our-hour

 バスルームに防水ラジオを持ち込んで、浴槽に張った湯に入浴剤を入れた。初夏のばら園を彷彿とさせる芳しい香りの中、ハスキーな女性シンガーの歌声が響いて、とろりと白く濁った湯が肌にまとわりついてくる。意外と冷えていた体の芯がほぐれてくるようだ。たぷん、と湯が跳ねる音。スペインを背もたれに力を抜いてリラックスしているロマーノの背中。
(これが、ロマーノの匂い……)
 考えた瞬間、だめだった。ぼっと音を立てるかの勢いで顔に熱が集中し、それと同時にあまり直視したくない感情が込み上げてくる。
 これは、深く考えたら、終わる。
 思い出せ、冷静になれる数字。そんなもんあったかなあ。ぐるぐると目の前が回る。まわる、まわる……円周率は、3.1415926……あかん、これ以上覚えてへん。次や次。よく映画やドラマなんかでピンチに追い込まれた主人公たちがパニックにならんように素数を数えているな。確か……1、3、5、7……ん? いや、1、2、3、5、7? どっちやったっけ。割り切れへん数字って何やっけ? あーしかしめっちゃええ匂いするわ。何かすっごいあったかいしお湯もとろっとしてて気持ちええなあ……ロマいっつもこんな風呂に入ってんのかな。イタちゃんと一緒に入ったりすんのかな……湯けむりに浮かぶロマとイタちゃんの影……。うん、やばいな。って、あーーーもう!! せやから今それどころとちゃうんやって! 変な風にのぼせそうやん!
(いや、あかんあかんあかん、ここでそれはあかん!)
 バッと頭を左右に振ると目の前がくらりと揺れた。揺れる、と言う意味ならば、さっきからずっとふわふわしていて地に足がついていない。
「おい、大丈夫か? さっきから何かもぞもぞしてるけど」
 今日の株価を思い出し、ユーロの為替相場を思い出し、さらには上司からのお小言とドイツからの鬼電の内容を思い出してどうにか正気を保っていたら、なるべく視界に入れないようにしていた丸い頭が揺れてスペインを振り返り、
「って、お前……顔赤くなってねぇか?」
 と、気遣わしげな声をかけてくる。
 どうしちゃったんや……。
 普段のロマーノはそれこそ「ダッセー! 風呂ぐらいでのぼせてやんの! バッカでー!!」と笑い馬鹿にしてくる(そしてそれがこの子の可愛いところ)のだが、今日はどうしたことかちょこんと首を傾げて心配そうな顔をしている。
 あるいは、スペインの認識がどうとかなってしまったのかもしれない。
「え、あ、あーうん? そぉ?」
「おう、のぼせてんじゃねぇの?」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
「ほんとかよ」
 拗ねたように唇を尖らせた。子どもの頃から変わらない仕草は微笑ましいもののはずなのに、斜め後ろから見下ろしている今の体勢では上目づかいをされているように見えて何だかいろいろと危険である。例えそれが客観的に見れば睨みつけているような視線でも、今のスペインには可愛らしいとしか思えないのだ。
(何やろ、ロマーノの周りがキラキラして見える……)
 視界の端でチカチカと点滅している星たちが、まるでロマーノを輝かせているようで目が回る。それをごまかすようにへらへらと笑っていたら、怪訝そうに眉をひそめられた。
「ただでさえノーテンキなのに湯あたりでおかしくなってんじゃねぇか?」
「そんなことないでー親分はいっつも真剣やで!」
 ごまかされたと思ったのだろう。ロマーノがムッとした顔をする。それすらも尖らせた唇がチャーミングだなんて、柄でもないセリフが口から飛び出してきそうで押さえるのに苦労した。
 だがしかしスペインにだって何が起きたのか全くわかっていないのだ。いつものようにロマーノが家にやって来て、いつものように出迎え、いつものように食事を摂って寛いでいた。違うことと言えば一緒に風呂に入っていることぐらいだが、それもさっきまでは何ともなかったのに。
 こんな自分でもわけがわからない状態でロマーノに何を言えるだろう。
「ほんま気にせんとって。大丈夫やで」
 から元気と言われたって、笑顔を浮かべて大丈夫を繰り返すことしかできない。
 だってこんなはずじゃなかった。ただ一等可愛がっていた大切な元子分と久しぶりに一緒に風呂に入れたら楽しいだろうなと思っただけなのだ。それが、一体どうしてこんなことに。
 けれど、神に誓ってそんなつもりではなかった。本当にスペインには下心なんてなかった。

