Lettera

SIDE:ロマーノ by ひさ

汚い文字なのは当たり前だが、その綴りすら読めない。
外に設えられたベンチは日当たりがよく、昼寝に最適な暖かさを用意してくれている。そして同じように日の当たる小さな机は、柔らかな頬に木目の跡をつけることはあるが、太陽の匂いをいっぱいに貯めた良い枕になってくれる。さぼり場所の中でもお気に入りのその場所、机の上に残された手紙が一枚。
柔らかい太陽、昼下がりの陽気の中、元は真白い便せんには歪な小枝を集めたような文字が上から半ばまで集められている。
書き手の行方を記すものではないようだったが、ロマーノはその手紙の向きを変えてみた。だがそんなことをしても読めるわけもない。こんな字を書く思い当たりの悪筆―とろくさい弟―が書いた言葉なのだから、本来ならばなんとなく読めただろう。だが”自分たちの言葉”でないこの小枝の集まりを読み解くことは、ロマーノにはできなかった。
便箋を手にとって太陽にかざしてみても同じこと。木炭はころりと机から落とされ、少し伸びた芝生の中に消えていった。
「ダメだよにいちゃん、それかえしてよぉ」
ててて、と声の主が駆け寄ってきたのでぱっと手紙から手を離すと、それはひらりと軽い風にのってヴェネチアーノの方へと飛んでいく。便箋は持ち主を愛しく想うかのごとく、その足元へと落ちる。ロマーノはバツが悪い気分を言葉で振りはらい、便箋を抱き上げたヴェネチアーノを睨みつける。
「こんなとこにすててったのお前じゃねーかコノヤロー」
「すててなんてないよー、オーストリアさんに呼ばれてたんだもん」
大事なものなんだから、と拾い上げた便箋の土汚れを落とすヴェネチアーノの手つきは常の失敗を思わせない丁寧さがある。
それがロマーノには何だか気に食わない。
机に伏せられて戻された手紙は、小さなパン屑を乗せられて大人しく便箋の端をはためかせるにとどめた。そしてヴェネチアーノはまだ庭師の手の及んでいない伸びやかな芝生を這う。エプロンのリボンがその背中で揺れて白い蝶々のようにふらふらとへたくそにとんでいる。間抜けな光景に大きく溜め息をついてやっても意に介さないのか聞こえていないのか。ロマーノがベンチにのぼり座ると、手紙はちらちらと文字の端を見せてくる。そうされるとまた内容が気になってきて手を伸ばしてしまう。パン屑の位置を変えないようにそぅっと便箋の端を持ち上げると、せいぜい一文字二文字、ミミズがのたくっている。
まもなく木炭を探し出した蝶々はぱっと顔を輝かせたが、ロマーノの姿をベンチにとらえると、くるくるとまかれている口が―もといアホ毛―がぴゃっと伸びた。
「よんでないよね!」
思わず、といった大きな声にロマーノのアホ毛もビリリと伸びる。パン屑はその雷の余波で飛んでいき、芝生の中で鳥か虫か、食べられるのを待つだけとなった。
「バーカ! つづりをまちがえすぎでよめねーよバカヤロー」
ヴェネチアーノの音量をはねのけるロマーノの声音に、焦ったような怒られないかと尻込みするようだったヴェネチアーノはぽかんとする。そのまぬけな顔は分かりやすく、にいちゃんは読めないんだ、と思っていることが伺えた。秘密の言葉を知られなかったのだと、安堵を含ませながら。
そして、そっかーとヴェネチアーノは困ったように恥ずかしさを隠すように笑った。その表情の移り変わりはなんだかとても幸せそうでロマーノは小さな眉間に谷を作り、口は高い山へと引きむすばれる。
「に、にいちゃんこわいよ……」
「どーせおれは暗号とか教えてもらってねーよ」
秘密の言葉で誰の悪口を言おうとも、言われようとも、ちっとも悔しくないんだぞと吐き捨ててロマーノはその場を逃げ去ろうと弟に背を向けた。だがそれは後ろからヴェネチアーノのタックルのような引き止めによって簡単に失敗に終わった。それどころかタックルによって顔から芝生へとダイブする形となる。
「ちがうのー! ちがうの、なかまはずれとかじゃないもん、これね、これは神聖ローマにね」
そう背中で喚くヴェネチアーノの下から這いずり出し、べちん! とロマーノが叩く。その衝撃とロマーノの膨れた顔にヴェネチアーノもさすがに怖気づき、冷静になり、じわりじわりと涙ぐむ。それでもロマーノがそこで仁王立ちしているので、ヴェネチアーノはおずおずと言葉を続けた。
「あのね、ぼくたちの言葉とみんなの言葉ってちがうでしょ?」
何を言っているかわからず顔をしかめると、ぽやぽやとしたヴェネチアーノの顔も焦りに歪む。
「ぼくたちはちゃんと、えーっと、つうじる? つたわる? けど、あのね」
要領を得ない言葉をなんとか続けようとする。言葉の先と結果を待っているわけではないが、むずむずとした、くしゃみが出るようで出てこないその行く末を見守ってしまうこの感じはあまり好きではない。そんなロマーノの釈然としない気持ちがこもった眉の上げ下げにも気付かず、ヴェネチアーノは手を開いたり閉じたり合わせたりしながら言葉を探して絞り出す。
「言葉がおんなじでもちがったりとか、ほんとうの思いがつたわらなかったりするんだって」
それはそうなのかもしれないと、漠然と感じることはできる。そんなこと、だいたいのやつらがそうだろうと声に出す前に、同じ言葉を使う弟の想いがロマーノの知っている言葉となって飛び出す。
「だからつたえたい人の、その人の言葉をしって、つたえるのって、大事なんだって」
一言一言、大事に大事にして言いきった満足感を見せるヴェネチアーノに対して、どう落胆を伝えてやろうかと意地の悪いことを考えざるを得ない。
ジトリと睨んでみてやれば、ヴェネチアーノは強要されてるとでも思ったのか、短くなってしまった木炭を差し出した。
「にいちゃんもかく?」
「かかねーよバカヤロー!」
べちっとそれを弾き落とすと、それはまたもや芝生の中に消えていく。弟の情けない声を聞く前にロマーノは声を張り上げた。
「そんなの、ほかのヤローがおれの言葉をありがたくべんきょーすればいーんだよ!」
晴れやかな暖かさを運ぶ風は、そんな言葉もさらって空に放り投げていった。

