コールミー!

朝一で自宅を訪ねてきた花屋の店員が、見事な薔薇の花束を携えやって来た。贈り主は匿名で、百合の文様が入ったメッセージカードにはハッピーバースデイとだけ書いてある。日本の腕に抱えきれないぐらいの大きな花束は瑞々しく、控え目に香る甘い香りに、受け取った瞬間思わず溜息が零れた。店員が言うには、配達の日時をきっかり指定され、花は一つ一つ贈り主自らが、今日が丁度良い咲き具合になるよう選んだらしい。二割ぐらいが十分咲きで、咲きかけのものや蕾のものもバランス良く配分されているその花束は、見た目に十分華やかで、きちんと手入れすればまだ何日も楽しめそうである。
そんな手間もお金もかかるようなものを無記名で贈る人物に心当たりなど――、一人しかいなかった。

フランスと再び交流するようになって、20年。何となく気まずい気持ちもあって、せっかく敵同士ではなくなったというのに、仕事以外では連絡を取っていなかった。戦時中に彼の連絡先は失ってしまったから、取りたくても取れなかったのだ。
あの戦争が始まる、本当に直前。崩れ落ちるように状況が変わっていき、日本が誰を信じていいのか、敵も味方もわからなくなっていた頃。今思えば、最後の最後まで彼は何とかできないのかを説得してくれていたのに、当時の自分にはそんな余裕もなくて、……自分のことで精一杯でフランスのことすら疑ってしまったのだ。
そうやって肝心な時に信じられなかったくせに、縋るようにフランスへ手紙を出した。初めて彼への想いを吐露した、悲痛の手紙だ。一体、あの時の自分は何と言って欲しかったのだろう。結局それは、宛先不明で返ってきたのだけれど。
それが、フランスの優しさだと思う。何と返ってきても、何の音沙汰がなくても、あの頃の自分は正気を保ってはいられなかった。それが偶然であれ、意図的であれ、彼に届かなかったことに安心したのも事実だ。

しかし、それが自分で思う以上に苦い記憶になっているのだろう。先日の欧州訪問が実現するまで、個人的に会うことすらできなかった。

「お久しぶりです、フランスさん」
「ボンジュール、日本。ほんと、こうして会うのは何十年ぶりかな」

お辞儀をすると、フランスは柔らかく目を細めた。お互いに数人の警備の者がついていて、何かに監視されているような物々しい雰囲気ではあったが、彼のその表情に安堵して日本も弱々しく笑った。
その訪問は、上司の個人的な訪問という形で実現した、政治的な色合いのないもののはずだった。しかし、いくら終戦だ、平和条約だと言ったって、簡単に全てが丸く収まるわけではない。日本なりに誠実に年月を積み重ねたつもりだったが、それでも先の戦争が及ぼした影響は大きなものだった。内外問わず、簡単にわだかまりが解けるわけなどない。

「イギリスにはもう会った?」
「いいえ、この後にお会いする予定ですよ」

そうか、とだけ頷いて、朝のパリの街を歩いて行く。彼とこうやって二人、肩を並べて歩くことなど何十年ぶりになるのだろうか。警備の人間もついて来てはいるが、少し距離を取ってくれている。ふと感慨に耽りそうになった日本の顔を、フランスが覗き込んだ。

「疲れた?」

体調を心から気遣うように尋ねられる。近くなった蒼い瞳でじっと見詰められると、息が止まる。緊張に恐る恐る深く息を吐き出した。

「疲れていません。あまりにパリの街が美しいので、感激していたのです」
「そうか……、何かそれ聞くの久しぶりだな」

そう言って、思案を巡らせるように真面目な顔になったフランスだったが、すぐに明るい声で言った。

「疲れたら言ってよ。この後の予定とか、そんなこと考えなくていいから」

それはできないだろう、と思った日本だったが、現実には曖昧に頷いた。優しいフランスのことだ。日本が疲れを見せたら、きっとすぐに察して、この後の予定を変更してでも休ませるだろう。今回の訪問のために、一体どれ程の時間をかけ、どれ程の人々が動いて調整したのかなど想像に難くない。それでも、フランスは造作も無いことのように、簡単に都合をつけてしまうだろう。だから、日本は例え疲れていたとしてもそんな色を欠片も見せてはいけないのだとわかっていた。
(それに、少しでも一緒にいたいですし)
元より今回の予定ではそんなにゆっくりなどできない。今も散歩がてら今晩泊めてもらえるという屋敷へ連れていってもらったら、その後は人にあったり食事会に出たりで、なんだかんだと忙しい。

