ヒーロー

ふと、顔を上げると月が目に入ってしまった。行き詰った手元の資料をどうするか、溜息をついて考えるが視線を落とした先は何度読みかえしても上手く繋がらない文字の羅列。これでは駄目だ。一度、我に返ると洪水のように情報が入り込んできて、時計の音、部屋の外から聞こえる人々の笑い声、クーラーのひやりとした風。ああ、そうだ。今日の昼間の会議は全く上手くいかなかった。唐突に後味の悪い後悔のような感情、いやこれは自己嫌悪だ、そんな重苦しい気持ち胃の上に冷たくのしかかるものを思い出して、先ほどまでの停滞が何だったのかと思う程に思考回路が活動を始める。けれど考え始めるのは誰に言えるわけでもない言い訳ばかりで、今やるべきこと―今日の議事録をまとめることとか、明日の資料作りとか、どんな顔で次、会議室に出るのだろうかとか、は置き去りになる。自分は悪くない、と言えるだけの理由を探していて、そんな自己正当化するために思考している。こんな状態では状況の打破には繋がらない。ため息が満ちる深夜の会議室で時計を見上げて、今日はもう諦めることを決意した。
世界中の国が集まって行われる国際会議の場で、今回の議題は環境問題についてだった。サミットを直前に控えたプレビューだったのだが、主催国の日本としては、ここである程度の成果は欲しかったし、事前の打ち合わせで相談していたドイツや北欧各国の反応から見て、それなりのものになるはずだった。あとはニ大国がどう出るかだけというところまでは詰めていて、逆に言えば詰めきれなかったその二人に、問題自体が根本的に通じなかった。そのための修正と妥協案の制作、万が一に備えてのフォローのため、ここ最近は賛同する国たちと会議室に詰めている。それでも日々は続いて、毎日の仕事はやんなきゃならないし生きていくためには生活があった。それは幸せなことなのに、とても重苦しくのしかかって、終わらない会議よりも、難題と思えるこの議題の解決策よりも、何よりも、今を生きていくことが、一番、しんどかった。

(ああ、洗濯しなくては。洗い物も溜まっていましたし、掃除は…前やったのいつだっけ)

でも、たぶん今日も手をつけないまま、敷きっぱなしの不健康な布団に就くのだろう。冷蔵庫も電源を入れている意味がなくなっている。気が付けば無意識にコンビニ弁当で済ましている自分がいて、そもそも、買い置きしていた食料も賞味期限が切れているはずだ。それすら把握できていない、…料理はけっこう好きなのに。
考え事をしながら事務所の扉を開ける。外は室内とは違って暑苦しかった。夜風が抜けたが、温いばかりで湿気を含んでどこか重い。しかも、街中をわざわざ暑苦しいネオンで彩るのが東京だった。せめて星が見えたら。現代、この街の夜空は淀んだ紺色だ。イライラの欠片みたいなのが積もるのを感じた。
目の前で天下の往来を塞いでいるのは、大学生かフリーターか、どなた様の身分かは知らないが、テンション高く能天気に騒いでいた。人々が泳いでいく街中を遠い目で眺める。もう深夜なんだから帰れと思ったが、からんでくる酔っぱらいのサラリーマンもうっとおしすぎて、そんなことを思う自分すらも面倒で、どうでもいいことのように感じた。また、あのお気楽な乗客で埋め尽くされた満員電車に乗らなきゃいけないことがとにかく憂鬱だった。
一歩踏み出し溜息をついた時だった。

「にほん」

ネオンと一晩中営業している店の多い大通りの一角では、ハッキリと顔が窺える。角を曲がってすぐのところに、確か2時間程前に帰ったはずの彼がいた。ちょっとぼさぼさとした乾いた金髪は、会議漬けの生活が始まる前に見たときより伸びたと思う。隈が色濃く残る陶磁の肌が青白い蛍光灯に照らされ一層血色なくした。けれど、なぜ彼が。きょとんと考えていると、イギリスはコンビニ袋を持ち上げた。

「ちょっと面白そうだったから」

立ち読みしてたら、窓からちょうど見えたから。
まるで何かを質問することを拒むように言い訳じみた状況を説明されれば日本は頷くしかなくて、そんな日本に彼は、遅くまでご苦労さん、と笑った。そうして自分から声をかけたはずなのに、べつにお前のためじゃないんだからな!俺の国ではコンビニが珍しいから、最近話題だしどうなっているか気になっただけだ!と忘れず付け加える。
駅前を不愉快な夏の風が包んだ。袋がガサガサと音を立てる。見ると中身は新しく出た、しかし、何週間後には誰にも気付かれず消えるアイスのようだ。イギリスの弟たる(そうまさに今この状況を難航させている原因の一人の)彼もアイスが好きだったが、あまりイメージになかったので意外だった。しかし、袋に小さな水滴がいっぱいついていて、今にも溶け出しそうな。からからと缶が擦れ合う。あれはビールだろうか、チューハイだろうか。確かに酒は好きなようだが、なぜか二つ。きっとぬるいのだろう。

「ウソツキ」

だから、日本は言った。

「ウソツキ」

もう一度言って歩き出すと、少しの間固まっていた彼がガサガサと追いかけてきた。全くもってスマートでもかっこよくもなく、生活感が漂うその音が、本当にらしくない。100年前、日本と同盟を組んで密に付き合っていた頃は傍若無人なまでに自己の利益を追求していたというのに。

「なんだよ、急に」

あの店には、何度も行っているくせに。数年前、日本ブームなのかやけに詳しいフランスや、しょっちゅう遊びにくるアメリカに、口うるさいほどコンビニの便利さを語られて、こっそり日本の部下に頼んで行ったことを知っている。そこで買ったコンビニ弁当が美味しかったことを、フランスに言って笑われていたのも見た。すべて、日本には語りかけてはくれなかったが。

「何も知らないくせに」
「なんだよ?すねんなって!」

ムリヤリ横に並んだ彼が、顔を覗き込もうとした気配がする。見られたくなくて距離を取ろうとしたが、たぶん遅かった。右斜め後ろを陣取ると、彼はそれ以上、近付いて来ない。
なんだ、あなたらしくもない。何も言わないから、こちらも黙っている。聞かれたって困るんだけど。
日本はまた、ウソツキ、と言った。声が掠れて鼻にかかったが、そんな事はもうどうでもいい。今日本が如何に疲れていて、明日の会議に頭を悩ませ―悩みの種は、今まさに目の前にいる彼の弟だ―、そうしてどれほど誰かに優しくされたかったかも知らないで、そうやって暑い中、アイスが溶けるまで待ったりするから。
いつもの変なプライドはなく、思い切り鼻を啜ってやった。目とリンパ線が痛い。そして、らしくもなく、歌のような台詞を言ったのは、たぶん聞いて欲しくなかっただろうから、聞こえなかったことにした。

「……でも、ヒーローになりたかった」

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