***

「だーかーらー!」
今日も今日とて青い青い空の下、映える白い壁と明るい花が沸き立つスペインの家では、家主の声が情けなく響いていた。
「なんっべんも言ってるやん!」
伝わらない、向き合ってもらえない。そういうことに焦ってしまうほどにはスペインもまだ成熟していない青年なのだが、そうやって声を荒げるスペインのことがロマーノは嫌いだ。そうやって自分を子ども扱いしては素直に話を聞くとでも思っているのかと、言ってしまえたらいいのだが、まだロマーノにはその思いを整理して言葉にする力はない。まだ理解しきれない自分の感情を頬袋に詰めて膨らませて、ロマーノはスペインの焦りの視線を無視する。勉強机は国境のように二人を隔て、勉強の為に用意された小さめの黒板はスペインの後退を許さない。そうして更にスペインは焦りだして、同じことが繰り返される。
ぎゃんぎゃん騒ぐ二人を遠くから仲良しやんなぁと眺めているのはベルギーとオランダで、今はお昼ご飯をみんなで囲んだあとの楽しい一時のはずだった。ロマーノが苦手な野菜を残してスペインがちょっと叱ったあたりから、失敗談や笑い話などの紆余曲折を経て、スペイン語の必要だの必要ないだのの話へとやってきていた。ベルギーは苦笑しながら元気がええんやったら使えんでも、でも使えたらそれはそれでええと思うなぁとどちらともの味方になっては場を治めることを諦めていた。
「ロマーノはいま俺んちにおんねんから俺ん家の言葉くらい使えんとあかんのやってー! 迷子になってもーたときとかどないすんの!?」
「おれはお前んちとかかんけーねーし」
そう言ってふくれっ面を見せたロマーノの上に影が落ちる。見上げれば、オランダがそこに立っていた。
「俺がやったるやざ」
割って入ってきた言葉はその体のようにすっくと入り込んだ。向こうでベルギーが驚きの顔からふくれっ面に変わり溜め息をつくという一連の表情の変化をみせてオランダの行動をわずかに非難していたが、スペインもロマーノも気付くことはなかった。
オランダは変わらぬ表情でスペインに続ける。
「おめぇがあかんざぁ」
大きな体のオランダはロマーノにとっては少し怖い存在だったが、スペインに対して鋭い視線を投げかけロマーノの味方になってくれるその瞬間の頼もしさは計り知れなかった。だがあまりにも唐突な味方にロマーノは尻込み、口をきゅっと引き結んだ。味方になってくれるのは有難いがどうしてこうなったのか、何故オランダという怖いヤツがなどと思うほかない。机に合わせるために高くされた椅子からは簡単に下りることはできないので、その場から逃げ出すのは難しかいロマーノはただ二人を見上げる。普通に立つよりも高いところにいるロマーノだが、やはり見上げるオランダは大きくて怖さはそうそう和らがない。
だがロマーノが何も言えない間に話は進んでいく。
「ロマーノはもちっとできんに、おめぇのせいでほうなんやって」
「俺かて精一杯やっとるやん!」
今度はスペインがふくれっ面になる。自身の努力や教育方針を認められないのが相当堪えるのか、不機嫌はありありと威嚇の形で現れる。
「それで出来とらんから、間違えとんじゃぁ」
スペインとオランダの言い合いはよくある。オランダが適当に切り上げて美味しい金額を奪っていくことも多いし、スペインの煩さと掴めなさで自分の言い分を通してオランダを呆れさせることも多い。ただ今回はスタートからオランダに軍配が上がっていた。焦っているスペインほど分かりやすく自滅しやすい者はいない。
スペインにあーだーこーだ的確な言葉を述べたあと、オランダはここが一番大事とばかりに告げた。
「後払い。ただしその分、払ってもらおっけのぉ」
「できてへんかったら払わへんし怒ったるからな!」
