ドキュメンタリー

目次
1 はじまりのものがたり(書き下ろし)
2 はじめての話(2014.06.23 / R18)
3 それも君のせい(書き下ろし)
4 好きというだけで世界を支配するんだ(2013.06.23 / R18)
5 薄氷の平穏(書き下ろし / R18)
6 黙って愛されていなさい(2013.01.27 / R18)

はじまりのものがたり

その日、スペインは本来あった会議の予定が流れて思いがけない休暇を手にした。急な休みに何をしようかと考えていたところへロマーノから「今夜は飲みたい気分だから付き合えよ」と呼びつけられて、今日はツイているとばかりに二つ返事でホイホイとイタリアまでやって来た。彼のほうからそんな誘いを持ちかけられるのは珍しかったが、可愛い子分から誘われて浮かれていたので深く考えることはしなかった。
電話を切ったその足で飛行機のチケットを取って、文字通りローマまで飛んで来たスペインを待ち受けていたのは、不機嫌そうにぶすくれたロマーノだった。確かに彼はいつも無愛想でつっけんどんな態度ばかり取ってはいるが、それにしてもここまでくると何かあったに違いない。スペインが、どうかしたのかと尋ねるのは自然な流れだっただろう。
「ちぎー! またフられたぞ! それもこれも全部スペインのせいだ、このやろう!」
だが、聞いてみれば何てことはない。最近ナンパが惨敗続きで、ムシャクシャしているというだけだった。
「はいはい……ロマーノ、今日ペース早いで? あんまり飲み過ぎんときや」
「うるせぇ! スペインのくせに俺に指図するんじゃねぇぞ、ヴァッファンクーロ」
ロマーノは面白くなさそうに鼻を鳴らし、勢い良くグラスを煽った。
なみなみと注がれた白ワインがあっという間に飲みほされていく様子はいっそ気持ち良かったが、無防備に晒された喉の白さがまぶたの裏に焼きついて、爽やかさとは縁遠い感情が込み上げてくる。そのまま視線を下げると、大きく開いたシャツの襟ぐりから覗く鎖骨の窪みにたどり着いて、ごくりと生唾を呑み込んだ。カツン、ロマーノがテーブルにグラスを置く音が響く。それでハッと我に返って顔を上げた。
「……ちっくしょーなんれいっつも笑われちまうんだよ」
こちらの心情など露も知らないロマーノは、そう吐き捨てるように愚痴りながら前かがみの姿勢で膝に片肘を突いた。ぐらりと彼の体が自分のほうへと傾いて、目の前にロマーノの丸みのある後頭部が近づく。斜め後ろから忍び見た耳たぶや頬が赤く染まっているのを目の当たりにしたスペインは、自分の心臓がどきりと高鳴って頬が火照るのを感じた。
「まあまあ」と宥めながら自然な動作で座り直して、少しロマーノとの距離を取った。ところが軽くあしらわれたと思ったらしい彼は勢いをつけてソファへともたれかかり、そのままずるずると深く沈み込む。大きくバウンドしたクッションは、スペインの体も揺らしてロマーノのほうへと傾けさせる。
「あっ……」
「何だよ?」
「あ、いや……何でもあらへん」
少し身じろぎするだけで肘がふれ合うほど近づいたことに思わず声を上げるが、当の本人が全く意に介していないようなキョトンとした顔をしてみせる。その表情からこの距離感に一喜一憂しているのは自分ばかりだと気づかされ、慌てて口を噤んだ。
いつもよりも低い位置にあるロマーノの頭を視線だけ下げることで見下ろす。髪からシャンプーの良い匂いがして、頭に血が上りくらりとめまい。ロマーノが肩越しにスペインを振り返った。ワインでしっとりと潤った唇は血色が良く、早くも酔いが回っているのか頬は真っ赤だ。感情的になっているせいで薄っすらと涙を浮かべた琥珀色の瞳がスペインを捉える。瞬間、全身が沸騰したように熱くなり激しく脈を打つ。ああ、もうおかしくなってしまいそう。いやむしろ恋をするというのは、既にどうにかなってしまっている状態を指すのかもしれない。そんなつもりのないロマーノの何気ない仕草ひとつひとつに動揺させられて踊らされている。
「……過ぎたことをいつまでも気にしたってしゃあないやん。元気出し?」
ごまかすように頭を軽く横に振ってグラスを持ち上げる。ロマーノが口にしたものと同じワインで唇を湿らせて、緊張を解そうとした。
「お前も俺のことからかう気か……?!」
「そんなんちゃうけど、ほらロマは可愛えから。女の人って可愛えもんが好きやんか」
微笑ましく思われているだけだろうと伝えるが、フン、と面白くなさそうに鼻を鳴らされる。ロマーノは正面を見据えたまま手の甲で乱暴に口元を拭った。その無造作な仕草にもひどく煽られる。
