パルファムパニック

フランスの美意識はもはや妄執だ。美しいものに囚われている。
プロイセンから、なぜそんなことに拘るのかと問われたことがある。その答えは例えばこんなふうだった。

「食事に美味いものが食べたい、もしくは、一日の終りに安らかに眠りに就きたいように、人はいつだって美しいものに囲まれていたい欲求があるのさ」

これは非常に尤もらしい理由に見えて、全くプロイセンを納得させられなかった。或いは、「自分がフランスであるから」だとか、「他者に誇示したい」だとか、そんな理由付けなら幾つも思いついたし、実際に口にしてきたのだけれど、しかし一度だってベストな答えだったことはない。それらのいかにも有り得そうな言い分全てが後付けのようにチープで、一度だって正しく答えを出せたことはなかった。
敢えて言うのなら、生理だ。目の前で何かが弾ければ目を瞑り、熱いと感じれば手が引込み、或いは生まれた瞬間から意識せずとも死ぬまで呼吸を続けるのと同じように、ごく自然なこととして、全ての感覚が美しいものへと帰結していく。だからただ、フランスがそういう性分に生まれてしまったとしか言いようがないのだ。

その日、フランスは日本が主催するデザインフォーラムに出席するため、12月の東京へとやって来た。予定時刻よりは若干早めに着いたらしい、腕時計はまだ昼過ぎを指していた。少しでも長く日本にいたくて、直前に無理やりフライトを早めた。日本は大事な会議があるとかで、夕方まで仕事があるらしいので、久しぶりの一人でする東京観光を頭に描きながらタクシー乗り場へと向かう。東京の街も、以前に訪日してからずいぶんと変わったらしい。再開発だとかで新しい店もできたし、駅も建て替えている最中とのことで、完成してから全部を観て回るのが楽しみだった。空港も華やかなポスターと装飾でクリスマス一色に染まり、その中を流行のコートを着た人々が行き交っている。
この国は豊かになった。がむしゃらに工業を発展させていた頃の日本は、確かに成長しているにも関わらず、何かに追われるように働いているばかりだった。その形振り構わぬ姿は、見た目などに気を払ってられなくても、一生懸命だったことを痛いほど知っている。
日本から、この国にはデザインが必要だと相談されたのは三十年ほど前だった。丁寧な彼の仕事は見た目にもちゃんと現れていて、全く駄目でもなかったのだが、確かに製品の素晴らしさを訴えきれてはいなかった。手先が器用で勤勉な日本は、たいがいのことは上手くやっていたが、フランス人から言わせればいまいち戦略に欠けている。その弱点を本人も自覚しているらしく、彼がそのために必要だと思ったのはデザインらしい。
デザインについては、以前にも一度相談されことがあった。まだ戦争で敵対する前の、日本が純粋にフランスの文化を取り入れようとしてくれていた時のことだ。当時の日本は、おそらく現在と違う意味で「デザイン」という言葉を持ち出したのだと思う。欧米化を急いでいた日本が不恰好に取り入れる装飾が好きだったのだが、それでは嫌だったらしい。

「デザイン、ねえ」
「お力を貸してください」

ばっと頭を下げられて、いよいよ答えに窮した。東洋の海に抱かれひっそりと独自の文化を発展させてきた日本に最近のフランスは夢中だったから、そうやって自分を認めてもらえているのは、とても光栄なことだったが、じゃあ引き受けましょうと言うわけにもいかなかった。

「そのままでもいいと思うんだけどなあ」

それじゃだめなんだよねぇ、と顎を左手の人差し指で触った。フランスはもちろん自国のそれに自信はあった。しかし、変に日本に変わってほしくなかったので、その話に渋った態度を示してしまった。そんなフランスの様子に日本が眉を寄せて俯いた。

「私は早く欧米の皆さんに追いつかなければいけないんです」

思い詰めた言い方で淡々と告げた。その瞼に無造作な切り方をしている前髪が影を落としたが、顔を上げて真っ直ぐにフランスと向き合った。暫し黙って日本を見詰めていたが、彼なりの考えがあったのだろう。決意は揺るがないようで、黒い真摯な瞳は全く揺れなかった。

「そっかあ……、それなら、ドイツのデザインシステムが良いよ」
「ドイツさん、ですか?」
「そうそう、前は素っ気ないばかりだったんだけどねぇ。最近のあいつ、けっこういいよ」
「あ、いえ……、ドイツさんが素晴らしいことは知っているのですが、フランスさんにそう仰るとは思っていませんでした」

