は、あのイギリスにそう言い切って自分のスタイルを貫いているフランスに、ある種憧れていた。実際にそれが許されるのだ。彼は。
バリトンの俳優のように美しい声が紡ぐフランス語は、滑らかに流れるシルクのように耳に当たる。優雅な長い指先が、とっとと机を叩いて皮肉交じりの軽口を告げる。「やれやれ、坊ちゃん。ここはフランスだぜ?そしてフランス語は世界一美しい言葉だ。好きなだけ使えよ」と。からかわれたことに激昂するイギリスは何やら相手を罵っているようだったが、それ程までに感情を顕わにしていてもイギリスは品があって、日本から見たら溜息が出るほどの王子様ぶりだった。フランスは、しかしそんなイギリスを気に留めた様子もなく、軽くいなして気だるさを隠しもせずに頬杖をつく。にやっと笑って企んだような悪い顔を見せた。そんな些細な仕草が他の誰とも比べられない程に美しい、それがフランスという男である。

(それに、誰とでも上手くやってる)

一見軽々しく見えて、常に思慮深く機知に富んだ会話を好む彼は、一緒に居るといつもとても楽しい。もっと話したい、どんな答えを返してくれるのだろう、彼ならどんな考えをするのか。もっともっと彼のことを色々知りたい、会話を続けたい、そう思うのに上手いことの一つも言えやしない。それすら、フランスは器用に消化し、まるでこちらに気を遣わせず、会話が盛り上がっているように楽しんでいるように会話してくれる。平凡な返事しかできない自分に対して、思いがけない見方や、考え方を答える。きっと、誰もがフランスのことを好きになる。彼といるのはあまりに楽しい。
だから、そんな彼からよりにもよってアニメの話題なんか出されては、もう混乱するしかない。

「だいたい、なんでそんなもの」
「俺の国ではね、自由に面白いものを面白いって言えるのさ」

でも、と続ける。

「まだ、アニメとかは字幕なしじゃ見れないから、翻訳がねぇ、必要っちゃあ必要なんだけど」
「翻訳って…そんなの出してると聞いたことがありません」
「あはは、日本に言ったら怒られんだろね。友達に頼んでるから」

ちらりと顔を覗き込まれ、きっと女性が絡んでることは理解した。なるほど、それはとても面白くない。
何がと言われても答えられないが、まあ彼はもてるのだし自国の女性にはミーハーな方も多くいる。きっといくらでも協力しただろう。その光景を想像して、知らず唇を引き結んだ。

「日本はそういうの興味ない?」
「いえ、興味ないことはないのですが……」

むしろとても好きだ興味がある、今日の議題の、宇宙人が攻めてきた際の対処法と各国の役割よりはずっと。

「じゃあさ、一緒に見ない?俺もわからないところ聞けると嬉しいし、まだうちじゃ流行り始めで分かち合える人がいないんだよねぇ。あ、そうだ!お礼に美味しいご飯作るよ」

今年のワイン、なかなか良い出来だし。
決してご飯につられたわけじゃない。ワインでもない。あのフランスが分かり合える相手を探していて、しかも日本がその相手の選ばれたなら、本当ならどれ程良いだろう。勘違いでもいい、彼の家に遊びに行きたい。駄目そうなら話題を切り替えて、彼の趣味に合わせよう。フランス文化にどっぷり浸かれるなら光栄だ。心が気持ち良いほうへと逃げていくのを感じる。

「日本」

声をかけられて驚いた。前日に何時頃に発つとは言ったが遅れるかもしれないので、着いてから詳しいことを連絡するつもりだった。空港の予想がついたのは解るが、まさか待っていたなんて思いもよらなかった。

「え、フランスさん!貴方まさか待っていらしたんですか?」
「そんな待ってないよ。あ、荷物貸して?」

スルッとケースを持って、隣に並んだ。日本が慌てて、あと声をあげる前に話し出す。

「それにこれ以上は待てないしさ」
「やはり待たせましたか。すみません、途中、二時間ほど足止めされまして……」
「んー、そういう意味じゃないけどね。まあいいさ。悪いと思うなら今日はとことんお兄さんに付き合ってよ」

ね、と普段より幾分柔らかな、それでいてくすぐったいぐらい甘えてるような声を出されて、頬に熱が集まっていく。腕が触れ合うほど近くにあって、緊張した。欧州ではこれが普通、欧州では普通、と何度も言い聞かせ、常にはない他人との距離の近さにどうしていいか解らない居心地の悪さと、なぜか離れ難い寂しい気持ちがせめぎ会って俯いてしまう。