ロマーノが二人の間で見上げて間もなく、スペインは完全にオランダに完敗していた。ロマーノとしては結果としてどっちでもいいことだったが、スペインが負けるのを見るのは悪くない。そして負けたスペインはこの黒板は俺のんやから使ったアカンで! などと負け惜しみを残しつつ、黒板を片付けに消えていった。ロマーノは自分が勝ったわけではないが、それを舌を出して見送る。
「おにい、ロマーノくんのことちゃんと見とかなあかんで~」
ベルギーはそう言うと、片付けを手伝いに、もとい凹んだスペインを励ましにそのあとを追っていった。
「うといやっちゃ」
それは時々スペインに向けるオランダの言葉だったので、ロマーノも意味は知っていた。『馬鹿』ということだったはずだ。次にスペインを馬鹿にする時はそう言ってやってもいいかもしれないなどとロマーノなりに悪巧みをしていたら、オランダがロマーノの目線まで下りてきた。鋭い目つきが真正面にきてびくっと肩が上がるロマーノに気付くも気にせず、オランダは幾分優しい、だがはっきりとした口調で話す。
「ええか、ロマーノ。語彙が増えるっちゅーことは口説き方も増えるんやざ」
銃身をも貫くようなオランダの目が見抜いていて、緊張感でロマーノは言葉が出ない。だがそれは怖さよりも、真面目なオランダと、子供扱いよりも男扱いをしたようなその言葉にだった。
「よっけぇ言葉が使えたら……」
縫い止められたロマーノに対して続けられたオランダの言葉に、ロマーノは理解を示し小さくうなずく。
確かに女性の美しさ、愛らしさ、すばらしさを表現するのは、多くの言葉である。形容詞、代名詞、修飾語、比喩に倒置法に反復法、ほかにも様々な言葉が女性を飾りさらに引き立たせるものだ。幼いながらも「イタリア」であるロマーノだからこそ、言わずともわかる。言葉を操る能力はすなわちいい男としての一つのステータスにもなるのだ。
膝を折ったオランダはそれでも大きいが、手招きされるとその威圧は多少和らぐ。椅子からなんとか降りて数歩近づいてみると、その長い手がロマーノを軽々と隣に引き寄せて静かな声が耳打ちした。
「まずはベルギーや。おめぇがスペイン語で話してみぃ。こん前はキスしてもらえそうになったんやろ? ほかのことも簡単に乗ってくれるやろうや」
そう、まるでオランダとは思えぬようなスペイン語を話しだしたのでロマーノの目はさらに大きくなり、何度も瞬きをしてその言葉の意味を理解した。
確かに優しいベルギーならば、と思うところはある。が、まだ‟早いこと”だっていろいろある。それをまたもベルギーの前でねだって赤く小さなトマトになってしまうのはお断りしたいと、ロマーノは眉をひそめかけた。その眉がきゅっと締まる前、オランダの言葉が滑り込む。
「うまいこと褒めて転がして、まずは菓子からねだろうや」
魅惑の誘いであり、天啓のような導きだった。もう昼もすぎて久しい。人々は昼の日差しとともにに満たされた腹と頭を、軽く動かして仕事をこなして、幾分か体を軽くしたころだ。もちろんロマーノにいたってはスペインからの語学講座にしかめっ面をして聞く耳もたない“仕事”をこなしているのだ。軽くおやつでも食べてシエスタするいい時分になっている。
以前ハンガリーがくれた菓子はざっくりとした食感が口いっぱいに入れたくなる楽しさと、糖蜜のとろりとした輝きがナッツやタルトを彩ってはその甘さで幸せにしてくれるものだった。そしてロマーノは気付いている。もっといろいろな種類のベルギー由来の菓子を、ロマーノはまだ味わっていないことを。
オランダのあまりの素晴らしい考えに口を開けていると、その口にもう一つ投げ込むオランダの言葉。
「菓子ができたら膝枕やのぉ」
「やるぞコノヤロウ」

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