困ったように口元を結び、どういった反応を返せばいいのかわからないと、こちらの出方を伺うような表情をした。確かに、それは自分を売り込む絶好のチャンスだった。学校でも作ろうと言って講師を派遣すればお金になるし、自分の権威を誇示できる良い機会だ。しかし妥協ができない分野でもあった。今一番いいと思うものが自分ではなくドイツならば、それを取り入れない手はない。

「デザインと芸術だけはさ、譲れないんだよね」
「そう、なんですね」
「だから、今一番いいデザインがドイツならドイツを、イタリアならイタリアを……、ないとは思うけど、イギリスが一番ならイギリスのデザインを取り入れる」

俺は誰が一番かは重要じゃないからね、と告げれば、日本は呆気にとられたような表情でぱちぱちと何度か瞬きをした。そんな日本にゆったりと自分の思っていることを告げた。

「俺は今一番、ドイツのところがいいと思ってるから。影響もたぶん受けてるし、それなら日本もドイツのとこから取り入れたほうがいいんじゃないかって思うんだよね」

しかし、日本からは何の返事も返ってこなかった。その態度に、もしかすると自分が一番だと主張しきれないフランスにがっかりさせたか、と不安になって伺い見上げた。

「……、やっぱり、フランスさんが一番ですね。すごいです」
「あれ、お兄さんの話聞いてた?」
「はい。私は、フランスさんが一番だと思ったんです」

今度ドイツさんに勉強させてもらえるよう頼んでみますと頷いた。

「また何かあったら相談に乗ってくださいね」
「もちろん」

即答で返事をすると、ふわりと笑った。その顔が、いつも好きだった。上品に柔らかく微笑むような笑顔が、自分だけが知っている小さな野ばらみたいに控え目で特別なものだった。もちろん日本の笑った顔なんて世界中みんな知っているんだけれど、笑いかけられるとなぜか優越感のような感情が湧いてきて、もっと笑っていて欲しいと思わせるのだ。

「ああ、そうだ。ドイツのとこに行く前にさ。プレゼントさせてほしいんだけど」
「プレゼントですか?」
「うん、だからちょっとフランスを離れるのは待ってね」

遠慮が始まる前に、ね、と念を押してウィンクすれば、何ですか、と問われた。それを曖昧にかわして、大急ぎで作らせるから贈ったら使ってくれ、と強引な約束を取り付けた。何のことかわからなかったはずだが、それでも日本は、ええ、と押し負けたように頷いてくれた。

クリスマス前の日本は、パリほどじゃないとは言えとても寒い。空調の効いた空港を出ると、足が竦むほどの冷たく乾いた風が強く吹きつけてきて、思わず革のブルゾンの袷をかき集め、カシミヤで織られたクレーム色の上等なマフラーに顔を沈めた。昔のことを懐かしんでいる間に空港前のロータリーに辿り着く。タクシー乗り場は列ができていて、少々待つ必要がありそうだった。

「フランスさん!お久しぶりです」

ああ、すれ違わなくて良かったと、タクシーから慌てた様子で転がり落ちるように黒い塊が降りてきた。今は会議中のはずの日本だった。髪はぼさぼさに広がり、スーツのジャケットも右側がめくれている。

「あれ、どうしたの?」
「すみません、会議が予定より早く切り上げられたので」

でも少し間に合わなかったみたいですね、と目を伏せるように言う日本の髪を手早く整え服を正しながら、メールくれれば良かったのに、と笑った。からかう色が出ていたのか、それに対して日本も恥ずかしそうにすみません、と言う。

「ひとまずタクシーへどうぞ。詳しくは車内で」

移動しながらでも話ができるとフランスも従った。

ゆったりとしたセダンの後部座席に乗り込むと、行き先は伝わっていたのかすぐに車は動き始めた。静かなエンジンに少し驚く。話題にはなっていたが、こんなにも静かで振動もないなんて、乗り心地は非常に快適だった。

