告白

 一、
 記憶喪失と聞いていた。
「あ、ロマーノ! 今日も見舞いに来てくれたん?」
 ロマーノの顔を見るなり満面の笑みを浮かべたスペインは一見すると特別変わったところがない。数百年庇護し続け、特別に可愛がっている元子分の訪問が嬉しくて仕方がないと言わんばかりの笑顔で、さあ家の中へと促す姿もいつも通りだ。
 しかし今の彼には記憶がない。
 こんなにも親しげに接してきているがロマーノのこともすっかり忘れていて、今は良くて『よく見舞いに来てくれるイタリアの南のほう』。そろそろ打ち解けてきてはいるのだろうが、ほとんど他人としか思っていないはずだ。
「べっつにお前のために来たんじゃねぇぞ! 馬鹿弟がうるせぇから仕方なく様子見に来てやっているだけだからな!」
「馬鹿弟ってイタちゃんのことやんなあ……あ! ってことはイタちゃんも来てるん!?」
「……今日は来てねぇよ」
「そっかぁ……残念やなあ」
 こうやって普通に話している分には、記憶がないことなんて忘れてしまいそうなほど普通だ。相変わらず目の前のロマーノよりも会話に出てきただけの弟へと注意が向くし、相変わらず空気が読めない。
「ふん、悪かったな、馬鹿弟じゃなくて。これはあいつからだ。ありがたく受け取れよ」
 それに悪態をつきながら鉢植えを突きつけると目を丸くして首を傾げた。
「花?」
「デイジー。今は覚えてないんだろうけど昔から好きだったんだよ、お前」
 その言葉にスペインは「そうなんや……」と一瞬、表情を曇らせたが、「うん、でもそんな気がするわ。ありがとうな」すぐに明るく笑ってみせた。
 鉢植えを受け取りながらロマーノを室内へと招き入れ、ふたり並んで廊下を歩く。沈黙を嫌ったスペインが世間話の延長線で、そろそろ仕事を始めるのだと言いだした。
「上司から仕事しているうちに何か思い出すかもって言われてんねん」
「あー、そりゃ体良くこき使われてんだよ」
「やっぱそう思うー? 言い方も全然気ぃつかってくれてる感じとちゃうねん。ほんま人使い荒いわ。それにいきなり資料整理しろってめっちゃ本送られてきてなあ……あれどないしようかな」
 資料整理……確かに記憶の有無に関わらず手をつけやすいが、何てつまんねぇ仕事なんだ……。それも大量に送られてきているらしい。ロマーノなら泣いて国内からの脱走を図る事案だが、今のスペインには頼れる相手が誰なのかもわからないのだろう。文句を言いながらもやるつもりらしい。あわれ。合掌。
「本はどこに置くかわかったか? 書斎はリビングの奥の部屋だぞ」
「ああ、うん」
 半分地下に潜っているため扉が見つけにくいかもしれない。そう伝えるとスペインが何とも言えないような微妙な顔をして視線を逸らした。
「大丈夫、最近ようやく家に慣れてきてん」
 自分の家のはずやのになあ、あはは、と笑いながらロマーノが渡した鉢をぎゅうっと抱きしめる。それで渡しっぱなしになっていたことを思い出す。
「とりあえずそれ窓辺にでも置いて来いよ。太陽の光を当てておいたら長持ちしやすいから」
 それもスペインから教わったことなのだが、今の彼にはその記憶はないだろう。それに少しさみしい気持ちが込み上げてきて、ロマーノもそっと視線を外した。スペインは一瞬躊躇っていたが、とりあえず鉢をどうにかするのが先だとわかったのかリビングのほうへと向かった。その後ろ姿を見送ってため息をつく。
 今のやり取りにおかしなところはなかっただろうか?
 反芻して記憶と照らし合わせる。会話の内容も他愛のないものだし、距離感もこんなものだった。うん、たぶん、大丈夫。以前と何も変わっていないはず。
 何となく疲労を感じてしまって勝手知ったる人の家とばかりに断りもなくキッチンへと上がり込む。今現在の家主よりもロマーノのほうが家の中のことを把握している。飲み物がほしいなら自分で用意したほうが早い。
「あ、ロマーノ。ここにおったんや」
 おう、と相槌を打ちつつコーヒー豆を取り出す。そうして何の気ない風を装って核心に触れた。
「今日は病院の日だったんだろ」
「うん、上司から聞いたん? いちいち連絡せんでもええのに心配性やなあ」
 あはは、と笑う声が空元気の時のそれだったので訊ねずとも答えは知れていたが、直接結果を聞いてくるように言われているので黙って引き返すわけにはいかない。ロマーノも知りたいところではあった。
「……それで、その……どうだったんだよ」
 とは言え、これが弟のヴェネチアーノならもっと上手い言い方をしたのかもしれない。こんな気まずそうに切り出したのではスペインだって言いにくいだろう。
「特に何もなかったで。病院もお医者さんも今まで通りでー、あー……うん。せやねん。どこも悪くないし、原因もわからへんねんて」
 言いにくそうなスペインの態度に、やっぱり聞くんじゃなかったと後悔した。そもそもそんな簡単に原因がわかって記憶を取り戻せるなら、こんなに苦労はしていないだろう。スペインが頻繁にやって来るロマーノの顔を覚え、自宅のことを把握し、そろそろ仕事に復帰しろとせっつかれるほどの期間、手を打てていないということはこれが想像以上にやっかいなものと言うことだ。
 いろいろな感情が渦巻く胸中を隠すようにそっけなくマグカップを突き出す。いきなりのロマーノの行動にスペインがきょとんとした顔をしている。
「ついでだからやる」
「コーヒー淹れてくれたん?」
 黙ったまま俯く。せめてうんだとか、そうだとか言えば良いのに上手く声が出てくれない。スペインから怪訝そうに見つめてくる気配がしたが、ほんの一瞬きの間に納得したらしくそうっとマグカップを取り上げられた。慌てて視線を上げると彼がカップに口をつけるところだった。ふぅふぅと息を吹きかけて熱を冷ましている。この気まずさを吹き飛ばそうとしてくれているのだ。それがわかっているからロマーノもマグカップに口をつけた。……しかしこの季節にホットコーヒーはないな、次からは水出しコーヒーを用意させよう。
「……おいしい!」
「当たり前だ、もっと褒めろこのやろー」
「ふはっ、何なんそれ」
 吹き出したスペインがケラケラと笑う。それでようやくロマーノの肩の力が抜ける。
「俺を褒めろ讃えろ」
「ははは、おもろいこと言うなあ」
 以前なら表面上だけでも褒めてくれたのに、同じ顔で同じ表情で笑うだけのスペインに少しだけ胸が軋む。でも仕方がない。今の彼はロマーノの幼い頃からずっと一緒にいたあのスペインとは違う。何百年と共に暮らし、何に置いてもロマーノを守ってくれたあの男は今やどこにもいないのだ。

 スペインが記憶喪失になったと聞いたのは三ヶ月ほど前のことだった。

 それを発見したのは彼の上司で、その時スペインは電気もつけずに暗いリビングでぼんやりと佇んでいたのだと言う。彼は自分が国であることも忘れ、なぜそうしていたのかも覚えていなかったのだそうだ。やって来た上司に気づいた彼の第一声は「あれ……誰なん? ……俺のこと知っている人?」。その様子が尋常ならざるものだとはすぐにわかったらしい。
 まずは病院に担ぎ込んで精密検査、異常なし。次に政治学者や経済学者を呼んできてスペインや近隣の国の変化を調べるも、異常なし。歴史学者と宗教家たちに過去の事例の調査を依頼、異常なし。
 その後ようやく国たちにも状況が知らされ、歴史の長い者や親しい者たちがスペインを訪ねたがスペインは誰のことも覚えていなかった。彼の上司はロマーノに会えば何か思い出すかもしれないと一縷の望みをかけていたようだが、「可愛げがなく」「不器用で」「何の役にも立たない」ロマーノにそんな奇跡を起こす力などあるはずもなく、結果は見事な空振り。闇雲に気まずくなっただけだった。

 ずずず、とコーヒーを啜る音がやけに響く。ひとしきり笑ったスペインがふと黙り込んでしまったせいで部屋は静かになっていた。それが落ち着かない。本来ならばロマーノがうるさいと言ってもしつこくあれこれ構おうとして、話しかけてきて、仕事の邪魔になるほどだったと言うのに。
「何か、不思議やなあ……」
 ぽつりと零す声。
「何がだよ?」
「ん、いやあ……ロマーノの淹れてくれたコーヒーな、すごい俺好みな気がするねん。実は自分で淹れても全然しっくりこぉへんくて、本とかで淹れ方調べてたんやで」
 なるほど、そういうこともあるのか。好みは変わっていなくとも経験が失われてしまったと言うのは本人にも不便なものだ。
「あー……お前、極端なんだよ。マニュアル通りにやっても作れないだろ。コーヒーもすっげぇ渋いかすっげぇ酸っぱいかすっげぇ甘いののどれかで、今の時間帯は甘いやつだ」
 ロマーノのマグカップに入れたものとは比較にならないほどミルクと砂糖をたっぷり混ぜてある。作りながら辟易としてしまう味付けがスペイン好みなのだ。食事は普通に美味しいものが多いので、味覚がおかしいというわけではないのだろうが、まあ何につけても独特なこだわりのある男だ。いちいち気にしていたらキリがない。
「そうなんやあ。ロマ、俺のこと詳しいんやね」
 声音はいつも通りのはずなのに、どうしてだろう。含みを感じてしまう。
「あ、いや……まあ」
「コーヒーだけちゃうで。前に作ってくれたチュロスも馴染んだ味がした」
 記憶を失う前は妖精さんが作ってくれたとか何だとか言っていたのに、どういうわけか今の彼はロマーノが作ったそれを一口で言い当てていた。
「いや、あれは元々お前のレシピだぞ」
「こないだの土産に持ってきてくれた映画は俺のツボやったし」
「あんなB級テメーしか見る奴いねぇよ」
「そもそも俺ん家のことを俺より把握している……」
 珍しく真面目な顔をしたスペインは思考していたのだ。どうしようもなく嫌な予感がして身構えた。何だろう、何だろう。このまま彼に喋らせていてはいけないような気がするのに、胸がざわざわとしていて止められない。
「そんでな、俺……考えとったんやけど……」
 そう言って、スペインはなぜかロマーノの手を取った。ぎゅうっと握りしめられて世界が停止したような錯覚に陥る。
 えっなんで今?
 今、手を握るんだ?
 ぽかんとスペインを見返すとじっと見つめられる。至近距離、逸らされない視線に思考が鈍る。
「ロマーノってもしかして俺の恋人やったんちゃう?」
 真っ直ぐに見つめてくる視線も、少し湿った手のひらも、湯気の立つマグカップだってどれもこれも場違いなぐらいに熱い。熱くて茹だってしまいそうでーーー、そう、熱かったせいでロマーノは否定できなかったのだ。
 スペインは視線を逸らさなかった。
「せやから俺のこと心配して何度も会いに来てくれるんやろ? ……俺、その、いっつもロマーノのことが気になってしまって…………」
 この時のことをロマーノは何度も後悔することになる。どうして気の所為だと言えなかったのだろう。記憶喪失で不安になっているせいで一時的にそういう勘違いをしているのだと笑い飛ばせなかったのか。
 スペインが挙げていた理由はどれもこれもロマーノが数百年一緒に暮らしている中で知ったものだ。付き合いが長く、独立してからもしょっちゅう遊びに来ていたから知っているだけだった。
 ロマーノはそれを口にするべきだった。スペインに事実を告げて、ちゃんと今まで通りの関係を続けていくべきだったのだ。
 しかし後から何度振り返って上手い回答のシミュレーションを繰り返そうとも、過ぎ去った現実は変えられない。実際のロマーノはこの時、呆然として否定も肯定もできなかったのだ。
「記憶がないせいで前とは違うところがあるかもしれへんけど……、ロマーノがもしまだ俺のこと好きやったらもう一度俺と付き合ってほしい」
 そうして気がついたら記憶を失っているスペインと付き合っていたことになっていた。