「俺はかっこいいのに、そんな風に言われても嬉しくねぇよ!」
「せやなあ」
「それに……可愛いねって言っただけなのにビンタされるし、街で会う連中みんなに笑われるし、その上ネコにまでバカにされたんだ!」
「ははは……そらツイてへんかったなあ」
「フン! もっと俺を労われ、こんちくしょーめ」
「せやからこうやって付き合ったってるやん」
その言葉は多少ロマーノの溜飲を下げたようだったが、少し何かを思い出すような仕草をしてからむうっと頬を膨らませる。
「……馬鹿弟の奴は俺の顔見るなり、そそくさとジャガイモマッチョのとこに行っちまいやがったけどな」
恨み言を言うロマーノに「さみしかったん?」なんて聞けば火に油を注ぐことになる。黙って話を聞いていると、話をしている間に怒りが込み上げてきたのかロマーノは苛立たしげに悪態をつきだした。
「普段は鬱陶しいぐらいひっつき回るくせに、あいつはいっつも、こんな時ばっかり……!」
なるほど、だから今日は余計に機嫌が悪いのか。普段は弟を邪険に扱っているくせに、イタリアからそっけなくされると傷つくなんて確かにロマーノらしい言い分だ。怒っているのとは少し違う。帰宅した自分の姿を見るなり出かけて行ったのが気に入らないだけ。それはきっと拗ねていると言うのが正解だろうか。
そんなに仲の良い兄弟でもないんだけどなあ。決して険悪というわけでもないが、スペインから見るとふたりは何とも不思議な関係に見える。イタリアが独立したがっていると聞けばショックを受け、仕事で諦められ「もういいよ」と言われると落ち込む。それならもっと優しくしてやれば良いのに、と思わなくもないが、言ったところで聞くわけもないので黙っておいた。
「イタちゃんにも用事があったんやろ」
「……お前はすぐに来たのに」
続けられたロマーノの言葉を一瞬理解できなくて、思わず「へっ?」と間抜けな声を上げてしまった。そんな愚鈍なスペインの反応が気に食わなかったのかロマーノは眉を吊り上げて、ぐいっと顔を近づけてくる。
「え、え、あ……あの、何や!」
常日頃からパーソナルスペースの狭いスペインにはあまり効果はないのだが、おそらく本人は不良がよくやるように至近距離で相手を凄んで見せているつもりなのだろう。下から覗き込むように睨みつけられて声が上ずった。すぐばまで迫った鼻先がふれ合いそうで目を白黒させながら体をのけ反らせるが、狭いソファでは動かせる範囲も知れていてすぐに背もたれにぶつかる。
「だーかーら! お前はすぐ来たじゃねぇか! それなのに馬鹿弟は家にいたのに、そそくさと出て行きやがって!」
「いや、俺はたまたま今日の会議がなくなって暇しとったからで……」
「うるっせーむずかしい話なんかするんじゃねぇぞ!」
「ふがが」
ロマーノの人差し指がスペインの鼻の頭に押し付けられる。ぐりぐりと力を込められて潰されてふがふがと鼻を鳴らせば、きゅっと摘まれる。
「わあ、ごめんな! ごめん、ロマーノぉ。親分が悪かったわー!」
「フン! と・に・か・く! お前とヴェネチアーノが変なこと言い出すと俺の調子まで狂うんだよ! 今日は馬鹿弟だけだから良かったけど、テメエもちゃんと覚えとけよな! 俺が誘ったらすぐに来い! 良いな?」
そんな横柄なことを言って腕を組みふんぞり返る。幼い頃から変わらない態度は慣れたもので、ロマーノ本人も今さらスペインがこんなことで腹を立てるとは微塵にも思っていないだろう。実際スペインは、自分の前で気ままに振る舞うロマーノのことを好ましく思っている。
しかし、だ。
(……ん? ということは俺もイタちゃんと同じやってこと?)
今日ロマーノがスペインを呼びつけたのは、自分の誘いを断るはずがないと思っていたからなのだろうか。それはつまり飛行機で近くなったとはいえ、まだまだ遠いスペインとイタリアの距離も軽々越えて会いに来ると確信していたのか。あるいは、しょっちゅうスペインまで来てくれるロマーノにとって、ふたりの間にあるものはその程度の距離でしかないということなのかもしれない。
(あかん……むっちゃ嬉しいのに、どうしたらええんや)
信頼されるのは嬉しい。スペインとイタリアの距離を何てことないものだと思われているのだって、浮かれてしまいそうなほどだ。けれど家族扱いされては困る。ロマーノに恋心を抱くスペインは、もはやイタリアと同じ立ち位置では満足できなくなっている。
「……俺って欲張りなんかなあ」
はあ、とため息をつく。突拍子のないスペインの言葉を訝しそうに聞いたロマーノは、はあ、と気のない相づちを打って手ひどい一言を寄越してきた。
「今さらだろ」
本当につれない子だ。