「無理しなくても良かったのに」

日本へ行く予定を早めたのは俺だし、と言えば、こちらからお誘いしたのにそうはいきません、と返ってくる。

「お兄さんとしては日本と会いたくて早めたから嬉しいんだけどさ。俺がしたくて勝手にやったことだし」
「私も自分がそうしたいから、空港に来たのです」

フライトの時間を変更したのは本当にフランスの気まぐれだった。ちょっと早めに日本に会えたら、と思っただけで、会えないなら会えないで観光でもしようと思っていた。だから、日本に発つ直前の会議電話で、あいにく会議があって朝から抜けられないのだと申し訳なさそうに告げられた時は、言うんじゃなかったと心底後悔したのだった。早めに会えればラッキー、今回は食べ歩きとかもしてみたかったから一人で街中を歩きまわってもいいぐらいにか考えていなかったから、むしろ気を使わせてしまったようで、失敗したと思った。
何と返していいかわからずフランスは眉を下げて笑った。いくらでも上手い言い方なら思いつくのだけれど、日本相手にはどれも意味がなくて、だいたいどんな言葉も無情に二人の間に落ちていく。気を使わせないように言ってるだけとしかとってくれないから、どんな言い回しをしたって無駄なのだ。
ところが、静かな車内で唐突に日本が切り出した。

「それに、フランスさんといられると思ったら無理もしたくなるんです」

さらりととんでもないことを言って、視線を伏せる。きっと、それにどれだけこちらが動揺させられているかなんて、考えてもいないんだろう。え、と左に座った日本を見上げたが、彼は全く何も意図していなかったようで、大きく瞬きをしたフランスのことを不思議そうに見返すだけだった。
思わず体を反ったのと、そんなフランスに日本が反応したせいで、思いがけず近づいた日本から不意に石鹸の微かな匂いが香った。控え目な、ともすれば見落としてしまいそうなその匂いに、そう言えば彼はほとんどいつも何の匂いもしないと気づく。

「ねえ、日本は香水をつけないの?あまり匂いないよね」

顔を近付けてすんと空気を取り込んだ。香りはおろか、体臭もしない。いつもどんな時だって、潔癖なまでの清潔さはストイックだった。

「ふ、フランスさん…?かお、近いですよ」

ふいっと視線をそらして遠ざけようとする。そのくせ控えめに伏せた目元が赤くなっているから、そういった態度が男を変に煽るのだ。いつもながらに目を細めて思った。

「あは、ごめんごめん。香水とか好きじゃないのかなって気になって」

過去に半ば押し付けるみたいに贈ったプレゼントのこともずっと引っかかっていたし、懲りずにまたプレゼントしようと用意しているんだからタチが悪い。もうすっかり準備もしてしまったが、さりげなく尋ねられたので、そのまま突っ込んで聞いてみる。

「私の国でも香を焚き込む文化はありますよ。最近はしていませんが」
「ふうん、いつも綺麗にしてるもんね」
「あまり香りが強いと好まれない傾向もあるんですよ」

日本の返事から、可もなく不可もないような感じを受け取って、少しチョイスを間違えたかもしれないと考えた。
フランスにとって匂いは恋だった。そこに本人がいなくとも、自分と似た匂いが香った瞬間に自分のことを少しでも思い出してくれたなら、と、そんなことを考えたりする。フランスは、いつも自身に合うよう調合したウッド系の香りを身につけている。癖のある木の匂いは、どこかグリーンティーと似ていて、日本がお茶を飲む時、時々でいいから思い出してくれるかも。そんな淡い期待にも満たない打算を、いつも抱えている。

「昔にいただいた香水は、」

フランスが黙ったことで静かになった車内に、唐突に日本から言葉が零れ落ちた。その声は呟きと言うにもあまりに小さくて、肩と肩が触れ合うほど傍にいたからやっと気付いたような、囁きみたいな声だった。

「なに?」
「あ、いえ……」

すぐに聞き返すと、日本は少し言い淀む。はっきりしない態度は常のことだったが、一度言った言葉を引っ込めるような仕草は珍しかった。少し考えるように逡巡した日本は、彷徨わせていた視線を正面に戻して二、三度頷き言った。

「昔にいただいた香水は、とても素敵で。ずっと大事につけていたんですよ」
「え、」

その言葉に、慌てて右側を振り仰ぐが、日本は反対の方向へ顔を背けて表情はわからなかった。しかし重力に従ってさらさらと流れた髪の隙間から、ちらりと覗いた耳が赤く染まっていて、ああ照れているのだと気付く。

「ふうん、そうだったんだ」

以前にデザインを教えてくれとやって来た日本に、半ば押し付けるみたいに贈った香水は、実際に日本が使っている場面に出会うことは叶わなかった。だから聞かされた言葉に嬉しくなって、そっと日本の右手に触れた。左手の揃えた指先で掠めるようなささやかな接触だったが、そんな些細なことでも嬉しい。爪から熱が灯って全身を巡るような、柔らかくて温かい気持ちに満たされる。そのまま手を握るでもなく、離すでもない距離を保っていると、緊張してきたのか日本が肩をぎゅっと竦めた。