 ○

「いや、ねぇわ……ねぇよ……」
 ところ変わってイタリア、ローマ。木曜午後八時、ヴェネチアーノは気に入りのドラマシリーズが始まるのだと言って先ほどから慌ただしい。どうして前もって録画しておかないのか。本人は仕事の後、まっすぐ帰ってくるつもりだったと言うが、そんな早い時間に街に出れば当然可愛い女の子に目がいってしまう。うっかりナンパして帰宅がずれ込むことなんて毎度のことなのに。
「ありえねぇ……」
「もー! 兄ちゃん、こないだからそればっかり。一体どうしちゃったんだよ」
「……スペインからメールがすげぇくる」
 ソファで頭を抱える兄を一瞥してげんなりとした態度を隠しもしないでヴェネチアーノが嘆く。
「そりゃあ付き合っているんだからメールぐらいするでしょ」
「それがありえねぇって言ってんだよ!」
「何でさ。別に良いじゃん、スペイン兄ちゃんのこと好きなんでしょ?」
 それが問題なのだ。
「は?! 誰が! 誰を好きだって?! 言っとくけど俺は別にあんな奴好きでもなんでもねぇよ!」
 ロマーノはスペインに片想いをしていた。はっきりと自覚をしたのは独立した時だったが、思い返す限り幼い頃からずっと彼のことを想い続けてきたのだ。
 もちろん恋が成就するだなんて思っていなかった。確かにスペインはロマーノに甘かったが弟のヴェネチアーノのこともよく可愛がっていたし、ロマーノからのアプローチに全く気づかないどころかトンチンカンな反応ばかり寄越す。もし少しでもロマーノのことを意識しているのならば、あんな子どもを相手にするような態度は取るまい。身の程はわかっている。ちゃんと諦めもついていた。
「とか何とか言って、スペイン兄ちゃんにコクってたじゃん」
「ち、ちげぇよ! あれは、その……魔が差したっつーか……」
 そう、実はロマーノはスペインが記憶喪失になる直前、告白をしていたのだった。
「ねえねえ、なんで告白したの?」
 痛いところを突かれてぐぅっと喉の奥ですり潰した声が漏れる。口の中に広がるのは後悔と自分への怒りだ。今思い返しても馬鹿なことをしたと思う。あの時のロマーノはとにかく苛立っていて冷静ではなかった。
 だって、たいがい空気の読めないヴェネチアーノさえこうやって冷やかしてくるぐらいなのに、それがちっとも伝わっていないなんてスペインの鈍感さはどうかしている。それだって、たいていはこういう奴だと諦めた顔ができるのだが、時々どうしようもなく悔しくて面白くなくて、むなしくなることがある。呆れることにすら疲れ、子どもの癇癪のように感情を爆発させてしまう、そんな時が。
 あの日のロマーノがそうだった。
「っつーか何でそれを知ってんだよっ!」
「そりゃあ兄ちゃんわかりやすかったし……あの後スペイン兄ちゃんのこと避けていたもん」
 何を知っているのやら自信満々に突きつけてくる弟は可愛げがない。それがことごとく図星ばかりを突いてくるところが腹立たしい。生意気だ。
「…………」
「兄ちゃーん? 兄ちゃんってば」
「………………」
 こうなれば籠城だ、籠城。ロマーノの心の城は門を閉ざし、重厚な鎧を纏った騎士のロマーノたちが守りを固めている。表面上は頬をぷくーっと膨らませて唇を尖らせる、わかりやすい怒りの形。子どもっぽいとも言う。
 それに呆れ顔のヴェネチアーノはそのうち付き合っていられないとばかりに肩をすくめて、「コーヒー淹れるけど兄ちゃんもいるー?」とキッチンへ引っ込んでいった。小さな声で、いる、と頷いて項垂れる。いっそ頭を抱えてしまいたい。
 せめてスペインにフられていたのならば良かった。諦めもつく。泣いて喚いて引きこもったし、ヴェネチアーノも多少は同情をしてくれただろう。
 しかし思いつめたロマーノの愛の告白に対して、スペインの返事は酷いものだった。

ーーー親分もロマのこと好きやで!! こぉんな小ちゃい頃から見てきた子やもん、可愛えに決まってるやんか。
 わははっ

 最悪だ。まるでロマーノの告白が拙かったせいで大事なことが何ひとつ伝わらなかったみたいではないか。ロマーノが悪いのだろうか? 花束を渡して「大事な話がある」と前置きした上で伝わらないのならもはや何をしても無駄なのではないか。
 ああ、いや、いいや、俺が悪いで良いよ、もうそれで。何かをちょっとでも望んだ俺が悪かったんだろ、そうだそうだ、全部俺が悪いんだよ。不景気なのも、経済危機も、貿易摩擦もイギリスのEU脱退が上手くいかないのも全部俺のせい。
 すっかり定着した自暴自棄で卑屈な文句はあの日から何度も繰り返してきたものだ。
 そうして告白に失敗したのが冬に入る前、その後、記憶喪失の連絡を受けるまでの間ずっと顔を合わせずにいた。スペインのほうからはなにがしかの連絡がきていたが、それにも愛想のない返事しかしないで彼との距離を置いた。いくら何でもあんまりだった。
 ところが、その傷がまだ癒えていないうちに彼の上司から連絡がきて、記憶を失ったスペインに会ってくれと言う。踏んだり蹴ったりだった。
 もうロマーノしか望みがない、お前の顔を見たら思い出すかもしれへん……なんて乞われて、いやそんな言葉を信じたわけではなかったが、渋々重い足を引きずってスペインまで行った先で久しぶりに顔を合わせたスペインは「ごめんなあ、今記憶がなくて思い出されへんねん。名前聞いてもええかな?」と他の連中に見せるものと寸分違わず判を押したような愛想の良い笑顔で言ってきた。
 何と言うのか満身創痍、心象世界にゲームキャラクターの体力ゲージを反映できるのならば、ロマーノのそれは真っ赤っかの風前の灯火だったのだ。それがこの半年間の出来事だ。

ピロリン

 ところが今はスペインからメールがくる。毎日毎晩、飽きもせずに取り留めのない話ばかり送られてくるのだ。その日あった何でもないような出来事や新しい発見、ちょっとした変化などに添えられるロマーノのことを気遣う文言。
 そうして最後は決まってこう締めくくられている。

『ロマーノに会いたい。次はいつこっち来てくれるん?』

 そんなこと、記憶を失くす前は言われたことがない。他愛のない話ならいつもしていたが、こういう甘やかさを含んだものではなかった。
 だから、やっぱり。
 ロマーノはまだスペインのことが好きなのだろう。ひっきりなしに鳴る携帯電話の着信音にどうしようもなく嬉しくなってしまう。
 
 
 
 
 
 二、
 頻繁にメールがくるようになった。

『ロマーノが持ってきてくれたデイジーの写真送るな!』
「……何か増えてるぞ」
『一鉢だけやと寂しそうやったから足してん! 可愛えやろ?』
「おー。本当にお前好きだよな」
『うん、この花見ているとほんまにロマーノのことが好きやったんやろうなって思うわあ』

『ロマーノー?』

『あっそう言や近所に良い感じのバルができてん。コーヒーが美味かったわあ』
「店員は美人なのか?」
『うーん、可愛い感じやった』
「写真送ってこい!」
『いや、実際に見てもらったほうがええと思うねん。今度うち来たら連れてったるな』

 ちなみにこの店員と言うのが八歳の少女で、マスターは彼女の父親だった。小ぢんまりとしたバルは雰囲気が良く、客層も落ち着いている。こだわったコーヒーや食事が出るわけではない。むしろ家庭的な、今どき珍しい感じの店だ。
 何となく騙された気がしなくもないが、彼女は将来の美人と言うことで許してやろう。そう鷹揚に告げるロマーノにスペインは眉を下げて笑いながら「仮にも恋人に美人な店員紹介しろって酷いわ」とぼやいていた。

 そんなやり取りがしょっちゅう。週の半分はロマーノがスペインに通っているので直接顔を合わせているのに、少しの隙間も埋め尽くすようにスペインから連絡がくる。これは告白する以前の良好な親分子分時代でもあり得なかった頻度だ。

『いっつもロマーノが来てくれて嬉しいけど、怒られたりせぇへんの?』
「お前の様子見に行っているから良いんだよ」
『じゃあロマーノの今のお仕事は俺のお見舞いなんやあ!』
「まあそういうことになるのか?」
『せやったらもっと家に来たほうがええんちゃう?』
「ちゃんとイタリアに帰って報告しろってうるせぇんだよ」
『そっかぁ、残念やわ』

 こんなにいつも一緒にいてもスペインは飽きないらしい。むしろもっとそばにいたいと熱烈だ。帰り際も引き止めてくるし、ロマーノが帰宅すればすぐに次はいつ会えるのかを聞いてくる。これが普通の恋人同士ならすぐに嫌になりそうなぐらいの頻度で会っているのに。
 ロマーノだってこんなに一緒にいてもスペインのことを嫌になったりしない。長く一緒に暮らしてきただけあってスペインとの距離感は程良く、彼と過ごす時の居心地の良い空気感は何ものにも代えがたいのだ。
 これを一度は自分から遠ざけていたなんて信じられないぐらいに良く馴染む。弟といる時よりも気が楽なぐらいなのに。
 
 
 
 スペインの家に花が飾られるようにもなった。

「ロマーノ! いらっしゃい。ささ、中入って! 外暑かったやろ?」
 玄関先に大きな花瓶。以前にはなかったそれに目が留まる。手書きのカーネーションはセンスが良くて、小ぶりのひまわりが生けてあった。
「あ、それなあ庭に咲いたやつ。何の花を育ててたか知らんかったから、ひまわりでいっぱいになってびっくりした」
「ああ、そう言や昔俺が植えたんだっけ。あれからずっと育ててたんだな」
 その後どうなったかを聞いていなかったからすっかり忘れていた。あまり気にしていなかったが、「ロマーノが植えたん?」とスペインは嬉しそうにしている。
「お前が花壇を整えるのを手伝えって言ったんだよ」
 便宜上、花壇と呼んでいるがスペイン邸のそれはちょっとしたもので、いわゆる庭園のように整備されているわけではなく少々雑然としている。庭いっぱいに鉢を敷き詰めるだけに留まらず、東屋や母屋の壁にも吊るしてあった。花の種類も統一性はなくバラバラなので季節折々の花が一斉に咲き誇る様はまさに圧巻、うるさいぐらいだ。けれど、色彩鮮やかな庭はスペインらしいと思う。
 その庭の一角にひまわりとガーベラを植えたのはロマーノだった。今年も咲いていると言うことは、あれ以来、毎年種を蒔いてくれていたのだろう。あの春の庭、一緒に花壇の世話をした記憶は夢のようにきらきらとかがやいていて、今でも瞳を閉じればまぶたの裏に色鮮やかに蘇ってくる。
 一体、彼はどういう気持ちで庭を維持し続けてきたのだろうか。去って行った元子分への家族に対するような愛情か、あるいは在りし日の郷愁でもあったのか。
「…………」
 それを訊ねられる相手はもういない。今ロマーノの目の前にいるのは庭に何の花が咲くかも覚えていない男だ。何の記憶も残っていないからこそロマーノのことを恋人だと勘違いしていて、今もまるで愛おしいものを見るかのような目でじっと見つめてくれる。
「せっかくやからリビングの窓んとこでお茶でもしよか? アイスコーヒーでええ?」
「おー氷たくさん入れろ」
「はいはい、汗いっぱいかいているもんなあ」
 ニコニコと笑いながらロマーノの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてくる。子どもにするような仕草にムッとでしたのは一瞬、彼の指先がこめかみへと滑らされてピンと体が硬直した。
「……っ」
 頬、顎へと伝った指は首筋の汗を拭って鎖骨にも触れた。ロマーノのシャツの襟ぐりを僅かに引っ張るので思わず息を詰める。その拍子に肩が強張った。顔も熱い。心臓がドキドキしている。
 一瞬あらぬ想像が頭を過ったが、そんなことになる前にスペインの指が名残惜しそうに離れた。
 彼は何も言わずにキッチンへと引っ込んで行った。冷蔵庫を開ける音がする。気を抜くとその場にへたり込みそうになるのをどうにか堪えてリビングへと足を向ける。
 何だろう。何となく気まずいような気がするのに不快なわけではなくて、しかしやけにそわそわしていて落ち着かない。
 いつも陣取っているソファに座る気にはなれなくて、庭に面した窓へと向かう。窓の外にはスペインが日曜大工で誂えたウッドデッキが備わっている。日差し避けがあるとは言え日中のこの時間帯は外に出るにはまだ暑いのだが、構わずデッキに腰掛けた。子どものように足を外へと投げ出して、太陽が燦々と照らす庭と向き合う。
「はー……あーやべぇな、これ」
 両手で頬を包む。思ったほど熱くなってはいなかった。何だ、こんなものかとそのまま耳たぶに触れると、……熱い。熱でもあるんじゃなかろうか。スペインの家に通う間に日焼けでもしたのかな、なんてな。たぶん違う。まだ心臓の音が乱れている。
 スペインの指先が首筋に触れた。今までにあんな触られ方したことがない。
「……っ」
 ぞわりとした何かが背筋を這い上がってきた、その瞬間。
「足、日焼けするでー」
「うわああっ!!」
 冷たいグラスを頬に押し付けられて文字通り飛び上がった。
「ちょっ、大丈夫? 今漫画みたいになってたで」
「おっおどかすなよ!」
 言われるまでもなく座ったままの姿勢で器用に飛び上がってしまったことは自覚している。それが恥ずかしくてごまかすように唇を尖らせてるが、既に文句を言われることにも慣れてしまったのか、スペインははいはいと聞き流して、
「はい、これロマーノの」
 アイスコーヒーを手渡してくる。それを渋々と言った体で受け取ると自然な動作でロマーノの隣に腰を下ろした。拳ひとつ分空けて座ったのを見届けて安心したのも束の間、ロマーノがグラスに口をツケている間に片手を床についた彼が体を傾けてくる。
「…………ッ!!」
「ロマーノが可愛いから、ついなー。でもまさかそんなに驚くと思ってへんかった。ごめんなあ」
 甘えるような声が近づいて、片側にだけ感じる人の気配と体温に胸がざわめく。何だろう、今日はスペインに惑わされっぱなしだ。
 悔し紛れにわざと音を立ててコーヒーを啜る。これも慣れたのか、スペインはニヨニヨと笑っているだけだ。腹が立つ。
「グラスが冷たくて、だからびっくりしただけだっ」
 ふん、と鼻を鳴らす。スペインはそれにすら嬉しそうに目を細めている。どうもここのところの彼はどうかしてしまっている。
 