「あ、え、あ、あの…」

ずいっと顔を近付けられると恥ずかしくてどうしようもない。目を合わせるように覗き込まれてたじろいだ。若くはない、落ち着いた紫水晶の瞳に見つめられると考えが全て読まれてしまいそうだ。

「いい?」
「は、はい……」

声が小さくなっていって感情の逃がし方が解らなくなる。ぐるぐると体中を巡って溜まっていく何かが膨らんで、吐き気と目眩がした。長時間のフライトが原因か、はたまたはりきりすぎて知恵熱か。視線をフランスと合わせないように出来得る限り横に目を逸らす。関係のないこと、先日教えてもらったマカロンのレシピを思い出しながらフランスが離れるのを待った。

「んー、そういう可愛い反応されると、期待に応えてあげたくなるんだけどね」

そしたら困らせちゃうね。そう言って髪をさらっと撫でて離れていった。ほっとして力が抜けそうになる。

(欧州の、コミュニケーションは心臓に悪い…)

日本にとって、フランスは麻薬みたいな存在だった。話しかけられると舞い上がり、会話が続けば快楽が脳内を浸す。こうやって近づかれたら何も考えられない程、頭の中はフランスでいっぱいになってしまう。いい歳して、というのはわかっているつもりだ。まるで、色ボケのようで、だから日本は複雑な気持ちだった。フランスと一緒に居たい、という気持ちと、こうしていては何時か気づかれてしまうのではないか、という恐れがあるからだ。自分でもフランスへの感情が多少、過剰すぎて気持ち悪がられるだろうと思っていた。何とかばれないよう、普通の友人として過ごさなくては。ただでさえ、引かれてしまう可能性を多分に含んだ趣味を持っている。

「あんまり可愛いとどうしていいかわからなくなる」

急にふと真面目な顔になって、殆ど独り言みたいな呟きをフランスが落とす。その言葉の真意を測りかねて、首を傾げて、どういう意味ですか?と聞いた。誤解のないよう、少しオーバーかも、というぐらいにわからない、ということを表情に出す。外国の人と付き合うときは、それぐらいで丁度いい。

「ん、お兄さんでいたいのに、狼さんになってしまったら俺が嫌だなって話」

さあ、車に乗って、と助手席のドアが開かれた。気がつけば、荷物は持たせっぱなしだし、車のドアは開けさせるしで自分が何もしていない。

「あ、すみません、カバン重いでしょう?」
「日本の持ち物だからね、世界中で一番重いけど俺がちゃんと持ってあげないと」

片目を軽く瞑って笑顔。そうやって日本が気を遣わないような一言を言ってしまうフランスに更に恐縮する。せめて自分が女の子なら良かった。そうすれば、フランスはレディーをエスコートするのが男の役目だからね、って言うだろう――、きっとそれはそれで物凄く肩身が狭いことになりそうだ。
荷物を後ろのトランクへ入れて運転席へ滑り込んでくる。慣れた手つきで鍵を取り出しシートベルトをかける仕草が映画の俳優みたいに様になっていた。

「きっとまたわかってないんだろうね」
「いえ、本当、すみません、私何もしてなくて……」
「何をするつもりだったの?」

くすくすと笑ってエンジンをかける。この子、情熱的だからご機嫌斜めだと走らなくて、と言いつつハンドルを握る。

「いえ、何というか。もう本当、気が利かないし、私、」
「タイムオーバー」

話を途中で切られて、え、とフランスを見上げる。

「何をしてくれる気かしんないけど、今日本がしなきゃいけないのは、俺がこのまま連れ去ってもいいって許可することだけダヨ」

何時もの軽口だと言い聞かせても顔が赤くなっていくのを止められない。こんなの、そういう意味じゃないってわかってるのに情けない。そんな自分が恥ずかしくて、更に熱くなってくる。

「……Oui」
「メルシー」

車が走り出した。

しかし、車内では先ほどの熱が引かなくて、黙って俯いてしまう。どこをどう通って、どんな景色だったかなんて全く覚えていない。ただ、急に、着いたよ、と声をかけられた。オシャレな曲が流れていたような気はする。なんだか聞いたことがないような、でも力強いハスキーなヴォーカルとピアノの美しい、キラキラとした音楽。後で何と言う曲か教えてもらおう。パリジェンヌのバカンスに似合いそうな、洗練された歌は自分には合わないかもしれないが、きっと日本に帰ってからも今日の、非日常的過ぎるこの時間のことが思い出されて、ずっと幸せな気持ちになれるはず。
「ありがとうございます。ここは、」
「凱旋門だよ」