「あ、あの」

戸惑いが声に滲んだ。咎めるみたいに声をかけて、それでいて拒絶するでもない日本の態度が愛しくて、軽く瞼を閉じて感情をやり過ごす。

「いいからいいから」
「フランス、さん」

途切れがちの声は、きっと緊張で上手く喉が開かないからだろう。じっとしているはずなのに、右肩に忙しない気配を感じた。どうすればいいかわからなくなった日本が、居場所を探すみたいにそわそわしている。あまりからかっていると思われても厄介なので、真面目な声で

「あの後あんまり会えなかったし、実際につけているの知らなかったから」

嬉しい、と告げれば、日本は顔をフランスに向けてくれた。これ以上ないほど真っ赤な顔をした日本が、照れ笑いみたいに笑った。その姿がとても可愛くて、フランスもどうしていいかわからなくなる。心臓いっぱいに抑えきれなくなった感情が溢れて、けれど何か言葉にしたら全く伝わらないような繊細さに、青臭くて困ってしまった。苦笑に似た笑いが漏れそうになる。

「……すみません。だってなくなっちゃうから」

少し不貞腐れたみたいにふいっと顔を背けてしまう。蒸発しないように大事にしていても、どうしても液体なので気化してしまったのだと可愛らしく責めるみたいに言った。いくら探しても同じものは見つからないし、とぼやかれると、だって特別仕様だったんだもの、と嘯いた。

「俺の使ってた石鹸と同じ匂い……って気付いてた?」
「いえ、はい……そうでしたね」

半分からかうみたいに伝えれば、もごもごと口ごもってしまった日本を見つめて、穏やかになっていく。鼓動はドキドキと走っていくが、手も握らない距離感に心地良さを感じていた。やっぱり日本のことが好きだと思った。

日本にとって、香水は少し苦い記憶もあった。日本中がバブル景気に湧いていた時のことだ。こんな状況が長くは続かないなんて、言われなくとも痛いぐらいに知っていたが、自分でもコントロールできない経済の暴走が気分の高揚を呼んでふわふわと足元が浮わつき、頭が霞がかって思考がはっきりしない。感情の浮き沈みが激しく浮ついた言動から、随分と思い返すのも痛々しい発言をしていたように思う。そんな傲慢と言える不遜な振る舞いは各方面から批判されていたし、日本だって自分自身のことを調子に乗ってるなあと感じていたが、もはやその暴走は日本一人ではどうすることもできないところまできていた。
その日は、非公式なアメリカとの会談があった。交流を深めるという名目だったが、実際に話題に上る世間話といえば、緊迫した世界情勢のことばかりだった。人道的支援の名の下に、日本も負わなければならない義務がある。正式な取り交わしは月末に迫った会議で決定されるのだろうが、その前に調整といったところだった。
家に帰って、まず真っ先に大事なものを仕舞っておく小物入れを取り出した。漆塗りの造りの良いものだ。日本が一番、あの国に目をかけてもらっていたと思っている時代に作られたものだった。
日本には、もはや何が正義かもわからなかった。――いいや、この50年ほどはずっとそうだった。ただ自分を守るために必要だから曖昧な態度をとって、お金を用意して、面倒事を我慢しているに過ぎない。じっと耐えていれば上辺を過ぎていくような、そのくせどうしたいのか主張すら忘れてしまったような。
そんな日本を堂々と批判したのはスイスだったが、一番堪えたのは何も言わないフランスだった。世界会議の席は端と端、非難するでもなく肯定するでもなく、ただ日本のことを真っ直ぐに見るフランスが、怖かった。どう思われているのかが怖かった。

一度だけ、噂でフランスが未だに日本趣味を引きずっていると聞いたことがある。飽きないよね、と世間話の延長で聞いた話をずっと忘れられない。彼が愛してくれたジャポネは随分と遠くなったものだ。

(それともずっと昔から、私はこうだったのでしょうか)

長いものに巻かれているやり方は自分にはよく合っていた。事実、今はこんなにも富んでいる。生活も国民も、豊かになった。欧米の高級なブランドを買い漁ることだって簡単で、土地も資源もいくらでも手に入る。食うに困ることもないし、何より平和だ。なのに、なぜか一番憧れていた人には全く近づけた気はしなかった。