 /

 元はと言えば、一緒に風呂に入りたい、と言い出したのはスペインである。特に深い理由はなかった。泊まりがけで遊びに来ていたロマーノにシャワーを勧めたのがきっかけと言えばそうだが、話の流れと言うのが正しい。
「ロマーノ、先シャワー浴びておいで」
「んー……」
「んー、ちゃう! 嫌になる前に早よ入ってき!」
「先入って良いぞー」
 ロマーノはスペインが口うるさく言ってもなかなか風呂に入ろうとしない。何がそんなにも腰を重くするのか、その日もいつも通り渋っていた。
「そんなん言って、前みたいに俺が上る前に寝るんちゃうん?」
「あれはたまたまだ。そんな簡単に寝落ちしねぇよ。スペインこのやろーの風呂なんて行水だからな」
「ロマが長すぎるんやろ。いっつも1時間ぐらい入っているやん……せやから入るの面倒なるんちゃうん?」
 一体何にそんな時間を使っているのか。汚れを落とすだけならシャワーを浴びて髪と体を洗ったら終わりだろうに。戦場や海に出ていた時と比べるつもりはないが、それでも自然と僅かな水でやり過ごす方法を覚えているスペインにとって、日頃から長風呂の習慣がなかった。
「いつも何しているん? まさか風呂で寝ているわけと……」
「寝てねぇよ!」
 すぐさま否定が入った。
「ったく、戦場でもねぇのに……そんなんだからスペインはダメなんだ」
「……めっちゃダメ出しされとる」
「だいたいテメー湯船に浸かってねぇんじゃねぇの?」
 問われて思い返す。そう言えば、あの浴槽を最後に使ったのはいつだったか。ごくまれに湯を張ることもあるが、慣れていないせいであまり長湯もできず、結局湯を張ること自体がもったいない気がしてしまう。
「それじゃ疲れとか取れねぇだろ」
「……風呂で疲れが取れるん?」
「…………はあ?」
 反射的に問うと思いきり顔をしかめられる。聞かなければ良かった。
「そんなことも知らねぇのかよ! ジョーシキだぞ、ジョーシキ!」
「ええ、それはどこの?」
「日本とか中国とかが言っていたぞ!」
 それは説得力がある。国にも年の功はあるのだ。
「入浴剤とか入れて音楽とかかけるんだよ。馬鹿弟はテレビを置いていたな」
「風呂に?!」
「映画とか見るんだとよ」
「え、すごー!! めっちゃすごいやん! しかも楽しそうやなあ!!」
 随分とハイテクな世になったものだ。今まで風呂に浸かるなど水道代がもったいないと思っていたが、映画を見ながらなら少しは浸かっていられそうな気がする。それに映画を見ながらリラックスしているロマーノとイタリアの姿を想像すると、それだけでとても癒やされた。イメージ映像では泡風呂だ。脚付きバスタブ、パステルカラーのシャンプーハットで周囲にはしゃぼん玉が浮かんでいる。完全に風呂に対する貧困な想像力で生み出した妄想だが、これは良い。
 しまりのない顔でうんうん頷きながら、ええなあ……可愛えなあ……、としきりに言っていたら何を思ったのか、ロマーノがかわいそうなものを見るような目を向けてきた。完全に憐れんでいるが、スペインの妄想までは想像できていないようだ。
「お前……本当にシャワーしか浴びてねぇんだな」
「え、ああ、まあ。昔に比べれば毎日体を洗えるだけで御の字やと思っていたし、戦場やったらそうも言ってられへんやん。そんであんま気にしてへんかったわー」
「…………ふうん」
 何気なく返事をすれば気のない相槌。何か気に障るようなことを言っただろうか。首を傾げてロマーノを見やると、それなら、と切り出された。
「俺と一緒に入るか? テレビはねぇけどラジオなら置いてんのがあるし、入浴剤は持って来ているぞ」
「え!?」
「い、嫌なら良い! 別に無理強いをする気はねぇからな! かわいそうなスペインこのやろーのために俺が一肌脱いでやろうってだけで」
「入る!」
 可愛げのない言葉が諾々と紡がれるのを防ぐように被せた。
「入りたい!」
 さらに重ねて念を押せばロマーノは一瞬だけはにかんで、しかしすぐに照れ隠しのように怒った顔をしながら、だったらお湯を溜めてこい! と怒鳴ったのだった。

 ・・・

 うん、そこまでは良い。何も問題ない。
 実際この時のスペインは純粋に風呂を楽しむつもりだった。いつも長風呂をするロマーノが不思議だったのは事実だし、あのロマーノがそこまでこだわる風呂に興味もあった。これをきっかけに生活にひとつ楽しみが増えるのも良いことだ。
 問題はこの時のスペインは自分のことに全くの無自覚だったことだ。鈍感で、人の気持ちを察するのが苦手で、マイペース。いつも言われてきたことだったが、特にそれで(自分が)困ることもないと深く考えてこなかったのも事実で。
 今になって悔やまれる。鈍感なのも、人の気持ちを察するのが苦手というのも、自分にまで適用されていることさえ知らなかったことを。そうしてそれらに無頓着であったことを。
(でもまさか、そんなん思わへんやん!)
 一緒の風呂に入っている最中にロマーノへの恋心に気づくなどと!

 ・・・

 ロマーノがはあっとため息をついた。そのまま物憂げにまぶたを伏せる仕草が大人びていて、心臓がぎゅうっと縮こまった。喜怒哀楽がくっきりとしていて、幼い言動が多いが意外とロマーノはこういった表情をよくしている。見慣れたもののはずなのに、いつもと違って見えるのはやっぱりスペインが変わったのだ。
「……あんま無理すんなよ」
「無理はしてへんよ」
 実際、一緒に風呂に入っているだけなのに。
 さっきまでは本当に何ともなかった。脱衣場で一緒に服を脱いだ。目の前で無防備に髪を洗うのも見た。ついでに背中を洗ってやった。いずれも大きくなったなあと感慨深く思いこそすれ、どうにかしてやろうとはこれっぽっちも思わなかったのだ。そしてそれは今も。大部分を占めているのは、穏やかで温かな家族に向けるような愛情だ。
「本当かあ? スペインこのやろーは鈍感だからな。昔っから怪我してても全然気づかねぇし、熱があってもピンピンして動き回っているし……ぶっ倒れてからじゃ遅いんだぞ」
「うん、いや、昔はいろいろ調子が良かったから。最近は普通やで」
「お前が寝込んでも俺じゃベッドに運べねーんだからな。わかってんのか?」
 表向きは突き放すような乱暴な言い方なのに、言葉尻にロマーノの心配が滲んでいるのが見えるようだ。そうやって気遣われていることを情けなく思う半面、周囲をちゃんと見れるようになったんやなあ、と育て親のような感想も抱く。
 一方で彼の目が自分に向けられていることに優越感や、何とも言いようのない喜びが沸き起こるのもまた事実で。
「うんうん、ありがとうなー。でもいくら何でもこれぐらいじゃ倒れたりせぇへんで!」
 覚えたばかりの恋愛感情でのぼせ上がって倒れるなど、まさかそんな。
「そういう! ……意味じゃねーよ」
「ん?」
 何か言いかけてやめたロマーノが口をつぐんで視線を泳がせる。珍しく言葉を選ぶような慎重な態度に首を傾げて訊ねれば「だから、その……」と続けた。
「あーっと、お前いっつも風呂から上がるの早ぇだろ?」
「あーまあ、シャワーだけで済ますことがほとんどやなあ」
「風呂の愉しみも知らねぇつまんねぇヤツだからな」
「えーでもロマも昔は風呂嫌がって俺が無理やり、もがっ」
「あ、あれは……! そう言ったらベルギーが入れてくれると思ったんだよ!」
 それは実に悪いことをした。結果的に嫌がるロマーノを風呂場に押し込み全身丸洗いしたのはスペインだ。さぞかし期待はずれだっただろう。
「って、そんなことはどうでも良いんだよ!」
「ふえ?」
「そうじゃなくて……あー、だから、その……」
 今度はロマーノがもじもじしだす。上気した頬を膨らませて瞳を潤ませ、視線をうろうろと彷徨わせている。その仕草が何とも言えずいじらしくて。
(あかん……)
 顔を背けて直視しないようにするが、どうしても気になってチラチラと窺ってしまう。狭くなった視界の端でロマーノのくるんがぴょこぴょこ揺れているのも落ち着かない。
「だから!」
 意を決したようにスペインを振り向いて顔を近づけてきたロマーノが口を開いた。思わず仰け反ってしまうのは状況のせいだ。
「お前湯船に浸かるの、あんまり慣れてねぇだろ? 長湯しすぎると湯あたりするんだぞ」
「へ? あ、あー……」
 何を言い出すかと言えばそんなことか。少し肩透かしを食らったような心持ちで、気の抜けた声を漏らすとロマーノがぶすっとした顔を見せる。
「俺が勧めてやったから風呂の良さに目覚めたんだろうけど、それで湯あたりされたら後味が悪いって言うか……責任感じるだろ」
 そういう物言いは子どもの頃から変わっていない。生意気で可愛げがないのが可愛い。素直に心配だと言えば良いのに。それができないことまでわかっているから余計に構いたくなるのだけれど。
 気を取り直してロマーノに向き合う。
「せやなあ。確かに慣れてへんし、ここはロマーノのこと頼りにするわ。俺がしんどなったら助けてな」
 頼りにしてんで、と笑うとロマーノの頬が見る見るうちに真っ赤になった。頼られることが少ない彼はこういった言葉に存外弱い。
「お、おう、まあ俺もローマ爺ちゃんの孫だし! 風呂にはこだわりがあるし! スペインこのやろーなんかよりはよっぽど風呂に詳しいからな、仕方ねぇから助けてやるよありがたく思えこのやろー!!」
 わかりやすく頬を真っ赤にしているくせに横柄な仕草で腕を組むのは照れ隠しだ。それがわかっているからこそあからさまな素直さに微笑ましくなる。ふふふ、と笑いながら「頼んだでー」と浮かれた声色で甘えた。
 と、そこで今の体勢を意識してはたと我に返った。すなわち、ロマーノを後ろから抱えるような格好で湯船に浸かっているこの状況を思い出したのだ。もちろん互いに裸で、狭い浴槽の中身を寄せ合い密着している。入浴剤を溶かした湯のせいか、ロマーノの肌がさらさらとしているように感じられる。陽に灼けた肌に白く濁った湯が貼り付くのも、何だかいけないことを考えてしまう。
 意識をしてはいけない。そう思えば思うほど気になって視線を外せなくなる。しかしあまりに見てばかりいるとロマーノに気づかれてしまいそうだ。彼の背中にひっついた胸から心臓の音が、なるべくふれないように退いている腰が、下腹部の変化が。
(ああ、何で俺一緒に風呂入りたいって言うてもうたんやろ……)
 いっそ泣きそうな気持ちで考える。そもそもそれを言い出したのはスペインのほうだと言うのに、今はひたすらに後悔していた。それでも早く上がろうと言い出せないのは、この状況を手放したくないと思っているからで。
 