「あーあかん、あいつ全然俺のこと意識してへんわ……」
スペインは悩んでいた。悩み過ぎて会議中にひとり言を漏らすほどだった。
「あいつ……? スペイン、何か悩んでいるの?」
となりに座っているフランスが訝しげに問うてくる。内職の造花のバラを量産しながら「おー……」とばかりに空返事。すると「さっきからため息ばっかついちゃって」と呆れられた。そんなつもりはなかったので、「俺、そんなにため息ついとった?」と首を傾げるが、こういうものは無意識でやっているので自覚がない。
「ついていたよ。そりゃあもう恋に悩む女学生みたいに」
「何やねんそれ。俺がそんなんなったら気持ち悪いやん」
「だから気持ち悪いから何があったのか聞いてるんでしょ」
「ああ、なるほど」それもそうかと頷いて、手元を見つめる。くるくると針金に布を巻きつけていけば、あっという間に出来上がるバラ。慣れたもので最近では特に何も考えずとも、そこそこ綺麗に作れるようになった。
「もしかしてバラを贈りたい相手でもできちゃったかな?」
茶化す言葉に「まあ、そんなとこ」と口を滑らせてしまう。ああ、でも、彼には映画のシーンを真似てバラを咥えて踊ってみせても、キョトンとした顔で「何してんだ」と一蹴されたんだっけ。それにロマーノはバラをもらうよりも贈る側だしな。女性相手にはあんな爽やかで可愛い笑顔を見せているし、やはり男は眼中にないのだろうか。そんなことを考えてぼんやりしていたら、フランスがガタガタと物音を立てて椅子から立ち上がった。
「え、ちょ、お前マジかよ?!」
当然、それだけ騒いだら会議室にいる者たちの注目を集めることになる。まずフランスを注意したのは、今日の司会進行役で主催者のドイツの兄で補佐役のプロイセンだった。彼は案外、生真面目なのだ。
「おい、フランス! 会議中に何騒いでんだよ!」
「プロイセン、ちょっと聞いて! スペインに遅過ぎる春がきた!」
「はあ?!」
室内がざわついた。会議の参加者たちが目を輝かせて、事の成り行きを見守っている。その頃になってようやくスペインも、妙に周りが騒がしいことに気がついた。内職を進める手を止めて顔を上げる。
「え、あれ? みんなどうしたん?」
会議中のはずなのに、いつの間にかスペインの周りに国たちが集まっていた。皆、この時を待っていたのだと言わんばかりに、前のめりになってスペインに問いただしてくる。
「このまま爺は待ちくたびれて若者の恋路の行方を見届けられないのではないかと心配しておりました」
「ねえねえ、スペイン兄ちゃん。もうデートに誘った?」
「やっぱ美味い飯は欠かせないよな」
「ケセセーせいぜい酒で失敗しないようにするんだな!」
一体、何が何だかわからないが、少なくとも会議どころではなくなっているようだ。しかし彼らがどうして自分の何気ない一言に食いついてきているのかがわからない。
「な、何なん……? 今会議中ちゃうん?」
普段は真面目に仕事をしようなんて言い出すことのないスペインだが(基本的に会議は無駄だと思っているし)、この時ばかりはドイツに怒られるんじゃないかと、いきり立つ面々に忠告する。というか、そろそろ雷が落ちてもおかしくない。会議中に自分の席を立って好き勝手に発言するなんて、あの真面目な男が許すとは思えなかった。
「ドイツに怒られて……」
司会を振り返ると、彼も自分の持ち場を離れて人だかりの後ろのほうに立っていた。視線が合うと、わかっているとばかりに頷きながら、彼にしてはとても珍しいことを言い出した。
「よし、では今日の議題はスペインの恋路についてで良いな!」
「はーい!」
何と、まだ何について話し合うかすら決まっていなかったらしい。あっさり議決され、会議のネタにされることにスペインは異論を唱える余地すら与えてもらえなかった。

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