(あんなのは一過性のブームに過ぎなかったというのに)

それでもみっともなくジャポニズムに縋りついているのが、他でもない自分自身だと知って滑稽だった。
小物入れの蓋を取るとフランスのパリにある家の匂いがした。中には古い厚紙で丁寧に包んだ小さな瓶が入っている。近代化が進み、大量生産で庶民にも出回るようになった時代に作られた香水だった。彼が気まぐれに贈ってくれたものだが、特別に作らせたとはいえ王侯貴族に捧げるような大げさなものではなく、俗っぽさのある歪なデザイン。何十年も前の色褪せたラベルを、そっと指でなぞった。彼はそういう、生活に密着した人間らしいものを特に愛していた。そのくせやっぱりデザインにはこだわっていて、きらびやかではなくてもモダンな瓶の形が、ひどくセンセーショナルだったことをはっきりと憶えている。感嘆の余り言葉を失った日本に、バカラ製のガラスでできているだとか、その透明感の美しさだとかを熱っぽく語っていた。

(ああ……、なんて似合わない)

そんなものを後生大事に取ってあることが。使うのが勿体無くて蒸発しないように仕舞い込んでいたのに、それでも中身は半分ほどに減ってしまった。たまにこうして瓶を包む紙を取り替えるのだが、その紙に染み込んだ移り香に涙がこみ上げてきて両手で顔を覆って絶望を装う。

「日本!」

縁側からずかずかと上がりこんできたアメリカに名前を呼ばれた。そんなに大きな声を出さなくても聞こえている。アメリカが足を踏み出す度に廊下に振動が走った。

「日本、今日の晩ご飯……どうかしたのかい?」
「いいえ、どうもしていませんよ」
「……じゃあ、なんで泣いているの」
「浸っていたいんですよ」

昔の思い出に。或いは悲劇に。どちらでも良いから、今だけ悲しみの淵でさめざめ泣いていたかった。

「最近の君は変だ」
「そうですか?前からこんなもんでしたよ」
「前はもっと言いたいこと言ってたぞ!」
「大人しく言うこと聞いてくれたほうが貴方には都合が良いんじゃないですか?」
「俺にはね。皆にそうする必要はないんだぞ」
「……ふふふ、勝手ですねえ」
「フランスは」

ぴくりと反応してしまった。

「フランスは、そういうつもりでプレゼントしたんだから、いいかもしんないけどさ」

憮然とした態度を示したアメリカが、不意に日本の肩を強く掴んだ。驚いて顔を上げた日本に、真っ直ぐ強い視線を返す。若々しい空色の瞳が意志を持って、日本が抱えていた香水の瓶に手を伸ばした。

「君たちに必要なのは、こんな物じゃなくて言葉なんだろうね」

そう言って瓶の口を人差し指でなぞってから、呆れたみたいに溜息をついた。アメリカの言うように、臆病な大人二人、前にも踏み出せず、今更後ずさることもできず、舞台の真ん中で立ちすくんでいるみたいだった。フランスとはそういう曖昧な関係でいて、いつも決定的な言葉はない。だから些細な遣り取りに一喜一憂して、密に交流のある時は安心できたり、こうして過剰に不安になったりする。

「アメリカさん!」

唐突に日本から香水瓶を取り上げたアメリカがその腕を振りかざした。慌てた日本がその腕に縋りつくように止めに入る。

「何をするんですか!」
「こんなものがあるから直接会って、きちんと話をしないんじゃないかい?」

無茶苦茶な、けれどどこかで筋が通ったことを言いながら、アメリカは大した事じゃないかのように、さらりと言いたい事は言うべきだと宣った。それがそう間違った意見ではないと日本が思っていたから、はっきりと否定することも出来ず、それでもただ、それを返して欲しいと言った。

「……香水ぐらい、新しいものを買ってもらいなよ」
「だって、それ他では売ってないんですよ」
「新しい、他では売ってないものを買ってもらいなよ」

香水なんてものは使うものなんだぞ、とアメリカが言った。

あれから二十年ほど経ったのか、と東京の街を歩きながら日本は思った。あれからフランスとの関係は、結局変わっていない。相変わらず曖昧なままで、十年置きぐらいにやたら交流の多い時期と、少し疎遠な時期を繰り返している。
空港からはフランスが泊まる予定のホテルへと向かった。荷物を置いて、ホテルのレストランでランチを摂った後、フランスの希望で東京観光へと繰り出した。師走のせいか大通りは横切るのも一苦労な程、人通りが多かったが、クリスマスの装飾や街の雰囲気にフランスが楽しそうにしているから、日本も嬉しくなる。