  
 
 
 その後、どうやって風呂から出たのか記憶が曖昧だ。幸いなことにロマーノの目の前で倒れるなどという醜態は晒さずに済んだのだが、ずっと頭がぼうっとしていて視界もフラフラと揺れていたから、彼が心配していた通り少し湯あたりしていたのかもしれない。気がつくとリビングのソファにぐったりと座り、背もたれにもたれかかっていた。
(何か……すごかった……)
 ふわふわとした頭の中はバスルームいっぱいに充満していたばら色の湯けむりで覆われていて、何度も同じ言葉が浮かんでは一歩も思考が進まない。感情がスペインの処理能力を超えて溢れ出しているみたいだ。
「おい、スペイン。髪乾かしてやるからこっち来いよ」
 しばらくそうやって座り込んでいると、ドライヤーを持ったロマーノが近づいて来た。
「えっいやっあの……だ、大丈夫やで!?」
「何も大丈夫じゃねーよ。お前いっつも自然乾燥で寝てるから髪があちこち跳ねて収拾つかねぇんだぞ」
 しかもロマーノはなぜかスペインの部屋着のシャツとハーフパンツを着ていた。身長はそれほど変わらないのに、体格差のせいか肩回りが余っているようだ。大きく開いた首元が見えて、ごくりと唾を飲み込んでしまう。
「このままじゃ本当にハゲちまうぞ。オラ、大人しく乾かされろ!」
「ぎゃー! ちょ、ロマーノ?!」
「何だよ、そんな騒ぐほどのことじゃねぇだろ。ドライヤーぐらい知ってんだろ?」
 言いながらコンセントを挿してスイッチを入れる。ぶおおお、と大きな音を立てながら熱い風を送り出す文明の利器。もちろんドライヤーを得体の知れないものと思ってこわがっているわけではないのだが、反論する前に容赦なく送風口を顔に向けられて、「わぷっ」思わず目を閉じてしまった。どうにか熱風を避けようとしたところを捕まえられ、首に腕が回される。そのままソファの背に回ったロマーノがスペインの頭にドライヤーを向けてきて髪を乾かし始めた。
(うわーうわーうわー!)
 スペインが暴れないようにか、少し力を入れられているせいで体が密着している。風呂上がりのロマーノはいつもより温かく、仄かにばらの香りがした。先ほどのとりろとした濁った湯を思い出して、くらり、とめまいがする。なぜだろう、すごく、直視してはいけないような何かがある気がする。
 一気に顔が熱くなり、自分でも絶対赤面していると自覚があった。けれど鼻歌を口ずさみながら機嫌良くドライヤーを動かすロマーノは気づいていないようだ。ふんふん、と跳ねるようなリズムを口にする度に吐息が首筋にかかって、また血が上ってくるような気がした。
「ろ、ロマーノ……もうええんとちゃうかな?」
「あー? 何か言ったかー?!」
「う、いや、あの」
「わり、聞こえねぇ。何てー?」
「……何でもないで!」
 その後は自由にあちこち飛び跳ねるスペインの髪をブローすることに夢中になったロマーノが、背中にベタベタ引っ付いてくるのも気にしないよう聖書の一節を唱えつつ、最後のほうは半ば放心状態になりながら天国なのか何なのかわからない時間をやり過ごしたのだった。
 しかも問題はそれだけではなかった。
「ロマーノ、えーと、ゲストルームで寝ぇへんの?」
「何で?」
「いや、何でって言うか」
「いつも一緒に寝てるし今さら良いだろ。ベッド用意するのも面倒だしな」
 過去の自分ー!!!
 頭を抱えて床に膝をついても今までの行いを変えることはできない。確かに言った。言いました。ロマーノに別々で寝たいと言われて、ゲストルーム用意すんの面倒やし一緒でええやん、と。はい、俺が間違いなく言っていました。
 今になって思う。成人した男同士、そりゃあ別々で寝たいだろう。いくらスペインのベッドがクイーンサイズで広いとは言え、寝返りを打てば密着するし、朝はいろいろ不都合もあるし。それを何で自分は一緒で良いと言ってしまったのか。あの時は何とも思っていなかったからか。あんまりすぎる。
「って、なんで服脱ぐん?!」
「はあ? ……いつもこうだろ?」
「いやそうやけど、でも、一緒に寝るのに!」
「それこそいつも通りじゃねぇか」
 怪訝そうに眉をひそめられ、ぐうっと喉の奥が潰れるような唸り声が漏れた。全くの正論だった。討論せずとも今までの自身の所業により完敗を喫することとなったスペインが遠い目をして打ちひしがれている間にも、ロマーノは服を脱ぎ捨てベッドに引っ込んでいった。
「……何してんだよ。寝ねぇのか?」
 ごろんとシーツに横たわって枕に肩肘をつき、もう片方の腕で上掛けを上げて小首を傾げる。スペインのことを何も気にしていない、かけらも意識していないような態度だ。いや、ロマーノのほうが合っている。スペインの認識がおかしいのであって。
「……寝ます」
「おう、早く入って来いよ。寒ぃだろ」
 だったら服を着たら良いのでは。そしてできればロマーノ用に用意しているパジャマを着てほしい。そうとは口に出せず、すごすごと空いているスペースに体を滑り込ませて仰向けになった。枕元のリモコンで電気を消す。ベッドサイドに置いてある間接照明の橙色の明かりだけが薄っすら灯る。
「おやすみだぞ、このやろー」
「……ん、おやすみ」
 肩まですっぽり上掛けを被って早々に目をつむったロマーノの横顔を盗み見る。薄明かりの中で影のできた顔立ちは大人になってからスッキリとして随分と格好良くなった。とっくに可愛いだけの子どもではなくなった可愛いばかりのロマーノは、成長して独立した後もずっとこうしてスペインのそばにいてくれる。
 ああ、好きだなあ。
 胸がいっぱいになってしまって。なぜだか涙が込み上げてくる。目尻が少し湿っぽい。放っておいたらシーツに涙の粒を落としてしまいそうで、振り払うように急いで目をつむった。停滞しているだけの頭の中は空っぽにするべきだ。そうしてスペインも眠りに就いた。