 
 
 様子のおかしいスペインは最近、ロマーノと会う時の服装にも気合いを入れてくる。彼が着飾っているのなんてロマーノが幼い頃以来だから新鮮だった。特にここ数十年ほどは台所事情もあってか、Tシャツにジーパンかトレーナーにスウェットのどちらかしかなかったのだ。
 だから淡い水色のジャケットに麻のパンツ姿で待ち合わせ場所に現れたスペインのことをぽかんと見つめたまま固まってしまうのは致し方ないことだった。何せこの長い付き合いの中でも、ロマーノは彼がそんな小洒落たジャケットを羽織っている姿を見たことがない。
「ごめん、待たせた?」
 しかも第一声がこれだ。

 これだ!!

 いつもなら何時間遅れようともふにゃふにゃヘラヘラやって来るくせに、一体何があったのか。答えは明白、今のスペインは記憶を失っている。
「いや、お前にしちゃ早いほうだよ」
 約束していた時間から五分も過ぎていない。お互いに十分以内であれば遅刻のうちにも入らない文化だ。時間通りと言って差し支えないだろう。そう伝えると情けない顔して、「そんな評価嫌やわあ」とぼやく。格好も相まって新鮮なやり取りだった。
「そう言や、こないだロマが言ってた本読んだで」
 歩きだしたスペインがそう切り出す。
「こないだ?」
「最近面白かったって言うとった、あー……若い子向けの恋愛小説なんかな。異世界に転生したらスライムになって美少女にモテモテで困るみたいなタイトルのやつ」
「読んだのか!」
 往来であることも忘れて大声を出してしまった。だが仕方ない。スペインはロマーノの話を聞いているようで全く聞いておらず、ただその場で喋っているのが楽しいだけなのだ。人が一生懸命勧めた本も映画も帰り際にはすっかり忘れていて、一度も見てくれたことがない。
「うん、単純な恋愛ものかと思ったらSFっぽい要素もあって意外やったわ。面白かったで」
「ふふん、そうだろそうだろ。何なら他にもおすすめのやつ教えてやるぞ!」
 調子に乗ってふんぞり返ると、意外にも前のめりな返事が返ってきた。
「うん! いっぱい教えてほしいわ。最近のだけじゃなく昔から好きなやつとか、昔気に入っとったものとか何でも! あ、いや。ほら俺何も覚えてへんやんか」
 だから知りたいのだと言う。
「ああ、まあお前に教えてもらったものもいっぱいあるし、記憶を取り戻すきっかけになるかもな」
 言いながら少し憂鬱な気持ちになった。今はスペインと恋人同士ということになっているが、記憶を取り戻せば彼とはまた今まで通りの親分子分、ちょっと行き過ぎた家族の絆に戻るのだ。
 知らず視線を伏せたロマーノの手の甲に何かが当たった。歩いている拍子にスペインの手がぶつかったのだろう。それぐらい近くにいる。少し離れようと半歩横にズレると、それを見越したかのようにさらにスペインが距離を詰めてきた。今度は手のひら同士が触れる。びく、と体が強張って腕を引っ込めようとした。瞬間、指ごと巻き取られるようにして手を握りしめられる。
「ーーーっ!」
 手を握られている。それを認識した途端、沸騰したみたいに体中が熱くなった。ぶわり、と込み上げてきたもので頭の中がいっぱいだ。
 スペインは存外力強くロマーノの手を握った。初夏の昼下がり、薄曇りではあるものの気温がなかなか下がらないせいで少し汗ばむ陽気。ふたりの手も湿っている。

 うわーうわーうわー。

 まともな思考が働かず、意味のあることは何も考えられなかった。スペインに触れられたことなんて今までにも散々あったのに、彼の意図が違うだけでこんなにもロマーノは動揺してしまう。しかもスペインは顔を真赤にして狼狽するロマーノに気づいていないのか、さらにぎゅっと手を握って力強く言う。
「俺の記憶のためちゃうで!」
 その言葉に顔を上げると、彼は拗ねたような口調とは裏腹にとても優しい顔をしていた。ロマーノのことを好きで好きで堪らないとでも言っているかのような目に心臓が性懲りもなくドキドキと高鳴っていく。
「ロマーノが何を好きで、どんなことに興味があって、どういうものに影響を受けたんか、もっと知りたいねん」
 そう言って屈託なく笑うスペインに胸がむずむずする。そんな風に愛された経験がないせいで、どう反応すれば良いのかわからない。わからないけど手放したくもない。これが幸せだと言うことはわかっていた。
「そう、なのか……」
「せやでー当たり前やん」
 これ以上、熱くなりようがないほど熱を持った頬がさらに赤くなっていく気がする。ああ、きっと。今の自分は、まさにかつてのスペインが言った「熟れたトマトみたい」になっているのだろう。
 
 
 
 意識されている。気にかけられている。
 その変化がくすぐったくて落ち着かない。けれど同時にどうしようもなく幸福で、頭の中が馬鹿になっている。
 この頃のロマーノはスペインのことばかり考えていた。お互いの上司たち公認で彼の家に通っているのに、イタリアにいる間も暇があればスペインのことが頭を過ぎる。そろそろ起き出したころかな、これこの間あいつが言っていたスパイスだ、買っておいてやろう、でも明日も家に行くのはさすがにちょっと鬱陶しいかな、どうかな。
 ずっと前からスペインに恋をしていると言ったって初めから望みのない片想いだった。四六時中、彼のことを考えていても建設的なアイデアが浮かぶはずもなく、むしろ何も伝わらないことにイライラしたり憂鬱な気持ちになったりする。だから今までは意図的にスペインのことを意識しないようにしていた。
 恋をしていても別に浮かれるわけでもなし、楽しいこともなし。そのせいで自分のことをわりと淡白なリアリストだと思い込んでいたロマーノは、ここにきてはじめて自分でも知らなかったような自身の新たな一面を目の当たりにすることになった。つまり恋に浮かれて寝ても覚めても彼のことばかりの恋愛脳、ずっと地に足がつかないふわふわの夢心地を漂っているのにそれに危機感もいまいち抱けない自分だ。
 スペインと恋人になって彼にそうと扱われているだけでこの有様。記憶を取り戻したらどうするんだ、なんて不安を感じていられたのも最初のうちだけだった。近頃ではずっと思い出さずにこのままでいてくれなどと不謹慎なことを願い出す始末だ。すっかり自分がどうしてスペインの上司に乞われて彼の家に通っているのかも忘れている。
 テレビを見ていてもスペインとの会話を思い出し、時計を見る度に今ごろ何をしているか想像して、次いつ会えるかを考える。そんな調子だったからヴェネチアーノに呆れられて苦言を呈されても仕方のないことだった。
「兄ちゃんってば! 俺の話聞いている!?」
「はっ!?」
 ぱちん、と目が覚めるように顔を上げる。どうやらソファに座ったまま白昼夢を見ていたらしい。口端によだれの跡が残っていて、慌てて手の甲でゴシゴシと擦る。
「あ、いや、えーと……」
「……どこまで覚えているの?」
 もごもごと口ごもっていると、それで事情は察したのだろう。わりと早い段階から思考を飛ばしていた。それにじっとりと目を細めたヴェネチアーノがはあっとため息をつく。
「朝からずっとニヤついているよ」
「んなっ! に、ニヤけてなんかねぇよ!」
 言いながら自分の頬に手を当てる。触ってみたところで何がわかるわけでもないが、言われてみれば確かに心なしか筋肉が緩んでいるような気がしなくもなく……とりあえず頬をぐにぐにと揉んでみる。そんなまさか四六時中ニヤニヤしているなんてことは、ないと信じたい。
「あのねえ、スペイン兄ちゃんと恋人同士になって楽しい時期なのはわかるけど、ドイツからのメール無視しないでよ。ちゃんとスペイン兄ちゃんの様子見てきてくれてるの?」
「あ、あったりまえだろ! 俺は毎回あいつの家に行って、スペインとちゃんと会ってんだぞ」
「ただ眺めてれば良いんじゃないよ? 記憶のほうはどうかとか、仕事に差し支えないかとか、そういうことを見てきてほしいってドイツも言っていたじゃん」
 ぐぅっと喉を詰まらせた直後に、偉そうなことを言うな! という反論を思いついたが、ロマーノが一瞬怯んだその隙を見逃すはずもなくヴェネチアーノがさらなる追い打ちをかけてくる。
「まさかこのままスペイン兄ちゃんが忘れていたほうが良いなんて思ってないよね!?」
「……とうぜんだろっ」
「今の間は何さ」
「何でもねぇよ! いちいち口うるせぇな」
 日頃ののんびりした弟からは想像のできない鋭い追及に慌てて話題を逸らす。このまま話を続けていたらとんでもない墓穴を掘ってしまいそうだ。
「そ、そんなことよりスペインからもらってきたヒマワリの鉢だけど、そろそろ花が咲きそうだぞ」
「えっもう?」
「蕾の直前でもらったやつだから、こっちに来てからも順調に育っているみたいだ。なるべく日当たりの良いところに置いていたのも良かったのかもな」
「へービニールハウスがなくても何とかなるもんなんだね」
「ああ。花が咲いたらあいつ呼んでパスタでも作ってやろうぜ。記憶なくしてからちゃんとしたイタリアンを食ってねぇだろうからな!」
「俺もそこにいて良いの?」
「おう、スペインの奴も喜ぶし……ついでに美味いワイン持ってこさせようぜ」
 それでさスペインが、スペインの、こないだのスペイン、スペインとどうしたこうした。
「…………あのさ、兄ちゃん」
「ん?」
 ロマーノにとっては少しだけ取り留めのない話をしていたつもりだった。が、ヴェネチアーノがげっそりとした面持ちで、まるで三日三晩イギリスのところで捕虜でもやっていたかのように焦燥しきっている。そうして絞り出された声が紡いだのは、何ともいじらしいお願いだった。
「スペイン兄ちゃんの話は俺じゃなくて、ドイツに報告してもらっても良いかなー、なんて」
「お、おう……何でそんな疲れてんだ?」
「何でだろうね」
 何となく聞きづらくてそれ以上追及できなかった。

