告げられるのは好きと罪悪感

泣きそうな彼が俺の家へ来たのは日付が変わる頃だった。パリの本低とは違ってリヨンのアパルトマンは普段は使用していない。よくここがわかったね、と告げれば、絞り出したような声で、すみません、と呟く。きっと何を言ってもそれしか答えないだろう。夜更けに訪れられたのは自分のほうだと言うのに、なぜか居た堪れなさが体中を支配して、外はもう寒いから、と室内へ通した。この季節に寒いことなんてなかったが、今夜は雨で、だから肌寒いのだと寂しさに言い訳をしながら、玄関先で日本が靴の泥を払うのを眺める。黒い髪で隠れた顔、俯いて読めない表情。何があったのかは想像がつくけれど、きっと今日も何も言ってくれないだろう。こうやって家へ一人で来るなんて俺がどうとかしても構わないのか、と、思っても何もできないのはこちらのほうなのだけれど。きっとどうとかされてもいいのだ、心を明け渡す気がないのだから。付け入る隙すら与えてくれないのに思わせぶりな行動に出る彼に、本当は怒るべきだった。
「好きだって知ってるくせに」

聞かせるつもりもなかったが、肩を縮こまらせたのできっと聞こえてしまったのだろう。静かな玄関では当然だった。また、すみません、と告げられてしまい、優しくしたいのにそうもできない。フォローを入れてやりたいけれど、下らない感情が喉に絡まって身動きが取れなくなる。博愛主義を標榜するフランスとしては何か言うべきだった―例え責める言葉であれ、慰める言葉であれ、全部に目を瞑った世間話であれ―。けれどどう考えても、どんな台詞だって上手く自分を演じられる気がしない。ただ日本に恋する愚かな男がいるだけだった。だからと言って突き返すことも出来ない中途半端さに更に自分が惨めになって、何も言わないことを選んだ。リビングに連れて行く間も大人しく従う彼を部屋の中央のソファへと座らせる。何も言わない彼から逃げるように、飲み物を用意するフリをしてキッチンへと入った。とにかく俺の、心の準備が必要だ。

部屋に戻ると通した時のまま、カバンも置かず動くこともなく座っている日本へティーカップを渡す。また、すみません、だ。もはや口癖のそれに、自分が空しくなっていくのを感じて溜息をかみ殺した。ダージリンのストレートを好んだ彼に合わせた自分に後悔する。このまま何時間経っても、きっと俺も彼も動くことはないだろう。
彼は謝っても、助けてとは言ってくれない。

「とりあえず、映画でも見る?」

この場の空気をどうにかしたいとは言え、気の利いたことなんて喋られるわけがなかった。その上、できる限り引き止めていたい卑怯な気持ちもあって、けれど、まずは落ち着かせようとも思った。一番都合の良い方法を選んだだけだったが、日本はそれを聞いて、泣きそうな顔で笑った。
これ以上、何も言わない彼と向き合っていられる自信がなくて、テレビ台の横に備えてある本棚からDVDのケースを取り出した。何枚かスライドさせて確認し、そう言えばここに置いていたものを殆どパリへ持って帰ったのを思い出す。少ない品揃えに選ぶことを諦めて、一番メジャーな映画を取り出した。

「悪いけど今恋愛ものしかないんだよね」

なんでもいいですお構いなく、と言った声が渇ききった喉にはりついてたようなものだったが、それには気付かなかったことにした。紅茶は受け取ったまま、飲まれる気配はない。DVDをセットしてテレビをつける。彼を座らせたソファから少し離れて柱に凭れ掛かった。飽きるほど見返した映画がどんな内容かは頭に入ってこない。確か明るくてシュールな可愛いげのある映画だった。

いつごろからだっただろうか、時折、こうやって日本は何も言わずに俺に縋るような真似をすりょうになった。俺の恋は気付いた瞬間に終わっていて、彼の控えめな魅力を知ったのが遅すぎたのだ。その時にはもう誰かのものになっていて、取り返しもつかないで、きっとこの先も日本が俺のものになることはないと言うのに、こうして手を伸ばせば届く位置に居座るから、諦めさせてもくれない。あの若い腕で力強く抱きしめる青年の、ただ執着にも似た愛とやら。日本が、それを突っぱねることなく受け入れるので、俺はライバルになることさえできないまま日々が過ぎていく。選ばれるどころか、恋を争う舞台にすら立っていない。
そんな惨めなまでの俺の家を訪ねてやって来る彼の考えなど、俺にはさっぱりわからない。けれど、俺が日本を拒まない理由などとうに見透かされていて、だから俺なんだろうとは気づいている。恋が邪魔して手も出せないし、追い返すこともできない。ただ卑怯な大人が二人いた。