 /

 翌朝。
「ーーー……ろ、ぉい……このやろー、スペイン」
「んー?」
 誰かが頬をつついてくる。言葉はそっけなく遠慮がないが指先は手加減されているのか、そんなに痛くはなかった。
「朝だぞ、起きろこのやろー。おい」
 腹に重みを感じている。そう言えば、まだロマーノと一緒に暮らしていた頃はよく腹に頭突きをされて起こされたものだ。不器用で、解けたブーツの紐を踏んづけて転ぶような鈍くささがあるわりに、そういう身軽なところもあるから不思議だった。転ぶ時に全く受け身を取らず顔面から地面に打ち付けていく姿を見るに、体幹が弱いのかもしれない。
「おい、スペインってば。朝メシ作れこのやろー!」
 ぱちり。まぶたを開く。目の前にはロマーノの顔。
「あ、やっと起きたか。ったく、テメーは何で一緒に寝たのに朝起きてこねぇんだよ」
 ロマーノがベッドで寝ているスペインの腹にまたがって、頬をつついて起こそうとしていたらしい。一気に目が覚めたスペインの寝起きの顔を覗き込んでくるオリーブ色の瞳を認識して、途端に顔が熱くなった。
「……って、ど、どうしたんだ? 何か急に赤くなってるけど」
「う、いや。何でもないで……」
「何だって?」
「……何でもないねん……」
「何だ、どうしたんだよ。さっきからボソボソ喋って、らしくねぇな。どっか悪いんじゃねぇのか?」
 昨夜から引き続きロマーノが優しい。いつもなら浮かれて「何なにどうしたん? ロマむっちゃ優しいやん、嬉しいわー!」と騒いで引っ付きまわって怒られるところだが、今はもうそれどころじゃない。とにかく一刻も早く離れてもらわなければ、いろいろと問題が起こる。
「いや、ほんま。寝起きでちょっと声が……」
「あー。水汲んできてやろうか?」
 普段なら絶対にあり得ないような甲斐甲斐しさも今は願ったり叶ったりだ。
「お願いします……」
 プライドもへったくれもなくお願いした。
 ロマーノが離れていったのを見届けて飛び起きる。慌てて上掛けを捲れば、幸い最悪の悲劇は免れていた。真っ白なシーツを前にホッと一息ついて、取り急ぎ寝間着から着替える。洗濯物を出すついでにトイレに行って、洗面所で顔を洗い、鏡を見るといくらかくたびれた自分の姿が映っていた。妙に疲れて冴えない顔を見ていると少し冷静になる。
(……何か、あかんなあ……)
 がっくりと肩を落としてため息をつく。昨夜から調子が狂わされっぱなしだ。そのせいか浮足立っているわりに、もやもやと気持ちが沈んでいく。何だろう、この感じ。ロマーノを見ていると強制的にテンションが上って盛り上がってしまうのに、同時に、自分のことが嫌になるようなつまらない感情が込み上げてくる。
 胸に手を当てて首を傾げる。
 スペインは今まであまり恋愛に興味がなかったが、それがどういった感情なのかは知っている。個人差はあれど相手のことが好きで、世界がかがやき、愛情でいっぱいになる。どんな物語でも詩集でもそのように描かれているし、恋にのめり込んでいる人たちを間近に見てきてそうなんだろうと思っていた。
 だから、ロマーノを見て嬉しくなるのはわかる。では嫌な気持ちになるのはどうしてなのだろう。ロマーノに嫌われたわけでも冷たくされているわけでもない。むしろいつもよりも優しいぐらいだ。
 不思議に思いながらリビングへと向かうと、ちょうどロマーノが階段から降りてくるところだった。
「何だよ、起きて来てたのか」
「あ、あーうん。ちょっとトイレに行きたなって」
 ロマーノはグラスを持っていた。まだスペインが寝室にいると思って上に上がっていたのだろう。
「ごめんなあ」
「朝メシ作ってくれたら許す」
「作る作る。これ飲んだらやるからちょっと待ってなー」
 そう言ってグラスを受け取り水を飲みほす。冷蔵庫で冷やされていた水は冷たく、朝から歯切れの悪い口の中をスッキリと洗い流すような清涼感があった。