 ○

 自室に戻って携帯電話を見るとスペインからの着信があった。明日のことだろうかと折り返す。夜九時過ぎ、彼にとっては夕飯の時間だ。それでもスペインは二コールで電話に出た。
『ロマーノ! 何なに? どうしたん?!』
「どうしたっつうか、お前がかけてきたんじゃねぇのか?」
『あ、さっきのやつ? 折り返してくれたんやあ!』
 いかにもロマーノがかけてくれたことが嬉しいのだとわかりやすくはしゃぐスペインにぽやぽやとしたものが込み上げてくる。こんなに愛されて、好きだと伝えられて幸せになれないならその恋心は嘘だ。現にロマーノは頭が馬鹿になるぐらい喜んでいる。
『いやなあ、部屋を片付けてたら映画のチケットが出てきたんやけど、二人分あるねん。たぶんこれロマーノと一緒に観に行くつもりやったんちゃうかなあと思って』
「映画のチケット?」
 はて、そんな話をしていただろうかとタイトルを訊ねたら、シリーズ物のハリウッド映画だった。特に大ファンと言うわけではないが、第一作目をスペイン宅のテレビ放送で視聴して以来、新作が出れば一緒に観に行く暗黙の了解ができている。
 とは言え、わざわざ前売り券を買って予定を示し合わせて行っているわけではない。確かに数年越しの新作で前作の緊迫したエンディングも相まり続きが気になってはいるが、そもそも公開時期が発表された頃はちょうどロマーノがスペインを避けていた時期と重なっていて連絡を取り合っていない。
「あー……えーと、特に、そんな約束は……」
『あれ、してへんかったん? じゃあ後から連絡するつもりやったんかな。でもええやん、ロマーノが観たい映画やろ?』
「いやでも、それ続き物だぞ。お前ストーリーも全部忘れちまっているんじゃねぇのか?」
 初見殺しで有名なシリーズ作だ。特に今回は今までの作品を見ていないと意味がわからないだろう。チケットならすぐ貰い手がつくような人気作品だし、無理に観に行く必要はない。
 ところがそう告げるとスペインは面白くなさそうな声で反対する。
『嫌や。だってこれ絶対ロマーノと観に行くつもりで買ったチケットやもん。誰かにあげたくない』
「わ、わがまま言うんじゃねぇよ……」
『わがままちゃうで! ロマーノは今までの映画一緒に観てくれへんの?』
「え、いや」
 せっかくの機会だ。復習がてら付き合っても構わないが結構な数がある。全部観るには一日以上かかるだろう。
「長いし大変だぞ」
『ええやん! ロマーノと一緒やったら何時間でも映画観てられるし』
 それに、と一度区切って咳払い。何をもったいぶっているのか、えーと、そのぉ、と口ごもっている。心なしかスペインがそわそわしているような気配がする。
『うち泊まりに来て、一晩中映画鑑賞なんてどうやろ』
「え、それって……」
 後から振り返ってみても、この反応はなかった。カマトトぶっている。何をどうすればこんな噴飯もののあざとい返事ができたのだろう。
『もちろん変なことはせぇへんよ! ただずっと一緒におりたいねん。……そんで、もしロマーノが良いって言っていてくれたらずっと手を繋いで、ロマと同じもの見て、一晩中語り合いたい』
 恋は熱病とはよく言ったものだ。スペインの言葉に頭の中がぽわわんとして、ふわふわと地に足がつかなくなった。だってこんなの仕方がない。ずっと好きだった男が甘ったるい言葉を吐いてロマーノを包み込んでいる。同じ想いを返してくれているのだと思えば、これが彼の記憶喪失によるものだとわかっていたって抗えなかった。
 むしろそれの何が悪いのか。記憶喪失はきっかけのひとつに過ぎない。今こんなに楽しくて幸せなんだ、邪魔しないでくれよ。
「あー、うん……べ、別にそれぐらい、良いぞ。だって、俺たち、その……」
 あの、だから。口ごもるロマーノの話をからかわずに黙って待ってくれている。それに安堵して消え入りそうな小さな声で呟いた。
「恋人、なんだろ」
『……うん、せやで。恋人やから一緒におりたい』
 どうかこのまま時が止まれば良いのに。
 使い古されたラブソングの一説が頭を過ぎる。
 
 
 
 
 
 三、
 そんならしくもないことを願ったのが悪かったのだろうか。
「スペインさんの記憶喪失のことで話したいことがあります」
 ロマーノに冷水を浴びせたのは意外な人物。遠く極東の地から訪ねてやって来た、普段しょっちゅう会っているわけでもない日本だ。
 珍しく弟ではなくロマーノを訪ねてきた日本は、彼ら兄弟にとって遠くに住む親戚のおじいさんのような存在だった。体は小さく見た目も子どもみたいに見えるのに冷静で穏やか。いつも光のほとんど反射しない老成した眼差しでロマーノたちのことを微笑ましそうに見守っている。
 ロマーノからすれば食のセンスが少し変わっていて、あり得ないような組み合わせに果敢にチャレンジするところがあるのだが、そういうところも意外と面白くて気に入っている。欧州の国たちと違って歴史的な遺恨があまりないところも、心穏やかに付き合える理由だ。
 しかし彼からもたらされた話は少なくともロマーノにとっては楽しい話題ではなかった。彼もそんなことはわかっていただろう、その話を切り出す前からいつもよりも気鬱な様子だった。
「カプチーノで良いか? 急だったから適当に作ったけどよ」
 前もってわかっていたら彼の好みに合わせて豆を用意したのだが、あいにく今は来客用のものさえ残っていない。前に好きだと言っていたカプチーノを適当に作ると彼は軽くお辞儀をしてカップを受け取った。
「ありがとうございます。ロマーノ君の淹れてくれるコーヒーはいつも美味しいですよ」
「おう、もっと褒めろ褒めろ」
 感情の読めない微笑みを浮かべた日本と社交辞令程度の近況を語り交わす。隙さえあれば仕事をサボろうとするロマーノたちとは違い、相変わらず多忙な日本は最近目まぐるしい変化に晒されているらしい。
「中国さんが今忙しいみたいで……その、アメリカさんといろいろありまして」
「あー……そうか。そっちはそれが大変なんだったな。こっちはイギリスの野郎が髭野郎&芋野郎タッグとやり合っているぜ。ったく兄弟揃って人騒がせだよなあ」
 ロマーノの悪態を困ったように笑うのは、肯定するわけにはいかないが本人もそう思っているからだ。ヴェネチアーノほどではないがそれなりに付き合いのある相手ではあったので何となく察している。しかし、それをからかいたいと思うような相手でもなかった。これがスペインだったらヘラヘラ笑ってごまかしてんじゃねぇぞ! と怒るところだろう、あるいはドイツならわざと煽って彼が顔をしかめるようなことを言いたくなるのだが、日本は彼らと違ってロマーノに恥をかかせることもないので穏やかに会話を交わせる。こういうの、やっぱ良いよな。ロマーノは彼と過ごす時間を気に入っている。
「なのでスペインさんとはまだ会っていないようなんです。本当は中国さんに聞けばもっとはっきりしたことがわかると思うんですが……」
「何だよ、もったいぶって。つーかスペインの上司って日本たちにも頼んでたのかよ」
「あ、いえ! 私たちがスペインさんに会うのはロマーノ君の理由とは違いますよ。過去の事例で似たようなことがなかったか調べてほしいと頼まれているんです」
 ああ、そういうこともあるのか。歴史学者にも調査を依頼しているから、それと同じものなのかもしれない。
 納得して頷いていると、なおも慌てたように言い募る。
「だからロマーノ君とスペインさんの間に割って入って馬に蹴られるような話ではないんです」
「ふうん、そうなのか、って……えっ? 何だって?」
「いえ、私もお二人がようやく念願叶ってこの世の春を謳歌していることは聞き及んでおりますとも。本来ならばお赤飯を炊きたいところですが、スペインさんの記憶喪失を解決するのが先決かと思い今日のところは自重して……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! 誰に聞いたって? 春って何!?」
 慌てて話を遮る。日本がきょとんとした顔をする。
「ロマーノ君、スペインさんとお付き合いしているんですよね」

 ぴしゃーん!

 ロマーノの心境を表す効果音はそれだ。背景は暗闇に塗り潰されて、頭のてっぺんから心臓までを雷が射貫いた。
「えっ……な、だ、なんで……っ」
 言葉が上手く出てこなくて、顔がじわじわと赤くなっていく。その間も日本は不思議そうに首を傾げている。
 これはこの時の日本が知ることのない話なのだが、彼はお赤飯を炊いていなくて正解だった。そんなことをされようものならロマーノの羞恥臨界点は軽々突破し、耐えきれずに「ちぎー!!!!」と叫んで転げ回って家の天井を突き破っているところだった。
 しかしお赤飯がなくてもロマーノの羞恥バロメーターは急上昇、最近の自分の言動が急に蘇ってきてジタバタと転げ回りたい。
 どうして急に我に返ったのかと言えば、相手が日本でロマーノのことをからかうつもりがなく、至って真面目に冷静にスペインとの関係を指摘してきたところにある。
「イタリア君から聞いておりますよ。あの……じょ、情熱的に……お付き合いされていると」
 ましてや言いながら恥じらわれようものなら。

 ちぎゃー!!!!!!

 ロマーノ臨時総会緊急召集、議題・親戚のじいさんのように懐いていた日本に自分の浮かれた恋愛の話が伝わっていた件。

 思い返せばだいぶ恥ずかしいことをしていたぞ。
 ヴェネチアーノに聞いてんなら、一日中ニヤニヤしていたこともバレてる。
 よく考えればあいつにノロケてた。
 ってかここ最近、スペインの話以外をした記憶がねぇな。