俺んち行くのに通るから、と遠くを見る目で言った。ここであったことを知らないわけではない。彼が特別な意味を込めて博愛を語るそのアーチを、じっと見上げて、思わずほうと溜息が零れた。よく見知った、写真で映像で、何度も見た光景だったのに、圧倒される。そうだ、まるでフランスのようだった。

「俺、今日嘘ついてたんだよね」

凱旋門を見上げた視線はそのままに、ぽつりぽつりと語る。日本は、またも、え、と言葉を詰まらせた。今日の彼は何時も以上に謎めいていて、そして真意を教えてくれない。ずっとはぐらかされているようなそんな気がして、今度こそはちゃんと全部聞こうとフランスのほうへと向き直る。

「アニメは面白いと思うけど、だから日本を誘ったわけじゃない」
「どういう、意味ですか?」

大丈夫、引かれそうなら彼の趣味にとことん付き合う。ちゃんとフランス文化の勉強はしてきた。最近流行のファッションも、映画も、食べ物も。日本でもちょっと取り入れようと思っている。特に食べ物は自国の人たちも喜んでくれるだろう。だから、アニメの事はどれだけ否定されても構わない。すぐに方向転換する。そう頭の中で何度もシミュレーションしたことを、再び思い描いて宣告を待つ罪人のように、ひどく緊張した。
けれど、振り返ったフランスも同じような表情をしていたから、どうすればいいかわからなくなる。困り果てたみたいな、何かをごまかすような、苦笑にも似た笑顔。そういうポーズを取り繕っているだけで、笑っていないとも言える。

(あれ、)

まるで憔悴しきったように、困惑と戸惑いを色濃く貼り付けて、フランスらしくもなく余裕のない顔色だった。

「どうしたんですか?フランスさん…、どうかしましたか?」
「うん、どうもしてないよ。いや……、ずっとどうかしているのかも」

日本がずっと目隠しをしていて俺は何も見えていないのに、ヴィーナスが傍にいる幸せで不安すらないんだから、きっとおかしいのさ。あるいは、死ぬまで自分の滑稽さに気づかないピエロみたいに、ずっと踊り続けられるんだ。おかしいだろう、きっと日本は麻薬か何かなんだ。
何を言い出すのかと思えば、比喩が混じり、結局日本の問いかけには何一つ答えていない。けれど今度はどういう意味かわからない、ということではなかった。なぜか気づいてしまって、わからないほうが幸せだったかもしれないと、ひどく狼狽する。本当に、ほんとうはそうなのか、勘違いだったら恥ずかしい、しかしこの状況が示すものは。いやでも、何度も期待して自問自答を繰り返す。決定的な一言がほしいと欲張ってしまいそう。

「ね、さっき連れ去ってもいいって言ったけど、本当にいい?日本の好きなものを口実に家に連れ込むような男だよ」

それに、後悔しても帰してあげない。
急な展開についていけない頭が、情報を受け止め切れなくて夢うつつの中みたいに、足元がふわふわとした。どうなんだろうか、後悔するのか。自分はそんな可愛らしい性質だったろうか。
今日はずっと心臓が走っている気がする。

「…私、自分で決めたことに後悔はしないんですよ」

私が、Oui.と言ったんです。伝えればフランスは、そっか、とだけ返す。きっとお互いどうしていいかわからなくなったんだろう。それから暫く、何も言わず、何もしないで、ただ立ち尽くして凱旋門を眺めていた。普段は軽口ばかり告げるフランスが、自分に対して緊張しているのだと思えば、そしてその理由を勝手に決め付ければ、今はその沈黙すら愛しい。

「ところでフランスさんはどうしてアニメなんかを口実にしたのですか?」
「ん?本当に見たかったからだよ」

片目を瞑っていつもの笑顔。

「今から家へ帰って頼んでたDVD見ようか!」

わくわくしている子どもの笑顔で言う。え、それほんとうだったんですか、とまたたじろいだ。

「これ、今から?」
「言ってなかった?俺んち、今ジャポネブームで。女子高生とか、シブヤとかすっごい魅力的なキーワードなんだよね」
「ええええ!?」

とはいえ、今から見るには些かムードに欠ける気がする。

「だめ?」
「~~~っ!いいでしょう、私も日本男児!一度約束した事は必ず守ります!」
「あは、日本かーわいい」

この先、二人の時間はたくさんあるし、今はもっと分かり合うべきだ。

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