「あれ、この店……」
「ああ。ちょっと前に改装したんだよ」

昔、連れてきてもらったレストランの前を通りかかった。モダンなデザインの都会的な建物になっていたが、店の前に出されていた看板が同じだったため何とか判断できた。すっかり変わってしまった外観に驚く。無理もない。一番最近来たのは半世紀近く前のことだ。当時は開店したばかりで、フランスがシェフのことを知っているのだと紹介してくれたが、今では老舗の高級レストランだろう。あの若いシェフも、重鎮と呼ばれていてもおかしくない。
次々と思い出される記憶の懐かしさに目を細めた。何とかフランスの隣にいても恥ずかしくないよう、無理をして高いスーツを着て、必死になってフランス語のメニューを覚えて、テーブルマナーを付け焼刃で習得しようとして。そんなこともあったのだ。

「随分、変わってしまいましたね」

街並みも、自分も。そう考えると急激に寂しさが襲ってきて、思わず愚痴のような言葉を零してしまった。しまった、と気付いた時には、思っていた以上にその声音が寂しく響いた後だ。まるで、変わってしまうことを非難しているような、そんな未練がましい言い方だった。

「あ、その」

しかし、フランスはそれに気分を害した様子も滲ませずに笑う。

「だって日本ってば全然来てくれないんだもん」
「いえ、それは……」
「まあ、それは。俺も同じだけどね」

お互い様、薄情なもんだよね、と。フランスはいつもそうやって、日本が謝ることのないよう、先手を打ってくる。そう言われてしまえば、これ以上言い訳も謝罪も不要だった。謝らせてもくれない。

「さあ、早く行こうか」

しんみりとしかかった空気を変えるような、からりと口調だった。

何ともない会話をしながら歩いていくと、市街地の中に大きな屋敷が見えてくる。随分と懐かしいような、けれど記憶にある限りでは、もっと郊外にあったはずだ。
入って、と勧められて足を踏み入れる。玄関は吹き抜けで、広く立派なものだった。何度か国際的な会議で訪れたことのある屋敷で、ずっと昔に貴族が住んでいたものを改築したのだと聞いたことがある。よく手入れされている屋敷は豪奢で品があり、いつだったか日本がその屋敷を好きだと言ったのだ。
あれは日本の家に遊びに来たフランスと、花の名前を当てる遊びをしていた時のことだった。
(私が、先日の会議でお邪魔した屋敷があまりに素晴らしくて感動しました、と言って、彼がそうだろ、と笑った)
それは麗らかな春の日。日本の家の庭には桜が咲き始めていて、それをフランスが褒めてくれた。きらきらと眩しい時間。他愛もなくじゃれ合うように戯れて、何でもない時間を過ごした。フランスと。懐かしさに目を細める。
あの後、庭に桜の木を植えたのだと言っていた。今度、見に来てよ、と笑ったフランスの顔を今でも思い出せる……、その花が咲く前に会えなくなったのだが。

「ここが食堂、奥は昔に置いていた家具とか飾ってあるから、時間があったら見てってよ」

一番最近の記憶から更に改装された室内はだいぶ変わっていて、日本が知っている面影は殆どなかった。以前使っていたものは保存目的で展示されているものみで、二階には調度品を置いている部屋があるのだと言う。ちょっとした資料館のようだ。

「ええ、ぜひ」
「きっと懐かしいと思うぜ」

ふっと遠い目をしたフランスの視線の先を追えば、庭先に向かう。そこには残念ながら桜の木はない。

「こっちに滞在する間はここを使いなよ」

二階に上がって廊下の奥の部屋に通された。最初に目に入ったのは書き机で、どっしりと重厚感があった。部屋には一通りの家具が揃っているようで、ソファもテーブルも置いてある。扉が二つあって、目の前の奥にあるのが寝室、左手の奥が洗面台と風呂場だと説明された。
上等の家具に圧倒される。品の良い調度品の数々を眺めるだけで一日が過ぎそうだった。よく磨かれたガラスのグラス、金ぴかの小物入れ、香水ポット。どれも細かい細工が施されていて、職人のこだわりが感じられた。
外国の客を迎えるにしても仰々しい程に歓迎されているのだ。

「ありがとうございます。本当に素晴らしい部屋ですね。私なんかが使ってもよろしいんですか?」
「日本のために用意したんだよ。日本が使ってくれなかったらおにーさん泣いちゃう」

軽口ぶって肩を竦め、ウインクをした。彼が日本に気を遣わせないよう言っていることはわかったから、それ以上何か言うのは失礼だろう、素直に感謝の念を述べる。
日本はフランスのことが好きだった。ずっと前から、それこそ開国して欧州の文化を取り入れることに必死だった頃からだ。いつでもスマートな言動で、自分に絶対的な自信がある。ともすれば、ナルシストと言われかねないその自信も、全く嫌味にならずにむしろ納得せざるを得ない気品と教養、そして美しさを彼はもっていた。

「……フランスさんは相変わらず素敵ですね」

ふっと息を吐くぐらい自然に口にできた。そんな言葉は今までだって何度も言っているぐらい日本はフランスのことが好きで、そうして盲信に近い信頼を抱いていたのだ。
どうして間違えたのだろう。
何十年も、折りにつけては思い出して後悔する。今だって、こうして隣にいるのに愚かな過去の自分の行動を悔いているのだ。せめて、せめて好きと言っていたなら今は違っていたのだろうか。あの時、あんな手紙を送るぐらいなら、もっと早くに連絡が取れる内に伝えていれば違ったのだろうか。
彼が自分を好きかどうかなんて、全くわからないのに、意味のないたら、れば、を繰り返した。