「ちょっと親分、いろいろ買い出しに行ってくるわ!」
 朝食後、食器の片付けをしながら宣言した。
「お、おう。俺もついて行こうか?」
「いや! 大丈夫! 買い忘れたもん揃えるだけやから、ロマは留守番しとって!!」
 少し強引だったが、スペインの勢いに押されたのか、生来の面倒くさがりが顔を出したのか、ロマーノは意外にあっさり納得し「わかった。メシまでに戻って来いよ」と送り出してくれた。 スペインを疑いもしない反応に罪悪感が刺激されるが、とにかく今は考える時間がほしい。家にいても煮詰まってしまっておかしなことになりそうだ。
(はー……もう、こんなん、やばいわあ)
 よく考えなくとも、こんなことは未だかつて経験したことがない。情に厚く熱しやすいタイプであると自覚しているが、恋愛には無頓着であまり興味もなかった。特に必要もないと思っていたのだ。そんなことよりも海の外、世界の果てまで冒険したり地図を拡張することのほうがよほど面白い。強くなれば豊かになり、新たな発見や発明が待っている。そんな毎日に胸を躍らせてばかりの日々だった。
(それが、まさか……ロマーノなあ)
 昨夜のことを反芻すると思い浮かぶのは、ロマーノの火照った肌に浮かぶ大粒の水滴だとか、仄かに匂い立つ甘いばらの香りだとか、そういったスペインらしくないものばかり。またも記憶回路が良くない想像へと舵を切りそうになるので首を横に振って追い払う。邪念退散、煩悩必滅、色即是空!
 ちょっと落ち着いて考えてみよう。たぶん、相手がロマーノだから余計に混乱している。だって、ただでさえスペインはロマーノの前だと我を忘れて興奮しがちだ。日頃から格好良いところを見せたい、ひねくれているくせに素直なあの子を可愛がりたい、いろんな表情を見せてほしいと願っているし、すぐに気持ちがいっぱいになって行動が暴走する。連絡がくると嬉しいし、一緒にいると何もしてなくたって楽しくなる。かと言ってスペインが無理をしているかと言えばそんなことはなく、簡単に言えばロマーノのそばでは自然と元気になるのだ。
 そこまで考えて、ふと思い至る。これって、そもそも恋愛っぽいんとちゃう?
 恋愛の好きは、相手と一緒にいたくなったり声を聞きたくなったり、相手の存在を感じるだけで幸せになるのだと言うではないか。そういう意味ではスペインのロマーノに対する感情は当てはまっている。
 じゃあ何が変わったのか。身も蓋もない言い方をすれば性欲である。パーソナルスペースの内側に彼がいると恥ずかしくて仕方ない。裸を見るとドキドキするし、風呂やベッドを共にするという無防備な姿には良からぬ感情から頭に血が上る。けれど、それだけ。今までロマーノに抱いていた感情に、それが足されただけで何が減ったわけでもない。
 今まであまり意識していなかったが、これまでの言動を振り返ってみても、今さら恋愛感情が加わったぐらいでスペインにはあまり大きな変化がないように思われた。ロマーノだってスペインの行動を多少鬱陶しがりながらも受け入れていたのだから関係だって良好だ。と言うか、別に好きになったからってあまり問題ないのでは? 要はロマーノからの何かを期待しなければ今までどおりでも良いわけで。
 なのに、そう考えるとなぜか胸がチクリと痛む。同時に黒いシミが広がっていくように、胸の内を悪感情がじわじわと侵食して嫌な気持ちになっていく。
(ほんまに、何やろう、これ)
 混乱しているせいなのだろうか。昨夜から変に感情を揺さぶられているから反動で気鬱になっているだけなのか。それにしては、普段はこんな風に思わないのに、一体どうして。
 不思議と心の中の黒いシミはスペインがロマーノに抱いた恋愛感情に意識を集中すると広がっていく。と言うことはこれは恋愛感情の一部だろうか。
(……それは嫌やなあ)
 ロマーノに関して負の想いを抱くぐらいなら、恋愛なんてしたくない。何百年も可愛がって、守ってきた大切な子なのにどうして今さらこんなものに振り回されなければならないのだろう。
 ロマーノと過ごした大切な記憶まで塗り替えられるような気がして、焦燥感がスペインを落ち着かなくさせる。
 どうにかしなければ。
 このままだと何もかもがダメになってしまう。そんなことを考えながら、車を運転して大型のスーパーマーケットまで足を伸ばすことにした。