 全ロマーノ一致、ここに判決を言い渡す。
 恥ずか死罪。

「……ッ?! …………ッ!!!!」

 頭の中ではイタリアナンパ禁止法令にでも反対するかのごとく抗議デモが繰り広げられ騒々しかったが、言葉は上手く出てこなくて口をパクパクと開閉することしかできない。そんなロマーノの様子に何が起こっているかまではわからずとも空気を読んだ日本が、「えーと、その、詳しくは何も知らないんですが!」とフォローを入れてくれる。それがまたさらに居た堪れなさに拍車をかけている。
 一体どうしたら良いんだと悶えまくって数分。どうにか呼吸を落ち着かせたロマーノが何とか体勢を立て直した。
「……馬鹿弟から聞いたことは忘れてくれ」
 何とか絞り出せた言葉はそんな情けないものだ。それでも日本は汲んでくれて、ええもちろん、と謎に力強く頷かれた。
 何だかその話をしているだけで三日分ぐらいの体力気力を使い果たしたような気になっていたが、日本の本題はこれからだった。何と前振りだけでロマーノは動揺し、ひとりで暴れまわっていたのである。
「あー……その、それで。スペインがどうしたって?」
 些かげっそりしながら訊ねると、こほん、とわざとらしい咳払い。彼の方も切り替えてくれるらしい。
「少し横道に逸れましたが、今日の本題はスペインさんの記憶喪失のことです」
 ようやく話に集中すると、日本も真面目な顔で切り出した。
「感情の負荷が高まったことが原因かもしれません」
「……どういうことだ?」
 問うた声が震える。思いがけない言葉が出てきて、とても嫌な予感がしていた。
「普段の生活の中でも頭が真っ白になると言うことがありますよね。緊張をしている時や驚くような事故に遭遇した時に起こるものです。
 原理はそれと同じことなんですが、スペインさんの場合は更に高い負荷、通常ではあり得ないようなストレスがかかっていたのではないかと考えています。これはまだ推測ですが……、もしかすると今もまだその原因は解決していないのかもしれません」
 スペインから一番遠いような単語が出てきた。それなのにロマーノの動揺は落ち着かない。
「そんな、まさか……スペインが? ストレスって……らしくもない」
 自分に言い聞かせるようなものになってしまった時点で知れている。ロマーノは知っているのだ。明るくて陽気でいつも騒々しいスペインだって小さな闇ぐらい抱えている。それは誰もが持つものであり、しかしその孤独や悩みを他者が完全に理解することは叶わない。
「なんで、そんな……」
 記憶を手放したくなるほど彼を悩ませていたものは何だったのだろうか?
「私たちは国として起こることに関して強いストレスを受けません。耐性があるのか、あくまで我々の内側で起こっているものだからなのか、あるいは本質的に何かが違うのか……原因はわかりませんが、例えば凄惨な戦争であっても国がPTSDになった例は聞いたことがありません」
「…………」
「だからこれは想像ですが……スペインさんの、何か個人的なことではないでしょうか」
「個人的なこと……」
「国とは関係のない個人的な出来事が記憶を失った原因かもしれません」
 それほどまでに彼の心を捕えているものがったのか。そう思い至って一番最初に感じたのは嫉妬だった。自分の決死の告白は笑い飛ばされて終わったのに、この世界にはスペインが記憶を手放さざるを得ないほど執着しているものがある。それは人なのか、ものなのか、場所なのか。何かはわからないが彼の感情に密接に結びついているものらしい。
「このまま記憶が戻らないかも……って、あいつの上司も言ってた」
「そのようですね。私もはっきりしたことは言えません。原因がわかれば戻るとも断言はできないんです」
 スペインが記憶を失って三ヶ月。彼の記憶喪失についてはいよいよ手詰まりが見えてきた。スペイン自身が普段通りにしていることもあり、徐々に始めている仕事のほうもあまり支障がなかったと聞いている。だから周囲も記憶が戻らないままやっていくことを考え始めていた、ちょうどそんなところだった。
 ロマーノにしてみれば、そのほうが今の甘い夢をずっと見ていられる。都合が良いのは記憶がないスペインだ。
 だって彼には記憶喪失になるほど大切にしているものがあるのだ、本当は。その事実に胸がぎゅうっと締め付けられて苦しくなって。それから冷静になってようやく、不安が込み上げてきた。
 彼の許容量を超えるほどの感情の高まりに脳が耐えられなくなり、記憶を手放すことで均衡を保っているのならば、次に彼が犠牲にするのは何か。
「その原因がまだわかっていないなら、それってつまり」
「現実を遮断しようとするのかもしれないし、感情を手放そうとするのかもしれません。それが何かは誰にもわからないんです。しかし何かが起こってからでは遅い。だからロマーノ君にだけは先にお伝えしようと思って来ました」
 それもそうだ。いつも当事者以外は冷静で客観的に状況を把握している。ロマーノがスペインに一途な片想いをしていることぐらい皆知っている。その上で記憶喪失になった彼の元へと通っている話を聞けばイタリアの祖父のような顔をしている日本が心配してくれるのも当然だった。
「ロマーノ君ならスペインさんの記憶喪失の原因がわかるはずです」
 真摯な眼差しに晒される。その強さに逃げ出したい気持ちでいっぱいになっていた。
 
  
 
 
 四、
 この世界において、ロマーノにできることなどたかが知れている。産業とかいうやつには乗り遅れたきり未だに上手くできないし、昔から手先が不器用で絵も貿易もからっきしだ。かと言って掃除や洗濯はどうかと言えば、こちらはもっと酷い。唯一人並みにできるものなんて料理ぐらいのものだろう。
 それに対して何かを頑張ったところで報われることはない。期待した分だけがっかりもする。だから初めから無駄な労力をかけないようにサボることを覚えた。それで人に怒られようと、自分の無力さを突きつけられて嫌な気分になるよりはマシなのだ。
 だからロマーノにとって怠惰と言うものはわりと理に適った状態である。

 でもまあ、そうは言っても何もしないでいるわけにもいかねぇよな。特に最近は怠けすぎていたし……。

 ここのところの記憶を思い返してみても、上司や弟から任されていることを放り出してスペインとの恋愛に浮かれていたことしか思い出せない。彼に連れ回されるまま遊び呆けて、スペインの記憶喪失のことにも向き合わず、あげくヴェネチアーノに呆れられるぐらい盛大にノロケて……。

 ヴォアアアア…………。

 駄目だ。これでは言い訳のしようがない。とにかく恥ずかしいし、思い出す度に体中をかきむしってゴロゴロと転げ回ってしまう。もしも過去を変えられるのなら、数週間前の自分を叩き起こしに行きたいところだ。
 だが、残念ながらロマーノにはタイムリープの能力はない。なかったことにはできないのだから、せめてこの羞恥心を紛らわせられることをするしかない。名誉挽回……そのために奔走したところで何かが好転するとは思えないが……、このまま羞恥に悶ていても傷を広げるだけなので。
 つまり、とにかくスペインの記憶喪失を何とかする。せめてそのフリだけでもしないことには話にならないのだ。
「で、ここがお前と昔よく来た市場」
「ふうん……」
 きょろきょろとあたりを見回しているのは物珍しさからではないだろう。眉間にしわを寄せながら記憶を掘り返そうとしているが、反応は芳しくなかった。
「何か特別な市場なん? 見た感じは普通っぽいけど」
「昔住んでいたのがこの近くなんだよ」
「えっ今の家と違うん?」
「あー、あそこは俺が出て行った後に引っ越した家だ。前のとこはだいぶ部屋を持て余してたみてぇだし」
 正確にはイタリアが統一する前、ロマーノが一時的に家を出ていた時期だった。そろそろ一人暮らしをしてみないかと上司から持ちかけられて、別々の家で暮らすようになったらいつの間にか引っ越していた。どうもスペインはすぐにロマーノを呼び戻すつもりだったようだが、結局そのままイタリアは統一、それ以来、ふたりは共に暮らすことはなかった。
「ロマーノが出て行った時かあ。……きっとすごいショックやったんやろうなあ」
 思い出せない過去に思いを馳せて良い感じのことを言っているスペインには悪いが、あの当時のスペインは特にショックを受けている様子もなく、至っていつも通りだった。そう、いつも通りトンチンカンだったのだ。長年暮らしてきた家を離れることに寂しさを感じているロマーノの感傷を吹き飛ばすようなズレた言動。おかげでホームシックを感じることはなかったが……。
「そん時のほうが記憶なくなってもおかしくないのになあ」
「いや、あん時は何ともなかったんだよ。お前ピンピンしていたし。だから最近、そんなもんじゃねぇようなでっかいことがあったはずなんだ」
 ぽぽぽぽ。気の抜けた効果音が聞こえてきそうな間の抜けた顔で、そうなんかあ、とスペインがぼやいている。
 その姿を見ていると何だか脱力してしまって、それ以上の追及も有耶無耶にしがちなのだが、今回ばかりはそれで引き下がるわけにはいかない。ロマーノの名誉もかかっているし、それに放置していればスペインに何か問題が起きるかもしれないのだ。
「なあ、本当に何の心当たりもねぇのかよ。日記とか手帳とか書いたりしてなかったのか?」
「もしかして俺ってそういうのマメに残すタイプやったん?」
「…………」
 自分で言っといて何だけど、ないな。
「でもそれっぽいとこ探したけど、何か手がかりになりそうなもんなかってんなあ」
 うーんと唸っている。嘘を言っている風にもごまかそうとしているようにも見えないから本当なのだろう。
 記憶喪失になってからずっと当事者のわりに特に深刻になることもなく、むしろ肩の荷が軽くなったとばかりに振る舞っていたスペインだったが、日本から聞いたことを伝えると多少は真面目なことだと感じてくれたようで最近は記憶を取り戻すことにも取り組んでくれている。
 あいつようやくこのまま放っといたらあかんって気づいたみたいやわ! と喜ぶスペインの上司がロマーノを褒めてくれたのだが、おかげでなけなしの罪悪感が刺激されている。
 まあ、もう思いつくことは全部試してみねぇとな……。
 と言うわけでスペインとの思い出の土地を巡っているのだが。
「ちゃんと解決せぇへんとまたロマーノのこと忘れてまうかもしれへんし、俺も何とかしたいんやけどなあ」
 しかしスペインがそれを何とかしてロマーノのことを思い出すと、恋人じゃないこともバレてしまうわけでいろいろ複雑だ。
 いや、もうそんなこと言っている場合でもない。
「俺のことだけじゃなく何もかも忘れてるんだよ。お前本当に俺の言ったことわかってんのか?」
「わかってるって! せやからこうして遠くまでお出かけして、思い出巡りしてるんやんか! 今まではわりと何とかなっとったから、あんま気にしてもしゃあないかなあって思ってただけやって」
 さすがのポジティブ思考。そのお気楽な口調に呆気に取られ、次に呆れ、最後には少し頼もしく感じてしまった。
 そう、こういう時のスペインはある意味頼もしいのだ。普通、ストレスが原因で記憶を失ったのかも、このままだと他の問題が起こりかねない、でも何が起きるかは誰にもわからない、なんて不明瞭なのにやたら不安を煽ってくるようなことを言われれば多少なりとも不安を感じるところだが、スペインは気にした様子もなくいつも通り飄々としている。お気楽と言えばそうだし、底抜けに陽気で明るいとも言える。その分、細やかな機微には鈍感だが、思い詰めて憂鬱にならないところが良い。
「はー本当に何が原因なんだ、ちくしょーめ」
 自惚れるわけではないが、スペインの言う通りロマーノの独立は彼にとってそれなりに大きな出来事だったはずだ。大事にされていたのもあるし、情勢としてもその後いろいろあって大変だった。
 しかし、それでもあの頃のスペインは笑っていた。ふにゃふにゃとズレたことを言ってロマーノを呆れさせつつも、笑顔で独立して行く子分を見送ってくれたのだ。
 あれですら何のダメージも受けない男が、一体何のために記憶を失ったのか。
 気にならないと言えば嘘になる。どうしてもそれに嫉妬する気持ちもあるし、知りたいとも思う。スペインが執着するものの正体を知れば絶対に苦しむとわかっているのに、無関心を装えるほど割り切れてもいないのだ。
 これでスペインのことは諦めていたなんて、よくもまあ言えたものだ。
 それとも一度恋人になって甘い夢を見てしまったせいで高望みをしているのだろうか。