「日本に見て欲しいものがあるんだ」

瞼を伏せていた日本を黙って見ていたフランスが、唐突にそう言うと手首を掴んで、奥にある部屋へと歩き出した。珍しく急ぎ足で室内を横切っていく。ふわふわとした渋滞を踏みしめて、何とかバランスを崩さないよう一生懸命ついて行った。足を引っ掛けてみっともない真似をしないように慎重に。彼がこうやって、日本の様子などお構いなしに手を引くような真似をすることは今までなかった。
自分の手首を睨みつけた。きっとスキンシップの多い欧州ではごく普通なのであろう、その些細な接触に、みっともない程、動揺した。嬉しくて心が震える。

「ほら」

急いた指で指された先の、その絵に驚いた。
(あれは……)
大きな桜の木が描かれていた。家に置くには大きすぎるキャンバスに、アシンメトリーに配置された一本だけの若い桜。まだ綻びかけた、淡い花びらが一つ一つ丁寧に描き込まれている。形は違ったが、日本の家でフランスと見た桜のよう。

「びっくりした?」
「……ええ、ほんと、どうして……?」

言葉も出ない日本の、呆気に取られてぽかんと気の抜けた表情を覗き込んで、満足気に笑む。掴まれていた手首が離され、掌を取られた。フランスが、日本の手の甲をそっと左手で撫でる。

「この家の庭に桜の木を植えたって言ったの覚えてるかなあ。日本に見せたかったのに燃えちゃってさ。……、俺のスケッチを元に描いてもらったんだよね」

最後のほうは殆ど呟きみたいだった。複雑な感情が入り交じって、でもどうすることもできないことを嫌というほど知っている声音だ。そういう思いは日本もよく知っている。

「日本……、俺たちは仲良くできる?」

囁くような、弱々しい言葉だった。俯いて表情を伺えない。

「なんで弱気になってるんですか?」

手を掴む指に力が入ったのを感じる。けれど、それには気づかないふりをした。

「日本が思う以上に俺は臆病だからね」
「とてもそうは見えませんね」
「そりゃあ、日本の前ではいつでもかっこ良くいられるよう努力してるのさ」

知らなかっただろう、と相変わらず俯いたままのフランスが言う。軽口が、全然軽くなくて困ってしまう。どういう意味かを聞きたくて、聞くのが怖い。

「これ、俺の連絡先。日本さえ良かったら電話して」

その時に俺に日本の連絡先を教えて?と甘い声で告げられる。その様子に何とも落ち着かず、そわそわとした気持ちが背中を這い上がってくる。

「私は、昔と変わってませんよ」
「うん、でももう一度日本に教えてもらわなきゃ意味がないからさ」
「……」
「意味、わかってる?」

黙ってその言葉を噛み締めていた日本に焦れたのか、急に顔を上げて子どもみたいに詰め寄ってくる。頬が熱くなった。

「あ、あの、その、えーと」

情けないぐらいどもって、もうそれが答えだろうとわかるぐらい、感情が漏れているのがわかる。

「もちろん、わかってますとも」

そんな日本にやっと安心したのか、良かったと笑う。いつもの調子が戻り始めたのか、味見と称してフランスが手の甲にキスをした。

今朝届いたメッセージカードと同じ、クリーム色に百合の文様が入っているカードを手にして、黒いダイヤル式の電話の前に立った。じっと手をかけようかどうか悩んで、やっぱり駄目だと諦める。何度もうろうろ、部屋を行ったり来たり。キッチンへと足を伸ばし冷蔵庫の中身を覗いて、別に喉も乾いていないしお腹も空いていないので用事も無いと、扉を閉めた。とても飢えているように焦りを感じる。時計をちらりと見上げれば、朝食をとってから全然時間が立っていないことに気が付く。
再び時計を見て、また溜息を一つついた。フランスではまだ深夜だ。
(どうして、時差を考えてくれなかったんですかね)
日時をきっかり指定したなら、彼ならすぐに連絡を取ろうとする日本のことも考えていそうなものだが。
或いは、そういう仕返しなのかもしれない。あれから、数ヶ月が経った。それでもまだ連絡ができていない臆病な自分への、ささやかな仕返し。誕生日プレゼントのお礼という口実もなければ、なかなか一歩を踏み出せない。
こうやって待っている間、じっと彼のことばかり考えるのを狙っているのだ。
(いじわる)
もう一度、時計を見上げて、何度も見た彼の連絡先を眺めた。もう覚えてしまいそうだ。教えてもらってすぐ連絡をしなかったくせに、今は一分だって早く電話したい。自分も相当あまのじゃくのようだ。

さあ、時間がきたら何を話そう。

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