 スペインの家から車で十分弱。この国でもっとも有名なスーパーマーケットチェーンの大型店にやって来た。カートを押して店内を歩いて行く。休日の午前中とあって客足も程々にあり賑わっている。活気があって良いことだ。
 ロマーノに言った通り買い忘れていた食料品や、そろそろなくなりそうな調味料をかごに入れて行く。ひとりの時はそうでもないが、ロマーノもしばらく家にいると言っていたし、とついあれこれ手に取ってしまうためあっという間にかごの中はいっぱいになった。こんなに荷物があるならロマーノもついて行かなくて良かったと思うだろう。そういうところは、あの兄弟は意外とちゃっかりしている。ふたりとも末っ子気質だ。
 日用品の棚の前を通りがかった時、ふと視界にバスグッズを捉えて歩みを緩めた。そのまま惹かれるように視線を巡らせ色とりどりの商品を探していると、見つけた。入浴剤のコーナーだ。バスルームで使う洗剤やシャンプー、石けんと隣り合った棚にまとめられている。大型店だけあって品揃えも豊富なようで、昨夜ロマーノが入れてくれた粉末タイプ以外にも球体のものやジェルなど様々な商品が並ぶ。中には、どう見てもばらのドライフラワーにしか見えないものまであった。
(へーこれ泡が出るんや。楽しそうやなあ……ローションタイプってどんな感じやろ。良い匂いっぽいけど……)
 ふらふらと陳列棚に近づいてラインナップを確認していく。今まで日用品を買う時に見ていたはずだが、こんな風にじっくりどういったものがあるかを調べる機会はなかったので新鮮な気持ちだ。ロマーノは、どういうものが好きだろう。
 思考と目の前の商品に没頭していたせいか、周囲への注意が疎かになっていた。不意に
「何、真剣な顔しとう? 入浴剤ってあんま似合わへんなあ」
 と、後ろから声をかけられる。
「うわあ!」飛び上がるほど驚いた。「って、何……ポルトガル!? もー何やねんー! 俺今忙しいねんから邪魔せんとってや!」
「そんな邪険にせんでもええやんか」
 スペインの反応とは違って彼はいつものようにのんびりした様子だ。ポルトガルの押していたカートにはワインが入っており、何か買いに来たのだろうと察せられる。
「近くまで来たから買い物に寄ったんやで」
「えー……って、全部自分ちのポートワインやんか! わざわざ俺とこ来んでも近所で買いや」
「売上貢献したろうと思って」
「うちのスーパーのちゃうやん。お前んとこのワインの売上の話やんか」
「そうやでーフランスのとこでもイギリスのとこでも、立ち寄ったら必ず買うようにしてんねん」
 まさか、そんな商売っ気があったとは。いつもやる気なさそうにしているから当然、物を売る気もそんなにないのかとばかり思っていた。
「せやからそんなツンケンされるとショックやわー」
「今までの行いのせいやろ。お前とおると、何か元気とか吸い取られそうやし」
「行いなんて言い出したらスペインも人のこと言えへんやん」
 それからケラケラと笑って、
「でもほんま珍しいなあ、お前がこういう色気のある雑貨に興味持つなんて。何、恋人でもできたん?」
 と訊ねてきた。やはりポルトガルだ。絶妙に今もっとも聞かれたくないところを突いてくる。すぐには返事ができず眉をひそめてムッとする。その反応でスペインに事情があると伝わったのだろう、面白そうに身を乗り出してきて
「何や、珍しいやん。ほんまに色恋沙汰なん?」
 としつこく聞いてくる。
「恋人とちゃうけど……」
「えーまさか失恋とか?」
 あーあかん、むちゃくちゃ楽しそうな顔をしている。
 こうなった彼には何を言ったところで、結局からかいのネタにされてしまう。ロマーノが独立して落ち込んでいる時でさえわざわざ傷口に塩を塗り込んでくるような奴なのだ。どうやっても痛いところがバレてしまう。
 かと言って下手にごまかしても通用しないだろう。話がややこしくなるだけだ。いもしない恋人の噂を立てられてロマーノの耳にでも入ったら堪ったもんちゃうし、ごまかすのも面倒やし、どうせどっちにしたってからかわれるんやったら一緒やし……。
 警戒心と、いっそのこと話して楽になりたい気持ちが天秤の上でぐらぐらと揺れている。しかし相手はポルトガルだ、どうしたものか……。
「まあそう落ち込むなや〜次があるってぇ」
 意地悪そうに上がる口端。うん、別に言うてもええやろ。
 だからスペインは本当のことを言うことにした。
「あんな、俺、好きな人ができたんやんか」
 が、意を決して口にしたその瞬間。空気の読めないスペインですらはっきりと見えるぐらい明確に、その場が凍てついた。なぜかポルトガルは背中に雷鳴を背負い、荒れ狂う大海原を見据えている。それから約五秒。彼はうんざりした顔をした。
「あーそうなんや。へー、ふーん……」
「何やねん! 自分から聞いてきたんやんか」
「せやなあ。今ちょっと後悔しとるかも」
 思いがけず投げやりな反応が返ってきた。おかしい。てっきりポルトガルのことだから相手は誰だ何だと追及してくるかと思ったのに、もうこれ以上話を続ける気はないと言わんばかりの態度だ。
 しかし、そういう風にされると、むしろ話したくなると言うもので。
「相手が誰か聞いてへんのに引き下がるん?」
 駆け引きは苦手だ。スペインらしく直球で聞いてみる。それを受けたポルトガルはアメリカが好む合成甘味料と砂糖の塊のようなカラフルなケーキを食べた時みたいな面持ちで「いや、それは、聞かんでもええかなって」と視線を逸らした。
「何でー? 気にならへんの?」
「うん、まあ、そうやなあ……」
 やって別に聞かんでも知っとうし……、ごにょごにょと歯切れ悪くぼやきながら居心地悪そうにカートを押したり引いたりしている。何だかいつもと立場が逆になったみたいだ。
「え、ほんまどうしたん? 何か今日変やで」
「それはそっちやろ! 自分がちょっと頭ん中フローラルやからって俺まで巻き込まんとってやあ」
「フローラルってどういうことや」
「そういうとこやって! ほんま今日むっちゃしつこいやん」
「しつこないよ! いつもと違うから何かあったんか心配しているんやんか!」
「嘘やん! 俺に話聞いてもらいたいだけやろ?」
 ……。
「うん、聞いてほしい」
 ポルトガルが遠い目をする。そのまま暫し放心していたが、やがて逃げ切れないと察したのか力なく項垂れると、
「……せめてもう一人呼んでもええ?」
 と呟いた。