 その後もスペインとロマーノの古い記憶を辿る旅は続いている。ふたりで思い出の場所を訪ねたり昔の話をしたりして、過去をなぞっていくと感傷的になるのはロマーノのほうだ。
「お前は昔っから空気が読めなくて鈍感なスペインこのやろーだったからな」
「えーそうなん? ロマの話聞く限り、昔っからロマーノのことが好きで大事にしとったんやなあってのはわかるけど」
「は、はあ!? 今の話にそんな要素なかっただろ!」
 勝手に話を盛ってんじゃねぇよ、とぎゃあぎゃあ喚いても、何が楽しいのかスペインはニコニコと笑っている。この何でもわかっているような顔は最近身につけたものだ。遂に記憶を失ったスペインが、以前の彼と同じようにロマーノを見るようになってきた……。
 それにひやりとさせられるのも束の間、ぴったりと体を寄せてきて腰に手を回してくるところが今のスペインだ。
「あったよー! なあなあ、もっとロマーノの話聞きたいなあ。俺らのラブラブなやつないん?」
 期待に満ちた目を向けられても、そんなものはない。ロマーノのほうから所望したいぐらいだと言うのに……。
「お前なんかとそんな話あるわきゃねーだろ。電話なのにバラ咥えてカッコつけたせいで血まみれになったりしてたんだぞ」
「えっ何それ!」
「俺が聞きてぇよ、そんなの……」
「嫌やー! もっとカッコええのがええわ!」
「そんなもんねぇよ! 数百年一緒にいても見たことがねぇな」
「えー何それ、ひどいわあ」
 効果はいまひとつだ。昔と同じやり取りを仕掛けてみても何の反応もない。これがドラマや映画なら、何らかの兆候が出てもおかしくないのに……。
 そもそもいくらロマーノのことを好きだと言ったって、それで解決するような問題ではないのかもしれない。もしくはあまり考えたくないが、そこまでロマーノのことを好きではないとか……。
 浮かれまくっていたロマーノとは違い、スペインはちゃんと自立している。記憶がないなりに仕事を始めて、すっかり忘れてしまったことを一から覚え直したのだ。そんな彼が異変を来たすほどのストレスを感じていたのなら、やはり並大抵のものではないのだろう。
 ロマーノもただ手をこまねいているわけではなかった。イタリアからアルバムや昔の手紙まで持ち出してもみた。
「意外と俺の手紙って普通なんやな」
「どういうのを期待したんだよ」
「いやあ……もっと愛の言葉とか書いてんのかなあって」
 さすがに自分で言って恥ずかしくなったのか照れくさそうに笑って、いややっぱなし! と両手をひらひらさせている。
 自分で照れるのはやめろと言いたい。
 つられてロマーノまで顔が真っ赤になった。
「そ、そういうのは……なかったな」
「そか……うん、そうやろな! 俺もちょっとおかしなこと言ったわ、ははは」
 から回る声が余計に気まずさを助長する。何だろう、確かにそういう関係を求めていたが、実際に甘やかな雰囲気になると居た堪れなくて恥ずかしくて逃げ出したい。恋愛って、こういうものなのか……。
「うーん、でも全然わからへんな。続きはちょっと休んでからでもええ?」
「おう、どうかしたのか?」
「あ、いやあ」言いにくそうに頬をかきながら、「無理に思い出そうとするとちょっと疲れるねん。少しだけシエスタしてくるわあ」と笑った。
 なるほど、そういうこともあるのか。全然気づかずあちこちに連れ回してしまっていた。
「そうだったのか。悪い……」
「ほんまにちょっとだけやから! それにアルバムとか手紙見れて良かったわ」
 パッと笑った顔は確かに嬉しそうだが、良く見れば確かに顔色が悪い。
 スペインは自分のことを親分と言って憚らないだけあって、滅多なことではロマーノの前で弱った姿を見せない。ふざけた態度で煙に巻くのが得意で、ちょっとやばいかも、と言い出した時は本気で切羽詰まっている。
「一時間だけ寝るわー」
「起こしてやるよ」
「ロマーノも一緒に寝る?」
「今眠くないからテレビでも見てる」
「そか、ほなおやすみー」
 少し焦りすぎていたのかもしれない。
 ロマーノはここにきてようやく、この件が長期戦になるかもしれないと覚悟したのだった。それはスペインのことを思えば心配だったが、ロマーノの個人的感情で言えば恋人でいられる期間が長引くということだ。
「…………」
 しかしこの頃はそれも手放しで喜べなくなってきている。何てことはない。正気に戻ればこの現実は深刻なものなのだ。彼との色恋に溺れるには事態が重すぎる。
 
 
 
 
 
 ところでスペインと恋人同士ということになってから変わったことはいくつもあるが、その中でも一番大きな変化は遊びに行く先だろう。選択肢が今までの食事処だけではなく、サッカー観戦や話題のアミューズメント施設、近場のハイキングスポットと広がった。いずれも活動的なスペインらしい場所ばかりだが、行けば周りがカップルだらけで何となく居心地が悪い。
「おい、スペインっ! なあ、本当にここ男同士で来て良いところだったのかよ」
 今日はフランスが鳴り物入りで主催しているスイーツショーへと来ていた。味だけではなく見た目の芸術性に力を入れていて、国際的に幅広く募った各国の有名パティシエ・パティシエールたちが一堂に会する。
 スペインは大丈夫だと言っていたが、あたりを見渡す限り女性同士のグループかカップルしかいない。それもとびきり甘ったるい、スイーツな恋人同士だ。
「ん? 大丈夫も何も俺たち以外にも男同士で来ている二人組ならいっぱいおるやろ?」
「お、男同士だけどカップルじゃねぇか!」
「あはは、何言うてんのー! 俺たちもカップルやんか」
 けれどその気まずさを感じているのはロマーノだけらしい。スペインは周囲の様子など意に介した様子もなく飄々としている。

 そ・れ・が・問・題・な・ん・だ・よ!!

 胸の内では大絶叫だったが、まさか口にできるわけもなく言葉を呑み込むとぐぅっと喉が鳴った。そのまま黙り込む。
「フランスいわくおもろい催し物があるんやって!」
 にぱっと笑って肩を抱き寄せてくる。幸いその手付きは親しい友人同士で抱き合うような気安いものだったが、耳元で囁く声はいつもよりも少しトーンを落としていて、その掠れた声音に思わず体が強張る。
「何やろなあ。ロマーノは? あいつに何か聞いてへんの?」
「あっ……あいつとは、その……そんな仲が、良いわけじゃ……」
 しどろもどろになってしまうのは頭の中が真っ白になっているせいだ。
 何せ近い、とにかく近い。何がって顔が、吐息が、声が。恋をしている相手に頬が触れ合う距離まで引っ付かれて平静を保てるわけがない。顔どころか耳まで赤くなっているだろう。そんな自分が恥ずかしくて逃げ出したいのに、ぴったりと引っ付いたスペインは肩を抱き寄せる手を離してくれない。
「そうなんや? フランスはロマと会えるの楽しみやーって言うてたのに」
「む、向こうがどう思ってんのかは知んねぇけどっ! 俺は苦手っつーか、とにかく好きじゃねぇんだよ」
「ふうん……」
 何かを考えるように小首を傾げているが、そのうち勝手に納得したようで勝手に頷いている。ふんふん、そうかあ、そうなんやあ。それがどこか嬉しそうなのがどうしてかはわからなかった。
「っつーか、そんなことジョーシキだぞ! 当たり前だろ、誰があんな髭野郎なんかと会うのを楽しみにするかっつーの」
「えー何それ、ロマーノの基礎知識?」
「まあそんな感じだ」
「そっかあ。うーん、やっぱ思い出せへんなあ……」
 スペインの記憶は相変わらずで、調査の行方も進展なし。引き続き中国は忙しいらしくスペインとは会っていないらしい。
「あっ! なあなあ、あっち行ってみよ!」
 ロマーノの表情が曇ったことに気づいたのだろうか。突然声のトーンを引き上げたスペインが、遠目に何やら興味を引くものを見つけたらしくロマーノの手をぐいぐい引っ張る。ちょっと待て! と騒ぎながらも当たり前のように繋がれた手は温かく、指と指を絡めるように握りしめられて文句が喉の奥に引っ込んだ。初めて手を繋がれた時と変わらない力強く優しい手のひら。あれから何度も触れているのに、未だにドキドキしている。
「これこれ! イタリアのお菓子やろ?」
 スペインが立ち止まったブースに視線をやると馴染みのある菓子がショーケースに並んでいた。
「ああ、カンノーロか。そう言や最近よくあちこちから声がかかっているって言っていたな」
 素朴な伝統菓子だが、食べやすいサイズとアレンジできるところが良かったのか、最近になって地元だけではなく海外の催事にも呼ばれるようになってきている。このスイーツショーでも色とりどりのフルーツやチョコソースでトッピングした可愛らしいものが出展されていて、そこそこ盛況のようだった。
「ってかよく知っていたな。俺持って行ってやったことあったっけ?」
「こないだ仕事でイタリアに行った同僚が買ってきてくれてん! 美味かったで!」
 さすがロマーノのとこのお菓子やなあ! と何の衒いもなく言う姿に、ぐぅっと喉が引き絞られて言葉が詰まる。この天然で人のウィークポイントに蹴り込んでくるところも相変わらずだ。いっそわざとであってほしい。
「そっ……そうかよ」
 ふんと鼻を慣らして動揺をごまかすが、あからさまな反応をしてしまった。きっとバレているだろうとスペインの顔を見ると、
「そうやねん! ロマーノに会えへん時でも身近に感じられるのすごいやんなあ!」
 ときた。
 その悪意のないニコニコとした笑顔ときたら。人の気も知らないで、でも俺お前のそういうところが……まあ、うん。
 やっぱりスペインのことが好きなんだよなあ。
「……ロマーノが心配してくれてんのわかるけど、最近このまま何も思い出せへんくても何とかなるんちゃうかなって思っている」
 スペインが繋いだ手にぎゅっと力をこめた。
「今までの思い出がないのは残念やけど、これから作ってったらええし」
 小首を傾げて覗き込んでくる。
「今わからへん分、新しく知っていけるのも楽しいやろ」
「……」
「ロマーノ?」
 スペインにそれを言わせているのは何なのだろう。だってこのままじゃいけないのに……。
「せやからそんな悲しい顔せんとって」
 一体どんな顔をしているのだろう。記憶を失くしている当事者からわざわざ慰められるほど酷い顔なのだろうか。
 胸がぎゅうっと軋んで、目の奥が痛くなった。そのままスペインの顔を見つめていたらいろいろなものが溢れてきそうで、歯を食いしばって堪える。
「……あ、何かあっち集まっているぞ」
 だから強引に話をすり替える。先ほどのスペインがカンノーロを見つけたのと同じ。そういうところばかり似てしまった。
「フランスの言っていた面白い催しってやつだろ。行かなくて良いのか?」
 指差す方向にどんどん人が集まっていく。スペインはそれを見やって、ロマーノへと視線を戻す。何度かそれを繰り返してから何かを考えて、軽く深呼吸。結局彼はそれ以上追及してこなかった。
「……ん、あっち見に行こか」
「うん」
 先ほどまでの明るくはしゃいだ声とは打って変わってお互い沈んだものになったが、繋いだ手は離されなかった。ロマーノも振りほどかない。
 人波はお祭り騒ぎの中心に向かって渦を作り、その流れはどんどん速くなっていく。ごちゃごちゃとした人ごみの中で少しでも離れれば見失ってしまいそうだ。
 人だかりの真ん中ではフランスがマイクを握って注目を集めていた。

 ○

 ロマーノは走っていた。走りながらスペインのことを考えていた。
「ちぎー! フランスのやつ、あいつ……っ! ヴァッファンクーロ!! っぐ、っはぁ……だー! もうっ何でも良いからこんなの止めろちくしょーこのやろー!」
 口ではフランスへの罵倒を忘れず、子どもの頃から聖書の一節を諳んじるよりもスムーズにポンポンと飛び出てくるスラングで一頻り貶めてやったが、何せ当の本人には全く効果がないのでこんなところに体力を使っている場合ではない。
 だんだん酸素が足りなくなってきて、脳のほうは働きが悪くなってきている。じきに何の悪態も出てこなくなるのだろう。
 もうかれこれ五分は全力疾走を続けているのだから当然だった。
 そうなってくると僅かに働く思考は全部スペインに向けられる。後ろから追いかけてくる男のことをロマーノはずっと考えていた。
 しかしよくもまあ逃げ出せたものだ。我ながらあの一瞬の反射神経はなかなかのものだったと自画自賛する。とは言え短期決戦なら逃げ足の速さでロマーノの分があるが、そもそもの鍛え方が違う。徐々にスペインとの距離が縮まっているのは気のせいじゃない。
「ロマっ!!」
 彼らしくもなく切羽詰った声、真面目な顔。見たこともないぐらい真剣なスペインが追いかけているのは間違いなくロマーノで。
 いや、確かに片想いをしている。追いかけるよりも追いかけられるような恋がしたいと願ったことだってもちろんある、そりゃあある。あの飄々としていて掴みどころがないスペインが自分のために一生懸命になっている姿が見てみたいよな、なんて、甘ったるい夢想をすることすら億劫な程度には望みのない片想いではあったが、全く考えたことがないとは言わないさ。ロマーノにだって願望ぐらいはあった。
 でもこれは違う。そういうんじゃない。
「何でっ、逃げるん!」
 スペインがこわいからだよ!
 
 
 
 事の経緯を説明しよう。
 あの人だかりの中心へと向かって行くと、なぜかマイクを握ったフランスに舞台へと上げられた。舞台にはスペインとロマーノだけではなくカップルが何組かいたので、あのフランスの持ち込み企画とは言え彼も一般人相手におかしな真似はしないだろうと少し警戒を解いたのが悪かった。
「はあい、みんなのお兄さんだよー! みんなー楽しんでるー? はい、盛り上がってくれているみたいだね。お兄さん嬉しいーはははっ。さーて今日はこの素晴らしいスイーツショーのためにあまあくて素晴らしい余興を用意したんだ。その名もカップル対抗! チキチキ☆暴露大会リアル鬼ごっこー!!」
 よく考えずとも、この時点で既に駄目な雰囲気はあったのだ。
「ルールは簡単、壇上に上がってもらったカップルの皆さんにはリアル鬼ごっこをしてもらう! 捕まったら相手に隠している秘密をひとつ暴露すること。ちなみに暴露する内容はーお兄さんが把握しているから適当なことを言ってごまかしちゃダ・メ・だ・ぞ」
 壇上に上げられたカップルの内、半分は見事に固まって、残り半分は何のことだと首を傾げている。その反応でどちらが鬼役なのかわかるほどはっきりと分かれた。
「へ、は?!」
「はい、ロマーノ良い反応〜相変わらずポーカーフェイスができないんだねぇ」
「え、何なに? どうかしたん?」
「隠し事があるほうが逃げる、捕まったら暴露する。簡単だろ? だって何を知られたくないかは自分が一番よくわかっているもんね?」
「なっ、は? 何言って……っ」
「ちなみに自分から暴露できなかった場合、こっちで用意した答えを書いたカードを渡すからね〜」

 何でっそんなことお前が知ってんだよー!!