「私が本当に人形であれば、」

日本が以前に、人形みたいだ、と評した女優が感情豊かに演技する様を、座らせた態勢から全く変わらない姿で背筋を伸ばし真っ直ぐにその黒い瞳に映して、彼が呟いた。久しぶりの会話にじっと横顔を見詰める。

「……」

けれど、また真意を伝えることなくまた黙る。何度か繰り返されたやり取りだ。何を考えているかわからない、とか、傀儡だとか。そんなことを悪し様に言う者のことを、本気で気にしているわけではないだろうに、そういった陰口を思い起こさせるように言うのだ。初めてそれを告げられた時も二人で映画を見ていた。まだ、ただの友人として傍にいられた頃のこと。とても若く見える外見とは裏腹に、老成した瞳が色んな感情を呑んで黒くなったと、そう思わせるほどに深い感情を映る瞳が、まるで愛とも哀しみとも見えた。可愛らしい顔と華奢な体格で、彼は強く賢い。けれど、その時は守ってやらなければならないと駆り立てられた。何を考えているのかなんて、言い当てられたことなどない。

「俺は、日本が人形じゃなければいいって思ってるよ」
「あるいは、あの日、貴方が仰る愛などに耳を傾けなければ、とも言えましょう」

決して俺を見ない日本と、日本を見ない俺が、映画越しに視線を交わす。クライマックスだ。映画を盛り上げるための演出がアップシーンを多用して表情をクローズアップしても、今現実にこの場にいる俺たちは本当にしなければならない表情は表へ出せない。ああ、そういえば。愛を教えたのも俺なのだろうか。そうならば、まだ良いとも言える。(そんな、じゃあお前の感情はどうなるの?愛はあるの?)ガキくさい青いことを言ったのだっけ。
これが終わってしまったら、どうしよう。

けれどそれは杞憂だった。携帯電話の電子音が、映画のちょうどBGMに使われているアコースティックなメロディーと重なる。電話の着信を知らせるらしいオールドジャズのナンバーは、いつまでも懐古主義から抜け出せないあいつが好きな歌だった。彼は二つ折りの画面を開き、恐らく映し出された名前を読んでいくらか躊躇ったように息をのんだ。ちらりとこちらを伺うように視線を寄越され、その表情で、なんとなく相手が誰だかわかったが、頷いて電話に出るよう促す。

「はい…、はい、フランスさんの家にお邪魔しています」

緊張した声は、俺と話す時の聞いているだけで可哀想になるような弱弱しい声とは違い、多少の嬉しさが滲んでいた。ちらちらと伺うのでテレビの音量を下げ、部屋のドアまで歩いていく。

「はい、いえ……、はい、はい。映画を観ているんです…、はい」

彼がまたこちらを伺う気配がして振り返ると目が合った。あまりにも情けない顔をするものだから、俺は、ああ会えそうなんだな、と理解した。

「今からですか?」

俺は視線を逸らすことで肯定した。罪悪感の入り交じった視線を振り切って、ドアノブを開きながら手を振った。彼がもう一度、掻き消えそうな声で、すみません、と言って、二言三言喋って電話を切った。家に来てから殆ど何もしていない彼は、あっさり支度を整えティーカップを持って、扉までやってくる。カップを攫って、ばいばい、と告げた。もうこれ以上は一緒にいられなかったから、入れ替わりで彼が先ほどまで座っていたソファーへと逃げる。しばらくして扉の閉まる音がした。俺はエンドロールまで追いかけて、いてもいなくてもいいと言われるのを待っていた。彼はそれでも決して言わないだろう。俺を好きとも言わない。
俺の好き、に、彼はすみません、と繰り返す。ただそれだけだった。

PAGE TOP

close