 /

『それでお電話をくださったんですね』
「うん、ごめんなあ。こんな茶番にマカオまで巻き込んで……」スペインには絶対に見せないようなしおらしさで少し涙目になりながら、「けど、俺にはちょっと荷が重いって言うか、ほんまは関わりたくないねん! せやから親友のよしみで付き合ったってくれへん?」と懇願している。
 それに対してマカオは気を悪くするそぶりも見せずにやわらかく微笑んで、もちろんです、と頷いた。
『それにポルトガル氏からの連絡はいつでも歓迎いたします』
「マカオー! また来週会いに行くなあ」
『ふふ、ありがとうございます』
 ポルトガルの端末にはマカオの姿が映っていた。スペインの目ではアジア人の見分けがつきにくいが、彼は中国や香港と比べると少し大人びていて、落ち着いた雰囲気がある。かと言って日本のような老熟したイメージとは重ならない。彼のほうが婀娜っぽくて、従順さよりも狡猾さが勝って見えるせいだろう。
「わー何かマカオと話すのめっちゃ久しぶりやわー。元気しとったー?」
『おかげさまで何とかやっています』
「そうなんやー俺も余裕できたら遊びに行くな」
「そんな話はええやろ。早よ本題入ろうや」
 挨拶を交わしているとポルトガルが急かしてきた。スペインに仕切らせるといつまでも話が進まず、延々と雑談が続く可能性があるからだろう。とは言え、肘で脇腹をつつかれると少し痛い。眉をひそめて抗議する。
「何やねん、せっかちやなあ」
「あのなあ……誰のために時間作っとう思ってるん?」
「……俺のためやったわ!」
 ハッと我に返る。そうだ、今はこんな話をしている場合ではない。このまま家に帰ったら、また今朝のように経験したことのない感情の渦に襲われ混乱し、ロマーノの前で奇妙な態度を取ってしまうだろう。ただ醜態を晒すだけならまだ良い。スペインは何だか自分のことが大嫌いになってしまいそうな、危機感にも似た何かを感じていた。
 しかし落ち着ける場所に移動してマカオに電話をかけている間に、スーパーマーケットでポルトガルに会った時よりも幾分か冷静になってきた。そうすると、あまり付き合いのないマカオにわざわざビデオ通話までしてもらって、スペインの相談会のようになっている現状を客観視せざるを得ない。
 何か……むっちゃ恥ずかしい。
 今さらの羞恥が込み上げてきて頬にじわじわと熱くなってくる。そもそもこんな話をポルトガルにして何になるのだろう。自分でもよくわからっていないのに、何を聞いてもらうつもりだったのか。
「何か急に静かになったなあ。どうしたん? 話したいことがあったんちゃうん?」
『確か好きな人ができたんでしたっけ』
「そうそう。スーパーの入浴剤コーナの前で泣きついてきてん」
「……泣きついてない」
 と反論しながらも、内心泣きそうだ。自分が招いた事態とは言え、何これ。何やこれ。
「……まさか、今さら我に返って恥ずかしなってるんとちゃう?」
「うっ」
「そんなんなるんやったら、あと十分早く気づいてやー!」
「ごもっともやで……」
 ポルトガルの言い分が正しすぎて何も言い返せない。とにかく現状が恥ずかしいやら情けないやらで、落ち着きのない自分に頭を抱えたくなる。
 そんなスペインとポルトガルを、マカオが画面越しに『まあまあ』と宥める。
『ここで有耶無耶にしても後味が悪いですし、気になっていることがあるなら言ってしまえばよろしいのでは?』
「うぅ、そうなんかなあ」
 しかしこんな纏まってないことを聞かされても、どうなのか。それにふたりに相談するような内容でもない。うんうん唸っていると穏やかな声で促される。
『協力できることは少ないかもしれませんが、話している内に考えが整理されて自ら解決策を見つけられることもあります』
「ああ、確かに俺もマカオに話し聞いてもらうとそれまで気づかんかったことがわかることあるわあ」
『それは嬉しいです』
 ふふ、と口元を服の袖で隠して上品に笑い、それからやわらかく続ける。
『そうですね、もしかすると相談とは何らかの助言や協力を仰ぐよりも、聞いてもらうことそのものに意味があるのかもしれませんね』
 だからスペインも気にせず話してしまえ、そう背中を押されてつい口が緩んだ。確かにスペインもとりとめのない話をロマーノにしている内に、それまで煮詰まっていた問題の解決策を思いついたり、画期的なアイデアが浮かんだりすることがある。その経験と何もかも達観したような物言いが、やたら説得力を感じさせたのかも知れない。
「……あんな、ロマーノのことが好きになってしもてん。あー、その、恋愛の意味で」
 そうやって音にして発すると、まるで取り返しのつかない、とんでもない話のようで末恐ろしくなった。
「今までずっと大切にしてきてそばにおったのに、突然。何なんやろー俺おかしなってもうたんかな。むっちゃドキドキするし、ロマのこと考えると頭ん中がそれでいっぱいになって冷静じゃなくなるし、何か興奮してもうて変なこと口走りそうになるし!」
「……それ、前からやん」
 ポルトガルが呆れたように言う。
「ロマーノ相手やろ? スペイン前からそんな感じやったやんか」
「それが全然ちゃうねん!」
 ロマーノとの関係が変わったわけでもなく、もちろんロマーノも今までずっとスペインと一緒にいた彼だ。それなのに恋愛感情ひとつで、こんなにも変わってしまう。
「ドキドキするだけと違って、何やろ、もやもやする。嫌な気持ちになったり、落ち着かんかったり、とにかく変なんや」
 感情が勾配の急なレールを全速力で駆け抜けていくコースターに乗せられているみたいだ。スペインの制御を離れ、コースの先がどうなっているかもわからない。ただ右へ左へカーブするのを振り落とされないようしがみついているだけ。そのアップダウンに自家中毒を起こしかけている。
『しかし恋愛感情とはそういうものではありませんか? 特に欧米の方は情熱的な傾向がありますし……』
「あーそれなあ。わからへんねん、スペイン今までに恋愛とかしたことないんやもん」
「……したことないねん」
『おや、そうでしたか』
 意外そうな声だったが、『どうりで、そいうことでしたか』と何か納得されている。そんなまさか日頃の言動に初恋もしたことがないなんて滲み出ているのだろうか。
『それなら初めての感情に戸惑っているのかもしれませんね』
「戸惑っているなんて生易しいもんとちゃうよ」
『まあ、御本人はそう思われるかもしれませんが』
「やって今までのロマーノへの気持ちとか思い出が何もかも塗り替えられていくみたいな、変な感じなんやもん」
 何気なく口にした言葉だったが、急に腑に落ちた。それが一番しっくりくる。
「……そうや、上書きされていくみたいで嫌やったんや」
 長年、培ってきたロマーノとの絆。親愛や友好が恋愛感情で塗り替えられていくような衝撃。確かに表面上はほとんど似たような衝動と感情だ。ロマーノを好ましく思い、構いたくてしょうがない。けれど、根底にあるはずの慈しむ気持ちや信頼関係、一緒にいると安心できて楽しい気持ち。それらが全部、恋愛感情に取って代わるのは嫌だった。そんなことになるのなら恋愛なんてしたくないとさえ思う。
「じゃないと、俺が今までずっとロマを大事にしてた気持ちが全部嘘みたいになるやんか」
 ぐっと拳を握りしめて俯く。ずっとモヤモヤしていたのは、変化した感情がロマーノを裏切っているみたいに感じて自己嫌悪していたのだろう。
『そうですね。ですが、我々から見るとやはり戸惑っているように思えます』
「うーん……確かに戸惑いはあるんやけど……」
『推測ですが、今までに経験したことがない感情に動揺して、意識が集中してしまっているのはありませんか?』
 マカオの言葉は少し回りくどく、すぐに理解できずに暫し考え込んでしまった。首を傾げ、腕を組み、何度か言われたことを咀嚼して繰り返し反芻してみたが、どうにもスペインの感覚にハマらなくてピンとこない。それを見かねたポルトガルが「こいつにそんな言い方してもわからへんで」と横やりを入れてくる。
「いやーちょっと小難しいっちゅうか……」
『そうですねぇ……。つまり何も変わっていないということです』
「はあ」
 気の抜けた返事をするスペインを、ポルトガルが心底馬鹿にしたような視線を向けてくるが、彼も意味がわかっているのだろうか。訝しんで目を細める。そんなふたりの姿にマカオが苦笑しながら話を続けた。
『今は恋愛感情を特別に感じているかもしれませんが、落ち着いたらわかりますよ。親愛も友愛も失われたわけではなく、これまで通り変わらずあるはずです』
「……そう、かな」
 東洋特有のアルカイックスマイルが返ってくる。肯定されたわけではないのに、それだけで頷かれたような気がするから不思議だ。独特の間や表情の変化で言外の感情まで伝えてくるようだ。例えばーーーもうお腹いっぱい、みたいな。
『そもそも最近気づいたからそういう意識になっているだけで、ずっと前から好きだったと思いますし……』
 ぼそりと呟かれて首を傾げる。そんなスペインの反応にも、何でもないと濁されてそれ以上の追及はできなかった。となりでポルトガルが「もうそのへんでえやろー」としびれを切らしているし、そろそろ時間切れだ。
「でも話聞いてくれてありがとう! おかげでスッキリしたわー」
「こっちは胸焼けしそうやけどな」
『お役に立てて光栄です』
 はは、と照れ隠しで笑いながら、本当にありがとう、ともう一度お礼を言う。
 マカオの言う通り話をするだけでこんなにも気が楽になるとは思わなかった。そもそも、自分の感情を真正面から見つめることなんて今までほとんどなかったのではないだろうか。スペイン自身、心が映し出す想いの多彩さに驚いている。
「ひとりやったら煮詰まってたかも。ありがとうな」
『いえいえ、今度はぜひロマーノ氏とふたりでお越しください』
「うん、絶対行くわ!」
 ちゃっかり約束させられたが、これぐらいは範疇だろう。そう納得して話を切り上げた。
 しかし行くとは行ったがマカオはカジノが有名ではなかったか? ロマーノを連れて行っても大丈夫か心配だが……どうにかして夜の街に繰り出さないよう対策を練ってからでないと、おいそれとは遊びに行けない。ロマーノは嫌がるだろうから、計画段階でマカオに相談しないとなあ。
 そう考えているスペインは自分の『今まで通りの過保護』な思考に自覚がないのであった。
 