 隠し事を持つカップルの片割れたちを代表してロマーノが叫ぶ。それが決め手となって観客がわあっと湧いた。仕込みではなく本気だと感じ取ったらしい。
「制限時間は十五分! その間、恋人の秘密を知りたい鬼は頑張って追いかけろ! ま、知りたくなけりゃそのへんでぼうっと突っ立って過ごしなさいよ」
「……え、ほんまにどういうことなん?」
「さあ一斉にスタートするよー! 位置についてーよーい……」
「なあ、ロマーノ? フランスの言っている意味わか」
「ドン!」
 未だに事態を飲み込めていないスペインが振り返ると同時にロマーノは一目散に駆け出していた。観客の様子から察するにロマーノ以外の秘密を抱えた恋人たちは全員そうしたようだった。盛り上がる人波を掻き分け、逃げる者たちは必死だった。その様子と下世話な好奇心が会場をヒートアップさせている。
 これだけあからさまなら誰もが思うだろう。今走って行った彼らがどんな秘密を抱えていて、それが恋人に知られたらどうなるんだろう、と。
 また、鬼役たちが一様に事態を飲み込めず呆然としているところもリアルで良くない。野次馬たちからすれば余計に反応が見てみたくなるのだ。
 傍観者から見ればちょうど良い塩梅のエンターテイメント。別に知られたところで死ぬわけじゃない。ただひとつの恋が終わるかもしれない、瀬戸際。程良い緊張感。話題の燃料にさせられているほうからすれば堪ったものじゃない。

 相変わらず悪趣味な野郎だっ!

 悪態だけならいくらでもつけると思った。さすがに十五分走り通しで言い続けられるほどではないだろう。それでもフランスを罵らずにはいられない。
 置いて行かれたスペインは何が何だかわからないと言う風ではあったが、とりあえずロマーノに聞くしかないと思ったようで、わけもわかっていないくせに追いかけて来ている。
「なー! ロマーノー! フランスの言うとった秘密って、なにー!?」
「うっせっ、ちくしょー! お前には関係、ねーよ!!」
 大ありだ。大ありの上にフランスが掴んでいるのは間違いない。
 だって彼は知っている。スペインが記憶喪失になっていることも、記憶を失う前はロマーノと付き合っていなかったことも、記憶を失くしたスペインがロマーノとずっと恋人同士だと勘違いをしたことも、全部。
 ロマーノが何をスペインに暴露したくないのか、わかってこんなことを仕掛けてきているのだ。本当に良い趣味している。
 でもなあ……だからって何もこんなタイミングで自分から言わせなくたって良いだろうが、ちくしょう!
 
 
 
 
 
 ここのところずっとスペインのことばかりを考えていた。
 彼の家の庭に気まぐれで植えたひまわりのこと、お互いに馴染んだコーヒーの味、一緒にいると落ち着く空気感。全部、スペインと過ごした長い長い年月がもたらしたもの。ロマーノだけが得たものではなかったはずだ。スペインも同じように感じているはず。だってふたりはそれだけの日々を共有してきた。それだけの時間、お互いに愛想を尽かすこともなく一緒に暮らしてきた。
 どうしてそれをただ愛おしい日常としてそっとしておけなかったのだろう。
 もうこの際、内心はどうであっても良いから、せめて表面上だけでも今まで通りで過ごせただろうに。均衡を壊そうとしてしまったのだろう。
 告白したあの日からずっと後悔している。
 スペインが注いでくれている愛情と同じだけのものを、同じように返せれば良かった。なのにロマーノは素直じゃなくて卑屈で、ろくに愛情を返せていなかった上に別のものまで求めてしまい、あげく傷ついて顔を合わせることもできなくなっていた。

 それなのに、だ。
 彼がそういうつもりで触れてくるのが嬉しかった。
 ロマーノに会いたい、さみしいと訴える姿に優越感を感じていた。
 ロマーノのことを何でも知りたがるスペインは新鮮だった。
 甘くささやかれるとドキドキした。

 馬鹿みたいだけれど、やっぱりロマーノはスペインと恋がしたかったのだ。それもロマーノばかりが一方的に追いかけて振り回されるものではなく、不安を感じる暇もないほどスペインで埋め尽くされるような、そういう恋愛が例え一時的なものであっても浸っていたかった。
「……っ、く……ぅ、うぅ、えっ……っふ、うぅうう」
 涙が次から次へと込み上げてくる。駆ける足は止めないので目尻からあふれ出した涙は風に流れて宙へと散っていく。
 呼吸が乱れている上に嗚咽を抑えようとしたせいで呼吸困難だ。頭に酸素が足りていない。もう訳がわからない。どれぐらい走り続けているのだろう。いつの間にか周囲に人がいなくなっていた。周りにブースもなく、会場の中心から随分外れているようだ。
 他のカップルは鬼が追いかけるのをやめた者、あっけなく捕まってしまった者ばかりで、残っているのはロマーノたちだけだった。彼らは知る由もなかったが、会場の中心、フランスがマイクを握る舞台の上では遂に秘密を明かした恋人の過去も全てを受け入れた鬼からのプロポーズが行われていて、観客たちを感動させていた。
 そんな中でロマーノだけが走り続けている。
 体力はとうに尽きていて足取りはヘロヘロと蛇行し、立っているのもやっとの体でスペインに捕まるわけにはいかないと、それだけを考えている。
「う、うぅ……ぐ、っふ……ぅう」
「っは、ロマ……っ、つっかまえた!」
 スペインの腕が胴に巻き付いてきて、そのまま抱きしめられた。びくんっ、と肩が跳ねて体が強張り、次には往生際悪く藻掻いたが、一度捕まえたロマーノを離すまいと腕の力が強まる。
「も、逃げんとって」
 耳のそばで息を荒げながらどうにか絞り出す。その声にいよいよ逃げ切れないのだと悟った。
「うっ、うぅ……うわああああ」
「わ、わ! ロマ、ちょ、泣かんとって……!」
「わああああ、あああああああ」
 人目も憚らず大声を上げて泣き出したロマーノにスペインが狼狽えている。その動揺が余計にロマーノの涙腺を刺激した。もう駄目だ。何もかも終わった。
 酸素不足の脳と、感情のオーバーヒートで振り回され続けた疲労と、最近のほんの少しの寝不足。
 それらが一気に爆発してネガティブな想像が暴走している。おかしな方向に触れた思考はロマーノの理性を置いてけぼりにして、ロマーノ自身が思ってもみなかった道をひた走る。
「スペっ……すぺ、イン……っ! ん、かきらいだっ、ちくしょー!」
 わあっと子どもみたいに泣いて喚いて暴れて。そんなロマーノを腕の中に閉じ込めた男は途方に暮れた様子で何とか宥めようとしてくる。
「だ、大丈夫やから。な? ロマ、落ち着いて……」
「お前なんかっ何がわかんだよ!」
 一度暴走した感情は止まらない。自分でも何を言っているのかさえわかっていない。

「なんで、なんで記憶ないくせに、俺と恋人だったなんて勘違いしてんだよ、ばーか! ハゲ! んなわけねーじゃんっ! なんでだよ、それっ忘れる前は全然気づいてくんなかったくせに!」

 こんなに悩んで泣いて苦しんでいても、記憶喪失にはならない。
 あの告白をした日からずっとスペインを避け続けている間でさえロマーノは何ともなかった。いつも通りに腹が空いて、ヴェネチアーノに呆れられ上司に叱られダラダラと仕事をし、夜になれば眠くなり朝がくれば目が覚める。
 今だってそうだ。慣れない全力疾走で頭の中がぐちゃぐちゃ、言いたくないことを言わせようとする連中のせいで感情が引っ掻き回されている。
「勘違い……? って、俺が……?」
 スペインが呆然としている。ああ、もうダメだ。何もかも終わりだ。
 ロマーノが一番執着しているスペインが危険な目に遭うかもしれないし、スペインに本当は恋人じゃなかったことがバレてしまう。この局面でもロマーノはやっぱり何もかもをちゃんと覚えている。彼と過ごした穏やかで愛おしい日々も、愛された記憶も、どうしたって手放せなくてしがみついている。
 つまりそれは記憶を失うほどの負荷ではないということだ。こんな悲しくて苦しいのに、それでもまだスペインが執着していたものには全然足りない。
「……ロマーノの秘密ってそれ?」
「っ……! そうだよっ! 俺たちは付き合ってなんかなかったんだよ! これで良いかよ満足か!! 何で、何で追いかけてくんだよちょくしょー!」
 八つ当たりも良いところだ。スペインのほうが怒りたいだろうに彼がちょっとでも口を開けばロマーノが何倍にもして言い返す。
「せやったらロマーノはほんまは俺のこと、好きちゃうかったんか」
「ちっげーばか! ハゲ! んなわけねーだろ俺だけがお前のことを好きだったんだっ! だってお前が俺の告白をスルーしたから、だから俺がずっと避けてたんだよっ! だからあの映画のチケットだって本当は別の誰かと行くつもりだったんだろザマーミロ!! お前が記憶なんか失くしたせいで俺と行くはめになったんだっ」
「はあっ?! 何勝手なこと言うてんねん! んなわけ」
「あったんだよ!」
 もう全部終わったと思ったら好き勝手に何でも言える。本当は映画に誘われたことが嬉しくて仕方がなかったくせに、こんな風に責め立てるような真似だってできるのだ。
 何て愚か。
「フランスに聞いてみりゃー良いじゃねぇか! あのカードに本当のことが書いてあるんだっ」
 言うだけ言って、うわあっとまた声を上げて泣く。そのカードを開けば今度こそ全部終わりだ。これだけめちゃくちゃにしておいて、今更それを実感して泣けてきた。
 子どもみたいに泣きじゃくるロマーノにスペインは暫く黙り込んでいたが、やがて口を何度か開け締めして小さな声で呟いた。
「…………な、……やんか」
 すぐそばにいるロマーノでさえ、自分の泣く声でほとんど聞き取れないようなものだった。それに気を取られて一瞬泣き止む。
 と、その隙を突いたように今度はスペインが声を荒げた。

「……やって記憶がちゃんとあったらお前のこと好きになられへんやんか!!」

 目をまんまるに見開くロマーノの瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ち、地面にぱたたと落ちていく。スペインの声は震えていた。
「あんな、小さい頃から面倒見てきたのに、ずっと親分やって言ってたのに、お前に告白されたからって喜べるわけないやろ……っ!」
「なに……言って…………」
「俺がお前の告白スルーしたって? 何も知らんのはロマのほうやんか! あの後どんだけ悩んだと思ってんねん!! 記憶吹っ飛ぶぐらい考えてたんやで?!」
「へ、あ、え……おれ?」
 掠れた声だ。そう認識して少しだけ冷静さが舞い戻ってきた。
「……つーか、きおく、戻ってる?」
「ああもうわからへん、俺お前のことが全然わからへんわ……何やねん、好きって言われたんも傷つけんように明るく返したのにあれ以来ずーっと俺のこと避けるし、やのに記憶がなくなったらしょっちゅう会いに来るし」
「あれは、お前の上司に頼まれて……っ」
 大きく首を横に振りながら額を抑えて、やがて頭を抱えだした。
「見舞いって言うてるわりに近いし、俺のこと何でも知っているし優しいし。あんなん恋人じゃなかったらなんやねん……勘違いって何や、ワケわからへんわ」
「ちがっ、あ、あれは普通に接していただけだぞっ!」
「一回誰かに聞いてみ。あれが恋人じゃなく普通の距離感なんやったらおかしいで」
 何だと。
 いや確かにスペインとの距離が近すぎて冷やかされることは前々からあったが、それをスペインから言われるとは。だいたい長くいすぎたせいだし、スペインだって相当距離感がおかしいのだ。
「……あかん、」
「お、おれのほうがあかんわ! なんだよちくしょー! つーか記憶戻ってんだろっ!」
「ロマ、ちょっと声……あかんって」
「いつもいっつもはぐらかしやがって!」

 ちぎー!!