「あ、この店入っていい?」
「え、ここは……、パリのほうが大きいと思いますが」
「いいのいいの」

受け取るものがあるんだ、と目を輝かせて日本の左腕をとった。彼はスキンシップが多いように見えて、意外と直接的に触れ合うことがないから、思わずドキッとした日本は流されるがまま店内へと入る。高級感のある落ち着いた店の中は、時期柄かカップルが数組いた。プレゼントでも選んでいるのだろう、ショーケースの中を指差して話をしているようだ。
フランスはそんな中をまっすぐ店員のいるところまで歩いて行って、二言三言何かを告げた。さすがに店員も慣れているのか、外国語で話しかけられても落ち着いて対応している。

「どうしても直接渡したくてさ。飛行機には持って乗れないから」

早く日本に見せたい、と言った表情で、珍しく興奮したようにフランスが言った。いつも嫌味なほどに余裕のあるフランスは、時々こういった少年みたいな姿を見せる。母親にとっておきの景色を見せるような、初恋の少女に初めて愛を語るような、そんな甘酸っぱい雰囲気だ。

「お待たせしました」

店員が奥から大げさな箱を持ってきた。蓋を丁重に開き、中身を確認して下さいと差し出す。ふわふわとサテン地の布が敷き詰められた箱の中には、ボルドー色の瓶が入っていた。一見シンプルに見えるさっぱりとしたデザインのそれは、よく見ると瓶の内側にカットが施され光を屈折させている。上部から底面にかけて少しずつ色が濃くなるグラデーションがかかっているため、通過した光もよく計算されていて、瓶の中身の液体がキラキラと複雑な色に変化して見えた。

「日本に、プレゼント」

首を軽く傾げて、これけっこう自信作だよ、と言う。瓶をおもむろに取り上げてキャップをとった。白い上品なハンカチを取り出して、そこに一吹き中身を吹きかける。日本に、ほら、とハンカチを渡してニッと笑った。

「なんかあんまり好きじゃなかったら悪いなあと思って、今回は普通のやつにしました」

嗅いで、と勧められ日本はおずおずとハンカチを顔の近くまで引き上げた。ふわっと香ったのは、フランスがずっと以前につけていた香水と同じ匂いだった。

「あれ、これ」
「昔お兄さんがつけていたやつ。これでいつでも俺のこと思い出してくれていいからね」

周りに聞こえないよう小さな声で囁いてから、店員に向き直り中身を包むよう頼んだ。その様子をぼんやりと見てしまった日本が慌てて

「す、すみません。そんな、こんなものもらえませんよ」

と言った。フランスが、いいからいいから、と宥めても、自分は何も用意していないのだと俯いてしまった。

「そういう反応するってわかってたんだけど。まあ、なんか、アメリカがさあ。新しい香水ぐらい贈ったら?とか嫌味言うんだもん。俺が甲斐性ないみたいじゃん」

肩を竦めて、だから俺のために快くもらってよ、とおどけたみたいに言う。そこまで言われると日本も下手なことを言えなくて、うう、と唸るしかない。アメリカもあの後、すっかり忘れていると思ったのに、今更言い出すとは、と恨めしく思った。

「ていうか、なんであいつ俺が昔に香水をあげたこと知ってんだろ」

とフランスが呟いた。日本は慌てて、ほんと何のことなんですかね!と返す。あの時のことはフランス本人には言えない。そんな外交上疎遠になったからと言って、不安で泣いてしまうことなど知られては、きっと重いに違いない。

「いや、もうホント、アメリカさんの突飛な行動には困りますよね!」

そわそわと目が泳ぐのは自覚できたが、頭が沸騰しそうなぐらい熱くてはっきり考えられない。明らかに挙動不審な日本に、ふうん、と意味ありげな相槌を打ったフランスが、まあいいかと納得したように頷いた。ちょうどそのタイミングで店員が包装された先程の香水を持ってくる。何となくやり過ごせたことに、安心して溜息をついた。

「この後、日本の家に寄ってもいい?」
「いいですが、あまりお構いできませんよ」
「いいのいいの、何かゆっくりしたい気分というか」
「人出が多いですもんね」
「んー、まあ。そんな感じ」

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