  
 
 
「ただいまーいやあ、すっかり遅なってしもたなあ」
 ポルトガルたちと別れて帰宅すると、昼食には遅い時間になっていた。ロマーノも腹を空かせているのか玄関まで出迎えてくれている。
「本当だぞ、ちくしょーめ! 何してたんだよ!」
 ポコポコと頭から湯気を出し、越しに両手を当てる説教スタイルで。
「ごめんごめん。ちょっと、えーと……ポルトガルにそこで会ってもうて」
「はあ?」眉間にぎゅむっとシワが寄る。「ポルトガルが何の用があるんだよ」
「ああ、いやあ……何やったかなあ」
 まさかロマーノ本人に相談していたことを伝えられるわけもなく言葉に詰まるが、そう言えば彼の目的はスペインの新しい弱みを掴むことではなかったはずだ。
「ああ、何かなポートワインを買ってるらしいで。売上貢献のために」
「……意外とちゃっかりしてるんだな」
「なー俺も初耳やったわ」
 ロマーノは「その手があったか」とブツブツ呟いている。もしかして彼も自分の家のワインを買って行くつもりだろうか。しかし南イタリア産のワインやリモンチェッロや焼き菓子は、彼の訪問に合わせていつもスペインが買っている。それを思えばロマーノが遊びに来ることがそのまま売上貢献に繋がっていると言えるだろう。
 他愛もない話をしながら買い物袋を持ってキッチンへと移動する。ロマーノは留守番をしている最中に近所の老夫婦からカーネーションの鉢植えをもらったことと、テレビでやっていたバラエティ番組の話をしてくれた。カーネーションはおそらく以前スペインが収穫したトマトのおすそ分けをしたので、そのお礼だろう。今度また挨拶しておくと頷いてキッチンのテーブルに袋を置いた。
「つーか、結構いろいろ買ってんだな……しかも重そうなもんばっか」
「せやねん、店に着いたらあれもこれもって思い出してなー」
「ふうん。だったら留守番しといて正解だったな」
 予想通りの反応に思わず吹き出した。
「ふはっ、ふふ、うん、ロマやったら絶対そう言うと思ったわー」
 ロマーノが荷物持ちするなんて言い出したら、天変地異を疑ってしまう。だが、この子はそれで良い。もちろん天変地異覚悟でスペインを手伝おうとしてくれるのなら、その心意気に感激して飛び上がるほど喜ぶのだろうが。
「何だよ、それ。勝手に人の反応を予想するなよな」
「いや、だってなあ……ははは」
「笑いすぎだぞ、ちくしょー!」
 ひとしきりそんなやり取りをして、ようやくスペインの笑いが収まった頃、ロマーノが納得いかないとでも言わんばかりに頬を膨らませつつも「まあでもお前が元気そうで良かった」と呟いた。
「へ?」
「何か昨夜から様子が変だっただろ? 今朝も調子悪そうだったし……何か悪いもんでも食ったんじゃねーかって思ってたんだよ」
 しかしロマーノをからかって笑っているぐらいだ。自分の思い過ごしだったと続ける。
 少しまぶたを伏せて、相手とは目を合わさず唇を尖らせるのはロマーノの幼い頃からの癖だった。おそらくは照れくさいのだろう。その姿がいじらしくて、日頃の可愛げのない言動と裏腹の素直な心根を見せつけられているようで、いつもつい可愛さのあまりに興奮してしまう。けれど今日ばかりはスペインの心にじんわりと染み込んできた。
「……うん。いや、せやなあ。今朝まではちょっと調子悪かったかも。心配かけてごめんな」
「し、心配なんかしてねーし! スペインこのやろーのくせに調子狂うってだけだからな!」
「うんうん、ありがとうなー」
 いつもと変わらないやり取りだ。くるくると感情の変わるロマーノが全力で突っかかってきて、スペインがそれに和んで、そんなスペインにまたロマーノが怒ってくる。今までと変わらない日常。一方でそんなロマーノが愛しくて可愛くて、どうにかなってしまいそうな浮かれた気持ちもある。心臓はやっぱりドキドキしているし、ともすれば顔が赤くなりそうで。
(ああ、これがマカオの言ってたやつかあ)
 確かに今までの感情は恋愛感情に塗り替えられたわけでも、消えてしまったわけでもなかった。今までどおり同じように心の中にあって、それとは別に恋心が芽生えてきただけだ。
 もしくはずっとここにあったのかもしれない。スペインが自身の内面を探ることを疎かにしていたから気づかなかっただけで、本当はずっと前から恋は咲いていたのかも。それを、昨夜、一緒に風呂に入って湯船でリラックスしている時に不意を突かれた形で見つけた。
「なあ、ロマーノ。実は今日な、入浴剤買ってきてん」
「何?! スペインが? さては昨日のでハマったんだろ!」
「うん、せやねん。ほんでなあ、今夜も一緒に風呂入ってほしいねんけど、その前に俺の話聞いてくれる?」
 買い物袋からばらの形をした入浴剤を取り出して、ロマーノに向き合った。些か自分たちには不釣り合いなほどロマンチックなシチュエーションだったが、これぐらいしないと伝わるまい。意を決してスペインはロマーノに告げる。
「俺、ロマーノのことが好きやねん。ほんで、ロマーノが同じ気持ちやったら一緒に風呂入りたい」
 キョトンとしたロマーノが顔を真っ赤にした後、泣き出すまで。あと五秒。

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