 と、叫ぶのとスペインが目の前でばったり後ろ向きに倒れるのがほとんど同時だった。意識を手放したスペインは頭にたんこぶを作る大惨事だったが、突然倒れられたロマーノは大混乱だ。悲鳴を上げて再び大号泣、やっと騒ぎを聞きつけたフランスが駆けつけた時には地面に倒れ込むスペインと、スペインに抱きついて泣きじゃくるロマーノという混沌的状況である。
「あちゃあ、これは思ったより荒療治になっちゃったのかねぇ」
 肩をすくつつ、とりあえずスイーツショーに差し障りがあってはいけないと担架を呼び寄せ、地面にうずくまるふたりを担ぎ出したのだった。

 ○

 結論から言えば、こういうことだった。
 ロマーノに告白をされたスペインは普通通りヘラヘラ笑っているだけに見えて、その胸中は嵐が吹き荒れていたらしい。解説を引き受けたフランスいわく、
「スペインもロマーノのことが好きなんだよ。ただそれが恋愛感情もあるし、今までの親分としての愛情もあって自分でも何をどう思っているかわからないぐらいカオスだったみたい」
 それでロマーノからの愛の告白を上手く処理しきれなかったのだと言う。
「いや、でもあいつ普通に間髪入れずヘラヘラ笑って、親分も好きやでー! って言っていたぞ」
「まあそれ、パソコンがアイコンクリックされたらアプリケーションを起動するみたいなもんだから。脳で処理する前に自動反射で反応しているんだろ」
「……あいつ、そんなことができるのか」
 パソコンもアプリケーションもよくわかっていないロマーノは理解しきれない例え話に、とにかくすげーんだな、ということだけを理解した。
「で、その後ロマーノが普通通りなら深く考えずに今まで通りでいるつもりだったんだろうけど、まさかのガチ反抗期だったじゃん。相当堪えてたよ」
 そのあたりの話がフランスに伝わっているというのが痛いところだ。スペインも積極的に相談したわけではないが、見ていればわかるぐらいの焦燥っぷりだったらしい。それでもロマーノに連絡する時だけは平静を装うとするから余計に痛々しかったとフランスは言う。
 思いがけず避けられて距離が空いたことで、今まで見て見ぬふりをしてきた自分の感情と向き合わざるを得なくなったスペインは、相当悩んで苦しんだのだろう。過度な負荷がかかった彼の脳は、根本の原因を“ロマーノと過ごしてきた数百年分の記憶”にあると考えた。それを手放すことで複雑に絡まり合った糸を解くつもりだったのか、あるいは抱えきれなくなったためにまずは記憶を捨てて、爆発的な感情の処理に集中しようとしたのかはわからない。
「まあでも見舞いにやって来るロマーノと記憶を失くす前から付き合っていたはずだって思い込むぐらいだからねーそれがあいつの願望だったんだよ」
「そうなのか……、って、は! 願望?!」
「そりゃあねーあの鈍感がだよ? ちょっと優しくされたぐらいでそんな発想になるわけないでしょ。記憶は失くしても感情はそのまま残っていたから気になっていたんだろ」
 そんなことしたり顔で言われても、困る。目を覚ましたスペインにどんな顔で接すれば良いのかわからなくなりそうだ。
 そもそもどんな顔で接すれば良いのだ。
 記憶喪失になっている間に付き合っていることになってしまったが、元々は恋人でも何でもなかった。上手い具合に記憶を失っている間のことを忘れていてくれたら良いのだが……。
「ま、これからもあいつのそばにいてやってよ。記憶を失くすしてでもロマーノのことが好きな奴だからさ。あんまり邪険にしないで」
「べつに、邪険になんか……」
「避けたり感情を疑うようなこと言ったり、そういうのが邪険って言うんだ」
 うぐ、と言葉に詰まる。反論する言葉も出ないとはこのことだ。ついこの間、恋に浮かれまくっていたことを反省したばかりなのに、今度は悲劇の主人公ぶって悲観的思考に浸りまくった上での大暴走……情けなくって嫌になる。
「とは言え、ロマーノばかりも責められないけどね。スペインも拗らせすぎだし」
 やってらんないとばかりに肩をすくめて、まるで舞台俳優のような大げさな仕草で部屋から出て行く。フランスの後ろ姿を見送って、ベッドへと視線をおとした。
 スペインが眠っている。医者の話では一時的な混乱による昏倒であって体に別状はないと言う。目を覚ましたら普通に起き上がって帰っても構わないとのお墨付きだ。
「…………」
 上掛けをそうっと掴んで、少しの逡巡。悩んで、そのままスペインの腹の上に頭を伏せた。穏やかな寝息が聞こえる。彼が目を覚めたら何て言おうか。
 
 
 
 
 
 
 記憶喪失と聞いていた。
「あ、ロマーノ! 今日も見舞いに来てくれたん?」
 今日もあの子が来てくれた。扉を開けると玄関先には可愛らしい鉢植えを抱えたロマーノが立っている。一見すると無愛想で口が悪いのだが、スペインの顔を見るなり嬉しそうに顔を輝かせて、けれどそれを表には出すまいと必死で真顔を取り繕っている、イタリアのとても可愛い子。
 彼はスペインの元子分なのだと言う。長く一緒に暮らしていたため、彼といれば何かを思い出すきっかけになるかもしれないと上司が言っていた。そのあたりの効果はいまいちわからないが、その采配には感謝したい。おかげで頻繁に家に遊びに来てくれる。
「べっつにお前のために来たんじゃねぇぞ! 馬鹿弟がうるせぇから仕方なく様子見に来てやっているだけだからな!」
 もはや一周回って素直すぎるのではないだろうか。人のせいにしているけれど、それに従ってわざわざスペインのところに見舞いに来てくれているのだ。
「馬鹿弟ってイタちゃんのことやんなあ……あ! ってことはイタちゃんも来てるん!?」
「……今日は来てねぇよ」
「そっかぁ……残念やなあ」
 ロマーノとヴェネチアーノが並ぶと可愛いの相乗効果で視界の幸福度が倍増するのだが、そうしょっちゅう見られないのが残念だった。イタリア兄弟、どちらも違った種類の可愛らしさがあるのはもちろん素晴らしいの一言だが、それ以外にも何と言うのか、このロマーノには絶対何があっても切れることのない家族がいるのだと思うとそれだけでぐっときてしまう。
 ありがとう、イタリア兄弟の祖先様!
「ふん、悪かったな、馬鹿弟じゃなくて。これはあいつからだ。ありがたく受け取れよ」
 悪態をつきながら鉢植えを突きつけてくる。何だ、この可愛いいきものは。
「花?」
「デイジー。今は覚えてないんだろうけど昔から好きだったんだよ、お前」
「そうなんや……」花とロマーノを見比べると納得のチョイスだ。「うん、でもそんな気がするわ。ありがとうな」確かにデイジーはロマーノっぽい。
 鉢植えを受け取りながらロマーノを室内へと招き入れ、ふたり並んで廊下を歩く。ぴょこぴょこと揺れるくるんとした毛が可愛くて、スペインが猫ならば飛びついているところだった。
 幸いスペインは人間の見た目と理性を持つ国家だったので、会話で構い倒すに留める。
「そろそろ仕事始めようかと思ってて。上司から仕事しているうちに何か思い出すかもって言われてんねん」
「あー、そりゃ体良くこき使われてんだよ」
「やっぱそう思うー? 言い方も全然気ぃつかってくれてる感じとちゃうねん。ほんま人使い荒いわ。それにいきなり資料整理しろってめっちゃ本送られてきてなあ……あれどないしようかな」
「本はどこに置くかわかったか? 書斎はリビングの奥の部屋だぞ」
 当たり前のように告げられるスペインの家の間取り。むしろ世界中の誰よりも俺が知っているんだと、それも傲慢でもなく当然のことのような態度のロマーノに、ここのところずっと感じていた違和感が疼き出す。
「ああ、うん」
 これ、ほんまにただの親分子分やったん?
「半分地下に潜っているから見つけにくいかもしんねぇけど」
「大丈夫、最近ようやく家に慣れてきてん」
 自分の家のはずやのになあ、あはは、と笑いながらも頭の中は目まぐるしく動いている。
 え、これ、何、何なん? ロマーノって、ロマーノって……もしかして。

 俺の恋人……?

 そうとしか考えられない。そう思うといろいろなことの辻褄が合うのだ。こんなにも親切にしてくれる理由も、しょっちゅう会いに来るのも、スペインの前ではとびきり可愛い顔を見せてくれるのも……恋人ならば説明がつく。
 何よりスペインもロマーノのことが可愛くて仕方がなかった。初めて会った時から心臓はドキドキしっぱなしで、よく顔が赤くなるのを抑えられたものだと自画自賛したくなるほど緊張していた。ロマーノと話すと脳の中心のところが麻痺してふわふわと浮いているような心地になるし、彼と会った日の夜は眠る直前まで興奮しっぱなしでロマーノのことばかり考えてしまうのだ。
 ぎゅっと抱えた鉢を抱きしめる。これは、記憶を失っている場合ではない……。
「とりあえずそれ窓辺にでも置いて来いよ。太陽の光を当てておいたら長持ちしやすいから」
 そう言って視線を逸らすロマーノが少しさみしそうな顔をしている。切なげに眉間に皺を寄せて、きゅっと引き結んだ唇。
 ああ……。
 ああっ!
 あかん、これは早急に何とかしなければ!
 とりあえずまずは鉢植えを何とかしよう。ロマーノに言われた通りリビングの窓辺に置いて手を自由にする。よしこれで大丈夫。いつでも泣きそうなロマーノを抱きしめられる。
 いやっ! 抱きしめるとか、そんなん! まだ早すぎるやろ!!
 いくらロマーノがスペインのことを好いてくれているとは言え、今のスペインには記憶がない。彼と過ごしてきたおそらくは宝物のような日々を何も覚えていないのだ。見た感じほとんど何も変わっていないように見えるとは言われているが、今まで付き合いのあった人間関係において、思い出というのはやはり重要なものである。
 だからまずは少しずつ距離を縮めていこう。もしかすると恋人のロマーノと過ごしているうちに何か思い出すかもしれないし。そうと決まれば話は早い。ロマーノに告白をしてもう一度恋人にならなければ!
 スペインの決意は固かった。ひとりで勝手にたどり着いた結論があまりに素晴らしすぎて、再検討の余地もなかったので行動も早い。思い立ったが吉日、すぐにやろう。ロマーノに伝えよう。
 そうだ、それが良い。
 だってあの子もそれを願っている。もう二度と悲しませはしない。ずっとそばにいて、今度こそ大切にするのだ。
 
 
 
 
 
「ロマー、ノ……?」
「……っ、スペイン!」
 どうしたんだろう、目を開けるとロマーノがいる。ロマーノは泣いていた。いつも目を眇めて皮肉屋の顔ばかりする彼が珍しくまんまるの目で涙をぼろぼろとこぼしている。
「泣かんとって……ロマー……ずっとそばにおるから、笑って」
 手を伸ばす。嫌がられるかと思ったがスペインの指先に頬を擦り寄せてきて、そのまま撫でさせてくれた。今日は優しい。それにいつも以上に可愛かった。
「夢を見ててん……」
「ゆめ?」
「うん。あんなあ、俺が記憶喪失になっとって。ロマーノがしょっちゅう見舞いに来てくれる夢」
 それでようやく気づいたことがあるんだけれど、聞いてくれる?
 そう訊ねたらロマーノは真っ赤な目を何度も瞬かせて、ようやくいつものようにぎゅっと眦を上げて笑った。
「しかたねぇから、聞いてやるよ!」
 この可愛い子に全部話し終わったら伝えたいことがある。

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